第4話・新しい日常
午前中の講義は昨夜の出来事のせいで集中できなかったが、午後は意外な程に平静に過ごせた。
時間が解決してくれるというのは本当のようだ、とリアムは思った。
不安が消えたからだろうか。
階段を上る時、いつもより足取りが軽かった。
大学が終わると、今日も配送センターのアルバイトが待っていた。
この頃には、今朝の不安はすっかり無くなっていた。
むしろ、すこぶる調子がいい。
タイムカードを切って、主任と挨拶を交わした後、リアムはいつものように倉庫の段ボール箱を持ち上げた。
何かがおかしい。
昨日までは持ち上げるのに苦労していた筈なのに、腕には殆ど負荷を感じていない事に気付いた。
抱えていた箱をいちど床へと下ろし、別の箱を持ち上げてみる。
それでも、身体が受け取る感覚は変わらなかった。
その日の作業は、まるで集中できなかった。
周囲は、彼がこれまでにない仕事ぶりを見せた事に驚き、口々に「成長したな」と言ってリアムを褒めた。
リアムは、今朝とはまた別の焦燥感を抱いていた。
*
家に帰ったリアムは、夕食を終えると足早に庭のガレージへ向かった。
シャッターを降ろし、誰にも見られない事を確認してから、ゆっくりと息を吐く。
「……試すか」
ガレージにある作業台を、両手で掴んで力を入れた。
持ち上がる。いとも簡単に。
次は、軽く跳んでみる。
天井に頭をぶつけそうになり、慌てて体勢を崩した。
興奮して乱れた息を整えてから、リアムは呟いた。
「もっと確かめたい」
リアムはその足で車に乗り込んだ。
――あそこなら人目に付かないだろう。
ここから3キロ程の場所に、数年前に閉鎖された採石場があった。
そこへと車を走らせた。
採石場から少し離れた茂みに車を停め、徒歩で草木を掻き分けながら進んでいく。
『立ち入り禁止』
侵入を阻むように張られたチェーンには、そう記されたプレートがあちこちにぶら下がっている。
それが採石場の敷地との境界を示していた。
普段のリアムなら、不法侵入なんて以っての外と考えるが、今は緊急事態だ。
少しだけ躊躇いつつも、彼はチェーンを跨ぐ。
採石場は擂鉢状になった大きな穴の形をしていた。
砂利道のスロープを警戒しながら進む。
そして、周囲に人の気配が無い事を確認してから、足に力を込め、全力でのダッシュを試してみる。
力を溜めた脚が地面を蹴る。
景色が爆発した。
――え?
視界の両端が猛烈な勢いで後ろへ流れていく。
制御不能の弾丸となったリアムの体は、スロープの先にそびえる岸壁へと一直線に飛ぶ。
――まずい、ぶつかる!
焦ってブレーキを掛けようとするが、もう遅い。
衝突まで、あとコンマ数秒。もはや回避は不可能だ。
リアムは本能的に両腕を突き出し、全身の筋肉を鋼のように硬直させた。
《ドゴォォォォォンッ!!》
凄まじい轟音が採石場に反響した。
硬質な岩盤に、人の体が激突したとは思えない衝撃が走る。
衝突の反動で周囲の岩肌が蜘蛛の巣状にひび割れ、砕けた石の破片が礫となって降り注いだ。
静寂が戻る。
リアムは、自分が岩壁に数センチ程めり込んでいる事に気づいた。
「……はぁ、はぁ……」
ゆっくりと腕を解き、自分の体を確認する。
パーカーはボロボロに裂け、皮膚は煤と土で汚れている。
だが、痛みは無い。
骨が折れた感覚も、内臓が揺さぶられた不快感すら無い。
彼は岩壁から抜け出し、信じられないものを見る目で自分の手を見つめた。
まるで、あのバスを受け止めたヒーローの腕だ。
「無傷……なのか? あの衝撃で……?」
先程まで自分が埋まっていた場所を、鼻血一つ出ていない顔で見上げた。
恐怖が引き、代わりに全身の血が沸騰するような興奮が沸き起こる。
「もっと試さないと」
リアムはその後も自分の身体の変化を試した。
そして理解する。
岩を砕く拳、常人離れした跳躍、高所から落ちても揺るがない足腰――強靭な身体能力を得た事を。
そして――。
リアムは息を整え、目を閉じ、足先に意識を集中した。
全身が漂っていくイメージ。
自然と、あの奇妙に光りながら浮遊する石を思い浮かべていた。
次第に足裏の感覚が薄れた気がした。
ゆっくりと目を開け、足元を確認する。
気づけば、地面から数十センチ浮いていた。
「……浮いてる」
声が震えた。
しかし、束の間、リアムの体はバランスを崩して、地面に落ちた。
心臓の鼓動が速い。現実味がまるで無かった。
リアムはもう一度、足先に意識を集中した。
――浮け。
そう願い、そして実際にリアムの体は再び宙に浮いた。
今度は先程より高い。1メートルを超えていた。
しかし、その状態を保つ事で精一杯だった。
気を抜くと地面に落ちる。そう思った。
集中したまま、今度は自分の意志で、ゆっくりと体を地面に降ろしていく。
「はぁ、はぁ……」
息を乱しつつ、リアムは呟く。
「もっと練習が必要だ」
その夜、リアムは日が昇る直前まで家に帰らなかった。
次回は、2月7日(土)14時頃に更新予定です。




