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ピポピポピポーン!
軽い電子音がしてセンサーが来客を告げる。途端にコンビニエンスストアの店員が「いらっしゃいませ~!」と声を張り上げ、レジで金を支払っていた恵也はチラとそちらに視線を向けた。
「おッ、姫~~~!」
途端に野太い猫撫で声がして、黒のライダースーツを着た二十歳前後の若い男が両手を挙げる。
「うげッ……」
恵也は思わず顔を歪めると、レジの店員に視線を戻して釣り銭を受け取った。
「ありがとうございました!」
店員が恵也にビニール袋を手渡し、恵也はペコリと頭を下げてさっさと店を出ようとする。黒のライダースーツの男はその前に立ち塞がると、再び語尾にハートマークを付けて「姫」と呼んだ。
「なんだよ、つれないな~。ちょっと待ってろよ。店長に挨拶して来るから」
「なんで俺が……」
恵也はギュッと眉を引き寄せると、その脇をすり抜けて足早に外に出る。
「店長、俺たちこれから走るから。ウチのが何か失礼なことしたら、すぐに遠慮なく言ってくれな」
その耳に、店の奥にある事務室に向かって声を張り上げる男の声と、それを受けて「ああ、頼むよ」と愛想良く応える中年の男の声が微かに聞こえた。
この何の変哲も無いコンビニエンスストアは、二つの国道が交差する場所に建っている。ここは県の中心地に位置していて、県北と県南にはそれぞれその一帯を仕切っている暴走族がいた。南北の暴走族は何故か昔から走る前には必ずヘッドがこの店の店長に挨拶するのが習わしになっているらしく、それはヘッドが何代変わっても続いているらしい。なんでもここの店長が若い頃、南北両方を治める『伝説のヘッド』だったという噂もあったが、本人に聞いたわけではないので真偽のほどはわからない。まあ、どちらにしても恵也には関係の無い世界の話だった。
「待て待て待て! 待てって、姫よ~~~」
その県北を仕切っている暴走族『ブラックキャット』のヘッド剛田が情けない声を上げながら店の外に出て来る。黒のライダースーツの背中には金色のしなやかな猫のシルエット。短い金髪をツンツンと尖らせ、黒のブーツの踵を鳴らしながら大股に歩く姿は黒猫というよりは大きな獣だ。
恵也は溜息をつきながら、くつろげていた胸元のファスナーを引き上げる。恵也の着ているライダースーツは深いマリンブルーで、背中に三本の流星が描かれている。それが獣に切り裂かれた爪痕のように色っぽいと言って、この店の駐車場で口説かれたのが剛田との出会いだった。恵也は剛田の制止を無視すると、フルフェイスのヘルメットをすっぽりと被る。途端に鮮やかな金髪や線の細い色白の顔がその下に隠れて、それを見た剛田が「あ~~~~~……」と残念そうに言いながらがっくりと項垂れた。
「綺麗な顔がもっと拝みたかったのに~」
その情けない声音に、恵也はフンと鼻を鳴らして背を向ける。そこへ、グオングオングオンと凄い爆音をさせて県南方向から三台のバイクが走って来た。
「チッ!」
そのバイクがまっすぐこの店目指して走って来るのを見て、剛田が顔をしかめて鋭く舌打ちする。
「クレイジータイガーだぜッ!」
吐き捨てるように言ったその名前に、恵也も顔を上げてそちらを見た。
(じゃあ、あれが……)
『クレイジータイガー』は県南を仕切る暴走族で、最近ヘッドが変わったとかで、まだ若いがカリスマ性のある新ヘッドの魅力に周辺の小さなチームが続々と自ら傘下に入りたがっていると聞いている。まだ新しいヘッドには会ったことがなかったが、確か名前は……。
「橘だ」
剛田が低く唸るように言い、恵也もちょっと興味を覚えてそちらを見る。三台のバイクは駐車場に入って来ると、店から少し離れた場所に停まって静かにエンジンを止めた。
(あれが新ヘッドの橘……)
黄色いライダースーツを着た男が、バイクに跨ったままヘルメットを取る。煩そうにバサリと焦げ茶色の髪を振ると、胸元のファスナーを下ろしてくつろげた。ヒラリと長い足を上げてバイクから下りると、後の二人に何か言い置いてこちらに向かって歩き出す。驚くほど背が高い。年は自分と変わらないくらいに見えたが、纏った雰囲気が只者ではなかった。
(うッ……)
目が合った途端に、ヘルメット越しだというのにゾクリと背筋が震える。
「俺の後ろに隠れてろ、姫」
剛田がボソリと唸るように言い、恵也はムッと顔をしかめると「何でだよ」と返した。
「俺には関係無いし」
恵也はプイと顔を逸らしてそう言うと、構わずにバイクに跨る。鍵を掴んでエンジンを掛けようとすると、橘がこちらに歩み寄りながら声を掛けてきた。
「へえ。ブラックキャットが男をマスコットにしたって聞いたけど本当だったんだな」
「悪いか!」
剛田がすかさず牙を剥き、恵也は思わず「違うから」と訂正する。
「そいつが勝手に姫姫呼んでるだけで、俺は関係無ェからな」
勘違いすんなよ、と釘を刺すと、橘がその言葉に形の良い柳眉をヒョイと上げて「へえ」と言って笑う。
「随分威勢がいいんだな」
そしてそう言うと、まっすぐ恵也に歩み寄って来て手を伸ばした。
「……ッ!」
いきなり無断でヘルメットのシールドを上げられた恵也はギョッとして咄嗟に身構える。橘は身を屈めて恵也の顔を覗き込むと、口の端を上げて笑った。
「へえ、随分若いんだな。高校生か?」
揶揄するような橘の顔が、しかし恵也の瞳を捉えた途端に動きを止める。その焦げ茶色の瞳がたちまち不思議な色を湛えるのを、恵也も不思議な気持ちで見詰めた。
「……本当にブラックキャットの『ネコ』じゃねーのか?」
暫くジッと恵也の瞳を見詰めてから橘がボソリと尋ねる。その声に呪縛を解かれた恵也は。グイと顔を反らすと橘の手から逃れて素早くシールドを下ろした。
「俺は一般人だ。あんたたちの縄張り争いに巻き込まないでくれ」
そしてそう言うと、握ったままだったキーを回してエンジンをかける。
「じゃあさ」
橘は今度はキーを掴んでいる恵也の手を上から押さえるようにして握ると、シールドに顔を寄せて笑った。
「俺と付き合わないか。気に入った」
「なッ……!」
その言葉に恵也は驚愕して絶句する。そして、思わずパクパクさせていた口を閉じると、バッと橘の手を払い除けてエンジンを噴かした。
「生憎そーいう趣味も無い! 他当たってくれ!」
恵也はそう捨て台詞を残すと、暗い公道へと乗り出す。そして、そのまま後ろも振り返らずに逃げるようにして夜道を走った。
「おはようございます!」
今日も定時に出社すると、一階ロビーの受付に座っていた二人の受付嬢がにっこり微笑みながら恵也に挨拶する。
「おはようございます」
同じようにペコリと頭を下げながらその前を通り過ぎると、後ろでキャアと小さな黄色い嬌声が上がった。
この大きなビルは医薬品会社の持ちビルで、たくさんのオフィスがテナントとして入っている。恵也が勤める企画会社『コア企画』もこのビルの十五階にオフィスを借りていて、二十人ほどの社員がそこで働いていた。先程の受付嬢たちはこのビルの管理会社の社員で、なぜか恵也が前を通ると必ずキャアキャアと小声で騒ぎ合う。特に他の社員と二人で歩いている時などは酷くて、顔を赤くしてキャアキャアと小声で騒ぎ合っている様は不思議以外の何ものでもない。最初の頃はどこか変なのだろうかと思い、エレベーター内の鏡で服装を確認したりしていたのだが、今はあまり気にしないようにしている。よっぽど暇なのに違いない。
恵也自身は自分のことを極々平凡な営業サラリーマンだと思っている。スーツはいつも濃紺か濃いグレーだし、ワイシャツも常に白だ。ネクタイもブランドものではない国産の平凡な柄を選んでいるし、靴に至ってはデザインよりも履き心地重視。とにかく営業は足が命なのだ。しかし、常に平凡でありたいと願っている恵也の努力を、その容姿がいつも裏切っていた。
キメの細かい抜けるような白い肌に、薄めの赤い唇。オールバックに整えたストレートの黒髪はどこまでも艶やかで、一筋だけ額にこぼれている髪が妙に艶めかしい。ノンフレームの眼鏡の奥に輝く黒瞳はあくまで知的で涼しく、いつも唇の端だけ上げて微笑む恵也のことを受付嬢たちがこっそり『クールビューティ』と呼んでいることを恵也は知らない。
恵也はエレベーターホールに入ると、六台ある内の奥から二番目のエレベーターのボタンを押す。それらのエレベーターはそれぞれ止まる階層が決まっていて、恵也の会社がある十五階へ行くにはそのエレベーターを使わなければならない。チン、と小さな音がして目の前のドアが開く。中に入ってドアを閉めようとすると、そこへバタバタと誰かが駆け寄って来る足音がした。
「先輩、待って!」
見れば、それは同じ会社の後輩だった。
『沢村一臣』。
入社二年目の後輩で、例の受付嬢たちがキャアキャア騒ぐ『恵也のお相手』ナンバーワンの男である。沢村は肩でハアハア息をしながらエレベーターに乗り込んで来ると、恵也を見下ろして人好きのする顔でニカッと笑った。
「おはようございます、里見先輩!」
「おはよう」
沢村は後輩だが上背も肩幅も恵也より大きいので、いつもこうして上から見下ろされることとなる。別に恵也も身長は百七十センチを越えているのでそれほど低い方ではなかったが、沢村はそれより十センチは高かった。グンとGが掛かって二人を乗せたエレベーターが地上を離れる。視線を感じてチラと隣を見上げると、こちらを見詰めていたらしい沢村が再びにっこりと笑った。
「今日もお綺麗ですね」
「は?」
恵也は後輩の言葉に一瞬ポカンとして口を開ける。
「まだ寝惚けてるのか?」
眉をひそめて尋ねると、沢村が白い歯を見せてニッと笑った。
「知ってます? 先輩って受付嬢たちに『クールビューティ』って呼ばれてるんですよ?」
「クールビューティ?」
恵也は沢村の言葉に眉をしかめる。
「なんかファンクラブも出来てるらしくて、先日たまたまその子たちとランチで相席になったんですけど、先輩に恋人はいるのかとか、好きな人はいるのかってうるさいから、俺と付き合ってることにしときましたから」
「はあッ?」
恵也はそれこそびっくりして口をパカッと開ける。
「なんでそんなことッ……」
驚いて怒ろうとすると、沢村が「あれ?」と言ってニイッと人の悪い笑みを浮かべた。
「もしかして、誰か狙ってる子でもいました?」
「いや、別に……」
恵也は思わず口篭ると、視線を外して正面に向き直る。そこへチンと軽い音がして、エレベーターが十五階に到着した。
「ところで、今日は大詰めだって言ってたよな。大丈夫そうか?」
「もちろんです」
恵也の言葉に沢村が得意そうに笑う。そして、持っていた封筒をヒョイと上げて見せた。
「最終の提案書です。今日は絶対に契約まで持って行きますからね!」
見ててください、と自信満々で言う沢村に、恵也も頼もしく思いながら頷く。
「あそこはウチとも何度か付き合いがあるからな。加藤部長にもよろしく言っておいてくれ。後で改めて挨拶に伺うからと」
「はい!」
恵也の言葉に沢村がニコニコと元気よく答える。しかし、その笑顔は数時間後にあっけなく打ちのめされてしまった。
「すみません……A社に取られました」
夕方近くにトボトボと戻って来た沢村の報告に、社長と打ち合わせをしていた恵也は驚いて顔を上げる。
「なに? A社に?」
A社は昔からの同業者だ。以前はそれほど目立たなかったのだが、どうも最近になって新しい営業が入ったらしく、ここのところグングンと成績を伸ばしていた。
「それにしても、いきなりってのはないだろう」
「それが、前日にA社が出して来た最終案を気に入ったようで……」
「前日に?」
恵也は更に驚いて眉をひそめる。最終提案に行き着くまでにはそれなりに相手の感触も掴めて来る。契約に『確実』という言葉は無いが、沢村は確かにその『手応え』を感じていた。恵也はすっくと立ち上がると、緩めていたネクタイをグイと締める。
「これからクライアントに行くぞ。一緒に来い、沢村」
「何か策はあるのか、里見」
歩き出そうとした恵也に、社長が後ろから声を掛ける。恵也はその声に振り返ると、小さくコクと頷いた。
「あそこには以前に小さな貸しがあります。何とかしてもう一度最終案を出させて貰えるよう頼んでみます」
「里見先輩!」
早足で戸口へ向かう恵也を沢村が必死に追い掛けて来る。恵也は入り口脇に置いてある大きなダンボール箱から営業用の菓子折り入り紙袋を一つ掴むと、沢村を引き連れて事務所を出た。
「加藤部長はいらっしゃいますか」
受付で尋ねると、顔馴染みの受付嬢が恵也を見てパッと笑顔になる。
「おりますよ。少々お待ち下さいね」
そして親しげにそう言うと、すぐに部長室に電話を掛けてくれた。
「はい。はい、わかりました」
受付嬢は受話器から聞こえてくる声に二、三度小さく頷くと、笑顔で恵也を見上げて左手を示す。
「部長室は五階の突き当たりになりますので、どうぞ」
とりあえず面会は断られなかったのでホッとする。恵也は愛想のいい受付嬢に礼を言うと、まっすぐエレベーターへと向かった。
「大丈夫でしょうか、里見先輩」
沢村が恵也の後ろを歩きながら心配そうに言う。
「胸を張れ、沢村。もっと自分を信じろ」
沢村はまだ入社二年目だが、新作の化粧品や清涼飲料水など若者向けの商品の販促に実績がある。そのセンスは同期の中でもピカ一で、社内でも新社員の頃から有望株として注目されていた。このクライアントを沢村に引き継いだのも、他でもない恵也だ。
「ここの部長とは俺が新社員の頃からの付き合いだ」
恵也はそう言うと、エレベーターのドアを閉めて五階のボタンを押す。
(いざとなればジョーカーを使うか……)
まだ沢村はこのクライアントから仕事を一件も貰っていない。ここへ通い始めてそろそろ一年。この契約が取れれば今後の張り合いにもなるし自信にも繋がるだろう。
(加藤部長か……)
新社員の恵也がこの会社を訪れた時、加藤はまだ課長だった。自分にも同じくらいの息子がいるのだと言って恵也のことを格別に可愛がってくれ、契約も何件もくれた。その加藤が部長に就任したと知ったのは、新入社員の沢村を連れて挨拶に訪れた時である。
『そうか、担当が替わるのか』
加藤は少しだけ残念そうにそう言うと、送別だと言って最後の契約をくれた。
(そういえば……)
昇進祝いに一緒に飲まないか、と誘われていたのを思い出す。
(忙しくてすっかり忘れていたな……)
あれからもう一年近く経ってしまっている。さすがに昇進祝いは変だろうと思い、恵也はそれを少しだけ残念に思う。思えば、自分はあれほど可愛がって貰ったというのに、まだ礼らしいことを何ひとつしていない。
(モタモタしてるうちに異動されてしまっても困るしな……)
そう言えば大阪と博多に支社があったのをチラと思い出す。関西と九州では、さすがにちょっと異動先まで挨拶に行くというわけにもいかない。
(今夜あたり誘ってみるか。理由は何でもいいから)
チンと軽い音がしてエレベーターが五階に止まる。まっすぐ伸びた廊下に踏み出したその時、不意に沢村が恵也のスーツの背中を掴んだ。
「里見先輩!」
声を潜めて名前を呼ばれ、恵也はどうしたのかと振り返る。沢村は恵也の陰から前方を見ると、真剣な面持ちで囁いた。
「あいつです。A社に新しく入ったっていう『やり手営業社員』」
その言葉に恵也はハッとして前方を見る。すると、ちょうど部長室から出て来たらしい長身の男がこちらに向かって歩いて来るのが見えた。
「なんだアレは」
黒のスーツに紫のワイシャツ、ピカピカのエナメル靴にノータイという、まるでホストかチンピラのような格好に恵也は思わず眉をしかめる。こげ茶色の髪もざんばらツンツンで、営業というよりは芸能人のような風体だった。
「あんなのに負けたのか……」
恵也は思わず愕然として言葉を失う。その男もすぐに恵也たちに気付いたらしく、両手をスラックスのポケットに突っ込むと、靴の踵に打ち付けた金具をカツンカツンと響かせながらこちらに向かって歩いて来た。背がかなり高く、手足も長い。顔も整った目鼻立ちをしている。そのしなやかな柳眉がヒョイと上がった瞬間、恵也はその顔に見覚えがあるような気がして慌てて脳内検索する。その背に沢村が言った。
「名前は確か……橘」
(あッ……!)
その名前を聞いた途端、一人の男の顔が頭の中に浮かび上がる。見間違いでなければ確かにあれは……!
(クレイジータイガーの新ヘッド、橘!)
途端に恵也は内心で慌てる。
(ど、どうする……!)
橘には昨夜、ヘルメットのシールドを上げて直に顔を見られている。別に悪い事をしているわけではないが、お堅い営業社員が夜な夜なライダースーツを着て走っているなどライバル会社の社員には絶対に知られたくなかった。ましてや、男のくせに『姫』などと呼ばれて暴走族のヘッドに尻を追い掛け回されているなど、絶対に絶対に知られてはならない。そうこうしているうちに、両者の距離はどんどん縮まった。
(ええい、ままよ! とにかく、とことんシラを切るしかない!)
夜の恵也は金髪ナチュラルヘアにライダースーツだが、今の恵也はオールバックの黒髪に眼鏡にスーツである。共通点は一つも無い。恵也は拳をグッと握り締めると、前方を睨んで唇を引き結ぶ。なるべく視線を合わせないようにしてすれ違おうとしたその瞬間、不意に橘がクンと鼻を鳴らした。
「あんた……」
いきなり声を掛けられた恵也は、その場でハッとして立ち止まる。
「何か……」
正面を向いたまま視線を向けずに答えると、橘が再びクンと鼻を鳴らして笑った。
「イイ匂いがするな」
「……?」
恵也は意味がわからずに眉を寄せる。しかし、これ以上言葉を交わすのは避けたかった。
「失礼」
恵也は短く返すと、再び廊下を歩き出す。
「お前の上司か。美人だな」
橘は後ろの沢村に向かってそう言うと、「枕営業も大変だなあ」と言って、下卑た笑い声を響かせながらエレベーターに乗り込んで行った。
「お、来た来た。姫!」
いつものコンビニエンスストアに着くと、薄暗い駐車場のフェンス際にバイクを停め、車輪止めに腰を下ろしていた橘がパッと笑顔になって立ち上がる。見れば、今日は一人きりで子分の姿がなかった。恵也がわざと駐車場の反対側にバイクを停めると、橘がニコニコ笑いながら歩いて来て「よお」と片手を上げる。
「元気だったか?」
昨日の今日で元気だったかも何もないと思うが、とりあえず無視するわけにもいかないので「ども」と返す。フルフェイスのヘルメットを脱いでライダースーツの前をくつろげると、途端に橘が目を見開いて軽く口笛を吹いた。
「昨日はメット被っててよくわからなかったけど、すっげーシャンなんだな、姫は」
橘の言葉に、恵也はハッとして息を呑む。
(やばいッ……)
昨夜はヘルメットを被っていたが、今日は営業先でバッチリ顔を見られている。しかも、ほんの三時間ほど前にである。
(バレる!)
慌てた途端にカアッと顔が熱くなり、恵也は狼狽えて顔を逸らす。すると、それを見た橘が意外そうに口元を緩める。
「わりとウブなんだな。照れてんのか?」
「なッ……!」
トンチンカンなことを言われて更に真っ赤になった恵也は、何か言い返そうとして橘を睨む。
「あ、ようやくこっち見てくれた」
橘は目が合った途端に嬉しそうに笑うと、手を伸ばして恵也の横髪に触れた。
「可愛いな。名前、聞いてもいいか?」
髪を耳の後ろに掛けた指で耳たぶを摘ままれ、恵也はくすぐったさに思わず首を竦める。
「な、名前?」
意図がわからずに問うと、橘は頷いてまっすぐ恵也を見詰めた。
「『姫』は通り名だろ? 本名が知りたい」
「なんでお前なんかにッ……」
恵也はプイと顔を背けると、ノシノシと大股で店の入口に向かう。
「あとさ、学校も教えてよ」
橘はしつこくその後を付いて来ると、恵也の腕を捉まえた。
「出待ちしていい? 車で迎えに行くからさ」
「はあッ?」
恵也はその言葉に驚くと、目を丸くして橘を見る。
「一緒にメシでも食おうぜ。もちろん俺の奢りでさ」
橘はそう言うと、「俺、これでも一応社会人なんだぜ?」と言って笑った。
「なんで……」
もしかしたらカマをかけられているのだろうかと思って問うと、橘が眉をヒョイと上げてニカッと笑う。
「『なんで』って決まってんだろ? デートに誘ってんだよ」
橘はちょっと照れ臭そうにそう言うと、首を傾げて笑った。
「一緒にメシ食って映画でも観て、後は海岸までドライブでもしようぜ」
「デート……」
恵也は予想外の言葉に呆然として橘を見る。橘は「そう」と答えると、なんか照れるな、と言って笑った。その様子からどうやら本当に気付いてないようだとわかり、恵也はホッとして安堵の息をつく。実は実年齢より若く見られる……というか幼く見られるこの顔がずっとコンプレックスだったのだが、今回はそれが役に立ったらしかった。
「揶揄うのはやめてくれ」
恵也は敢えて否定せずにそう言うと、掴まれたままの腕を取り返そうとする。すると、そこへブオンブオンブオンとエンジン音を轟かせながら三台のバイクが駐車場に入って来た。
「ブラックキャットだ」
恵也は邪魔が入ったことに喜んで、パッと顔を上げてそちらを見る。その嬉しそうな声音に途端に橘はムッと顔をしかめると、掴んでいた恵也の腕をグイと引き寄せた。
「痛ッ」
「もしかして、本当にあいつと付き合ってるのか?」
苦痛に顔を歪めた恵也を間近で見詰め、橘が低い声音で尋ねる。
「な、なに?」
意味がわからずに問い返すと、橘が真顔で「ゆうま」と言った。
「橘勇馬だ。覚えておいてくれ」
「姫!」
剛田のバイクがまっすぐこちらに向かって来て、橘の背後からぶつかる寸前でブレーキをかける。
「橘! その手を離しやがれ!」
剛田の怒声に橘は口の端を上げて笑うと、反対の手で恵也の手を掴んで白い指先に口付けた。
「悪いな、剛田。この子は俺が貰う」
「なッ……!」
その突然の宣言に、恵也は驚愕して言葉を失う。
「な、なに寝言ほざいてやがる! この野郎!」
剛田が叫んでバイクを飛び降り、あわや橘に掴みかかろうとしたところで、すぐ脇にある自動ドアが開いて店内から誰かが出て来た。
「店の前で何やってるんだい、端迷惑な」
「「店長ッ!」」
聞き覚えのあるその声に、橘と剛田が一斉に顔を上げて声を合わせる。反対に恵也はサッと顔を逸らすと、三人に気付かれないようソロソロとその場を離れた。
「いくら幼馴染みでも喧嘩はいけないなあ、勇馬」
バイクに戻って大急ぎでヘルメットを被る恵也の耳に、店長の声が小さく聞こえる。驚いたことに、どうやら剛田と橘は幼馴染みらしい。
「しかも、原因は好きな子の取りっこか。小学生から進歩してないなあ、お前たちは」
しかも、店長とはかなり昔からの顔見知りらしい。楽しそうな店長の言葉に、剛田が「違う!」と異議を唱える。
「あの時だって最初に見つけたのは俺だったんだ! なのにこいつ、後から来たくせに俺のお姫様を横取りしようとしやがって!」
「誰が先に見つけようと関係ないね。選ぶのは本人だろ」
剛田の言葉に橘がフンと鼻で笑って返す。
「なんだと! 結局あれきりあの子はお前を怖がって来なくなっちまったんだぞ!」
「はあッ? てめえが汚ねえ口を押し付けようとしたからじゃねーか、このクソガキ!」
「ガキガキ言うな! 一コしか違わねーくせに!」
すっかり子供に戻った二人が、喧々囂々(けんけんごうごう)相手を罵る。そのやり取りを聞いていた恵也は、不意にあることを思い出して「あッ!」と叫んだ。
「お前たち、あの時のッ……!」
その声に、そこにいた店長以下三名が恵也を見る。
「こりゃ驚いた」
店長は二人が取り合っていたのが恵也だと知ると、「お前たち、本当に進歩が無いなあ」と呆れたように言って笑った。
「またウチの子を取り合ってるのか」
その言葉に、橘と剛田が一斉に目を丸くして店長を見る。恵也は幼い頃の忌まわしい記憶を思い出してヨロけると、必死で傍らのバイクに掴まった。
恵也が物心付いた頃、既に父親はコンビニエンスストアの店長をしていた。生まれてすぐに母親を亡くした恵也は、いつも父の店で遊んでいた。まだコンビニエンスストア自体が普及し始めの頃で客足はそれほど多くなかったが、夕方になるとたくさんの若者がバイクに乗ってやって来ては幼い恵也と遊んでくれた。
恵也が小学校に上がったある日、その中の二人が自分と同じくらいの年恰好の少年を連れて来た。大人たちがワイワイと楽しそうに談笑する中、その内の一人が恵也を見つけて寄って来る。何となく不穏なものを感じて店の奥にある事務所に逃げ込むと、その子供も後を追って来た。そして、恵也はあっという間に部屋の隅に積み上げられているダンボール箱の前まで追い詰められてしまった。
「お前、可愛いな」
その少年はそう言うと、あろうことか積み上げられたダンボール箱に恵也を押し付けてキスしようとする。
「やッ……!」
慌てて両手で顔を隠してしゃがみ込むと、そこへもう一人の少年が乗り込んで来てイヤな奴をポカンと殴った。
「小さな子をイジめたらダメだ!」
後から来た少年はそう言うと、しゃがみ込んでいた恵也の腕を掴んで立たせる。しかし、助かったと思ったのも束の間、そいつは恵也の顔を見るなり驚いたようにポカンと口を開けると、いきなり言った。
「結婚しよう!」
そして、言うが早いか恵也の口に素早くチュッと口付ける。驚いた恵也はウワーンと泣き出し、それきり店には行かなくなった。もう二十年も前のことである。
「じゃあ、あの時の女の子が姫だったのか!」
剛田が感動したように言い、「いや、ちゃんと男の子の格好してたから」と恵也は暗い顔で訂正する。
「そうか、俺の初恋の相手は姫だったのかあ」
その時のことを思い出したのか橘もしみじみとした声音で言い、途端に剛田が「俺だって初恋だったんだぞ!」と喚いた。
「とにかく俺、男には興味無いから」
恵也はうんざりしてそう言うと、バイクに跨りエンジンを掛ける。
「なんだ、今日は寄っていかないのか?」
父親にフフンと笑いながら問われて、恵也はカアッと赤くなるとプイと顔を背けた。
「……また明日来る」
大学入学と同時に家を出た恵也は、今は都内近郊の賃貸マンションで一人で暮らしている。毎晩ここへ来るのは父親の様子を見る為だ。しかし、心配していることを知られることも直に顔を合わせることも何となく気恥ずかしくて、父親が奥の事務室で休憩を取る時間帯を狙って来ていたのだが、どうやらとっくにバレていたらしい。
「坊っちゃん」
古参の店員が恵也を呼び止め、ハイ、といつものペットボトルが入ったビニール袋を差し出す。
「その呼び方は止めてくれ」
恵也はそれを受け取りながら苦く笑うと、「じゃあ」と言ってバイクを発進させた。