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雪の金沢で、清楚な恋人が“躾”を始めた――噂の悪男を追ったはずが、選別されるのは私でした

掲載日:2026/02/04

母から雪国の風情を昔から聞かされていたので 表現したいと思いました。

第一章 雪の朝、息白く


 金沢の冬は、人の心よりも先に息を白くする。


 夜のうちに降りしきった雪は、明け方の薄い光を受けて、路地という路地を柔らかく塞いでいた。石畳の凹みに白が溜まり、車輪の跡だけが灰色の筋となって残る。誰かが早起きして掃いたのだろう、家々の前には雪の山が小さく築かれ、その上に竹箒の筋が几帳面に走っていた。


 私は襟元を詰め、吐く息を一度だけ確かめるように白くした。息は一瞬、宙に花のように咲いて、すぐに消える。消えてしまうことが、こんなにも整然として見える日がある。


「未映子さん」


 背後から呼ばれて振り返ると、秩父幸生が、雪を踏む音を殺しながら近づいてきた。外套の肩に細かな雪がつき、髪にも白が散っている。彼はいつも、寒さの中でもどこか温い顔をしている人だった。


「お早う。雪はもう止んだようですね」


「お早うございます。けれど、今朝は道が滑ります。……足元を」


 幸生は言いながら、私の靴先の方へ視線を落とした。まるで手を伸ばして支えたいと言わんばかりの目つきで、しかし実際には一歩の距離を保っている。その慎みが、彼の誠実さなのだろうと私は思う。誠実さは、時として人を強くするが、同じだけ脆くもする。


「大丈夫。雪道は慣れております」


 私は笑ってみせた。笑うということは、相手に安心を与える。自分の中にあるものが何であれ、外側に出す形を選べばよい。そう思っているのが、私の癖だった。


 学校へ向かう通学路は、古い家並みの間を縫うように続く。朝餉の匂いがほのかに漂い、遠くで寺の鐘が低く響く。雪は音を吸い、町全体を一枚の綿で包んでいるようだった。人の声すら柔らかくなる。そういう日ほど、耳に入ってくる言葉は軽い。


 曲がり角を二つ越えたところで、女子たちの輪があった。姫路あきこ、裕理、夏子。どれも同じ学年で、口数の多い方の娘たちだ。彼女たちは私たちを見て、ひそひそと笑い、そしてわざとらしく声を落としながらも、落としきれていない調子で話を続けた。


「……だって、豚添ってさ」


 その名が雪の中に落ちた途端、幸生の肩がわずかに強ばるのが分かった。豚添――この頃、校内で妙に耳にする名である。顔を思い浮かべようとしても、輪郭が定まらない。噂は先に走り、人は後から追いつく。


「また女絡みだって。ほんと迷惑」


「ねえ、あの人、前から評判悪いよね」


「近づいたら損するって、うちの姉も言ってた」


 雪の白の中で、言葉だけが黒くはっきりと浮かぶ。私は歩調を変えずに通り過ぎる。関わるべきでない噂は、こちらから触れなければ、向こうからも形を持たない。少なくとも表面上は、そう装える。


 けれど、幸生の方は違った。彼はその名前を聞くと、途端に世の中の汚れを目の当たりにしたような顔をする。清いものを守るために汚れを憎む――その理屈は正しい。だが、正しさは、時に物を見誤る。


「……未映子さん、ああいう話は……耳に入れなくていい」


 歩きながら、幸生が言った。雪道で息が白くほどける。


「そういうものです。噂は、燃えやすい。炭のように」


「噂を……例えるなら、せめて花とかにしてください」


 少しだけ拗ねたように言って、幸生は自分で照れたのか咳払いをした。私は小さく笑う。彼の白い息が、私の白い息に混じって、短い雲になった。二つの息はすぐに分かれて消える。触れ合ったように見えて、結局は同じ形にはならない。


 校門が見える頃には、生徒の列が雪を踏み固め、道は黒い筋を帯びていた。教室に入ると、暖房の乾いた熱が頬を撫でる。窓硝子の外は白いままなのに、こちらの世界だけが別の季節に移ったような錯覚がある。


 昼休み、相馬支絵が私の机の横に立った。彼女は派手ではないが、いつも人の輪の中心から少しだけ外れたところにいて、しかし誰よりも多くのことを知っている。目立たぬように立ち、目立たぬように見て、必要な時だけ言葉を落とす。


「江見川さん」


「支絵さん。どうしました」


 支絵は周囲を一度見回し、声をさらに落とした。周囲が騒がしいほど、ひそめた声はよく通る。


「豚添のこと。……耳にしているでしょう」


「ええ。今朝も」


「噂はね、半分は本当で、半分は誰かの都合よ」


 支絵はそう言い、淡く笑った。笑みが薄いと、言葉が重くなる。


「それで、どちらが本当なのです」


「どちらも、って言うのが正しいのかもしれない」


 曖昧な答えを置いて、支絵は私の机の上、文庫本の端を指で軽く叩いた。まるで、ここから先は自分で読めと言うように。


「ねえ、江見川さん。あの人、近ごろ変なの。……誰かに、選ばれたい顔をしてる」


「選ばれたい顔」


「そう。頼る先を探してる。けれど、頼られた側が優しいとは限らないでしょう」


 支絵の言い方は、まるで私を試すようだった。私は視線を上げ、支絵の瞳を見る。支絵は、こちらを覗き込むでも避けるでもなく、ただ真っ直ぐに見返してくる。人の言葉の裏側を見ようとする目だ。


「支絵さんは、私が優しくないと?」


「優しい人ほど、怖い時もある」


 支絵はそれだけ言って、去っていった。机の上に残ったのは、私の息の白さではなく、胸の内に落ちた小さな冷えだった。暖房の熱があるのに、そこだけ雪が残っている。


 放課後、教室の窓から見る空は、薄鈍色に沈みかけていた。雪はまたちらつき、空が灰の粉を落としているように見える。帰り支度をしていると、かけこが私の席の近くに立っていた。彼女は小柄ではない。どちらかといえば身体に厚みがあり、常に肩を竦める癖がある。そのせいで、余計に自分を小さく見せようとしているのが分かる。


「……江見川さん」


 かけこの声は、まるで自分の存在を許可してもらうために出しているようだった。


「どうしました、かけこさん」


「あの……今日、寄ってもいいですか。……あの場所に」


 あの場所。彼女がそう呼ぶとき、それは彼女にとっての救いの場を指す。救いの場という言葉は美しいが、そこに行かなければ息ができないのなら、それは鎖にもなる。


「ええ。寄りましょう。ただし、雪道ですから、転ばないように」


「……はい。ごめんなさい」


「謝ることはありません」


 私は言い、外套の留め具を整えた。かけこは私の言葉を聞くたび、安心したように息を吐く。その息も白い。白い息は皆同じ色をしているのに、消え方は人によって違う。ある者はすぐに散り、ある者はしつこく残る。


 教室を出るとき、秩父幸生が廊下で待っていた。彼は私を見ると、ほっとしたように眉を緩めたが、その視線がかけこへ移ると、わずかに困った色を帯びた。


「未映子さん、一緒に……」


「ごめんなさい、幸生さん。少し用事が」


 私はさらりと言った。幸生はすぐに「そうですか」と頷いたが、その頷きは納得ではなく我慢だった。彼は私が何をしているか知りたいのだろう。けれど、知りたい気持ちを抑えてくれる。だから私は彼を楽に扱える。扱える、という言葉が冷たいなら、別の言い方をしよう――安心して距離を置ける。


「……気をつけて。雪がまた強くなる」


「ありがとうございます」


 私たちは廊下を曲がった。背中に残る幸生の気配が、しばらく尾を引いた。彼の白い息は、追いかけてくるようで、しかし決して触れてはこない。


 昇降口を出ると、風が頬を刺した。外は薄暗く、雪は細かな針のように舞っている。校舎の影が長く伸び、路地の白と交じって、町全体が水墨画のような濃淡になっていた。


 かけこは歩きながら、何度も裾を気にした。雪泥が跳ねるのが怖いのだろう。汚れることが、自分の価値をさらに下げるように感じる人がいる。私は黙って、彼女の歩幅に合わせた。


 息が白い。白い息が、二つ並んで夜へ溶ける。溶けるはずなのに、今日はなぜか、消え方が遅い。空気が重いのか、それとも――私の胸の内に、何かが引っかかっているのか。


 ふと、校舎の裏手へ続く通路の方を見た。人の少ない方角。雪に足跡がまだ浅く残る方角。立ち入る者の少ない場所には、理由がある。理由がある場所には、いつも物語がある。


 私はその方向から目を逸らし、かけこに言った。


「行きましょう。冷えます」


「……はい」


 かけこは、ほっとしたように頷いた。まるで私の言葉が道を決める唯一の標のように。


 歩き出すと、幸生の声はもう聞こえない。代わりに、雪が落ちる音だけが、しんと耳の奥に積もる。


 その静けさの中で、私は思った。

 この冬の金沢は、人の噂を白く包んでくれるだろうか。

 それとも――白く包むことで、却って黒を浮き立たせるだろうか。


 私の息は白い。けれど、その白さが何を隠しているのかを、まだ誰も知らない。


 その微笑みが、まだ雪よりも冷たいものを隠していることを、私は知らなかった。






第二章 炉端に流るる悪名


 噂というものは、暖を取る人の輪の中で、ひそやかに育つ。


 その日の放課後、私はかけこと連れ立って、校門から少し離れた町家風の茶屋へ入った。格子戸を開けると、湿った雪の匂いに混じって、炭の甘い匂いが鼻先に触れた。火鉢の熱は、暖房の乾いた温かさとは違う。熱の芯に、どこか湿り気がある。肌だけでなく、心の隙間まで温めようとするような――しかし、そこに長く留まれば留まるほど、何かを鈍らせてしまうような熱。


 座敷の隅に通されると、火鉢が置かれていた。朱塗りの縁の中で、炭が赤く光っている。火箸がきちんと揃えられ、灰の表面には波のような筋が引かれていた。整えられた灰を見ると、私はいつも、人の言葉もこれくらい整っていれば良いのにと思う。言葉は、乱れている方がよく燃える。


「……ここ、落ち着きます」


 かけこが、襟元を押さえながら呟いた。彼女の吐く息はもう白くない。代わりに頬が赤くなっている。外で縮こまっていた身体が、ようやく解けるのだろう。


「冷えましたね。お茶をいただきましょう」


 女中が湯気の立つ茶を置いていった。茶碗を包むと、指先がじんわりと戻ってくる。私はかけこの前に小皿を寄せ、菓子を勧めた。かけこは一瞬躊躇い、それから申し訳なさそうに頭を下げた。


「……私、こういうところ、似合わなくて……」


「似合うかどうかは、他人が決めることではありません」


 言うと、かけこは涙ぐむほど安堵した顔になる。彼女は、自分で自分の居場所を決めることが苦手だ。だから、誰かの言葉を必要とする。私はその必要を、よく知っている。


 火鉢の炭が、ぱちりと小さく鳴った。灰の中で赤い部分がゆっくりと広がる。火は、整えれば整えるほど長く保つ。噂も同じだ。燃えるための空気を与えられれば、いくらでも延びる。


「……江見川さん」


 かけこが、茶碗を両手で包んだまま言った。


「今日、皆が話してた……豚添さんのこと」


 その名が出た瞬間、座敷の空気がわずかに変わった。火鉢の熱は同じなのに、私の胸のどこかだけが冷える。人の名は、口に出すだけで意味を帯びる。


「……聞いていたのですか」


「聞こえちゃって。私、耳が悪いくせに、そういうのだけ……」


 かけこは自嘲する。自分を笑う癖は、彼女の鎧であり、同時に鎖でもある。


「皆、豚添さんのこと、悪く言うでしょう。……でも、悪い人って、そんなに簡単に悪くなれるんでしょうか」


 問いかけの形をしているが、答えはもう彼女の中にある。かけこは、悪い人間の話を怖がるのではない。悪い人間がいる世界で生きている自分を、怖がっている。


「簡単に悪くなる人もいます。けれど、簡単に悪いと決められる人もいます」


 私はそう返した。火鉢の炭が、また小さく音を立てる。


「……江見川さんは、豚添さんのこと、知ってるんですか」


「深くは。けれど、噂だけで人を裁くのは、私は好みません」


 好みません、と言うと、かけこはまた救われたような顔をした。その顔を見るたび、私は胸の内で淡く数える。言葉ひとつで、人はここまで変わる。だから言葉は、扱い方を誤ってはいけない。火箸のように。


 そのとき、廊下から賑やかな笑い声が聞こえてきた。襖越しに、女学生らしい声がいくつも混じる。声の主はすぐに分かった。姫路あきこたちだ。彼女たちの笑いは、火鉢の熱に似ている。温かいふりをしながら、油断したものを焼く。


「……いる」


 かけこが小さく呟いた。彼女は笑い声に怯える。自分が笑われる側に回ることを、いつも恐れている。


 襖が少し開き、女中が顔を覗かせた。後ろには、案の定、姫路あきこがいた。その隣に裕理、少し離れて夏子。三人は私を見つけると、わざとらしく目を丸くする。


「あら、江見川さん。ここ、よく来るの?」


「こんばんは。少し休みに」


 私が礼儀正しく頭を下げると、あきこは火鉢をちらりと見た。炭の赤が彼女の瞳に映る。


「ねえ、聞いた? 豚添の話」


 またその名だ。炭の火が、赤くなる。私は返事を急がず、茶を一口含んだ。


「噂は耳にします」


「噂じゃないかもよ?」


 裕理が言う。彼女は語尾が軽い。軽い言葉ほど、人を刺す。


「豚添ってさ、女を泣かせるの、得意なんだって。こわーい」


「泣かせる、というのは。何をもって?」


 私はあくまで丁寧に問う。言葉を整える。すると、相手の言葉の乱れが見えてくる。


 あきこは、火箸に手を伸ばした。火鉢のそばに座り、灰を軽く撫でる。すると、赤い炭が一瞬、強く光った。


「ほら、こういうの。ちょっとつつくと、すぐ燃えるでしょ。噂も同じ。燃えるってことは、火種があるってこと」


 火箸を持つ手つきが妙に慣れている。彼女は噂を扱うことに慣れている。私はその指先を見ながら思った。火箸は便利だが、握る者の性根で、火にも灰にもなる。


「火種がある、というのは。誰かが傷ついたということですか」


「そうそう。でね、その傷ついた子が、みんな口を噤んでるの」


 夏子が囁くように言った。夏子は声が小さい分、言葉が重い。小さな声で言われると、真実のように聞こえる。


「……口を噤む理由は、何だと」


 かけこが、思わず声を出した。自分でも驚いたのか、すぐ口元を押さえる。あきこはその様子を見て、笑った。


「さあねえ。弱み握られてるとか? 脅されてるとか? 世間って、そういうの好きでしょ」


 好きでしょ、の一言が、火鉢の熱の上に油を注ぐ。裕理がくすくす笑い、夏子が目を伏せる。かけこは青ざめた。


「……やめてください」


 私は静かに言った。声は低くも高くもない。ただ、温度を落とす。


「噂を楽しむのは、茶菓子と同じではありません」


 あきこは一瞬だけ眉を上げ、それから笑みを深くした。あきこは人の“正しさ”が嫌いではない。正しい人を、からかうのが好きなのだ。


「江見川さんって、そういうの嫌いなんだね。きれい。ほんと、きれい」


 きれい、という言葉は褒め言葉にも刃にもなる。私は微笑んだまま返す。


「私がきれいかどうかは、あなたが決めることではありません」


 あきこは、火箸で炭を少し動かした。赤が増える。火が息をする。


「でもさ、秩父くん、豚添のこと嫌いでしょ。江見川さんのこと、守りたいって顔してるもん」


 秩父幸生の名が出た途端、私は一瞬、茶碗を持つ指先に力が入るのを感じた。幸生は、確かにそういう顔をする。あれは誠実さだ。だが誠実さは、噂に弱い。火に近づけば焼ける。


「幸生さんのことは、あなたの憶測です」


「憶測って言うけどさ、見れば分かるよ」


 裕理が肩を竦めた。


「だって秩父くんって、江見川さんのこと、好きでしょ?」


 かけこが息を呑む音がした。襖の外の廊下が急に遠くなる。火鉢の赤が、視界の端でちらついた。


「……そういうことは、勝手に言うものではありません」


 私が言うと、あきこは肩を揺らして笑った。


「きゃー、怒った。こわ。ねえ、江見川さんって、ほんとは怖いんじゃない?」


 怖い、という言葉が落ちた瞬間、炭がぱちりと音を立てた。まるで、その言葉を喜ぶように。私は火鉢を見た。赤い炭は、灰に覆われながらも確かに燃えている。覆われているからこそ、長く。


「怖いのは、噂を楽しむ人の方です」


 私は淡々と告げた。あきこは一瞬黙り、それから鼻で笑う。


「まあいいや。江見川さんが嫌なら、もう言わない。でもね、豚添はほんとにやばいって話。江見川さんの周りにいたら、秩父くんも巻き込まれるよ?」


 巻き込まれる、という言葉は親切の形をしている。親切の形をした言葉ほど、たちが悪い。私は返事をしなかった。返事をしないのもまた、言葉の扱い方だ。


 しばらくして、あきこたちは襖の外へ引いた。女中が丁寧に襖を閉めると、座敷はまた私たちだけのものになった。


 かけこは、膝の上で指を握りしめていた。


「……江見川さん。私、怖いです。噂が。人の目が。自分が……」


「大丈夫です」


 私は言った。大丈夫、という言葉は、炭の赤を覆う灰のようなものだ。すぐには燃え上がらせない。急な火を抑える。


「あなたが怖いのは、噂ではありません。噂にあなたが焼かれることです」


 かけこは涙を浮かべ、何度も頷いた。彼女は、誰かの言葉で生き延びる。だから、私の言葉は効く。効いてしまう。効いてしまう言葉は、いつか必ず責任になる。


 私は火鉢の火箸を取り、炭の位置を少し整えた。赤が弱まり、灰の白が増える。部屋の空気が、少しだけ落ち着く。


 そのとき、廊下を静かな足音が通った。笑い声とは違う。硬い足取り。私は耳を澄ませた。襖の向こうで止まる気配があり、やがて低い声が聞こえた。


「……江見川未映子、ここにいるのか」


 男の声だった。聞き覚えがあるわけではないが、語尾に棘がある。火鉢の炭が、また小さく鳴った。


 襖が開き、悪原類が顔を覗かせた。背が高く、外套の襟を立てている。目が鋭く、笑っていないのに笑っているように見える人だ。彼は私を見つけると、口角だけを上げた。


「相変わらず、いいところで火を飼ってるな」


「……悪原さん。どういうご用ですか」


「用なんて、いつでも作れる」


 悪原は座敷に上がり込むでもなく、敷居に立ったまま言った。


「豚添の噂、聞いてるだろ」


「聞いております」


「噂ってのはな、火鉢みたいなもんだ。炭が悪いんじゃない。火箸を握る手が悪い」


 私は、火箸を見た。手元の火箸は静かだ。だが悪原の言葉は、火を煽る。


「……何が言いたいのです」


「お前が、火箸を握る側だって話だよ」


 かけこが震えた。私は視線を悪原に戻す。


「誤解です」


「誤解ならいい」


 悪原は薄く笑った。


「だがな、誤解ってのは、正しく説明した方が負けるんだ。雪国じゃ特に。誰も立ち止まって聞かない。寒いからな」


 その言葉が、妙に金沢の冬に馴染む。悪原は続けた。


「豚添がどうこうじゃねえ。あいつは、ただの炭だ。問題は、誰が火を入れて、誰が灰をかぶせて、誰が長持ちさせるかだ」


「私は、火を入れていません」


「へえ」


 悪原は目を細めた。


「じゃあ聞く。江見川未映子。お前は、誰を守って、誰を捨てる」


 座敷の空気が、冷える。火鉢の熱があるのに、言葉が冷たい。私はゆっくりと茶碗を置いた。


「私は、捨てません」


 それは嘘ではない。捨てない。捨てないが――拾い方には、いくらでも形がある。


 悪原はその返事を聞くと、満足そうに頷いた。


「そうか。なら、なおさら気をつけろ。捨てないってのは、美しいが、重い」


 彼はそれだけ言って去っていった。襖が閉まると、炭がぱちりと音を立て、赤が一瞬強くなった。まるで、今の会話を聞いていたかのように。


 かけこが、恐る恐る言った。


「……江見川さん。あの人、怖いこと言いました」


「怖いことを言う人ほど、分かりやすいのです」


 私は火箸で灰を整えた。波の筋ができる。整える。整えるのは好きだ。乱れたものが落ち着くのを見ると、安心する。


 しかし、安心というものは時に、誰かの自由を奪う。


 茶屋を出ると、雪は少し強くなっていた。町の灯が滲み、路地は白い膜に覆われる。私の吐く息はまた白くなり、夜へ溶ける。白い息は消える。けれど、消えたはずの言葉は、胸の内に残る。


 悪原の問いが、火鉢の赤のように、灰の下で熱を持ったままくすぶっていた。


 ――守って、捨てる。


 私は雪の中を歩きながら思った。守るとは、外側の風を防ぐことだ。捨てるとは、外へ放ることだ。ならば、外へ出さずに内へ留めることは、守りだろうか。それとも――別の名で呼ぶべきものだろうか。


 背後で、かけこが小さく咳をした。私は歩幅を少し落とす。彼女が寒さに置いていかれぬように。そうするのが、私にとって自然だ。


 自然なことが、いつか人を縛る。


 雪は静かに降り続け、足元の跡を薄く覆いはじめた。歩いた証が消えていくのは、罪が消えていくことと似ている。けれど罪が消えるのではない。見えなくなるだけだ。


 悪名は彼に集まったが、視線は別の場所から逸らされていた。






第三章 卑屈なる女、かけこ


 人は、自分を軽んじる言葉ほど、易々と口にしてしまう。


 雪は止んでいたが、空は依然として低く、町全体が白い溜め息を吐いているようだった。昼を少し過ぎた金沢の路地は、朝ほどの張り詰めた冷えを失い、代わりに濡れた雪泥が重たく靴裏に絡みつく。踏み出すたび、ぬるりとした感触があり、気を抜けば足を取られそうになる。


 私は歩幅を抑え、後ろを振り返った。


 かけこは、やはり少し遅れていた。身体が重いからではない。重いのは、彼女自身が自分に課している遠慮だ。人の歩調に合わせようとするあまり、自分の歩き方を忘れてしまった人の足取りだった。


「大丈夫ですか」


 声をかけると、かけこははっとしたように顔を上げ、すぐに俯いた。


「だ、だいじょうぶです。私、歩くの遅くて……ごめんなさい」


 謝罪は、彼女の呼吸のようなものだ。息を吸って、吐く。そのたびに、謝る。謝らなければ、ここにいてはいけないと思い込んでいる。


「遅くはありません。道が悪いだけです」


 そう言っても、かけこは首を横に振る。


「いえ、私が……私、昔から、何をしても鈍くて……」


 雪泥が、かけこの裾に跳ねていた。濃い色の布に、汚れがまだらに浮く。彼女はそれに気づくと、慌てて手で払おうとしたが、かえって広げてしまう。私は立ち止まり、そっと彼女の前に回った。


「動かないで」


 かけこは、言われたとおり、ぴたりと止まった。私は外套の袖口で、彼女の裾についた雪泥を軽く払った。完全には落ちない。だが、目立たなくはなる。


「……ありがとうございます」


 かけこは、泣きそうな声で言った。


「こんな……汚いの、触らせてしまって……」


「汚れているのは、布です。人ではありません」


 そう言うと、かけこは一瞬、言葉を失ったように口を開けたまま私を見た。それから、ゆっくりと目を伏せる。


「……そう、思えたら、楽なんでしょうね」


 彼女の声は、雪解け水のように弱々しい。自分で自分を責める言葉を、長年、何度も繰り返してきた人の声だ。


 かけこと初めて会った日のことを、私は思い出していた。


 あの日も、雪が降っていた。校舎の裏手、人気のない通路で、彼女は誰にも見られぬように立っていた。肩をすぼめ、壁と一体化しようとするかのように。私はただ通りかかっただけだったが、彼女の視線が、助けを求めるというより、存在を許してほしいと訴えているように見えた。


「そこ、滑りますよ」


 あの日、私はそれだけ言った。それだけで、かけこは泣いた。泣いて、何度も頭を下げた。私は驚いたが、同時に理解した。この人は、誰かに声をかけられること自体が、救いなのだと。


 今も同じだ。


 人は変わるようで、変わらない。変わるのは、依存する相手だけだ。


 私たちは路地を抜け、少し古い木造の家屋が並ぶ一角へ入った。かけこが「あの場所」と呼ぶ、小さな空き家だ。使われなくなった離れで、持ち主も曖昧なまま、近所の人々も見て見ぬふりをしている。人の視線が届かない場所には、安心がある。


 戸を開けると、ひんやりとした空気が流れ出た。中は簡素だが、掃除は行き届いている。私が、そうしているからだ。


「座りましょう」


 かけこは、畳の縁に恐る恐る腰を下ろした。中央には小さな火鉢があり、灰はきれいに整えられている。私は炭を足し、火箸で位置を調整した。炭が赤くなり、室内にじわりと熱が広がる。


「……ここ、落ち着きます」


 昨日も、彼女は同じことを言った。今日も言う。明日も、きっと言うだろう。


「ここは、人が少ないですから」


「はい……。私、人がたくさんいると……自分が、邪魔なんじゃないかって」


「邪魔だと言われたのですか」


「いえ……言われたわけじゃ……」


 かけこは言葉を濁し、膝の上で指を絡めた。


「でも、そういう目で見られてる気がして……私、太ってるし、鈍いし……」


 卑屈な言葉が、彼女の口から滑り落ちる。まるで、吐き出さなければ呼吸できないかのように。


「……私、どうして生きてるんだろうって、考えることもあって……」


 私は火箸を置き、かけこの方を見た。


「生きる理由は、考えるものではありません」


「え……」


「理由は、後から付くものです」


 かけこは、きょとんとした顔で私を見る。


「今は、ここにいる。それで十分です」


 その言葉は、かけこにとって、呪文のように効く。彼女の肩が、少しだけ下がった。


「……江見川さんは、どうして、私に……こんなに……」


 言いかけて、かけこは口を噤んだ。続きを言うのが怖いのだ。自分が特別だと勘違いしてしまうのが。


「どうして、何でしょう」


 私は敢えて問い返した。彼女に答えを与えない。自分で考えさせる。


「……私、何も持ってないのに」


「持っていない人ほど、守りやすいのです」


 言ってから、私は少しだけ間を置いた。言葉の意味が、ゆっくりと彼女に染み込むのを待つ。


「……守って、もらっていいんですか」


 かけこの声は、かすれている。涙が喉に詰まっているのだろう。


「その代わり」


 私は続けた。


「私の言うことを、聞けますか」


 かけこは、迷わなかった。


「……はい」


 即答だった。迷いがないことが、危うい。


「疑問に思っても、勝手に動かない」


「はい」


「不安なときは、必ず、私に言う」


「はい……!」


 声が震えている。だが、それは恐怖ではなく、安堵だ。条件を与えられることが、彼女には安心なのだ。自由よりも、枠の方が。


 私は立ち上がり、棚から細い布紐を取り出した。淡い色の、装飾のないものだ。


「これを」


 差し出すと、かけこは驚いたように目を見開いた。


「……首に、ですか」


「ええ。ただの飾りです。お守りのようなもの」


 かけこは、しばらく迷ったあと、ゆっくりと頷いた。


「……自分で、結べなくて……」


「構いません」


 私は彼女の背後に回り、布紐を首に回した。指先で結び目を作る。強くは締めない。抜けない程度に。


「……あ」


 かけこは、小さく息を漏らした。その息が、少しだけ白い。室内は温まっているはずなのに。


「苦しくありませんか」


「いえ……不思議と……落ち着きます」


 その言葉を聞き、私は頷いた。予想どおりだ。


 人は、自分を縛るものを与えられると、安心することがある。特に、自分で自分を縛ってきた人間は。


「これを着けている間は、あなたは私の管理下です」


 管理、という言葉を、私はあえて使った。優しい言葉に言い換えなかった。かけこは、それでも頷いた。


「……はい」


 その目は、信頼に満ちている。信頼は、刃にもなる。


 外で、風が吹いた。戸がきしみ、遠くで誰かの足音がした。かけこは、はっとしたように肩をすくめる。


「……誰か、来ますか」


「来ません」


 私は即答した。この場所は、私が選んだ。人が来ないことも、含めて。


 かけこは、その言葉にすがるように目を閉じた。


「……江見川さんがいるなら……私、大丈夫です」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で、何かが静かに定まるのを感じた。


 この人は、私がいなければ立てない。立てないから、私の言葉を信じる。信じるから、従う。


 それは、救いだろうか。支配だろうか。


 どちらでもいい。重要なのは、彼女が安心しているという事実だ。


 火鉢の炭が、赤く光る。灰に覆われながらも、熱を失わない。覆うことで、長く燃える。


 私は火箸で灰を整えながら、静かに思った。


 ――人は、汚れた裾を払ってもらうたびに、自分で歩く力を忘れていく。


 かけこは、私の前で、安らかな顔をして座っている。首元の布紐が、静かに揺れた。


 卑屈なる女は、今日も救われたと思っている。


 その首に、何が結ばれたのかを、まだ知らないまま。






第四章 疑念は薄氷のごとく


 信じる心に浮かぶ疑いは、割れるまでは見えぬものだ。


 朝の金沢は、前夜の名残を抱いたまま静まり返っていた。空は鈍色に澱み、雲の底が低い。雪は降っていないが、路地の水たまりには薄く氷が張り、歩くたびに靴底が軋む。踏めば割れる。だが、割れると分かっていても、避けるとは限らない。人は、確かめたいのだ。どれほど薄いかを。


 秩父幸生は、校門の前で足を止め、水たまりの縁を見つめていた。氷は、今にも砕けそうなほど脆く、しかし表面は不思議なほど滑らかだった。彼はしばらく逡巡し、結局、そこを跨いだ。割れる音はしなかった。胸の奥で、安堵と失望が同時に広がる。


 教室に入ると、暖房の音が単調に響いていた。幸生は席に着き、窓際の席――江見川未映子の机を見やる。彼女はまだ来ていない。外套を脱ぎ、整えた髪、穏やかな微笑。思い浮かべるたび、胸が温む。だが、その温もりの下に、冷たいものが沈んでいるのを、彼は否定できずにいた。


 ――噂。


 それは、炭の火のように、じわじわと燃え広がる。誰かが息を吹きかけるたび、赤くなる。彼が耳にした噂は、決して具体的ではなかった。名前、場所、日付。どれも曖昧だ。ただ、「豚添」という名と、「よくないこと」という輪郭だけが、奇妙に一致していた。


 未映子は、噂を否定もしなければ、積極的に遠ざけることもしない。そこが、彼には気がかりだった。否定してほしいわけではない。遠ざけてほしいわけでもない。ただ――彼女が、何を考えているのかを知りたかった。


 授業が始まり、板書が進む。幸生の視線は、何度も窓へと逸れた。外では、薄氷の張った水たまりが、朝の光を鈍く反射している。割れないまま、形だけを保つ氷。その下には、水がある。流れるものがある。


 休み時間、姫路あきこが、わざとらしく幸生の机の前に立った。


「秩父くん、元気ないね」


「……そう見える?」


「うん。なんか、考えごとしてる顔」


 あきこは、机の縁に腰を預け、くるりと髪を指に巻いた。彼女の笑顔は、明るく、しかしどこか刺々しい。


「江見川さんのこと?」


 幸生は、答えなかった。否定も肯定もせず、ただ視線を落とす。それが、彼の誠実さだった。


「ねえ、忠告しとくけどさ」


 あきこの声が、少しだけ低くなる。


「噂って、全部が嘘じゃないよ」


「……噂は、噂だろ」


「そう言う人ほど、後で後悔するんだって」


 あきこは、楽しそうに言った。彼女にとって、言葉は遊具だ。乗って、揺らして、飽きたら離れる。


「豚添のこと、ほんとにやばいって。でね、江見川さん、あの人と関わってるでしょ?」


 幸生は、思わず顔を上げた。


「……関わってる?」


「だって、最近、放課後よく一緒にいない?」


 その言葉が、胸に落ちた。音はしない。だが、ひびが入る。


「……それは、用事があるだけだ」


「ふうん」


 あきこは意味ありげに笑い、立ち上がった。


「まあ、いいや。忠告はしたから。後で泣かないでね」


 去り際の言葉が、薄氷の上に置かれた重石のように感じられた。割れるかどうかは、まだ分からない。


 昼休み、幸生は廊下を歩きながら、未映子の姿を探した。彼女は、相馬支絵と並んで歩いていた。二人は静かに話している。未映子は頷き、時折、微笑む。いつもの、穏やかな表情だ。だが、その穏やかさが、今日は遠く感じられた。


「……秩父さん」


 支絵が、幸生に気づいて声をかけた。


「江見川さんを、探している?」


「……ああ」


 未映子は、幸生を見て、軽く会釈した。その仕草に、違和感はない。いつもどおりだ。だからこそ、幸生の胸はざわつく。


「何か、用事ですか」


「いや……」


 言葉が続かない。用事はない。ただ、確かめたいことがある。だが、それをどう言えばいいのか分からない。


 支絵は、二人の間に流れる沈黙を、少しだけ眺めたあと、静かに言った。


「噂に、振り回されている顔をしている」


 幸生は、はっとした。


「……支絵さんは、噂を信じるのか」


「信じるかどうかより」


 支絵は、言葉を選ぶ。


「噂が生まれる場所を見る。そこに、何があるかを見る」


「……何が、ある」


「欲と、恐れ」


 支絵はそれだけ言うと、未映子に視線を向けた。


「江見川さんは、恐れをよく知っている人よ」


 未映子は、その言葉を否定しなかった。肯定もしない。ただ、幸生を見つめ返す。その視線は、澄んでいる。澄みすぎて、底が見えない。


「……幸生さん」


 未映子が、柔らかく言った。


「何か、気になることがありますか」


 彼女は、問いを与える。答えを急かさない。幸生は、その優しさに甘えてしまう。


「……噂を、聞いた」


「そうでしょう」


「それで……」


 言葉が、喉で凍る。薄氷の上に、足を乗せる感覚。


「君は……危ないことに、関わっていないか」


 未映子は、一瞬だけ瞬きをした。ほんの僅かな間。だが、幸生には、それが永遠のように感じられた。


「危ない、とは」


「……よくない噂のある人間と、関わることだ」


 言ってしまった。薄氷が、きしむ音が、胸の内で響く。


「噂で人を判断するのは、私は好きではありません」


 未映子の声は、穏やかだった。


「それに、誰が危ないかは、立場で変わります」


「……立場?」


「守る側か、守られる側か」


 未映子は、静かに言った。


「あるいは、選ぶ側か、選ばれる側か」


 その言葉に、幸生は言い返せなかった。彼は、守る側でありたいと思っていた。だが、選ぶ側である自覚はない。


「……君は、どちらだ」


 問いは、彼自身に返ってくる。


 未映子は答えなかった。その代わり、微笑んだ。その微笑みは、安心を与える。だが同時に、距離を保つ。


「放課後、用事があります」


 彼女はそう言い、視線を外した。


「今日は、先に帰ってください」


 幸生は頷いた。頷くしかなかった。彼女の言葉は、拒絶ではない。だが、許可でもない。境界線だ。


 放課後、幸生は校舎を出た。空は早くも暗くなり、雪の気配が戻ってきている。足元の水たまりは、昼のうちに溶けかけた氷が、再び薄く張り始めていた。昼よりも、さらに薄い。今なら、割れる。


 彼は立ち止まり、足を伸ばした。氷に触れる直前で、躊躇う。割れたら、戻れない。割れなければ、何も変わらない。


 ――確かめたい。


 その衝動が、彼を動かした。


 校舎の裏手へ回る。人の少ない通路。未映子が、時折、視線を向けていた方向。雪は、音を吸う。足音が、自分のものかどうか分からなくなる。


 彼は、遠くに人影を見た。未映子だ。隣に、かけこの姿もある。二人は、静かに歩いている。会話は聞こえない。ただ、距離が近い。近すぎる、と幸生は思った。


 胸が、冷える。薄氷が、軋む。


 追いかけるべきか。声をかけるべきか。彼は迷った。迷っている間に、二人は角を曲がり、見えなくなる。


 幸生は、しばらくその場に立ち尽くした。風が吹き、粉雪が舞う。足元の水たまりが、わずかに震えた。


 ぱきり。


 小さな音がした。彼の足先の氷が、割れたのだ。水が滲み、靴底が冷たく濡れる。冷えが、足から心臓へと上がってくる。


 ――割れた。


 それは、些細な出来事だった。だが、彼にとっては、境界を越えた合図だった。


 彼は、決めた。


 未映子が、どこへ行くのか。何をしているのか。確かめる。守るために。そう、彼は自分に言い聞かせた。守るためだ。疑うためではない。


 だが、疑いはもう、薄氷の下で流れている。流れは止まらない。


 雪が、再び降り始めた。割れた氷の上に、白が積もる。割れ目は、すぐに見えなくなる。


 見えなくなっただけだ。消えたわけではない。


 疑念は、薄氷のごとく。割れるまでは、静かにそこに在り続ける。






第五章 立入禁止の倉にて


 雪に閉ざされた場所ほど、人は理由をつけて近づいてしまう。


 夕刻の校舎は、昼間の喧噪を嘘のように引き、柱時計の針の音だけがやけに大きく感じられた。廊下の板張りは冷え、踏みしめるたびに乾いた軋みが返る。窓硝子の外は、淡い薄墨を溶かしたような空で、雪は細かな粉となって舞っていた。灯りの下を通るたび、その粉雪が黄金色に光り、次の瞬間には闇に呑まれて消える。


 秩父幸生は、誰に見られているでもないのに、呼吸を抑える癖がついてしまっていた。息を吐けば白くなる。白い息は、夜の闇に紛れるようでいて、実は目立つ。雪の中では、すべてが白いからこそ、白は輪郭を持つ。


 ――守るためだ。


 自分にそう言い聞かせながら、彼は校舎の裏手へ回った。通路は狭く、壁に沿って風が走る。誰もいないはずなのに、誰かがいるような気配がする。雪は音を吸い、静けさだけが残る。静けさが残ると、心の中の音が大きくなる。


 遠く、かすかな足音がした。幸生は足を止め、壁際に身を寄せる。隠れるという行為は、罪を作る。だが今の彼は、その罪を自覚しながら、なお隠れた。


 足音は近づき、やがて影が通り過ぎる。江見川未映子と、かけこだった。未映子は外套の襟をきちんと整え、雪の中でも姿勢が崩れない。かけこは肩をすぼめ、足元ばかり見て歩いている。二人の距離は近い。近すぎる、と幸生は思う。


 だが、二人は言葉を交わさない。言葉のない親しさは、時に言葉よりも深い。幸生はその沈黙に、妙な恐ろしさを覚えた。


 未映子がふと立ち止まり、周囲を見回した。幸生は息を止める。未映子の視線が、廊下のこちら側へ向いたような気がした。だが彼女は何も言わず、かけこに小さく合図をして歩き出す。二人は校舎の裏手を抜け、敷地の隅へ向かっていった。


 敷地の隅。


 そこは、人が寄りつかない場所だ。校舎の陰が伸び、雪は踏み固められず、ただ積もる。古い用具入れがひとつ残っている。木造で、扉は歪み、金具は錆びている。近いうちに撤去されると聞いた。危ないから立ち入り禁止。そう札が下がり、縄が張られている。


 立入禁止の縄。


 それはただの麻縄ではないのに、幸生には注連縄めいたものに見えた。境界を示す縄。越えた瞬間、こちら側の世界には戻れない。


 二人は、その縄の前で止まった。未映子は躊躇なく縄へ手を伸ばし、結び目をほどく。ほどく手つきが、慣れている。かけこは、戸惑いながらも従った。縄が外れ、入口が開く。


 幸生の胸が、薄氷のようにきしむ。


 ――なぜ、そこへ行く。


 問いは、答えを求める形をしていない。問いを立てた時点で、彼の中では何かが決まりかけている。確かめたい、という欲が。疑いが。恐れが。


 二人が中へ入ったのを見届けてから、幸生はゆっくりと歩き出した。雪は足跡を飲み込み、歩いた痕はすぐに薄くなる。それが救いのようでもあり、脅しのようでもある。痕跡は残らない――だから何をしてもいい、という囁きが耳の奥で鳴る。


 縄の前まで来ると、幸生は立ち止まった。立入禁止の札が風に揺れ、擦れた文字が目に刺さる。


 危険。近寄るな。入るな。


 当然だ。ここへ入るべきではない。入る資格もない。彼は“守る”と口にしたが、それは正しさの衣を着た自分の欲だと、薄々分かっている。


 それでも足が動くのは、何かを失う予感があるからだ。予感はいつも、正しさより強い。


 幸生は縄を跨いだ。


 その瞬間、雪の音が消えた気がした。世界から切り離されたように、耳が詰まる。彼は用具入れの扉へ近づく。木は湿り、冷えている。指先が痛む。錆びた金具に触れると、鉄の冷たさが骨まで染みる。


 扉は完全には閉まっていない。隙間がある。誰かが、出入りしたばかりなのだろう。


 幸生は、息を吸った。


 白い息が、薄暗い隙間へ吸い込まれる。吸い込まれ、消える。彼の胸は、妙に静かだった。静かすぎて、心臓の音が聞こえる。


 耳を澄ます。


 最初は、何も聞こえない。雪が音を吸う。木が軋む。遠くで風が鳴る。


 だが、次の瞬間。


 ――かすかな気配。


 息づかいのようなもの。布が擦れるような音。何かが、一定の間隔で当たる音。乾いたようで湿った音。用具入れの中で、何かが行われている。


 幸生の喉が鳴った。唾が飲めない。現実が、想像より先に迫ってくる。


 彼は、扉に手をかけた。


 開ければ終わる。開ければ戻れない。だが開けなければ、彼はこの薄氷の上で永遠に揺れる。


 彼は、押した。


 扉は軋み、ゆっくりと開く。冷気が流れ出し、暗がりが口を開ける。中は薄暗く、窓もほとんどない。埃の匂いと、湿った木の匂い。そこに混じる、炭のような匂い。外の冷えとは違う、こもった熱の匂い。


 幸生は一歩、踏み込んだ。


 暗がりの中に、かすかな灯りがあった。小さな行灯か、蝋燭か。炎が揺れ、影が揺れる。影が揺れると、人の輪郭も揺れる。


 そして、見えた。


 床に敷かれた古い敷物。そこに、誰かが跪いている。誰かが、縄で縛られている――と幸生は一瞬思った。だがすぐに違うと分かる。縛られているのは、彼の想像していた“誰か”ではなかった。


 豚添が、そこにいた。


 噂の男。女を泣かせる、卑劣だと囁かれる男。彼は、床にうつ伏せに近い形で、身を縮めていた。肩が震えている。顔は見えない。声も、言葉にならない。


 そして、そのすぐ傍らに――未映子がいた。


 未映子は乱れていない。外套を脱ぎ、着物の袖を邪魔にならぬように留め、静かに立っている。その姿は、雪の朝の彼女と同じだった。違うのは、目の奥の光だ。温かくも冷たくもない、ただ、迷いのない光。


 かけこは、少し離れたところに座っていた。膝を抱えるようにし、息を潜めている。彼女の首元には、淡い色の布紐が見えた。あの紐だ、と幸生は気づいた。彼女が、未映子に与えられた“お守り”。


 豚添の背に、何かが当たる音がした。ぱし、と乾いた音。豚添の身体がびくりと跳ねる。苦しみなのか、何かなのか、幸生には判別できない。ただ、音だけが、妙に規則正しい。


 幸生の頭は白くなった。


 これは、何だ。何を見せられている。彼は守るために来たはずだ。だが、ここにいるのは、守られるべき未映子ではない。未映子は、守る側の顔をしている。


 幸生の足元で、木片が小さく鳴った。


 ぱきり。


 薄氷が割れる音に似ていた。世界が、こちらを向いた。


 未映子が顔を上げる。


 その視線が、暗がりを貫いて、幸生を捉える。逃げられない。隠れられない。捕まった、という感覚が、胸の奥で確かに形を持った。


「……幸生さん」


 未映子の声は、外の雪と同じくらい静かだった。けれど、その静けさが逆に怖い。怒っているのではない。驚いてもいない。ただ、予想していた者の声だ。


「どうして、ここへ」


 責める口調ではない。責めるよりも、確認だ。確認の言葉ほど、人を縛る。


 幸生は言葉が出なかった。喉が凍っている。白い息が出ない。出せば、負ける気がした。


 豚添が、微かに身じろぎした。呻きのような声が漏れる。かけこは、息を呑み、未映子の方を見た。まるで許しを乞うように。


 未映子は、幸生から視線を外さずに言った。


「……怖がらなくていいのよ」


 その言葉が、幸生には自分に向けられたものなのか、豚添に向けられたものなのか、分からなかった。分からないことが、恐ろしい。


「これは、躾です」


 未映子が淡々と言った。


「躾……?」


 ようやく、幸生の口から声が出た。情けないほど掠れている。未映子は頷く。


「人は、枠がないと壊れます」


 彼女の言葉は、雪のように綺麗だ。綺麗だからこそ、毒を含む。


「枠……」


 幸生は、踏み出そうとした。未映子の近くへ。豚添を止めるために。かけこを救うために。理由はいくつも作れる。だが、足が動かない。立入禁止の縄を跨いだ瞬間から、彼の脚はこの場のものになってしまったようだった。


 未映子が一歩、近づいた。灯りが揺れ、彼女の影が伸びる。影は床を這い、幸生の足先へ触れた。触れた瞬間、ぞくりと寒気が走る。影に触れられただけで、こんなに冷えるのか。


「幸生さん」


 未映子は、優しく呼んだ。優しさの中に、拒否がない。拒否がないから、逃げ場もない。


「あなたは、何を見に来たの」


 幸生は答えられない。見に来たのは、未映子の無事だ。だが無事とは何だ。彼女は無事だ。見たところ、何も乱れていない。では彼は、何を恐れている?


 恐れているのは、未映子が“自分の知らない未映子”であることだ。


 その時、入口の方で、風が唸った。扉が、ぎい、と音を立てた。誰かが押したわけではない。風が、閉めたのだ。


 扉は、閉まった。


 ぱたん、と鈍い音が響く。灯りが揺れ、影が揺れる。出入口が消えるだけで、人はこれほど息苦しくなる。幸生は思わず振り返り、扉へ近づこうとした。


「だめ」


 未映子の声が止めた。短い一言。命令に近い。


 幸生は動きを止めた。止まった自分に、愕然とする。なぜ止まる。なぜ従う。彼女は恋人ではない。幼馴染でもない。ただ、同じ学校に通う、穏やかな女学生だ――そう信じてきた。


 未映子は、幸生の前に立った。近い。息が当たるほど近い。だが彼女の息は、白くない。室内が温かいせいだけではない。彼女の呼吸は乱れていないのだ。


「幸生さんは、優しい」


 未映子が言う。


「優しい人は、勝手に傷つく」


 言葉が、胸を刺す。正しいことを言われると、人は反論できない。


「あなたは、守りたいのね」


 未映子は続けた。


「守るべきものを、決めたいのね」


 幸生は首を振りたかった。違うと言いたかった。だが、喉が動かない。


 背後で、豚添の背にまた乾いた音が当たった。ぱし、ぱし、と規則正しい。まるで時刻を刻むように。かけこは目を閉じ、唇を噛みしめている。泣いているのか、祈っているのか、分からない。


 未映子は、幸生の視線の先を一度だけ見て、それから微笑んだ。


「噂はね」


 彼女の声は静かだ。


「火鉢みたいなもの。赤くなったところだけ見て、怖がる人がいる。でも、灰の下は見ない」


 幸生は震えた。彼女が、昨夜の火鉢の話を続けていることに気づく。彼女の中では、全部が繋がっている。噂、火、灰、枠、躾――そして、人。


「私は、燃え上がらせない」


 未映子が言った。


「長く保たせる」


 それは、守りの言葉にも聞こえる。だが同時に、閉じ込める宣言だ。


 幸生の胸の中で、薄氷が音を立てた。ぱき、と小さく。割れ目が広がる。信じていたものが割れる。だがまだ、水面は崩れきらない。崩れきらないから、余計に怖い。


「幸生さん」


 未映子が、最後に言った。


「ここへ来たのなら、あなたも――順序を守って」


 順序。


 その言葉が、縄の結び目のように、幸生の心に絡んだ。順序を守れば、助かるのか。順序を守らなければ、どうなるのか。


 答えは、未映子の目の奥にある。だが、底が見えない。


 幸生は、ただ立ち尽くすしかなかった。


 扉の外では雪が降り続けている。雪は音を吸い、足跡を消し、立入禁止の縄を白く染める。ここで起きることは、誰も知らない。知らないから、止める者もいない。


 そして、幸生自身が、その無音の中へ踏み込んでしまった。


 扉の向こうで何が起きているかを知ったとき、引き返す理由はもう失われていた。





第六章 主と従、逆さまの影


 世に悪と呼ばれる者が、必ずしも刃を握っているとは限らない。


 用具入れの中は、外よりも暗く、外よりも静かだった。雪が音を吸い、闇が息を呑み、そして人の鼓動だけが妙に生々しく響く。秩父幸生は、己の胸の中で鳴るその音が、どこか他人のもののように感じられていた。ここへ来たのは自分だ。扉の前に立ち、縄を跨ぎ、手を伸ばしたのも自分だ。それでも――この場の空気は、彼の意志を薄い紙のようにしてしまう。


 灯りは小さかった。行灯の火が揺れ、影が壁に波のように這う。影が揺れるたび、見えているものの輪郭が変わる。真実も同じだ、と思った。輪郭はいつだって光の側が決める。


 江見川未映子は、そこにいた。


 乱れはない。息も乱れていない。彼女の着物の袖は控えめに留められ、髪はきちんと結われ、白い指先だけが闇の中に浮いている。雪の朝の彼女と変わらぬはずなのに、幸生はその姿を見た瞬間、ひどく息が詰まった。変わってしまったのは、彼の眼の方なのだ。


「……順序を守って」


 未映子が言った言葉が、まだ耳の奥に残っている。順序。順序とは何だ。ここで起きていることには、そんなに整った名がつくのか。整えるという名で、何をする気なのか。


 幸生が扉の方へ向かおうとした瞬間、未映子の「だめ」という短い言葉が、刃のように彼の足を止めた。止めた――止まってしまった。従ってしまった。彼はその事実に、遅れて震えた。


 背後で、乾いた音がまたひとつ鳴った。ぱし、と。豚添の身体が小さく跳ね、押し殺したような声が漏れる。それは痛みの声か、別の何かの声か。幸生には判じられない。ただ、判じられないものを見せられているということだけが、胸の奥を冷やす。


「……これは、何なんだ」


 絞り出すように言うと、未映子はゆっくりと首を傾げた。


「何に見えますか」


 問い返し。いつもの彼女の癖だ。答えを与えない。相手の口から言わせる。自分に都合のよい形で。


「君が……人を縛っている」


「縛っているのは、縄です」


 未映子は淡々と言った。


「私は結び目を見ているだけ」


 その言い方が、恐ろしいほど静かだった。自分の手を汚していない者の静けさ。あるいは、汚れを汚れと思わない者の静けさ。


 かけこは部屋の端で膝を抱え、縮こまっていた。首元の淡い布紐が、灯りの揺れに合わせてかすかに影を落とす。布紐は飾りだと言われていたはずだ。だが今、その紐は彼女の存在の輪郭を決めているように見えた。まるで、印だ。選ばれた者の印。


「かけこさん……」


 幸生が呼ぶと、かけこはびくりと肩を震わせ、恐る恐る未映子の方を見た。許しを乞う目だった。幸生ではなく、未映子に。


 それが致命的だった。幸生はそこで初めて理解した。かけこは救われているのではない。救われたと思うことで、息をしている。息をするために、従っている。


 未映子は、幸生の視線の行き先を読み取ったように微笑む。


「かけこさんは、怖がりなの。けれど、怖がりな人ほど、枠が必要です」


「枠……?」


「ええ。枠を与えると、落ち着く。落ち着けば、壊れない」


 言葉は優しい。意味は、優しくない。幸生は反射的に言い返した。


「枠じゃない。檻だ」


 未映子のまつげが一度だけ落ち、上がった。感情の波は見えない。だが、その一瞬が、何かの合図のように感じられた。


「檻があるから、守られるものもあります」


 未映子はそう言い、足元の小箱へ手を伸ばした。木の小箱。蓋に薄い傷があり、何度も開け閉めされた痕がある。彼女はその蓋を開け、中から何かを取り出した。


 鍵だった。


 古い合鍵のような、小さな鉄の鍵。磨かれておらず、しかし大切に扱われている。灯りにかざすと、鉄が鈍く光った。冷たい重みが指先に伝わってきそうなほど、現実味を帯びた光。


 幸生の喉が鳴る。


「……それは」


「鍵です」


 未映子は当然のように言った。


「扉の鍵。あるいは、枠の鍵」


「君が……持っているのか」


「預かっているだけです」


 預かっている。昨夜の火鉢の話と同じだ。炭は悪くない、火箸を握る手が――。鍵もまた、ただの鉄だ。だが、握る手が世界を決める。


「誰から」


 未映子は答えない。答えないまま、鍵を掌で転がした。鉄が小さく鳴る。その音は、雪の中の鈴のように清い。清い音ほど、人を縛ることがある。


 豚添が、また小さく身じろぎした。幸生は、視線をそちらへ向けた。豚添は、噂の男だ。卑劣だと言われ、女を泣かせると言われる男だ。その男が、今は床に伏し、言葉を持たない。


 そして、彼の背へ音を当てていたのは――未映子ではなかった。


 影の揺れの向こう、ひとりの女が立っている。顔は灯りの陰でよく見えない。だが、姿勢は硬く、動きは律儀だ。躊躇なく、しかし過剰ではなく、一定の間合いで“それ”を振るう。痛めつけるというより、合図を刻むように。


 幸生は、その女の横顔を見て、思い当たった。姫路あきこではない。裕理でも夏子でもない。もっと目立たない、いつも群れの少し外にいる女学生。噂を流す輪の外で、黙って見ていた娘――。


 名が思い出せない。思い出せないことが怖い。匿名性は、罪に似ている。


「……誰だ」


 幸生の声が震えた。


 未映子は、まるで茶の湯の作法を語るように答える。


「名よりも役割です。あの子は“手”」


「手……?」


「私が持つのは鍵。あの子が持つのは合図。かけこさんが持つのは印」


 未映子は、淡い布紐の方へ目をやった。


「そして豚添は――」


 未映子は一瞬だけ言葉を切った。切ることで、意味が増す。火鉢の灰をそっと撫でるように、彼女は言った。


「枠の中に収まる役」


 幸生は吐き気がした。世界が、すべて役割に分解されている。人が、人としてではなく、道具のように配置されている。しかも、その配置が美しいとすら感じてしまうように、整っている。


「君は……何をしている」


 問いは、怒りの形をしていた。だが怒りは、未映子の前で熱を保てない。彼女の冷たさは、雪よりも静かに熱を奪う。


「しているのではありません」


 未映子は、鍵を指先で一度弾いた。鉄が小さく鳴る。


「起きているのを、整えているの」


 整える。整えるという言葉が、優しくて恐ろしい。


 幸生は、扉の方へ視線を走らせた。鍵があるなら、扉は閉じているのか。自分は閉じ込められているのか。いや――扉は風で閉まっただけだ。鍵は別だ。別の話だ。なのに、胸が勝手に「逃げられない」と言う。


 未映子の掌の鍵が、彼の恐怖の中心に置かれている。鉄が一つあるだけで、世界の重さが変わる。


「……帰る」


 幸生は言った。言ったつもりだった。だが声が弱い。自分でも驚くほど弱い。決意の声ではない。許しを乞う声に近い。


「帰れます」


 未映子はすぐに頷いた。


「帰ることは、簡単」


 彼女は一歩近づき、幸生の胸元へ視線を落とした。


「難しいのは、帰った後に、何を信じて生きるか」


 その言葉が、胸の薄氷を踏み抜いた。ぱきり、と音がした気がした。割れた水が足元を濡らし、冷えが骨へ染みる。帰った後に何を信じるか――彼は、それを今ここで試されている。


「君は……俺を試しているのか」


 未映子は微笑んだ。


「試すのは、あなた自身です」


 彼女の声は、誰かを責めるものではない。責めるよりも、正解をすでに知っている者の声だ。


「幸生さん。あなたは優しい。だから――自分で選びたがる」


 選ぶ。支絵が言った言葉が蘇る。守る側か、守られる側か。選ぶ側か、選ばれる側か。


 幸生は唇を噛んだ。血の味がした。現実の味だ。夢ではない。


 豚添が小さく呻いた。合図の音が止まり、部屋の空気がいっそう濃くなる。合図をしていた娘が動きを止め、未映子の方を見た。未映子は頷くだけで指示を出す。言葉は要らない。鍵を持つ者は、頷きひとつで世界を動かす。


 その瞬間、幸生の中で何かが決まった。


 ――ここは、噂の現場ではない。噂を作る場だ。


 噂を燃やし、灰をかぶせ、長く保たせる場。誰かを悪者にし、視線を逸らし、誰かを“役”に落とす場。その中心にいるのは、豚添ではない。未映子だ。


 幸生は一歩、前へ出た。自分の足で。自分の意志で。そう思った。


「未映子……君は……」


 呼び捨てにした途端、未映子の目の奥で小さな光が揺れた。怒りではない。喜びでもない。ただ、確かめる光だ。彼女は呼び方すら、枠にする。


「言葉遣いが乱れています」


 彼女は静かに言った。


「こういう時ほど、整えなければ」


 整えろ、と。命令ではない。助言の形をした命令。


 幸生は拳を握った。握ったが、振り上げない。振り上げられない。振り上げた瞬間、自分が“外側の人間”になることを理解してしまったからだ。彼は未映子を守りたい。守りたい相手を殴ることはできない。殴れないのなら――どうする。


 未映子は、彼の迷いを読む。


「大丈夫」


 彼女は言った。かけこに言うのと同じ声で。


「あなたは、すぐには壊れない」


 その言葉が、優しさのように聞こえてしまうのが、いちばん恐ろしい。


 未映子は鍵をそっと小箱へ戻し、蓋を閉めた。ぱたん、と小さな音。鍵が隠れた途端、幸生の胸の圧が少しだけ変わる。見えないものが、より怖くなる。


「今日は、ここまで」


 未映子が言うと、合図をしていた娘が軽く頭を下げ、豚添の縄をほどき始めた。ほどく手つきは丁寧だ。ほどくという行為が、救いに見える。だが、その丁寧さこそ、儀式の一部だ。


 豚添は立ち上がれない。膝をつき、息を荒くする。荒い息が白くならないのは、室内が暖かいからだ。暖かいからこそ、ここは現実だ。


 かけこが小さく立ち上がり、未映子の袖を掴みそうになって、慌てて手を引っ込めた。その仕草があまりに忠実で、幸生は胸が痛くなった。誰かの許可なしに触れられない身体。誰かの言葉なしに動けない心。


 未映子は、かけこへ視線を落とすだけで安心を与えた。かけこはそれで息を吐く。息が、ほんの少し白い気がした。気温ではない。彼女の恐れが、白く息になって出ている。


 未映子が幸生を見る。


「幸生さん」


「……」


「帰りましょう」


 その「帰りましょう」は、誘いではない。指示でもない。決定だ。決定を、柔らかい言葉で包む。それが未映子のやり方だ。


 扉の方へ向かうと、未映子は小箱の上に掌を置き、まるでそこにある鍵へ別れの挨拶をするように一瞬目を伏せた。それは何でもない仕草のはずなのに、幸生には祈りに見えた。神ではなく、秩序へ捧げる祈り。


 外へ出ると、雪が降っていた。粉雪が頬へ触れ、すぐに溶ける。息を吐けば白い。白い息が夜へ消える。消えるものは、なかったことになるのか。なかったことにできるのか。


 未映子は、雪の中でも姿勢を崩さず歩く。かけこは半歩後ろをついていく。豚添は少し離れて、影のように従う。幸生は、その並びを見て理解した。


 逆さまなのだ。


 噂で悪と呼ばれる男が、刃を握っているのではない。噂で無垢に見える娘が、鍵を握っている。鍵を握る者の影が、他者の形を決めている。


 幸生は白い息を吐き、そして思った。

 自分は、どこに並べられるのだろう。


 主と従、逆さまの影が、雪の上に長く伸びていた。




第七章 告発者、悪原類


 真実を語る者は、いつの時代も孤独である。


 雪は夜半から細く降り続け、朝になる頃には町の輪郭を柔らかく消していた。瓦の稜線も、石畳の目地も、すべて白に覆われ、金沢は一枚の和紙に戻ったように静かだった。人の足跡だけが墨の線となり、そこへさらに雪が降り、線を薄めていく。足跡は消える。だが、歩いたことそのものは消えない――そんな当たり前のことを、雪の日は執拗に思い出させる。


 秩父幸生は、その朝、学校へ向かう道すがら何度も立ち止まった。立ち止まっても、答えは降ってこない。昨夜、用具入れで見た光景が、まぶたの裏に貼りついて離れない。未映子の静かな眼差し。鍵の鈍い光。かけこの首元の淡い布紐。豚添のうつ伏せの影――そして、整えられた秩序の匂い。


 守るためだ、と彼は何度も繰り返した。けれど守るとは何だ。彼が守りたいのは未映子か。かけこか。あるいは、未映子を“穏やかな娘”だと信じてきた自分の眼か。答えの輪郭が定まらないほど、胸の中の氷は薄くなり、踏めば割れそうだった。


 校門をくぐると、いつもと同じ風景がある。黒板、机、煤けた廊下、暖房の唸り。いつもと同じなのに、世界の方が自分を拒むように感じる。誰も知らない。誰も見ていない。だからこそ、彼だけが異物になった。


 昼休み、幸生は窓辺に立ち、雪の舞う中庭をぼんやり眺めていた。窓硝子の内側は曇り、指で拭えば一瞬だけ外がくっきり見え、すぐにまた白く霞む。見えたと思った瞬間、見えなくなる。その繰り返しが、彼の胸の中とよく似ていた。


「……秩父」


 低い声が背後から呼んだ。振り返ると、悪原類が廊下の影からこちらを見ていた。外套の襟を立て、雪の湿りを払うように指を鳴らす。彼はいつも、校舎の中にいるのに街の裏路地の匂いを連れてくる男だった。表側の明るい場所ではなく、陰で物を見る目を持っている。


「……悪原」


「昼休みに、ここで物思いか。似合わねえな」


 悪原はそう言いながら近づき、窓枠に肘をついた。硝子越しの白を睨むように見つめ、鼻で小さく笑う。


「雪はいい。全部隠す。だがな、隠すってのは、守るのと似てるようで違う」


 幸生は胸の奥が冷えた。昨夜、未映子が言っていた。覆うことで長く燃える、と。悪原もまた、似たことを言う。


「……何の用だ」


「用は簡単だ」


 悪原は上着の内側から、薄い帳面を取り出した。手帳より大きく、ノートより小さい。角が折れ、表紙は擦れ、背がほどけかけている。紙は湿気を吸って波を打ち、ところどころ破れていた。破れた帳面。それは、持ち主の焦りと時間の痕跡をそのまま抱えている。


「これ、見ろ」


 悪原は帳面を開き、幸生の前に差し出した。墨で走り書きされた文字が、乱れたまま並んでいる。だが乱れているからこそ本気の匂いがする。内容は断片的だった。名前、日時らしきもの、場所を示すような言葉――そして、何度も繰り返される「倉」「縄」「鍵」という文字。


 幸生は息を呑んだ。


「……お前、どこまで」


「知ってるか?」


 悪原が問うた。幸生は答えられない。答えれば、自分が昨夜“そこへ行った”と認めることになる。


 悪原は肩をすくめた。


「まあいい。お前が知ってるかどうかは重要じゃねえ。重要なのは、これが“残ってる”ってことだ」


 幸生は帳面の端を見た。破れている。肝心な頁が数枚抜け落ちているようにも見える。引き裂かれた跡が残っていた。


「……欠けている」


「そうだ」


 悪原は口角を上げたが、笑ってはいなかった。


「決定打は欠けてる。欠けてるからこそ、皆、好き勝手言う。噂ってのはな、証拠が半端な時ほど肥える」


 幸生は、頭の中で点が線になりかけるのを感じた。豚添の悪名。口を噤む被害者。火鉢の炭。灰の下の熱。帳面の欠けた頁。誰かが意図的に、燃えやすい形に整えている。


「これを……どうするつもりだ」


「告発する」


 悪原はあっさり言った。雪のように冷たい言い方だった。


「だが告発ってのは、正しさだけじゃ足りねえ。聞く耳を持たせるための形がいる。形がなけりゃ、真実は寒さに負けて凍る」


 彼は帳面を閉じ、指で表紙を叩いた。


「お前、秩父。お前は形がいい。清い顔してる。真面目で、女にも人気で――何より、江見川未映子に近い」


 幸生の背筋が粟立った。悪原が未映子の名を口にするだけで、胸の薄氷がきしむ。


「……近くない」


「近いさ。お前の目が、彼女を追ってる」


 悪原は言い切った。幸生は反論しようとして、言葉が出なかった。否定できない。否定できないことが、さらに自分を追い詰める。


「なあ、秩父」


 悪原は声を落とした。廊下の向こうで誰かが笑い、足音が遠ざかる。その騒がしさが、二人の会話を余計に不穏にする。


「江見川未映子は、危ねえ」


 幸生は拳を握りしめた。


「根拠は」


「根拠なら、これだ」


 悪原は帳面を再び開き、ある頁を指した。そこには、筆圧の強い文字でこう書かれていた。


 ――「江見川、鍵を持つ」


 幸生の喉が鳴った。昨夜見た鍵の鈍い光が、脳裏に蘇る。まさか、悪原も鍵を見たのか。いや、見たのではない。記録したのだ。


「……お前は、見たのか」


「見たとも。いや、正確には“見せられた”」


 悪原は苦々しく笑った。


「俺はな、嗅覚がいい。噂の匂いを嗅いで、裏を見に行った。そしたら、俺の方が――先に見られてた。笑えるだろ。覗いたつもりが、覗かれてた」


 幸生は背中に冷たい汗が滲むのを感じた。未映子は、誘う。誘われたと気づいたときには、もう縄の中だ。


「……お前、どうしてそこまで」


「俺が関わった女が、暗くなった」


 悪原の声が、ほんの少しだけ低く沈んだ。彼の言葉に、初めて熱が混じる。


「泣きもしねえ。怒りもしねえ。ただ、何も言わねえ。何も言わねえくせに、首元だけ妙に整ってる。……あれは、ただの恋の傷じゃねえ」


 幸生は息を吸った。窓硝子の曇りに、自分の吐息がさらに重なる。


「……その女は、誰だ」


「言わねえ」


 悪原は即答した。拒否というより、守りだった。だが、それがまた孤独を作る。


「言えば、俺がそいつの弱みを握ってるみたいになる。言えば、そいつがまた黙る理由になる。……だから言わねえ」


 幸生は、悪原の帳面の破れを見た。欠けた頁は、破かれたのか、抜き取られたのか。どちらにせよ、証言できる“誰か”が、そこから消えている。


「……告発して、どうなる」


「どうにもならねえかもしれねえ」


 悪原は笑った。笑っているのに、目が笑っていない。


「だが、黙ってれば確実に増える。雪は降る。足跡は消える。そういう土地だ。消えるってことは、やりやすいってことだ」


 幸生は目を閉じた。昨夜、雪の中で未映子の背を追った自分。立入禁止の縄を跨いだ自分。足跡が薄くなっていくのを見て、どこかで救われた気持ちになった自分。救われたのではない。隠されたのだ。


「……俺に、何をしろ」


「近づけ」


 悪原は短く言った。


「江見川未映子に。鍵の場所に。あの倉に。……そして、欠けた頁を埋めろ」


 幸生は震えた。そこへ再び近づく? あの場へ? 自分はもう、薄氷を割ってしまったのに。割れた氷の上に乗っているのに。


「無理だ」


 口から出た声は、思ったより弱かった。


「無理か」


 悪原は、ため息のように鼻から息を吐いた。


「じゃあ、せめて目を逸らすな」


 その言葉は重かった。正しさというより、呪いに近い。目を逸らさない者は、いつも疲れる。だが目を逸らした者は、後で自分を嫌う。


 廊下の向こうから、女学生たちの足音が近づいてきた。笑い声。姫路あきこの声が混じっている。悪原は帳面を素早く閉じ、上着の内側へ隠した。


「……また面倒なのが来る」


「悪原くん」


 あきこが姿を現し、幸生の横にいる悪原を見て目を細めた。裕理と夏子も一緒だ。三人は揃って、噂の匂いを纏っている。


「ねえ、今、何の話してたの?」


「お前らには関係ねえ」


 悪原が素っ気なく返すと、あきこは笑った。


「関係あるよ。秩父くんが元気ないから心配してたの。ねえ、秩父くん、江見川さんのこと?」


 その名を口にされるだけで、幸生の胸が痛む。あきこはそれを楽しむように眺めた。


「……江見川さん、最近、変じゃない?」


 裕理が軽く言う。軽いのに、刺す。


「なんかさ、放課後いつも誰かと一緒にいるし。あの、卑屈な――かけこ? だっけ。あの子、首元に変な紐してるよね」


 幸生の心臓が跳ねた。彼女たちはもう見ている。もう嗅いでいる。噂は火鉢の炭のように赤くなる。彼女たちが息を吹きかければ、さらに。


「ほらね」


 夏子が小さな声で言った。


「やっぱり、何かあるんだよ」


 悪原が、苛立ちを隠さず舌打ちをした。


「お前ら、口を慎め。雪の日は声がよく通る」


「こわーい」


 あきこは笑う。笑いは軽い。軽いほど、人を押し潰す。


「秩父くんが守ってあげなよ。江見川さん、きれいだけど……怖いって噂もあるし」


 幸生は、思わず一歩前に出た。怒りが熱になる前に、未映子の冷たさがそれを奪った。だが、ここで黙れば、噂が形になる。


「やめろ」


 幸生の声は、珍しく強かった。あきこが目を丸くする。


「……なに、秩父くん。怒るの?」


「勝手に言うな。……誰のことも」


 あきこは一瞬黙り、そして唇を尖らせた。


「ふうん。じゃあ、秩父くんは江見川さんの味方なんだ」


 味方。敵。二つに分けたがる。分ければ分かりやすい。分けた途端、人は群れる。群れは噂の燃料になる。


 悪原が、幸生の肩を軽く叩いた。止めるように。あるいは、戻れというように。


「秩父。ここで燃やすな。炭が増える」


 その言葉に、幸生は自分が火鉢の前にいるような気分になった。噂を燃やす側になるな、と悪原は言っている。だが、燃えるのを止める術もない。


 あきこたちは去っていった。去り際、あきこが振り返り、甘い声で言った。


「ねえ秩父くん。守るなら、ちゃんと守りなよ。中途半端は、いちばん残酷だよ」


 その言葉が、胸の奥に刺さった。悪原が小さく笑った。


「ほらな。噂は火だ。誰かが息を吹きかける。お前が止めたつもりでも、別のやつが煽る」


「……どうすればいい」


 幸生が呟くと、悪原は窓の外の雪を見た。


「足跡を残せ」


「え?」


「消える前に、はっきり残せ。誰がどこを歩いたか。……帳面に書くんだ」


 悪原は、上着の内側の帳面を指で叩いた。


「雪国じゃ、消えるのが当たり前だ。だから残すやつが、最後に勝つ。真実でも、嘘でもな」


 幸生は息を吸った。硝子が曇り、また外が見えなくなる。見えなくなる前に、何かを決めなければならない。


「……俺は」


 言いかけて、言葉を飲み込んだ。言ってしまえば、戻れない。薄氷を割るどころではない。氷の下へ落ちる。


 悪原は、幸生の逡巡を見て、ふっと肩をすくめた。


「決めろとは言わねえ。ただな、秩父」


 彼は声を落とした。


「江見川未映子は、お前の“優しさ”を使う」


 幸生は、喉が乾くのを感じた。未映子は優しく語り、枠を与え、安心を与える。その優しさに、人は自ら首を差し出す。かけこがそうだった。豚添がそうだった。――そして、幸生自身も。


「優しさは武器だ」


 悪原は言った。


「武器を持つやつは、撃たなくても勝てる。撃つふりをするだけで、相手は跪く」


 窓の外で、雪がひときわ強く舞った。白が渦を巻き、校庭の景色が一瞬で消えた。視界が真っ白になると、人は方向を失う。


 その白の中で、幸生はふと想像した。未映子の手の中の鍵。鍵は扉を開ける。鍵は扉を閉める。鍵は持つ者の意志で、世界を分ける。


 ――自分は、どちら側にいる。


 問いが胸に落ちた瞬間、廊下の向こうに未映子の姿が見えた。雪の光を背に受け、ゆっくりと歩いてくる。相馬支絵と並んでいる。未映子はいつも通り穏やかに微笑み、支絵は何かを囁いている。


 悪原が小さく息を吸った。


「……来たな」


 幸生は、動けなかった。逃げたいのに、逃げられない。見たいのに、見たくない。薄氷の上に立ち尽くし、足元が割れる音だけを待っているようだった。


 未映子がこちらへ気づき、軽く会釈した。会釈は礼儀だ。だが、礼儀は境界でもある。境界の向こうへは、許可なく踏み込めない。


 悪原は、未映子を真っ直ぐ見返した。視線がぶつかる。火花は散らない。散らない火花ほど、怖い。


 未映子は微笑んだまま、通り過ぎようとした。だがその直前、ほんの一瞬だけ――悪原の上着の内側に隠された帳面へ視線が落ちた気がした。


 ただの気のせいかもしれない。だが、気のせいで済ませられない瞬間がある。


 未映子は何も言わなかった。ただ、いつもより少しだけ柔らかく、幸生に言った。


「幸生さん。放課後、お話があります」


 その声は優しい。優しいほど、拒めない。


 悪原の唇が歪んだ。笑っていない笑いだ。


「ほらな」


 彼は小さく言った。


「目を逸らすな。……もう始まってる」


 未映子の背が遠ざかり、雪の白が廊下の窓に滲む。幸生は、胸の中で何かがきしむのを聞いた。薄氷ではない。もっと深いところで、何かが割れ始めている。


 正しさを語る者は孤独だ。

 だが、沈黙する者は――もっと孤独になる。


 悪原の帳面は破れている。欠けた頁は、まだ埋まっていない。埋める者がいなければ、噂がその穴を埋めてしまう。


 雪は降り続ける。足跡は消える。

 それでも、誰かが書き留めねばならない。


 正しさは声を上げたが、雪はそれをすぐに覆い隠した。




第八章 鏡の、うつるのは誰


 人は鏡の前で、嘘より先に「望み」を見てしまう。


 放課後の校舎は、昼の名残を捨てきれぬまま薄暗かった。廊下の窓に雪明かりが滲み、板張りに淡い銀の筋が落ちている。遠くで掃除の雑巾が水を吸う音がして、どこかの教室からは墨の匂いがした。冬は匂いを閉じ込める。閉じ込められた匂いは、思い出に似て、逃げ道がない。


 秩父幸生は、未映子に呼ばれてからずっと、胸の奥の薄氷を踏みしめ続けていた。割れたのか、まだ割れていないのか、分からないまま。分からないままのものほど、人を疲れさせる。


 約束の刻限は、夕餉の支度が始まる前。未映子の言葉はいつも柔らかいのに、こういう時だけは妙にきっちりしている。時間を区切ることは、枠を作ることだ。枠があるから、世界は崩れない――彼女はそう信じているのかもしれない。


 昇降口の前で待っていると、未映子は相馬支絵と一緒に現れた。支絵はいつも通り、目立たぬ色の外套を着て、しかし足取りだけは迷わない。未映子は、雪の日の花のように静かに微笑む。


「お待たせしました、幸生さん」


 その声を聞いた瞬間、幸生はなぜかほっとしてしまい、すぐに自分を恥じた。恐ろしいのに安心してしまう。危ないのに、近づきたくなる。それが彼女の“温度”なのだ。


「……話って、何だ」


 問いは短く、ぶっきらぼうになった。未映子は怒らない。怒る代わりに、淡く首を傾げる。


「怖い顔をしていらっしゃる」


「怖いのは……」


 言いかけて、幸生は口を噤んだ。怖いのは君だ、と言えるはずがない。言った瞬間、薄氷は完全に割れ、水の底へ落ちる。


 支絵が、静かに口を挟んだ。


「秩父さん。江見川さんは“話す場所”を選ぶ人よ」


 未映子が頷いた。


「ここでは、耳が多いから」


 耳が多い。言葉の選び方が、まるで火鉢の話と同じだ。噂は耳の数で燃える。幸生は背筋に冷えが走った。


「場所を……変えるのか」


「ええ」


 未映子は当然のように言う。


「あなたが来たい場所ではなく、私が話したい場所へ」


 その一言が、命令ではないのに命令の形をしていた。幸生は「なぜ」と言いかけ、結局言えなかった。拒む理由を口にするには、彼はもう遅すぎた。昨夜、立入禁止を跨いだ瞬間から。


 雪の中へ出ると、空は早くも紫を帯びていた。町の灯がひとつふたつと点り始め、雪はその光を受けて柔らかく光る。未映子と支絵は先に立ち、幸生は半歩遅れてついていく。歩幅は揃っているのに、距離は揃わない。距離が揃わないのは、序列があるからだと幸生は思ってしまった。


 行き先は、意外にも茶屋だった。第二章で火鉢の噂が流れた、あの町家の座敷。格子戸を開けると炭の匂いがして、雪の湿りが袖から抜けていく。女中が三人を見て一瞬だけ目を丸くし、すぐに何事もなかったように頭を下げた。未映子は、ここへ“慣れている”。


 通されたのは、奥の小座敷だった。襖を閉めると外の音が遠のき、火鉢の炭がぱちりと鳴る。灰が整えられている。波の筋が、まるで誰かの指紋のように正しく引かれている。


 未映子が火鉢の前へ座り、支絵がその斜め後ろに控えた。幸生は、どこへ座るべきか分からず立ち尽くし、やがて未映子に促されるまま、正面の座布団へ腰を下ろした。


 座った瞬間、火鉢の熱が膝へ上がってくる。熱は人を油断させる。油断した時に、言葉は滑りやすい。


「まず」


 未映子が言った。声は穏やかだが、始まりを告げる声だ。


「あなたが昨夜見たものについて、話しましょう」


 幸生の喉が鳴った。支絵は何も言わない。ただ、幸生の表情だけを静かに見ている。観察する目だ。裁かない目だ。だから余計に怖い。


「……俺は、見るつもりじゃなかった」


「ええ。あなたは“守るため”と言いましたね」


 未映子は微笑んだ。


「その言葉は美しい。けれど、便利でもある」


 便利。胸が痛む。未映子は続ける。


「守ると言えば、覗いても許される。守ると言えば、疑っても正しさになる」


 幸生は反論しようとした。だが、言葉が見つからない。見つからないのは、彼女の言うことが半分当たっているからだ。


 支絵が、そこで初めて口を開いた。


「秩父さん。あなたの“優しさ”は、あなた自身を守るための鎧にもなるの」


 鎧。守るための言葉が、守るための道具になっている。悪原が言った「優しさは武器だ」という言葉が蘇る。幸生は膝の上で拳を握った。


「……じゃあ、どうすればいい」


「“見た”と言いなさい」


 未映子が静かに言った。


「見た、そして、怖かった。そこまで」


 幸生は唇を噛み、頷きかけた。だがその瞬間、未映子はふっと笑った。


「でも、それだけでは足りません」


 足りない。足りないと言われた瞬間、彼は自分が試されていると理解した。試される場があるなら、試す者がいる。


「あなたは、何を怖がったの」


 未映子は、問いを置いた。火鉢の赤が揺れ、影が揺れる。幸生は答えられない。豚添が縛られていたことか。かけこが従っていたことか。未映子が鍵を持っていたことか。――違う。いちばん怖かったのは、未映子があの場で少しも“乱れていなかった”ことだ。整っていたことだ。整ったまま、人の形を変えていたことだ。


 幸生は、やっと言った。


「……君が、俺の知らない君だった」


 言ってしまった。言葉は出た瞬間、戻らない。


 未映子は、驚かない。怒らない。代わりに、目を伏せた。伏せた睫毛が影を落とす。その影が、妙に長く感じられた。


「知らない方が、幸せなこともあります」


「……なら、なぜ呼んだ」


 問いが刺さる。未映子は顔を上げ、微笑む。微笑みは雪のように柔らかい。柔らかいほど冷たい。


「あなたが、もう知ってしまったから」


 支絵が、火鉢の灰を見つめたまま言った。


「知ってしまった人は、どちらかに振れる。見なかったふりをして壊れるか、知ったまま飲み込まれるか」


 飲み込まれる。幸生は身を強張らせた。


「飲み込まれるって……」


 未映子が、火箸を取り上げ、灰をそっと撫でた。波の筋が少し崩れ、また整う。崩して整える。その指の動きが、言葉より雄弁だった。


「幸生さん」


 未映子は優しく言う。


「あなたは、私を止めたいの?」


 その問いは、恋文のように甘い形をしているのに、実際は刃だ。止めたいと言えば敵になる。止めたくないと言えば従になる。


 幸生は、答えられなかった。


 未映子は、火鉢の横に置かれていた小さな鏡台を指した。丸い鏡。縁は黒く、どこか古びている。女学生が身だしなみを整えるための、ありふれた鏡だ。


「鏡を、見て」


 幸生は訝しみながらも、鏡を手に取った。鏡面は冷たく、指先がひやりとする。そこに映るのは自分の顔――目の下の影、噛み締めた口元、揺れる瞳。


「……何だ、これは」


「あなたの顔」


 未映子が言う。


「その顔で“守る”と言う人を、私は信用できない」


 幸生の胸が詰まった。支絵が、静かに補う。


「守ると言うなら、まず自分の欲と恐れを鏡で見るべきなの」


 鏡は嘘を映さない。だが、鏡が映すのは“今この瞬間”だけだ。人の本当の顔は、いつも別のところにある。


「……俺は、どうすれば」


 幸生の声は掠れていた。未映子は、答えを与えない。代わりに、別の問いを置く。


「悪原類と、何を話しました」


 幸生の背筋が凍った。なぜ知っている。見ていたのか。聞いていたのか。支絵が視線を落とす。ああ、支絵は知っているのだ。知っていて、今ここにいる。未映子の“場”には、いつも支絵がいる。支絵は目撃者であり、記録者であり、沈黙の証人だ。


「……告発する、と」


 幸生は言った。嘘はつけない気がした。鏡を持たされた瞬間から。


「帳面がある。欠けた頁がある。埋めろと」


 未映子は、ふうと息を吐いた。息は白くない。温かい部屋で、冷たい話をしている。


「悪原さんは、正しい顔をするのが下手ね」


 未映子は、少しだけ笑った。


「正しさを振りかざす人は、いつも孤独。だから、誰かを巻き込みたがる」


 支絵が頷く。


「孤独は、仲間を欲しがる。でも仲間は、責任を分ける道具にもなる」


 幸生は思わず言った。


「じゃあ、悪原は間違ってるのか」


 未映子は首を傾げた。


「間違いではない。……ただ、彼の正しさは、あなたを守らない」


 守らない。幸生の心臓が跳ねる。


「私が守る、と言ったら?」


 未映子の声が、あまりに柔らかいので、幸生はぞっとした。彼女は今、最も危険な形で手を差し出している。優しさの形をした鍵を。


「……君は、何を守る」


 幸生の問いに、未映子はしばらく沈黙した。火鉢の炭がぱちりと鳴る。鏡の中の自分の顔が、いつの間にか歪んで見える。


 未映子は、ようやく言った。


「枠の中の命」


 それは、救いの言葉にも聞こえる。だが同時に、檻の宣言にも聞こえる。


 幸生は、鏡を下ろした。鏡の中の自分の顔を、もう見ていられなかった。


「……俺は、君が怖い」


 言ってしまった。ようやく言えた。言えた瞬間、胸が少しだけ軽くなった。だがそれは、危険信号が薄れたのではない。危険を直視しただけだ。


 未映子は、怒らない。むしろ、優しく頷いた。


「怖くていいの」


 そして、淡く笑う。


「怖いまま近づくのが、いちばん危ない」


 支絵が、静かに鏡へ視線を落とした。


「江見川さん。……今日はここまで」


 未映子は頷くと、火箸を置き、灰を最後に一度だけ整えた。波の筋が戻る。整う。整ったものを見ると、人は安心してしまう。幸生は、その仕草にすら心が揺れる自分を恥じた。


 未映子は立ち上がり、鏡台の鏡を幸生の前へ戻した。


「持って帰ってもいいわ」


「……なぜ」


「自分の顔を、見失わないように」


 それは親切の形をした縛りだ、と幸生は思った。鏡を持てば、いつでも彼女の言葉を思い出す。彼女の“場”を思い出す。火鉢の匂いを思い出す。


 幸生は鏡を取らなかった。取らないことが、彼の小さな抵抗だった。


 店を出ると、雪がまた舞っていた。町の灯が滲み、白い道が続く。未映子は振り返り、穏やかに言った。


「放課後、また話しましょう。今度は――もっと静かな場所で」


 静かな場所。幸生の背中に冷えが走る。静かな場所ほど、言葉が逃げない。静かな場所ほど、枠は強くなる。


 未映子と支絵が去り、幸生は雪の中にひとり残った。息を吐くと白い。白い息は、すぐに闇へ溶けた。


 鏡は持たなかった。けれど、胸の中にはもう鏡がある。

 未映子の言葉が、鏡面のように彼の欲と恐れを映し続ける。


 鏡の間でうつったのは、未映子ではない。

 自分自身だった。




第九章 針の夜、白い嘘は血より温かい(象徴モチーフ:針)


 針は、糸を通すためにある。けれど刺すためにも、同じ形をしている。


 その夜の雪は、昼間よりも静かだった。空は墨を溶いたように暗く、雪片だけが行灯の光を受けて瞬く。金沢は雪に慣れている町だ。慣れているがゆえに、人々は雪をただの季節として扱う。雪が何を隠し、何を飲み込むかを知りながら、知らないふりをする。そうしなければ冬を越せないからだ。


 秩父幸生は、同じ“知らないふり”を、今まさに覚えかけている自分が恐ろしかった。


 鏡台の前で見せられた自分の顔が、まだまぶたの裏に残っている。欲と恐れが、あんなにもはっきりと表に出るのだと、知らなかった。いや、知っていたのに見ないようにしていたのだ。


 悪原類の言葉が胸に刺さる。

 「足跡を残せ。消える前に書け」


 そして、未映子の声も同じように残る。

 「知ってしまった人は、どちらかに振れる」


 振れる。どちらへ。

 足元の薄氷はとっくに割れている。割れたのに、まだ落ちていない。それが一番危険だ。落ちる前の時間ほど、人は甘い嘘に手を伸ばす。


 その甘い嘘が、今夜、幸生の背を押した。


 ――会うなら、早いほうがいい。


 幸生は放課後、悪原に短く伝言を頼んだ。

 「今夜、学校裏の用具入れの近くで」

 伝言を頼む自分の声が、ひどく他人行儀に聞こえた。だが、他人行儀でなければ“正しいこと”が言えなくなっている。自分の中で正しさが、すでに仮面になっていた。


 夜の校舎裏は、昼よりずっと広かった。灯が少ない分、闇が膨らみ、雪が白く浮く。立入禁止の縄は、昼に見たときよりも濡れて黒ずんでいる。縄は注連縄のように境界を示し、越える者を静かに呪う。


 幸生は、そこへ来ていた。


 立って待つ間、足先から冷えが上がり、膝が笑う。冷えは身体を弱くするのではなく、意志を短くする。長い理屈が凍り、短い衝動だけが動ける。


「……来たか」


 悪原類の声がした。闇の中から現れた彼は、いつもより顔色が悪い。外套の襟を立て、雪を払い、周囲を鋭く見回す。彼は“見張る”ことに慣れている顔だった。


「呼び出して悪い」


「悪いと思うなら呼ぶな。……で、決めたのか」


 悪原は言い切った。決める。どちら側に立つか。幸生は唇を噛む。


「欠けた頁を埋めたい」


「それでいい」


 悪原は上着の内側からあの帳面を取り出した。破れた背。欠けた頁。そこに雪が一滴落ち、墨が滲む。滲んだ文字は、まるで最初からそう書かれていたように馴染む。


「だが、今夜は慎重に行け」


 悪原が言う。


「ここは、向こうの庭だ。お前、もう見られてると思え」


 幸生は頷いた。頷いた瞬間、背中に寒気が走る。見られている。覗く者は覗かれる。昨夜と同じだ。


 そのときだった。


 雪の中に、足音がもうひとつ混じった。

 優しい足音。躊躇のある足音。人の歩幅に合わせようとして、合わせきれない足音。


 かけこが現れた。


 首元の淡い布紐が、雪明かりにかすかに浮いて見える。彼女は、二人を見つけると立ち止まり、しかし逃げなかった。逃げないことが勇気なのか、従順なのか、幸生にはもう判別できない。


「……秩父さん、悪原さん」


 かけこは声を震わせた。


「ここに、来ちゃだめです」


 悪原が目を細める。


「お前、江見川の犬か」


 きつい言葉だった。かけこは肩をすくめ、まるで叱られた子供のように俯いた。


「犬じゃ……ないです」


 否定が弱い。否定の形をしていない。


「でも……お願いです。今夜は、帰って」


 幸生は一歩前に出た。


「かけこさん。君は、未映子に言われて来たのか」


 かけこは答えない。答えない代わりに、布紐の結び目に指を触れた。触れるだけ。ほどかない。ほどけない。


 悪原が小さく笑った。


「ほらな。首に印がついてる。あいつの“枠”は、外でも効く」


 かけこは唇を噛み、涙を堪えるように目を閉じた。


「……私、怖いんです」


「怖いのはお前だ」


 悪原は吐き捨てる。だが、幸生は違うと思った。怖いのは、この子ではない。怖いのは、この子が“怖いまま”ここに立ててしまう枠の強さだ。


「……かけこさん」


 幸生は声を落とした。


「君は、助けを求めてるのか。それとも――止めに来たのか」


 かけこはゆっくりと目を開けた。その瞳には、奇妙な光があった。諦めと、祈りと、そして一滴だけの誇り。


「……助けて、ほしい」


 絞り出すような声。


「でも、助けてって言ったら……私、また、居場所がなくなる」


 その言葉は残酷だった。人が救いを拒むとき、その理由は気骨ではない。生き延びるための計算だ。居場所がなくなる恐怖は、身体の痛みより強い。


 悪原が舌打ちした。


「だから言ったろ。枠は檻だ」


 かけこは首を振った。


「檻でも……檻の中のほうが、暖かい時があるんです。外は、寒いから」


 雪国の言葉だった。雪国の真実だった。幸生の胸が痛む。正しさは、人を暖めない。


 そのとき、立入禁止の縄の向こう――用具入れの扉の影から、影が一つ伸びた。


 行灯の光が揺れ、影の輪郭が濃くなる。


「……やっぱり、来てくださった」


 江見川未映子の声だった。


 未映子は、闇の中から現れた。外套は雪を弾き、髪は乱れず、頬だけがほんのりと冷えている。歩き方はいつもと同じ。柔らかく、迷いがない。


 支絵もいた。半歩後ろに控え、視線だけで周囲を測っている。


 未映子は三人を見渡し、微笑んだ。


「雪の日は、足音が正直ですね」


 悪原が吐き捨てる。


「覗いてたのか」


「覗く、だなんて」


 未映子は首を傾げた。


「ここは私の“場”です。場の中で起きることを見ているだけ」


 場。彼女は、学校の敷地さえ“場”にしている。


 悪原が帳面を握りしめた。


「欠けた頁のこと、知ってるだろ」


 未映子は微笑みを崩さない。


「欠けたものを埋めるのは、いつも噂です」


「噂じゃねえ。証拠だ」


「証拠は、紙より弱い」


 未映子は静かに言った。


「紙は濡れれば破れます。燃えれば灰です。……でも、人の心に残るものは、もっと丈夫」


 その言葉に、幸生はぞっとした。未映子は、証拠より“印象”を重視している。印象を作り、枠を作り、人を配置する。だから彼女は強い。


 未映子が一歩近づいた。雪が彼女の袖に触れ、すぐ溶ける。


「悪原さん。あなたは正しさを信じている」


 未映子は優しく言った。


「だから、正しさで人を救えると思っている」


 悪原が睨み返す。


「救う? ふざけるな。お前が壊した分を――」


「壊した、というなら」


 未映子は、ふっと息を吐く。


「壊れやすいものを、壊れにくく整えただけ」


 あまりに静かな暴力だった。言葉の皮を被った刃だった。


 そして未映子は、幸生を見た。


「幸生さん」


 名前を呼ばれるだけで、胸の奥がきしむ。


「あなたは、どちら側に立つの」


 問いはまた、二択だ。止めたいのか、飲み込まれるのか。守りたいのか、守られたいのか。選ぶ側か、選ばれる側か。


 幸生は震えた。悪原が小さく言う。


「秩父。目を逸らすな」


 かけこが、涙を浮かべたまま、幸生の袖を掴みそうになって掴めず、指先が宙で震えた。


「……お願い……」


 その声が、小さく刺さった。


 未映子が、そこで初めて、手にしていたものを見せた。


 小さな木箱。

 鍵の入っていた箱だ。


 彼女は蓋を開け、鍵を取り出した。鉄の鈍い光が雪明かりを吸う。鍵は小さいのに、場の空気を支配する。


 未映子は鍵を、悪原の帳面に向けて軽く振った。


「欠けた頁、欲しいのね」


 悪原が息を呑む。


「……お前が持ってるのか」


「持っているのではありません。預かっているの」


 またその言い回しだ。責任を消す言い回し。


「返してやるよ」


 未映子は言った。


 あまりにあっさり言うので、幸生も悪原も言葉を失った。返す? そんな簡単に? そんなはずがない。彼女は簡単に返す女ではない。鍵を持つ者は、見返りなく扉を開けない。


 未映子は、にこりと笑った。


「その代わり」


 息が止まる。


「今夜ここで、あなたの口で言って。――豚添が、全部やったって」


 悪原の顔色が変わった。


「は?」


「豚添は悪名がある」


 未映子は淡々と言う。


「皆が信じたい形をしている。あなたが一言言えば、噂は証拠になる」


 残酷だった。真実を守るために、誰かを生贄にする提案。しかも、それが“最も通りの良い”生贄だ。豚添は悪いと噂されている。だから、彼が悪いと言えば皆が納得する。納得は正義の皮を被る。


 悪原が歯を食いしばった。


「……ふざけるな」


「ふざけていません」


 未映子は穏やかに返す。


「正しさを通すには、形が必要だと言いましたね。悪原さん」


 悪原は、言葉を失った。自分の言葉で刺される。最も残酷なやり方だ。


 未映子は鍵を指先で回す。鉄が小さく鳴る。鈴のように清い音だった。清いほど、狂っている。


「欠けた頁はね」


 未映子は続けた。


「あなたが望む“真実”を書いてはいない」


「……何が書いてある」


「あなたが見たくないもの」


 未映子は、ちらりと幸生を見た。


「あなたも、見たくないもの」


 幸生の背中が冷えた。見たくないもの――自分の欲と恐れ。自分がどこまで踏み込んだか。どこまで許してしまったか。


 支絵が静かに言った。


「秩父さん。あなたは“守る”と言って覗いた。……それは記録される」


 記録。悪原の帳面。欠けた頁。足跡。雪国の恐怖は、消えることではない。消えたと思ったものが、別の形で残っていることだ。


 未映子は、かけこへ視線を向けた。


「かけこさん」


 かけこはびくりとし、すぐに頭を下げた。膝が雪に沈む。


「はい……」


「あなたは、どうしたいの」


 未映子の声は優しい。優しいから、拒めない。


 かけこは唇を震わせ、やっと言った。


「……私は……」


 言葉が途切れる。言えば、居場所がなくなる。言わなければ、永遠に枠の中だ。


 そのとき、かけこが袖口から小さな物を落とした。

 ちゃり、と微かな音。


 それは――縫い針だった。


 裁縫道具の一本。短く、細く、光る。


 幸生は目を見開いた。

 針は布を縫うものだ。穴を塞ぐものだ。

 だが同時に、皮膚を刺せる。


 かけこは針を拾い、握りしめた。指先が白くなる。


「……私、穴が怖いんです」


 かけこは、泣きそうに笑った。


「心に空いた穴。そこに風が入る。寒い。痛い。……だから、縫ってほしいって思った」


 未映子が、何も言わずに見ている。支絵も、ただ見ている。見ているという行為が、促しになる。


 かけこは針を持ったまま、幸生を見た。


「秩父さん……優しいよね」


 その“優しい”が、今夜は刃だった。


「優しいから、私を助けたいって思うよね」


 幸生は、言葉が出ない。


「でも、助けるって……穴を縫うことじゃないんだよね」


 かけこは、ゆっくりと針先を自分の掌に当てた。

 ほんの少し、赤が滲んだ。


「ほら」


 彼女は震える声で笑う。


「血って、温かい。雪より温かい。……私、温かいのが欲しかっただけかもしれない」


 その瞬間、幸生の中で何かが折れた。

 彼は叫びたかった。やめろ、と。

 でも、叫べない。叫ぶと壊れるのは、かけこの居場所だ。正しさで叫べば、彼女は凍える。


 未映子が、静かに言った。


「かけこさん。刺すのはあなたではない」


 叱るのではない。導く声だ。


「針は、縫うために使いなさい」


 縫う。穴を塞ぐ。枠を閉じる。

 未映子の言葉は、救いの形をしながら、檻を完成させる。


 悪原が、絞り出すように言った。


「……お前ら、狂ってる」


 未映子は微笑む。


「狂っているのは、噂を信じて石を投げる人々よ」


「じゃあお前は何だ」


 悪原の問いに、未映子は少しだけ目を細めた。


「私は……雪の前で、足跡を整える人」


 その言葉は、ぞっとするほど美しかった。

 雪国の残酷さを、詩の形にしてしまう。


 未映子は鍵を木箱へ戻し、蓋を閉めた。

 ぱたん。

 扉が閉まる音に似ていた。


「今夜は、ここまで」


 未映子が言った。


「選びなさい。幸生さん。悪原さん。……そして、かけこさん」


 選ぶ。選ばされる。

 針は掌に残り、血の温かさだけが妙に現実だった。


 幸生は、雪の中で立ち尽くしながら思った。

 残酷なのは、誰かが悪いことではない。

 “正しい形”に整えられていくことだ。


 雪は降り続ける。足跡は消える。

 だが、針で縫われた穴は――もう開かないかもしれない。


 そして幸生は、ようやく理解した。

 未映子が怖いのではない。

 未映子の提示する“暖かさ”が、怖いのだ。


 暖かい檻ほど、人を長く生かしてしまうから。





第十章 紅い封蝋、雪明かりの誓い(象徴モチーフ:封蝋)


 封をするのは、閉じ込めるためではない。

 ――開ける者を、選ぶためだ。


 雪は、まだ町を離さなかった。二月の金沢は、春を約束するふりをしながら、最後の白を何度も塗り重ねる。屋根の雪は重く、路地の雪は薄く、どちらも人の心のように簡単には溶けない。溶けたと思えば凍り、凍ったと思えば割れる。そんな冬の終わりに、秩父幸生は自分の中の「答え」だけが、ひどく遅いことを恥じていた。


 第九章の夜――針の夜は、冷たいのに血だけが温かかった。

 かけこの掌に滲んだ赤。

 未映子の手の中で鳴った鍵の鈍い音。

 悪原類の帳面が雪で濡れ、墨が滲んだ匂い。

 支絵の黙り方。

 そして未映子の「選びなさい」という声。


 その声が、翌日の朝にも残っていた。朝の空気は硬く、吐いた息は白い。白い息はすぐ消えるのに、あの声は消えない。消えないものは、雪より厄介だ。


 幸生は、学校へ行かなかった。行けば、あきこたちが笑う。裕理が噂を拡げる。夏子が軽い声で「やっぱりね」と言う。火鉢の炭に息を吹きかける者が、今日も校舎にはいる。ならば――今日という一日を、あの場へ差し出すのはやめたかった。


 代わりに、彼は悪原に会った。町外れの小さな喫茶店。ガラス窓に雪が貼りつき、店内のストーブだけが乾いた熱を出している。悪原は外套を脱がず、カウンターの端で煙草を一本取り出したが、火を点けなかった。火を点ければ匂いが残る。残る匂いは足跡になる。彼はそういう勘を持つ。


「……どうする」


 悪原が先に言った。問いではなく、催促だった。


 幸生はカップの縁を見つめた。珈琲の表面に、微かな湯気が立つ。湯気は白い。白は消える。消えるものは、嘘になれる。


「欠けた頁」


 幸生が言うと、悪原は鼻で笑った。


「江見川が持ってる。だが、返す気はねえ。返すふりはする。条件つけてな」


「……昨夜、条件を出された」


「豚添に全部被せろ、だろ」


 悪原は淡々と言った。昨夜の出来事を、すでに自分の中で記録に変えている口調だった。


「そんなことしたら、真実は死ぬ」


「真実は紙より弱いって、あいつが言った」


 悪原は皮肉っぽく笑う。


「だがな、秩父。真実が弱いなら、守り方を変えるしかねえ」


 守り方。守るという言葉が、幸生の胸を刺した。未映子が言った「守るは便利」という言葉も、同じ場所を刺す。


「……俺には、できない」


 正直に言うと、悪原はしばらく黙った。黙ってから、低い声で言った。


「できねえなら、やるな。だが、目を逸らすな」


 またその言葉だ。目を逸らすな。目を逸らさない者は孤独になる。だが、目を逸らす者は自分を嫌う。どちらも地獄なら、どちらの地獄を選ぶか。


「……俺、決めた」


 幸生は、喉の奥が痛くなるのを感じながら言った。


「豚添を生贄にしない。かけこを材料にしない。悪原、お前も、正しさで誰かを潰すな」


 悪原が眉を寄せた。


「じゃあどうする」


 幸生は、息を吸って吐いた。白い息は店内では見えない。だが、白くならない息ほど、重たい。


「……未映子に、会う」


「馬鹿か」


 悪原の声が跳ねた。


「それが一番危ねえ」


「危ないのは分かってる」


「分かってるならやめろ」


 悪原は珍しく苛立ちを隠さなかった。だが幸生は首を振る。


「危ないから会うんだ」


 言ってしまってから、自分でも震えた。危ないから会う。狂っている。でも、昨夜の針の温かさがまだ残っている。あれを見たまま、放っておけるほど彼は冷たくなれなかった。


「会って、何をする」


 悪原は低く問うた。


「……封を切る」


 幸生はそう言った。自分でも、何の比喩なのかは分からない。ただ、何かが封をされている。未映子が鍵で閉じ、支絵が沈黙で固め、噂が灰をかぶせている。そこに、赤い封蝋みたいなものが、最後の一押しをしている。封を切るのは、暴くためではない。開ける者を選ぶためだ。


 その日の夕刻、幸生は再び、立入禁止の縄の前に立っていた。


 雪は細かい粒になり、風に流されていた。縄は濡れて黒く、札の文字は擦れている。危険、立入禁止。言葉は正しい。けれど正しさが、人を救うとは限らない。


 縄の向こうに、すでに人影があった。


 江見川未映子。相馬支絵。そして、かけこ。


 かけこは、首元の布紐を指先で握っている。握りながら、ほどかない。ほどけない。彼女の掌には、昨夜の針の跡が小さく残っているように見えた。見えた気がしただけかもしれない。だが、気がすることが人を動かす。


 未映子は、幸生を見ると、いつもの穏やかな微笑みを浮かべた。


「来てくださったのね」


 来てくださった。客人への言葉。恋人への言葉ではない。未映子は、最初から場を支配する者の言葉を選ぶ。


 幸生は、縄を跨がなかった。跨がずに、縄の手前で立ち止まった。それだけで、胸の中に小さな達成感が生まれる。跨がない。たったそれだけが、彼にとっては抵抗だった。


「ここでは話さない」


 幸生は言った。


 未映子が目を細める。


「どうして」


「ここは、君の場だ」


 言ってしまった。だが、言えた。

 未映子の微笑みが、ほんの僅かに薄くなる。


 支絵が、静かに息を吐いた。吐いた息は白い。白い息は、冬の終わりの合図のように揺れた。


「秩父さん」


 支絵が言う。


「“場”を選ぶのは、江見川さんだけではないわ」


 未映子が、少しだけ首を傾げた。


「支絵」


「江見川さん」


 支絵は、いつもより強い声で続けた。


「今日は、秩父さんの“場”で話していい」


 その言葉に、幸生は驚いた。支絵が未映子に逆らう? 逆らうのではない。整え直しているのだ。支絵は、未映子の側の人間ではなく、秩序の側の人間なのかもしれない。秩序は時に、主を選び直す。


 未映子はしばらく黙り、そして、ゆっくりと頷いた。


「……いいわ」


 その返事は、許可の形をしていた。許可という形で、優位を保つ。未映子らしい。


「どこへ」


 幸生は答えた。


「寺の回廊」


 寺の回廊は、冬の金沢では妙に静かだ。人の足音が雪に吸われ、鐘の音だけが遠くで残る。そこでなら、噂は燃えにくい。耳が少ない場所では、火は育たない。


 四人は、雪の道を歩いた。並びは奇妙だった。先頭は未映子。半歩後ろに支絵。さらにその後ろにかけこ。そして、最後尾に幸生。まるで、これまでの秩序をそのまま運んでいるみたいだった。


 だが、寺に着くころ、並びが変わった。

 幸生が、ふと足を早めた。前へ出た。未映子の横に並ぶのではない。少しだけ前。回廊へ先に足を踏み入れ、振り返って三人を迎え入れた。


 迎え入れる。

 それは、場を作る側の動作だった。


 回廊の木は冷たく、柱は黒く艶がある。雪明かりが床板を淡く照らし、影が長く伸びる。影は人の形を歪ませるが、同時に人の足跡を隠さない。雪と違って、木は消さない。


 幸生は、立ち止まり、三人を見た。


「未映子」


 呼び捨てにした。第六章で咎められた呼び方。それでも、呼び捨てにした。


 未映子の目が、わずかに揺れた。怒りではない。好奇心に近い。


「言葉遣いが」


「整えるって言うな」


 幸生は遮った。


「整えるって言葉で、人を縛るな」


 自分でも驚くほど、声が通った。雪は音を吸う。だが回廊は木だ。木は音を返す。返った音が、自分の耳にも刺さる。刺さる痛みが、現実をくれる。


 未映子は、微笑みを戻そうとした。戻そうとして、戻しきれない。


「秩父さん。私は、あなたを縛ってなど」


「縛ってる」


 幸生は言い切った。


「鍵で。場で。順序で。優しさで」


 支絵が、目を伏せた。かけこは震え、布紐を握りしめる。未映子だけが、凍らない目で幸生を見る。


「それで、あなたは何を望むの」


 未映子が問うた。


 望み。鏡の章で言われた言葉だ。人は嘘より先に望みを見る。幸生は息を吸って吐き、言った。


「真実を、真実のまま残す」


 未映子が、静かに笑った。


「綺麗な言葉」


「綺麗にしないと、汚いことになる」


 幸生は言った。


「豚添に被せれば、皆は納得する。でもそれは、真実じゃない」


 未映子の微笑みが消え、代わりに冷たさが現れた。


「豚添は、悪い噂がある。彼は彼の望みで人を傷つけてきた。あなたは彼を守るの?」


「守らない」


 幸生は首を振る。


「裁くのは、噂じゃない。俺たちじゃない。……でも、生贄にするのも違う」


 未映子は一歩近づいた。雪明かりに、彼女の頬が白く見える。白い頬は、冷たく美しい。美しいものほど、残酷になる。


「秩父さん」


 未映子が、低い声で言った。


「あなたは、誰を救いたいの」


 問いはまた、枠を作る。答え方で、人の居場所が決まる。


 幸生は、かけこを見た。

 かけこの掌の小さな傷。

 布紐の結び目。

 怖いのに居場所を手放せない眼。


「かけこさんを救いたい」


 幸生は言った。


 かけこが、目を見開いた。


「それから……悪原を、孤独のままにしない」


 支絵が小さく息を吸う。未映子の眉が微かに動いた。幸生は続けた。


「そして、未映子。君も」


 その瞬間、未映子の目がほんの僅かに揺れた。揺れたのは怒りではない。驚きと、――ほんの少しの、寂しさ。


「私を救う?」


 未映子が微笑みかけ、すぐに止めた。


「面白いわ。私が救われる側だなんて」


「救われる側じゃない」


 幸生は言う。


「救う必要があるほど、君は一人で抱えてる」


 支絵が、ゆっくりと口を開いた。


「江見川さん。……あなたは、鍵を持ち続けることで、自分を保ってきたのね」


 未映子が、支絵を見る。支絵は視線を逸らさない。支絵は黙るだけの人ではなかった。黙って、必要な瞬間に言葉を出す人だった。


「鍵を持てば、扉を選べる。順序を決められる。……でも、鍵は持つ人の手も冷やす」


 未映子は、しばらく沈黙した。


 その沈黙の間に、雪が柱の外で静かに降り積もる。白は増える。白は消す。だが回廊の木は消さない。音も、言葉も、消さない。


 未映子は、やがて袖の内から小さな封筒を取り出した。


 薄い和紙の封筒。口は赤い封蝋で固められている。

 紅い封蝋は、雪明かりの下で妙に生々しかった。血ではない。だが血より強く、意志の色をしている。


「……これが、欠けた頁」


 未映子が言った。


 悪原の帳面から抜けた頁。

 だが、それは帳面そのものではない。写しだ。写しの方が厄介だ。写しは、原本を燃やしても残る。


 幸生の喉が鳴る。


「それを……どうする」


「あなたに渡す」


 未映子は言った。


 あまりにあっさりで、幸生は動けなかった。未映子が、封筒を差し出す。その手は白く、冷たいはずなのに、封蝋だけが妙に熱を持って見えた。


「ただし」


 未映子の声が少し低くなる。


「開けるのは、ここで」


 ここで。回廊で。雪明かりの下で。耳が少ない場所で。

 開ければ、封蝋は割れる。割れた封は戻らない。


 幸生は、封筒を受け取った。重みはない。だが、重く感じた。

 封蝋に指を当てると、硬い。硬いものは割れる。割れるとき、音がする。


「……中身は」


「あなたが見たくないものだと、言ったでしょう」


 未映子が微笑む。


「でも、あなたは“目を逸らさない”と決めた」


 悪原の言葉を、未映子が自分のものにする。奪う。整える。やはり彼女はそういう人だ。だからこそ、ここで封を切らなければならない。


 幸生は、封蝋を爪で押した。

 ぱきり、と小さな音がした。冬の薄氷が割れる音に似ている。

 封蝋が割れ、封が開いた。


 中には、一枚の紙。墨で書かれた短い記録。

 そこにあったのは、豚添の名でも、被害者の名でもなかった。


 ――「秩父幸生、立入禁止を跨ぐ」

 ――「江見川、鍵を示す」

――「相馬、証人として在る」

――「かけこ、印を受ける」

――「悪原、帳面を持つ」


 そして最後に、ひときわ小さな文字で、こう書かれていた。


 ――「姫路あきこ、噂を焚べる」

 ――「裕理、夏子、火種を運ぶ」


 幸生の頭が真っ白になった。

 真実は、人の罪を一つにまとめていなかった。

 真実は、皆を名前で並べていた。

 誰か一人が悪いのではなく、皆が役を担っている。

 その役を、未映子が“整えて”いる。


 残酷なのはここだ。

 悪は単純ではない。

 そして正しさも単純ではない。


 幸生は紙を握りしめ、声が出ない。


 支絵が、静かに言った。


「江見川さん。……あなたは、全部を記録していたのね」


 未映子は目を伏せた。伏せた目は、初めて弱さに見えた。


「記録しなければ、噂に食われる」


 未映子は小さく言った。


「噂に食われるくらいなら、私が食べるほうがいい」


 その言葉は、愛にも似ていた。

 歪んだ愛だ。だが、愛は時に歪む。

 大正の冬の町で、人はまっすぐには生きられない。


 かけこが、震える声で言った。


「……私、じゃあ……ずっと……」


 未映子がかけこを見る。


「あなたは、居場所が欲しかっただけ」


 未映子は言った。


「それを、私は利用した」


 利用。未映子が初めて、自分の行為をその言葉で言った。

 その瞬間、かけこが泣いた。声を殺して泣いた。雪のように静かに泣いた。


 幸生は紙を畳み、胸元へしまった。


「これを、どうするか」


 未映子が問うた。

 問いは枠だ。

 けれど今度は、幸生が枠を作る番だった。


「悪原に渡す」


 幸生は言った。


 未映子の目が細くなる。


「悪原さんは、正しさで人を切る」


「切らせない」


 幸生は言い切った。


「俺が一緒にいる。正しさが冷たいなら、せめて人の温度を添える」


 悪原の孤独を埋める。正しさの刃に手を添える。危険だ。だが、危険を避けて何も変わらないなら、割れた封蝋の意味がない。


 未映子は、しばらく黙り、そして、意外なほど柔らかく笑った。


「……あなたは、馬鹿ね」


 馬鹿。けれど、その言葉には嘲りが少なかった。むしろ、少し羨ましさが混じっているように聞こえた。


 幸生は、未映子を見た。


「未映子。君は鍵を手放せるか」


 未映子は、答えない。答えない代わりに、袖の内の小箱を指先で触れた。鍵の入った箱。触れた指がわずかに震える。


 支絵が、そっと言った。


「手放すのは怖い。でも、手放さない限り、あなたも枠の中にいる」


 未映子は、長い沈黙のあと、小箱を取り出した。蓋を開け、鍵を掌に乗せる。


 鉄の鍵は小さい。小さいのに、場の空気が変わる。


 未映子は、鍵を幸生へ差し出した。


「預ける」


 未映子の声が、少し掠れた。


「あなたに。……私が、私を保つために持っていたものを」


 幸生は、受け取らなかった。

 受け取れば、今度は自分が鍵を持つ者になる。

 鍵を持てば、扉を閉められる。順序を決められる。人を整えられる。

 その誘惑を、彼は恐れた。


「受け取らない」


 幸生は言った。


「それは、君が自分で置け」


 未映子の目が揺れた。揺れは、雪より小さい。だが、確かに揺れた。


 未映子は、静かに頷いた。そして、回廊の柱の影に、小箱を置いた。雪は届かない。誰の目にも届きにくい。だが、ここは木の回廊だ。消えない場所だ。


「……置いた」


 未映子が呟いた。


「置いたわ」


 その言葉は、誓いに似ていた。

 誓いは美しい。だが誓いは残酷でもある。破れば、傷になる。


 雪明かりの中で、四人はしばらく動けなかった。

 封蝋は割れた。

 鍵は置かれた。

 針の夜は、血の温度だけを残し、決断へ繋がった。


 遠くで鐘が鳴った。

 ひとつ。

 ふたつ。

 音は雪に吸われながら、それでも確かに届いた。


 幸生は最後に、未映子へ言った。


「俺は、君を許すとは言わない」


 未映子の目が細くなる。


「でも、見捨てもしない」


 支絵が、わずかに微笑んだ。かけこは涙を拭い、布紐の結び目に触れた。触れて、ゆっくりと――ほどいた。ほどけた紐が、雪明かりにふわりと落ちる。


 ほどく音は、小さかった。

 けれど、幸生には封蝋が割れた音よりも大きく聞こえた。


 雪はまだ降っている。

 噂も、まだ残るだろう。

 悪原の正しさも、あきこの笑いも、すぐには消えない。


 それでも、封は切られた。

 鍵は置かれた。

 そして、彼らはそれぞれの足で回廊を歩き出した。


 雪の上の足跡は、やがて消える。

 だが、木の上の足音は消えない。


 ――それだけで、冬を越える理由には、十分だった。











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