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 プルルルル、と軽やかな電子音が外線の着信を告げる。事務所には常時数名の事務員がいて電話を取ってくれるのだが、今は生憎みんな手が塞がっているようだったので、恵也は代わりに受話器を取った。

「はい、コア企画です」

 社名を告げると、受話器の向こうでゴホンと小さな咳払いが聞こえる。

「すみません。里見恵也さんはいらっしゃいますか」

 落ち着いた低い声音で問われて、恵也は誰だろうかと必死に考えた。

「里見は私ですが」

 答えると、受話器の向こうで一瞬だけ沈黙が下りる。

「俺……橘だけど」

「え?」

 その名前と聞き覚えのある声音に、恵也はドキリとして固まった。

「たちば……な?」

 同時に昨夜の出来事を思い出し、恵也は一気に狼狽える。思わず受話器を取り落としそうになって慌てて握り直した。

(なんで橘がッ?)

 もちろん橘は恵也がコア企画の社員だということを知っている。会社の電話番号などは調べればすぐにわかるだろうが、しかし掛けて来る理由がわからない。

(もしかして、バレた?)

 その仮説に恵也はハッとして顔を強張らせる。

(そうか……!)

 恵也は昨夜、環に自分が会社員だということを教えてしまった。環はきっと、恵也が寝ている間に財布の中の保険証から本名と勤め先を見たのだろう。橘がここへ電話して来たということは、環がその情報を橘に流したということであった。

(やられた!)

 一瞬怒ろうとした恵也は、しかしすぐに思い直す。何より、悪いのは他人を騙していた自分である。もちろん騙すつもりなどはなかったが、故意に言わなかったのは事実だ。

(仕方ない……潔く謝るか)

 しかし、今ここでというわけにはいかない。無言で受話器を握り締めている恵也に気付いて、向かいの席で沢村が怪訝そうにこちらを見ている。とにかく場所を変えて携帯から掛け直そうと考え、橘の番号を聞こうとすると、それより早く受話器の向こうで橘が小さく息を吸うのが聞こえた。

「名前……恵也っていうんだな」

 囁くような小さな声音に、恵也の胸がズキンと震える。

(傷付けた……?)

 橘はずっと姫の本名を知りたがっていた。恵也はギュッと受話器を握り締めると、数瞬迷ってから口を開いた。

「今日は定時で上がれるから……良ければ少し会えないか」

 こちらの終業時間を告げると、受話器の向こうで橘が躊躇う気配がする。やがて低い声音がポツリと小さく店の名前を告げた。

「わかった……じゃあそこで」

 恵也は了解すると、相手が切るのを待って受話器を置く。途端についつい大きな溜息が漏れ、それを見た沢村が心配そうに「苦情ですか?」と尋ねた。

「いや……大丈夫だ」

 許して貰えるのなら二、三発殴られるのは覚悟の上である。恵也は笑顔で返すと、再び作成中の資料を作るべくパソコンに向かった。


「ここか……」

 指定されたバーは繁華街の片隅にあるビルの地下にあった。入ったことは無かったが場所だけは何となく知っていた恵也は、階段の前に立って下方にある店の入り口を覗き込む。狭い階段の中ほどにはキラびやかなネオンで彩られた看板が頭上に掲げられ、暗い穴の最奥には店名の入った金色のプレートが貼られた黒いドアが見えた。聞こえるのは街中に溢れている雑多な音楽や車のエンジン音、ザワザワいう話し声や雑踏の音だけで、階段の奥からは何も聞こえて来ない。恵也は意を決してその階段を下りて行くと、ゆっくりと店のドアを開けた。

「いらっしゃいませ」

 中へ入ると、すぐにウェイター服の若い男が応対に現れる。恵也は店の奥に視線を向けると、カウンター席に見慣れた後ろ姿を見つけて案内を断った。

「隣、いいですか」

 脚の長い丸椅子には申し訳程度に背凭れのパイプが付いている。それを掴んで引きながら声を掛けると、一人で水割りを傾けていた橘が驚いたように恵也を見上げた。

「あれ、珍しいな。どうしたんだ?」

(『どうしたんだ』?)

 指定されたから来たのだと返そうとした恵也は、しかしすぐに違和感に気付く。目の前の橘は揶揄っているのでも冗談を言っているのでもなく、本気で驚いているように見えた。

(え、もしかして……)

 その様子にハッと息を呑んだ恵也は、ソロリと橘の顔を窺う。

「飲みに来たに決まってるだろう」

 表情の変化を見逃さないようジッと見詰めながら答えると、その言葉に橘が目を細めて笑った。

「そうか。まあ座れよ」

 恵也は勧められるまま隣の椅子に腰掛けると、橘と同じものをバーテンに頼む。やはりそうだ。橘はまだ恵也が姫だということに気付いていない。

「お前は? 待ち合わせか?」

 念の為それとなく探りを入れると、橘の笑顔が少しだけ曇った。

「デート……と言いたいところなんだけどな」

 橘はそう言うと、半分ほどになった水割りを見詰めて苦笑する。

「ちょっと目を離した隙にダチに持ってかれちまってさ。信じらんねえよ、まったく」

「ダチに?」

 どうやら橘はまだ恵也と環が付き合っていると信じているらしい。だとすると、なぜ環は姫の情報を橘に話したのだろうか。勤め先を教えるなんて、さあ会いに行け、と焚き付けているようなものである。

「そいつがまたイイ奴でさあ……」

 恵也の怪訝な思いをよそに、橘がグイッとグラスをあおりながら言う。

「俺が家で独り落ち込んでたら、朝方にフラッとやって来て……」

 『ちゃんとフラれて来てください』

 環はそう言って、橘に姫のフルネームと勤め先を教えたのだという。

「それで電話したのか?」

 もちろん橘が電話したのは知っている。だから自分はここにいるのだ。

「した」

 橘は恵也の言葉に頷くと、ハアと大きな溜息をついた。

「でも、来ないかもしんねえ……」

 いつも自信満々の橘らしくない弱気な言葉に、恵也は思わずその横顔を見詰める。橘は空になったグラスを見詰めると、カランと氷を小さく揺らしながら再び大きな溜息をついた。

「なあ……あいつが来るまで一緒にいてくれないか」

「え……」

 橘の言葉に、恵也は思わず狼狽える。

「たぶんお前も知ってる奴だよ。びっくりだろ? 俺もびっくりだぜ。まさかあんたと同じ会社だったなんてさあ」

 橘はそう言うと、『あれ?』という顔をして恵也を見た。

「そう言えば俺、お前の名前聞いてないよな」

「えッ?」

 途端に恵也は狼狽える。「そうだっけ?」とトボけながら水割りを口に含んで視線を逸らすと、「そうだよ」と答えながら橘が顔を覗き込んで来た。

「名前、なんていうんだ?」

(うッ……)

 もはや誤魔化すことすら出来ない状況に、恵也はタラタラとイヤな汗をかく。するとその時、まるで救いの神のように胸ポケットで携帯電話が鳴った。

「はい、もしもし」

 恵也は絶好のタイミングにホッと胸を撫で下ろすと、通話ボタンを押して立ち上がる。携帯を耳に当てながら店の外に出ようとすると、聞き慣れた声が自分の名を呼んだ。

「里見先輩? 今どこですか?」

「え、沢村っ?」

 沢村が就業時間後に電話して来たのは初めてである。恵也は仕事で何かトラブルでもあったのかと思い、少し慌てる。

「何かあったのか?」

 階段の下に立ち、心配して尋ねると、電話の向こうで沢村が小さく笑った。

「違いますよ。社に戻ろうとしたら先輩の姿が見えたんで」

 そう言えば事務所を出る時、沢村はまだ外回りから戻っていなかった。きっとどこかですれ違ったのだろうと思っていると、沢村が「それで」と言って言葉を継ぐ。

「どこ行くのかなあ、と思って」

「うん?」

 地下のせいか、少し電波が悪い。ゆっくりと階段を上りながら先を促すと、沢村が再び「それで」と言って小さく笑った。

「付いて来ちゃいました」

 狭くて暗い階段を誰かが上から下りて来る。

「えッ?」

 恵也は慌てて見上げると、ゆっくりと階段を下りて来る人物を見てポカンと口を開けた。

「沢む……ら?」

「はい」

 目の前まで下りて来た沢村が、恵也を見詰めてにっこりと微笑む。恵也は人好きのするその顔を呆然と見上げると、ハッと我に返って慌てた。

「ちょ、ちょっと待ってろ! すぐに支払いを済ませて来るから!」

 そう言って大急ぎで回れ右しようとすると、「いいですよ、ここで飲みましょうよ」と言って沢村も階段を下りて来る。

「ちょっと待てッ」

 恵也が慌ててその体を押し留めようとしたその時、店の扉が不意に開いて中から誰かが出て来た。

「どうした。急用ならここは……」

 なかなか戻らない恵也を心配して出て来たらしい橘が、払っとくぞ、と言い掛けて口を閉じる。そして、恵也ともみ合っている沢村を見ると、不意に両目を据わらせて険を含んだ声音で「なんだお前」と凄んだ。途端に沢村もピシリと表情を険しくして橘を睨む。

「お前こそ何だ」

「ちょ、ちょっと待った!」

 恵也は睨み合う二人の間に立って慌てて言うと、沢村をまっすぐに見た。

「こいつとは偶然ここで会っただけだ。変な誤解はするな」

「偶然?」

 沢村の訝しそうな声音に、恵也は「そうだ」と答えて大きく頷く。

「だいたい、こいつは今からデートだし。そうだよな、橘?」

「……」

 恵也の言葉に、橘が眉をきつく寄せて真一文字に口を引き結ぶ。

「……違う」

 やがて橘は短くそう言うと、恵也の腕を掴んでギンと沢村を睨み付けた。

「俺は今からこいつとデートだ!」

「「はあッ?」」

 はっきりきっぱりとした橘の言葉に、恵也と沢村は同時に叫ぶ。

「よく考えたらどっちも俺の好みなわけだし、だったらダチの恋路を邪魔するよりは、フリーの方を落とした方が建設的だろ?」

「え……ええッ?」

 恵也は激しく混乱しながらも、橘の言葉の意味を理解して慌てる。確かにそれこそが恵也の望みだったが、今は沢村がいた。

「と、とにかくその話は後で……」

 橘を黙らせて店の中に押し戻そうとした恵也は、「どういうことですか、先輩」という沢村の言葉に遮られる。

「こいつと今からデートって本当ですか? 『好きな奴』ってこいつのことなんですか?」

「ち、違ッ……」

 少なくとも橘のデートの相手は『姫』であって恵也ではない。慌てて訂正しようとすると、その言葉に橘が「なにッ?」と言って血相を変えた。

「『好きな奴』ってなんだ! お前、好きな奴がいるのかッ?」

「はあッ?」

 いきなり問われて驚いた恵也は、次の瞬間カアッと耳まで赤くなる。その顔を見て、橘と沢村が同時に愕然としたように凍り付いた。

「まさか、もう付き合ってるとか言んじゃねーだろうな!」

「どうなんですか、先輩!」

 橘と沢村が一緒になって恵也に詰め寄る。恵也は思わずウッと呻くと、真っ赤になった顔を腕で隠した。その時。

「やあ、聞き覚えのある声だと思ったら」

 そう言って新たな人物がその場に割り込んで来る。ハッとして頭上を振り仰いだ恵也は、ゆっくりと目を見開くと、驚いてその人物の名を呼んだ。

「加藤部長……!」

「やあ、久し振り」

 加藤はゆっくりと階段を降りて来ると、そこにいる橘と沢村を見て目を丸くする。

「おや、みんな見た顔だね。今日は何かの会合かい?」

 その言葉に橘と沢村は大急ぎでペコリと頭を下げると、少しだけ体を引いて脇に退いた。

「その節は大変お世話になりました」

 すかさず沢村が頭を下げ、橘も「支社長昇進、おめでとうございます」と言って頭を下げる。

「ははは。あまりおめでたくもないんだけどね」

 加藤は以前恵也に言ったのと同じような返事を返すと、恵也に視線を戻して目元を和らげた。

「さて、飲もうか。今日は僕の驕りだよ」

「え……」

 加藤の言葉に、橘と沢村が同時に小さく息を呑む。恵也の待ち合わせの相手が加藤だと勘違いしたのだろう。恵也はすかさず頷くと、橘と沢村を交互に見た。

「すまない。ここからはプライベートだから……」

 『邪魔するな』と暗に含めると、沢村が小さく頷く。

「わかりました。帰ります」

「すまないな。埋め合わせは今度するよ」

 若干の良心の呵責を覚えながら言うと、沢村が目を細めて笑った。

「絶対ですよ」

 その言葉に別の意味合いを感じ取った恵也は内心ちょっと狼狽える。すると、今度は後ろから橘にポンと肩を叩かれた。

「こっちもな。忘れんなよ」

 ちゃっかり便乗してきた橘の言葉に、恵也は呆れて「はあ?」と返す。しかし、自分がここにいる限り、橘は『姫』にスッポカシを食らうのだと気付き、溜息混じりに「わかった」と答えた。途端に橘が「やり♪」と言って露骨に喜ぶ。

「君はモテモテだねえ」

 三人のやり取りを楽しそうに眺めていた加藤はそう言うと、イヤそうに顔を歪めた恵也を見て至極楽しそうに笑った。


「もう引き継ぎは終わったんですか」

 その店は橘がデートに指定するだけあって、落ち着いた雰囲気のイイ店だった。カウンターで二人並んで水割りのグラスを傾けながら問うと、向こうはね、と言って加藤が笑う。

「今度はこっちの引き継ぎだよ」

「どんな方ですか」

 新しい部長のことを尋ねると、加藤は「うん?」と言って少し考える仕草をした。

「僕の方がイイオトコかな?」

 加藤のジョークに恵也は笑う。

「加藤部長よりイイオトコなんていませんよ」

 世辞ではなく言うと、加藤がヒョイと眉を上げて意味ありげに笑った。

「そんな気を持たせるようなことを言うから、あっちもこっちも君に熱を上げるんだよ」

「別に気を持たせてなんかいませんけど……」

 加藤の揶揄い半分の言葉に、恵也は眉尻を下げて苦笑する。

「いいことを教えてあげよう」

 加藤はグラスの中の水割りをひと口飲むと、再び恵也を見て言った。

「本命を作ればいい。そうすれば大抵の人間は身を引く」

「本命……ですか?」

 恵也は加藤の言葉を繰り返して尋ねる。加藤は「そう」と言って頷くと、恵也に少しだけ顔を寄せて囁いた。

「たとえば、僕……とかね」

「え?」

 恵也は一瞬何を言われたのかわからなくて訊き返す。しかし、すぐにその言葉の意味に気付くと、カアッと顔を赤くした。

「揶揄わないで下さい」

 慌てて目を逸らしながら言うと、加藤が右手を伸ばして人差し指を立てる。そして、その指先でチョンと恵也の唇をつつくと、目を細めて笑った。

「本気だと言ったら?」

「え……」

 恵也は加藤の言葉に目を見開いて見返す。加藤はフッと笑みを深めると、再びグラスに視線を戻した。

「実は先日、正式に離婚が決まってね」

「えッ?」

 恵也は驚いて加藤の横顔を見詰める。

「家も財産も全て妻に置いて来た。文字通り『身ひとつ』だよ」

 実に身軽だ、と言って加藤が笑う。それは見栄でも強がりでもなく、本心のように聞こえた。

「先日も言ったが、この年で単身赴任は寂しくてね。良かったら一緒に来ないか。傍にいてくれるだけでいいんだ」

「あ、あの……」

 加藤の冗談なのか本気なのかわからない言葉に、恵也は返す言葉に迷う。加藤はそれを見て微笑むと、再びグラスを口に運んだ。

「好きな人がいるんだったね。それは、あの二人の内の一人かい?」

「えッ?」

 『あの二人』とは、もちろん橘と沢村のことであろう。沢村はもう帰ったが、橘は同じカウンターの反対側の隅で一人で飲んでいる。恵也は加藤の言葉に目を見開くと、再びカァッと赤くなった。

「か、勘弁してください……」

 いくらなんでも加藤相手に自分のトップシークレットを話すわけにはいかない。俯いて言うと、それを見た加藤が陽気に笑って肩を揺らす。

「ダメだよ。君は僕をフッたんだから、僕に好きな人を教える義務がある」

「そんな……」

 無茶苦茶な、という言葉を恵也はどうにか呑み込む。加藤は再び楽しそうに笑うと、じゃあ一つだけ、と言って恵也に提案した。

「僕が一つだけ質問をするから、君は首を縦か横に振るだけでいい。そのかわり、嘘はダメだ。僕も真剣に訊くから、君も真剣に答えて欲しい。いいね?」

「まあ……それだけなら……」

 恵也は渋々頷くと、加藤の『質問』とやらを待つ。加藤はグラスの中に残っていた酒をきれいに飲み干すと、カランと氷の音をさせながらテーブルの上に置いた。

「じゃあ、質問」

 加藤がそう言って、突然真剣な眼差しで恵也を見詰める。

「その相手は……『男』?」

 恵也はその言葉にハッとして息を止めた。冗談を言っているのかと思って見上げたその顔は、今まで見たことも無いほど真剣だった。真剣に恵也に訊いているのだ。お前の好きな相手は『男』なのかと……。

 世間一般からしたら、それはバカげた質問だった。男の恵也が好きになるのは当然女なわけで、そもそもが質問にもなり得ない。万が一そうであったとしても、異端であることがバレるのを恐れて相手は否定するだろう。同性が好きだ、と暴露することは社会的地位を失う危険を伴うからだ。

(どうする……)

 恵也は俯き、考える。

(どうする……)

 しかし、いくら考えても答えは出ない。

(どうする……)

 恵也は顔を上げると、加藤の顔を見詰める。加藤の瞳はどこまでも澄んでいて、そしてどこまでも真摯だった。

「はい……」

 どのくらいの時間が経っただろうか。やがて恵也は頷くと、小さく答える。じっと恵也の答えを待っていた加藤は、その返事に目を細めると柔らかく笑った。

「そうか……」

 そしてそう言うと、財布からクレジットカードを取り出してバーテンに渡す。

「彼の分も引いておいてくれ。僕の奢りだ」

 ヒョイと立てた親指の先には、目の前に置いた水割りのグラスをジッと見詰めている橘がいた。

「ありがとうございます」

 咄嗟に橘に代わって礼を言うと、その言葉に加藤が目を細めて笑う。

「なぜ君が? 君の部下ならともかく、彼はライバル会社の社員だろう?」

「えっ……あ……」

 痛いところを突かれた恵也は、思わず赤くなって口篭る。加藤はそれを見て笑うと、精算の済んだカードを受け取って立ち上がった。

「今日は楽しかったよ。明日はウチに顔を出すといい。新しい部長を紹介しよう」

「ありがとうございます。必ず伺います」

 恵也は頭を下げて礼を言うと、自分も立ち上がって戸口まで加藤を見送りに行った。


「橘……」

 そっと声を掛けると、無言でグラスを見詰めていた橘が顔を上げる。

「よお……部長は帰ったのか」

 橘は先程加藤が座っていた席を見て言うと、眉尻を下げて情け無さそうに笑った。

「笑ってくれよ。どうやらすっぽかされたらしい」

 珍しく弱気な声音に、恵也は良心の呵責を覚えて言葉を探す。

「若手はたいがい残業だから、まだ残ってるのかもしれないぞ」

 恵也はそうフォローすると、「あー……」と言って次の言葉を探した。せっかく二人きりでいるのだ。もう少し一緒にいたい気持ちと、早く『姫』に会わせてあげたい気持ちが交錯する。

「じゃあ、俺はこれで帰るから……」

 恵也はそう言うと、再び「その……」と言って次の言葉を探す。何か橘との繋がりが欲しい。何でもいいのだ。次に繋がるような何かが欲しい。

「……?」

 口篭ったきり無言で佇む恵也を、橘がどうしたのかと見上げる。

「いや、いいんだ」

 恵也は言い掛けた言葉を呑み込むと、それじゃ、と言って背を向けた。戸口へ向かうその背中を、橘が「あッ、おい!」と言って呼び止める。そして、歩み寄って来て持っていた携帯電話を開くと、ピピッと手早くボタンを押した。

「携帯の番号教えてくれ。あとメアドも」

「えッ……」

 驚いた恵也は慌てて上着のポケットを探る。しかし、赤外線でプロフィールを送ると自分の名前まで知られてしまうことに気付き、ハッと顔色を変えて橘を見た。

「そんな顔すんなよ」

 迷うように瞳を揺らした恵也を見て、橘が苦笑混じりに言う。

「仕事中は掛けねーよ。たまにメシでも食おうぜ」

 願ってもない申し出に、途端に恵也の胸がドキドキと高鳴る。恵也は赤くなった頬に気付かれないよう俯いて携帯電話を取り出すと、画面を見詰めながら言った。

「番号言うから……掛けてくれ」

「OK」

 恵也が自分の番号を言うと、すぐに橘から着信が来る。

「名前は?」

 当然のように訊かれて、恵也はハッと目を見開くと慌てて橘の顔を見た。

「あ……」

「……?」

 目を見開いたまま硬直してしまった恵也を見て、橘がどうしたのかと視線で問う。

「……ごめん」

 恵也は俯いて謝ると、橘にクルリと背を向けた。

「あッ、おいッ?」

 戸口に向かって走る恵也を橘が慌てて呼び止める。恵也はそれを無視すると、夢中で店の外に飛び出した。

(どうしよう……!)

 階段を駆け上りながら、恵也はバクバクいう心臓を必死に押さえる。

(どうしよう、逃げちゃった……!)

 突然飛び出して行った自分を、橘は変な奴だと思ったに違いない。その時、ポケットの中でブブブブと携帯電話が振動した。

(橘だ……!)

 途端に恵也の心臓がドキンと音を立てて跳ねる。恵也は慌てて服の上から携帯電話を押さえると、通りに走り出て人混みに紛れた。


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