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「昨夜はありがとうございました」
翌日の昼過ぎに沢村を連れて訪問すると、加藤は部長室で快く恵也を迎えてくれた。
「こちらこそ世話になったね」
加藤はにこやかに返すと、紹介しよう、と言って恵也を近くに招く。
「僕の後任の黒部君だ。黒部君、彼が先程話していたコア企画の里見君。若いのに優秀なイベントのプロだよ」
「里見です。よろしくお願い致します」
加藤の言葉に、恵也も自己紹介して頭を下げる。新しく来た加藤の後任は、細くて背が高くて眼鏡を掛けた四十代半ばの男だった。冷たい印象を受けるインテリ男だ。
「お噂はかねがね」
黒部はもったいぶった口調でそう言うと、軽く頭を下げて唇を横に引く。
「思っていた以上に綺麗な方ですね。加藤さんが贔屓する気持ちもわかりますよ」
(贔屓?)
黒部の言葉に恵也は胸の内で眉を寄せる。すると加藤が、ははは、と声を上げて笑った。
「贔屓などしていないよ、黒部君。彼は本当に優秀な企画担当者だからね」
君もすぐにわかるよ、と言って加藤が恵也に視線を戻す。恵也は、ありがとうございます、と礼を言って頭を下げると、黒部に向き直って笑顔を向けた。
「御社の担当はここにいる沢村になりますが、もちろん私もフォローさせて頂きます」
沢村、と後ろに向かって声を掛けると、部屋に入ってすぐの所で待機していた沢村が歩み寄る。
「沢村です。どうぞよろしくお願い致します!」
沢村が頭を下げて挨拶すると、人好きのする好青年に初めて黒部が笑顔を見せた。
「これはまたハンサムなイイ男だ。コア企画さんは顔で営業社員を決めるらしい」
「恐れ入ります」
黒部の嫌味を含んだ言葉に、沢村が悪びれずにペコリと頭を下げる。
「仕事ではそれ以上に認めて貰えるよう頑張ります!」
爽やかな笑顔は贔屓目でなくてもピカイチで、恵也は内心で満点を付けた。
「これは頼もしいな」
黒部も好感を持ったのだろう。目を細めてにこやかに言うと、加藤に向き直って提案する。
「どうです。今夜は一緒に彼らと一杯」
黒部の言葉に、しかし加藤は残念そうに眉尻を下げた。
「残念だが今夜は社長に呼ばれていてね。明日はもう博多に戻らなければならないし」
「もうですか」
恵也は驚いて加藤を見る。
「あちらはあちらで仕事が詰まっていてね。辞令の前に全ての準備を終わらせておかなければならないし」
「加藤さん」
加藤の言葉を、黒部がそれとなく遮る。
「わかってるよ」
加藤はそれへ笑顔を向けると、再び恵也に視線を戻して笑みを深めた。
「困ったことがあったらいつでも連絡してくるといい。力になるよ」
「ありがとうございます」
恵也は心から礼を言うと、今までの感謝も籠めて深々と頭を下げる。そこへ、コンコンと軽いノックの音がして若い秘書がドアを開けた。
「黒部部長にお客様です。この時間にお約束とのことなのですが、別室でお待ち頂きますか?」
いつもはにこやかなこの秘書も、どうやら黒部が苦手らしい。遠慮がちに尋ねるのへ、黒部が気持ち悪いほど愛想良く答えた。
「ああ、ここへお通しして。彼らも顔見知りだろうからね」
そしてそう言うと、意味ありげに恵也を見てから加藤に視線を戻す。
「実は、昔ちょっと世話になった知人の息子さんでしてね。彼も沢村君に負けず劣らずのイイ男なんですよ」
そこへ、秘書に連れられて噂の人物がやって来る。恵也はチラと戸口を振り返ると、その人物を見てギョッとした。
(橘ッ?)
橘は部屋に入って来ると、やはり驚いたような顔をする。しかし、そこは営業だ。すぐにポーカーフェイスに戻ると、にこやかに黒部に歩み寄りながら右手を差し出した。
「ご無沙汰しております、黒部さん」
「なんだ、らしくないな。いつものように『おじさん』でいいぞ」
黒部は差し出された橘の手をギュッと握ると、加藤に視線を向ける。
「彼とは?」
面識はあるのかと問われた橘は、はい、と答えると、加藤にペコリと頭を下げた。
「昨夜は大変失礼を致しました」
橘がプライベートを邪魔した上に酒まで奢って貰ったことを謝ると、いやいや、と言って加藤も謝る。
「彼を途中で横取りしたのは私の方だからね。すまなかったね」
「いえ」
もちろん、橘が待ち合わせしていたのも『姫』であって恵也ではない。誰が一番貧乏くじを引いたかと言えば、それはきっと沢村だろう。当の沢村はわかっているのかいないのか、にこやかな笑みを浮かべながら彼らのやり取りを見ていた。
「では、我々はこれで。明日は是非お見送りをさせて頂きたいのですが、飛行機の時間はお決まりでしょうか」
恵也の申し出に、加藤が嬉しそうに笑みを深める。
「それは嬉しいね。でも、明日は残りの仕事を片付けた後、大阪支社経由で博多に行くことになっていてね。残念ながら時間は未定なんだよ」
「そうですか……」
加藤の言葉に、恵也は思わず声を落とす。
「博多に来る機会があったら、その時は支社に寄るといい。旨いものでもご馳走するよ」
加藤が満面の笑顔で言い、恵也もその言葉に笑顔で頷いた。
「では、その時は遠慮なく寄らせて頂きます」
恵也は加藤の笑顔を万感の想いで見詰めると、黒部にも頭を下げて退室する。もの問いたげな目でこちらを見ている橘の横を素通りして廊下に出ると、それまで大人しく後ろを付いて来ていた沢村がすぐさま足早に寄って来た。
「先輩……」
沢村が恵也の横に並びながら小声で尋ねる。
「本当に加藤部長とは……」
「バカ」
恵也は沢村の言葉をひと言で遮ると、眉を寄せて前を向いた。
「それにしても、『準備』って何だ……?」
加藤がそのことを言い掛けた時、黒部がすかさず遮った。きっと社外秘に触れることなのだろう。
(突然の昇進……早い引き継ぎ……辞令前の準備……)
恵也は頭の中でそれらのパーツを順に並べる。そして、先日の加藤の言葉。
『あまりおめでたくもないんだけどね……』
何かが出て来そうで出て来ない。恵也は胸中のモヤモヤを振り払うと、受付嬢に挨拶して外に出た。
「戻るにはまだ早いな。もう一件回ってくか」
恵也の言葉に「いいんですか?」と沢村が嬉しそうに言う。
「じゃあ、あそこ行って貰おうかな~。取り次ぎして欲しけりゃ先輩を連れて来い、とかって無茶苦茶なこと言うお局様が一人いるんですよ~」
沢村のおどけた言葉に恵也は笑う。しかし、夕刻に帰社した二人を待っていたのはとんでもない報せだった。
「えッ、支社を無くすッ?」
「らしいな」
沢村の言葉に、コア企画社長の志賀崎が低く答える。その企業とは、もちろん加藤のいる会社のことだった。
「そ、それは確かなんですか?」
恵也も驚いて尋ねると、志賀崎が眉を寄せて苦い顔で頷く。
「裏ルートだが確かな情報だ。あの会社は大阪と博多に支社があるが、そのどちらかを潰すらしい。期限は今年度いっぱい。既に第一四半期が終わっているから、事実上あと半年で決定が下されることになる」
「半年……」
志賀崎の言葉に恵也は呆然として呟く。では、加藤はどうなるのだろうか。
「加藤部長は知っているのでしょうか」
ギュッと眉を引き寄せて呟いた恵也は、しかしすぐに思い出す。
『あまりおめでたくもないんだけどね……』
昇進の話題が出る度に、加藤はそう言って苦笑していた。では、やはり加藤は知っていたのだ。知っていて、全て承知の上でその辞令を受けたのだろう。すると、窓の外に視線を向けた志賀崎が、遠くのビル群を眺めながら言った。
「加藤さんは若い頃、博多支社にいたんだよ」
「え?」
志賀崎の言葉に、恵也は驚いて目を見開く。
「あの会社は新社員を採用すると、まずは遠くに飛ばすんだ。そして、数字を上げた者だけをだんだん近くに戻して行く」
だとすると、若くして本社に戻った加藤は同期の中でも抜きん出た出世株だったに違いない。
「バブルがはじけた時、傾き掛けた博多支社を立て直す為に先頭に立って奔走したのが彼だった。その懸命な姿に、部下だけでなく事務員までもが一丸となって営業に歩いたという逸話を聞いたことがある」
「それじゃあ……」
「そうだ」
志賀崎は恵也の言葉に頷くと、窓外の景色から視線を戻した。
「本社はまだ諦めたわけじゃない。もう一度立て直して欲しいと願って彼を支社長に大抜擢したんだ。あそこにはまだ、当時彼と苦労を共にしたメンバーが残っている。そして、彼には周囲の者を惹き付け、引っ張っていくだけの才がある。半年で博多支社がどこまで盛り返せるか……これは面白くなるぞ」
志賀崎の言葉に、恵也は眉を寄せて「社長ッ」と責める。
「不謹慎ですよ。お陰で加藤部長は大変な苦労を背負うことになるんですから」
支社を潰すということは、たくさんの従業員を解雇するということだ。どの社員にも生活があり、家族がいる。百人解雇すれば、その何倍もの人間の人生が変わる。生半可なことではない。
「あの人なら大丈夫だ。なんなら賭けてもいいぞ」
志賀崎の言葉に、恵也も「俺だってッ」と返す。
「俺だって加藤部長を信じてます!」
恵也の言葉に、志賀崎がプッと噴き出して笑う。
「それじゃあ賭けにならないな」
志賀崎は可笑しそうにそう言うと、再び窓の外に視線を向けた。
「それよりも俺たちだ」
その言葉に、恵也も表情を改めて志賀崎の横顔を見詰める。
「これから大変になるぞ。今度来た部長は以前から加藤さんをライバル視していたらしい。懇意にして貰っていた分だけウチも風当たりがキツくなるだろう。頑張れよ、沢村」
志賀崎の言葉に、沢村も表情を引き締めて「はい」と答える。頼みの加藤は明日を限りに博多に移り、博多支社の救世主となるべく奔走することになる。もう彼を頼ることは出来ない。
『良かったら一緒に来ないか』
加藤の言葉を思い出し、恵也は瞳を陰らせる。妻と別れ、家族と離れて単身博多へ向かう加藤の心中はいかばかりか。いつもの冗談だと思い、軽く受け流してしまったが、もしかしたら加藤は本気だったのかもしれない。本気で自分にだけチラリと弱音を吐いてくれたのかもしれない。
『傍にいてくれるだけでいいんだ』
恵也は窓外に視線を向けると、すっかり夜の装いになったビル群を見詰める。その向こうに見える紫色の空には、宵の明星が一つだけポツンと白く浮かんでいた。
悪い予感というのは、とかく当たるもので……。
「え、ホテルを変えて欲しい?」
次の日の夕刻、戻って来た沢村の報告を聞いた恵也は驚いて声を上げた。
「そうなんです。突然黒部部長に呼ばれまして……」
どうやら外回りの途中で黒部から社の方に電話があったらしく、事務員から連絡を受けた沢村は急いで先方に向かったらしい。その用件というのが、次のイベントの会場となるホテルの変更だった。
「しかし、あのホテルは都心で駅からも近いし、加藤部長も喜んでいただろう」
「はい。でも、黒部部長は収容人数が不満らしくて……」
『君は我が社のことを過小評価しているのかね?』
黒部は嫌味のようにそう言うと、加藤のことまで持ち出したらしい。
『加藤さんにも困ったものだよ。我が社の社運の掛かった大イベントを、こんな小さなホテルのこんなシケたプランでやろうだなんて』
前にも言ったが、沢村は年は若いが腕は確かだ。立てるプランはセンスもいいし、実績もある。今回も立案の段階から恵也も目を通していたが、沢村は加藤が要求する以上のものをいつだって提示して来た。この会場だってそうだ。新商品商戦の真っ只中でこのホテルの大会場を押さえられたことは本当に奇跡に近いのだ。加藤もそれをわかっていたから契約してくれたのだろう。決して恵也が酒席に誘ったからだけではない。
「しかし、他社だってこれ以上の会場を用意するのは難しいだろう」
都心で交通の便も良くて集客を望めそうな会場となるとそうは無い。人気のある会場などは一年前でも押さえるのが難しいこともある。運良くキャンセルでも出ればいいが、それも運が良ければで、そうそうタイミングよく出遭えるとは限らない。
「それが……」
すると、恵也の言葉に沢村が言い難そうに言葉を鈍らせた。
「A社がNホテルを押さえていたらしくて……」
「えッ?」
A社は加藤がコア企画と天秤に掛けていたライバル会社だ。もちろん営業はあの橘。だとすると橘は加藤が要求する条件を全て満たした会場を提示していたことになる。しかも、沢村が用意したホテルよりもネームバリューがある。企画の内容がドッコイだとしたら、加藤が沢村を振って橘を採用しようとした理由にも合点がいった。
「それで、まさか契約を白紙にしてA社を採用するとか言ったんじゃないだろうな」
慌てて問うと、恵也の言葉に沢村が「いえ」と答えて小さく溜息をつく。
「他の会場を探して来いと言われました。しかし、あの条件を全て満たしたNホテル以上の会場となると……」
沢村の気落ちした言葉に、恵也はグッと唇を引き結ぶ。
「とにかく、めぼしい会場を片っ端から当たるぞ。電話だ!」
「はい!」
恵也の言葉に、沢村が表情を強張らせたままデスクに向かう。必死に電話帳をめくる姿を見ながら、恵也はギュッと眉を引き寄せた。
(いよいよとなったら……)
橘に頼んで会場を回してもらおうか。そう考えて、恵也は嫌悪感に顔を歪ませる。橘の好意を利用しようと考えた自分も嫌だったし、何より、橘なら自分の我侭を聞いてくれるのではないかと一瞬でも考えた自分が嫌だった。それに、そんなことをしたって沢村は決して喜ばないだろう。
「先輩?」
必死に電話帳をめくっていた沢村が、ジッと見られていることに気付いてどうしたのかと尋ねる。
「いや、なんでもない……」
恵也は首を小さく横に振って答えると、胸ポケットから手帳を取り出して開いた。
「俺が以前使ったことのある会場のリストだ。マークしてあるところに片っ端から掛けてみろ。ハズレは無い」
「ありがとうございます!」
沢村が恵也から手帳を受け取り、さっそく電話を掛け始める。会場の予約状況を尋ねる沢村の声を聞きながら、恵也は我知らず小さな溜息をこぼした。
(厄介だな……)
通常、契約した後でクライアントが会場のことでゴネることはあまり無い。どう考えてもこれは黒部の嫌がらせだろう。だとしたら、どんな会場を提示したところで黒部は渋るに違いない。
(よほどインパクトのある会場を押さえられれば別だが……)
Nホテル以上にネームバリューのある会場となるとそうは無い。その時、恵也の脳裏に一つの有名老舗ホテルの名が浮かんだ。
(しかし……)
その老舗の一流ホテルは国際的な式典や来賓の接待にも使われるホテルで、数々の有名デパートが毎年催事を開いている。たが、賃貸料が高額なせいかバブル崩壊後はその催事もすっかり数が減ったので、もしかすると予約が空いている可能性もあった。しかし、あのホテルを押さえたとしても予算内に収まるかどうかはわからない。悪くすればコア企画が身銭を切ることにもなり得る。しかし、あれだけの一流ホテルならば会場名を見たたけで人々が「行ってみたい!」と思うだろうことはすぐに推測出来た。
(ダメもとで行ってみるか……)
賃貸料も、もしかしたら以前よりはリーズナブルになっているかもしれない。
「沢村」
恵也はちょうど受話器を置いた沢村に声を掛けると、社長席を振り返った。
「社長。ちょっと沢村と二人で会場を当たりに行って来ます。今日はそのまま直帰しますので」
「わかった」
恵也の言葉に志賀崎が書き掛けの書類から顔を上げ、右手を上げて「気を付けてな」と声を掛ける。
「はい。では行って来ます」
恵也はそれへ頷き返すと、沢村を連れて外へ出た。
「コア企画の里見と申します。会場の予約担当の方はいらっしゃいますでしょうか」
夕暮れを過ぎて夜の帳が下りる頃、有名老舗ホテルに到着した恵也はフロントで名刺を差し出しながら尋ねた。
「コア企画の里見様ですね。少しお待ちください」
若いフロント係はそう言うと、名刺を携えて奥へと引っ込む。少しして、先程のフロント係を従えて口髭を蓄えた初老の紳士が現れた。
「里見様ですね。コア企画様とは初めてのお付き合いかと存じますが、どなた様かからのご紹介でしょうか」
会場係と思われるその紳士の丁寧な言葉に、恵也は名刺を受け取りながら「いえ」と答える。名刺には『総支配人』という役職名と『添塚』という名前が書かれていた。
「こちらに会場をお願いするのは初めてです。実は大きなイベントを依頼されまして、その会場を探しているのですが」
恵也の言葉に添塚が、さようでございますか、と答える。
「ところで、日にちはいつになりますでしょうか」
沢村が急いで手帳を開け、イベントの日にちを告げると、途端に添塚が申し訳なさそうに頭を下げた。
「申し訳ございません。その日は生憎、終日全ての会場が塞がっておりまして……」
予約台帳すら開かずに即答する添塚に、恵也は内心で眉を寄せる。
(初見だから敬遠されたか?)
だが、イベントを行うクライアントは国内でも有名な大企業で、ホテルにとっても決して名折れにはならないし、いい宣伝にもなる筈である。
「確かに我が社は小さな企画会社ですが、依頼主は立派な企業ですので……」
恵也がクライアントの名を告げようとすると、添塚が「いえいえ」と言ってそれを遮った。
「誤解を与えてしまったのでしたら申し訳ございません。実はその日は我が社の大切な式典が入っておりまして、会場から客室に至るまで全てを終日貸し切りにしているのでございます」
「式典が?」
添塚の言葉に恵也は合点して肩を落とす。
「では仕方ありませんね……」
「はい。誠に申し訳ございませんが……」
するとその時、すっと誰かが恵也の横に立って「何とかなるだろ」と彼らの会話に割り込んで来た。
「式典は六時からだ。五時までにイベントを終わらせて撤収して貰えばいい」
「坊ちゃん!」
添塚が驚いたようにその人物を見て言い、恵也も驚いて隣を見る。そこに立っていたのは背がスラリと高くて眼鏡を掛けた、知的な感じのする高校生だった。つややかな長い黒髪を後ろで一つに束ねたその横顔はまるでモデルのようにハンサムで大人びて見えたが、ネクタイをだらしなく緩めてシャツの裾を出し、ズボンのポケットに親指を引っ掛けて、小脇にぺちゃんこに潰した学生鞄を挟んでいるその姿は確かに今時の高校生である。しかも、その制服は大会社の社長や大金持ちの子女が通う有名私立高校の制服だった。
「しかし、会場のセッティングを一時間でやるのは無理です」
青年の言葉に、日頃から彼を『坊ちゃん』と呼んでいるらしい添塚が眉を寄せて困ったように返す。
「じゃあ式典を一時間遅らせればいい。たかが立食パーティだ。二時間あれば出来るだろ」
プロなんだからそのくらいの根性見せろよ、という青年の無茶苦茶な言葉に、添塚が再び苦い顔で答える。
「もう招待状を発送してしまいましたので、時間の変更は無理です」
「じゃあ、客には開始が遅れるとでも言ってウェルカムでも出して他の部屋で待たせとけばいい」
「いえっ、そこまで無理をしてもらうわけには……!」
言い合いを始めた二人に恵也が慌てて言うと、初めてその青年が恵也の方を向いた。
(あ?)
その端整な顔を見た途端、恵也は誰かを思い出しそうになって必死に脳内を検索する。すると、その青年が恵也を見詰めてスイと唇を横に引いた。
「童顔にスーツなんてどんな七五三かと思ったけど、なかなか様になってるな」
揶揄うようなその言葉に、恵也は口をパカッと開けて心の中で、あッ、と叫ぶ。
(環ッ?)
それは紛れもなく『クレイジータイガー』の副官、環だった。恵也は口をポカンと開けたまま制服姿の環を見詰める。環は同じようにジッと恵也を見返すと、再び視線を添塚に戻した。
「いいだろ、添塚」
「無茶です、坊ちゃん。そんなことをしたら、わたしが社長に叱られてしまいます」
添塚が苦い顔をして言い、その言葉に環がフンと鼻を鳴らす。
「だいたい親父が大袈裟なんだよ。たかが息子の誕生パーティに」
環の言葉に、途端に添塚が「とんでもない!」と声を張り上げる。
「今度の誕生パーティは坊ちゃんの新社長就任式典でもあります。様々な方が坊ちゃんに会う為に日本中から来られるのです。いつもの誕生パーティとはわけがちがいます!」
添塚の言葉に、状況を理解した恵也はドッと冷や汗をかく。
「わかりましたっ。自分たちは他を当たりますので、次の機会には是非……」
宜しくお願いします、と続けようとした恵也は、しかし、いきなりグイと腕を掴まれてギョッとして環を見上げた。
「遠慮するな。橘サンの話から、だいたいの事情は知ってる。どうしてもデカい会場が必要なんだろ?」
環の言葉に恵也は、うッ、と呻いて言葉に詰まる。確かに会場は喉から手が出るほど欲しいが、しかし……。すると、二人のやり取りをジッと見ていた添塚がコホンと小さく咳払いをした。
「必ず五時までに撤収して頂けますでしょうか?」
「え……?」
添塚の言葉に、恵也は驚いて目を見開く。
「それじゃあ……」
「時間厳守で願います。その後のセッティングもお手伝い願いますが、宜しいでしょうか」
「もちろんです!」
添塚の言葉に恵也は勢い込んで答えると、感謝の意を籠めて深々と頭を下げた。
「ありがとうございます! 恩に着ます!」
恵也の言葉に、添塚が眉尻を下げて苦笑する。
「坊ちゃんのお知り合いでは致し方ありません」
その言葉に、恵也は慌てて隣を見る。環はポンと恵也の頭に手をやると、親指を立ててロビーの隅にあるソファを示した。
「じいの気が変わらないうちに手続きした方がいい。そろそろ『もうろく』してきたからな」
「坊ちゃん!」
環の言葉に、添塚が再び苦虫を噛み潰したようになる。しかし、どうやら気は変わらなかったらしい。会場の予約台帳を手に持つと、恵也と沢村を環が指差したソファに案内した。
「では、手続きと参りましょう。坊ちゃんがまた気紛れを起こさないうちにね」
添塚のジョークに恵也は思わず苦笑する。環は少し離れた場所にあるソファに座り、おとなしく手続きが済むのを待っていた。
「すまない、環。この借りは必ず返すから」
会場の予約手続きも無事に済み、恵也はホテルの外まで見送りに来てくれた環に頭を下げて礼を言う。ホテルのロビーは照明で明るかったが、外は既に真っ暗で表情が見辛かった。恵也の感謝の言葉に環が、それじゃあ、と言って唇を横に引く。
「コレでチャラにしてやるよ」
そしてそう言うと、不意に恵也の方へと屈み込んだ。その薄い唇が恵也のそれに触れる寸前、沢村がサッと手を伸ばして恵也の口元を覆う。
「もしここの会場を貸りることでこの人が何かを強要されるなら、俺は今すぐ戻ってキャンセルします」
沢村のきっぱりとした言葉に、環は口の端を横に引くとフンと笑った。
「そうか、あんたがこの人のナイトか」
環は不敵な顔でそう言うと、体を起こして笑みを引っ込める。
「いいぜ。昼のナイトはあんたに譲ってやるよ。ただし、夜のナイトは絶対に譲らない。あんたが俺を選んだんだからな」
最後のひと言は恵也に向き直って言う。その真剣な眼差しと声音に恵也は驚いて目を見開くと、言葉も忘れてその顔を見返した。