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短編集

クリムト

作者: 林 藤守

 高橋幸一。僕が五つの頃隣の家に住んでいた大学生の名前だ。一度しか遊んだことはないが、こんな風もない雨の日には彼の事を思い出す。


 僕は彼の事をタカさん、タカさんと呼んでいた。高橋君、ではなかった。目じりに刻まれつつある皺と大きな黒ぶちの眼鏡がそう呼ばせたのだと思う。彼はお茶の水にある大学に通う大学生だった。


 彼の部屋はカーテンがかかっておらず、そのため僕の家の窓からその中の様子を覗き見ることが出来た。それは隅にある鳥かごの中にいる一匹のインコまで見えるほど、ありありと開かれていた。窓のすぐ傍にあるベットに寝転ぶ彼は大学生と呼ぶにはあまりに老けていて、父とそう変わらない年齢のようにすら思えた。そしていつも暇そうにしていた。たまに鞄を持って授業に行っても、一時間もしないうちに帰ってきてしまっていた。


 僕はなぜ彼があんなにも老けているのかを母に聞いてみたことがある。母はこう言った。彼は大学に何回も落ちたからしょうがないのよ、と。ショウガナイ、その突き放した響き。硬質的なニュアンスを含んだその言葉を、僕は頭の中で繰り返した。ショウガナイ、ショウガナイ。何でもないふうで、仄かに嫌悪が混じっているその響き。糊を乾いたタオルで拭いたときのような、にちゃりとした嫌悪感。幼い僕はそういったものをつぶさに感じ取った。そして、反芻しているうちにだんだんとタカさんに興味を持つようになった。彼はいったいどんな人なんだろう、そんな疑問が心を侵した。今考えるとあれは小さな反抗期だったのかもしれない。父と毎晩ケンカばかりしている母への復讐を、自虐的に行おうとしていたのかもしれない。


 最初に接触を図ったのは僕だった。あの日はタカさんの事を母に聞いてちょうど一週間目だったと思う。母が買い物に行っている隙をねらって、台所からくすねてきた金平糖を二つ、彼の部屋の窓に投げつけた。僕は一週間のうちに想像を大きく膨らませてしまっていた。その頃の僕の中ではもう、彼はタブーの象徴だった。怠惰で不潔な恥ずべき人間に違いない、と思いこんでいた。小さな子ども特有の万能感も相まって、彼に対して何をしても良いのだろう、と思っていた節さえあった。


 しばらく黙っていると、彼が窓からゆっくりと顔を覗かせた。怪訝そうにキョロキョロと辺りを見渡している。土気色の肌に、眠たそうな目。そしてあの、黒々とした隈。それは正に僕の想像する怠惰な人間そのままだった。僕は嬉しくなってもう一度金平糖を投げた。それは彼の顔に当たり、ころりと落ちて下方に消えていった。タカさんはびっくりしてしばらく僕を見つめていたが、やがて優しく微笑んだ。


 僕は高揚して彼にぶんぶんと手を振った。タカさんもまた、振り返してくれた。許された、と僕は思った。金平糖をぶつけたという小さな悪行に関してではない。真っ白い部屋の中に盛大に墨汁をまき散らすかのような、猥雑で卑しい喜び。その秘密の娯楽への一歩を踏み出すことをタカさんによって許されたような気がしたのだ。僕は大きな声で、彼に話しかけた。


「何をやってたんですか?」

「本を読んでいたんだよ」

「どんな本ですか?」

「説明しても君にはわからないかもしれないなあ。良かったら見に来るかい?」


 その声は大人特有の子供を愛でる声色を伴っていて、僕はますます嬉しくなる。悪行とはいかなる時も人を甘く誘うものである。行きます、と大きな声で言い、部屋を飛びぬけ階段を駆け降りた。




 彼の家の玄関は鍵が掛かっていなかった。おじゃまします、と僕はこれまた大きな声で言ってから、二階へと駆け上がった。タカさんの部屋は遠目で見るよりもずっと広く、少し埃っぽかったように思う。彼はあまりにも不躾な僕を見て少し困惑した表情を浮かべたが、すぐにまた微笑みを浮かべた。そして読んでいた本を差し出してくれた。僕がまだ漢字が読めないことを悟ってか、これは宮沢賢治が書いた本だとも教えてくれた。


「この本の作者はね、おとぎ話を書いていた人なんだよ。僕は大学でこの人の研究をしたいと思ってるんだ」

 宮沢賢治、確か母も好んで読んでいた気がする。僕は少しがっかりした。なんだ、タカさんも母と同じなのか。ほんの少しだけ、高揚は萎んでいった。急に大人しく本のページをパラパラとめくる僕に対して、彼はこう続けた。

「本の中にね、イーハトーブっていう理想郷が出てくるんだよ。そこはおとぎ話の国なんだ」

 タカさんは僕を見ずに、窓から遠くを見つめた。その視線は空を見るでもなく宙に舞っていて、僕は何となく、タカさんはおとぎ話の国に行ってしまいたいのだろうな、と思った。そしてそんな場所はこの世界のどこにもないと彼が理解していることも何となく、わかった。




 あの行為のきっかけは完全なる偶然だったと思う。と思う、というのは何かがあの結末を導いていたかのようにも感じられるからだ。


 僕はタカさんがやるせなく思考の海に沈んでいくことを嫌って、話題を変えるために近くにあった本を手に取った。それは一冊の画集だった。

「これは何ですか?」

 僕が聞くと、彼はゆっくりと思考のイーハトーブから帰ってきた。その本を一瞥したとき、彼の目は確かに優しい光を宿した。

「ああ、クリムトの画集だね」


 君にはまだ少し早いかもしれないよ、彼がそう言い終わる前に僕はそれを開いた。母の影を、イーハトーブに思いを馳せる彼を見たくなかったというもある。子供じみた無邪気さを装い、あえて不行儀な態度でその本に開いた。嫌な子供だったな、と自分でも思う。目に飛び込んできたのは艶めかしい裸体の女性たちだった。彼女らは金色に彩られて幻想的に描かれていた。僕は少しびっくりして彼の方を見た。するとタカさんは言い訳のように、昔付き合っていた人からもらったんだ、と言った。その頃の僕の中では性はタブー以外の何物でもないはずなのに、何故だろうか、不思議と罪悪感を覚えなかった。より細かく告白するならば、むしろページをめくる度に現れる彼女らの痴態に興奮さえしていたといってもいい。それは性欲によるものではなく、タカさんに金平糖をぶつけたときに覚えたあの卑しい喜びに近いものだった。僕は少女のような純粋さを持ってそれを眺め続けた。彼はきっとその様子を幼い性の芽生えと勘違いしたのだろう、その目にはいつしか皮肉めいたものが浮かんでいるのが見えた。




 タカさんはジュースを出してあげるよ、と言って席を立った。窓の外に目をやると、僕の家からタカさんの部屋の中が見えるように、一階の母の部屋がありありと見えた。今でもどうしてあんなことをしたのだろう、と思う。もしかするとあの皮肉めいた眼差しが僕の自尊心を僕すら気付かぬうちに傷付けていたのかもしれない。僕は彼が部屋を出たのを見届けてからびりびりと画集のページを一枚破ったのだ。そこに描かれていた絵は、どんな絵だったのか。それはもう思いだすことが出来ない。眼光の鋭い少女の絵だったような気もするし、風景画だったような気もする。とにかく僕はそれを折りたたんでポケットにしまった。そうして、一目散にタカさんの部屋から逃げ出した。玄関を出るとき後ろから何か声が聞こえたが、聞こえないふりをした。




 僕は急いで自分の家に帰り、鍵を閉めた。幸いなことに母はまだ帰ってきていなかった。逃げるように階段を上り、僕の部屋にたどり着いてから、持ちかえった戦利品を眺めた。それを見つめれば見つめるほど、感嘆の息が漏れた。この美しい絵を彼から奪ったという卑しい快感に酔いしれたのだ。蟻の足を毟ったときの様なそれに、僕は恍惚とした。そして誰にも見つからないようにベッドの下の玩具入れの中に隠した。


 もしかしたらタカさんは気付いていて、あえて言わなかっただけなのだろうか。僕が申し出るのを待っているのだろうか。時間が経つごとに、とりかえしのつかないことをしてしまった、という罪悪感がぴりぴりと僕の心を蝕んでいった。実際はただ、母に密告される事を恐れていただけかもしれない。遠い記憶の事だ、自分の都合の良いふうに火山してしまったのかもしれない。ただ、それは杞憂に終わる。タカさんは何も言ってこないばかりか、その日から姿を見せなくなったのである。恐る恐る彼の部屋を覗いてみても、彼どころかインコすらその姿を消していた。そして一週間もすると、僕は罪悪感などどこ吹く風で、そのことをすっかり忘れてしまった。同時に、僕はタカさんへの興味を失っていた。きっと心のどこかに残っていた罪悪感の残滓がそうさせたに違いない。いつしか僕は彼の部屋を盗み見るどころか、あの絵を眺めることすらしなくなった。




 僕が破り盗んだ絵の事を思い出したのは数ヵ月後の風のない雨の日のことだった。部屋で一人遊びをしているとき、ふいにその事が頭に浮かんだのだ。引っ張り出してみると、それは盗んだ時よりも幾分か色あせて見えた。タカさんの部屋を覗くと、電気が付いていたので彼がいるだろうということが予想できた。蒸し暑い日だったということもあり、窓も大きく開いていた。僕は何の気無しに絵をくしゃくしゃに丸め、重しとしてクレヨンを二つ入れてタカさんの部屋の中に投げ入れた。何の意図もない行動だった。軽いいたずら程度にしか思っていなかったと思う。いや、もしかすると、僕は無意識のうちにタカさんのことを見下していたという面はあったのかもしれない。そして時間と僕が子供であるということが、その罪を帳消しにしてくれていると思いこんでいたのかもしれない。それまた子供特有の万能感に起因していたのかまでは、わからないが。



 僕は窓から顔を出してタカさんの反応を待った。三十分も経った頃だろうか。彼の方から何かが僕の部屋へ投げ入れられた。


 それはあの盗んだ絵だった。なぜそっくりそのまま投げ返してきたのだろう、不審に思って僕は絵を開く。そして目を丸くする。中に入っていたのはクレヨンでは無かった。鳥の、それも彼が飼っていたインコの乾いた首であった。


 僕は叫び、それを窓から投げ捨てた。タカさんの怒りを感じて、許しを請うように母の元へ走った。タカさんが、タカさんが、泣き叫ぶ僕に母は言った。ああ、残念だったわよね、と。いつものように、悪意を含んだニュアンスで。そうして僕は初めて、数ヶ月前にタカさんが交通事故で亡くなっていた事を聞いた。それはちょうど僕が絵を盗んだ日だった。



 タカさんが死んでから15年が経った。僕は今彼が通っていた大学に通っている。構内でたまに彼に似た人をみかけても、目で追いかけたりはしない。彼はイーハトーブへ行ったのだ。そこできっと幸せに暮らしている。あの出来事は、そういうことでいいのだと思っている。





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― 新着の感想 ―
[一言] ぼんやり読んでいたせいかはじめボクっ娘とは気が付かず、それと知って、ならばクリムトというのもいい味出してるよなあと感じました。
2012/10/22 20:39 退会済み
管理
[良い点] 読みやすかったです。 [気になる点] あえて言うなら、出だしがもっと考えられているといいように思います。 [一言] 悲しい話ですね。偉そうに言いましてすみません。
2012/05/08 11:46 退会済み
管理
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