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第1話「知らない空、知らない街」



――暗い。

目を開けているのか、それとも閉じているのかさえわからない闇の中で、私はぼんやりと意識を取り戻した。身体の節々がじんわりと痛む。冷たい地面に横たわっていたらしい。硬い舗装の感触が背中越しに伝わり、ゆっくりと現実感が押し寄せてくる。

鼻先にかすかに漂うのは、埃っぽさと機械のオゾンのような匂い。それから、微かな甘い香料の残り香が混じっていた。どこかで嗅いだことがあるような……いや、思い出せない。頭がぼんやりしていて、うまく考えられなかった。

耳を澄ます。遠くで何か低いうなりのような音がしている。風の音? それとも巨大な機械が稼働する音だろうか。ここはどこだろう――いや、それ以前に、自分はどうしてこんなところにいるのか。


ゆっくりと体を起こそうと腕に力を込める。ところが、手の感触がおかしい。地面に当てた自分の手が妙に分厚く、うまく力が入らないのだ。まるでふかふかとした手袋越しに触れているような……いや、実際に触れているのは手袋ではなく、毛足のある布の感触。

何か着ている。私は自分の体を見下ろした。薄暗がりの中で、もこもこと膨らんだ胴体と四肢が視界に入る。まるでぬいぐるみだ。そう、私は巨大な着ぐるみの中にいるのだった。


記憶がじわりと蘇る。そうだ、私は元いた世界でこの着ぐるみを着て、とあるイベントに参加していたはずだ。夕暮れ時の公園で町内のお祭りが開かれていて、私はウサギのマスコットの着ぐるみを着てパレードの列にいた。子供たちが周りに集まってきて、私に向かって小さな手を一生懸命振っていたっけ。その笑顔に胸が温かくなったのを覚えている。

誰かが「由依!」と私の名前を呼んだ気がした。その声はどこか慌てていたように思う。その直後――世界が真っ白な光に包まれ、耳を劈く轟音が響いた。それから先の記憶は、ぷつりと途切れている。


頭部もすっぽりとマスコットの被り物に覆われている。外の空気を直接感じないのはそのせいだろう。中は少し蒸し暑く、自分の吐息がこもって頬にかかる。しかし不思議と息苦しさはない。

むしろ、この狭い閉ざされた空間に守られているような安心感すら覚えていた。大きなぬいぐるみのような外見が、私の本当の姿をすっぽりと覆い隠してくれている。そのことが、今は心底ありがたかった。人前に出るのが苦手な私にとって、自分を隠せるこの着ぐるみは小さな鎧なのだ。


着ぐるみの中から見る外界は、布越しにフィルターがかかったようにぼやけている。視界の端には小さなメッシュの覗き窓があり、そこから微かな光が差し込んでいた。私はその光を頼りに、周囲を見渡そうとする。


薄明かりに目が慣れてくると、周囲の様子が少しずつ判明してきた。両側を挟む壁は無機質なコンクリートや金属でできており、かなりの高さまでそびえている。見上げれば、狭い隙間から夜の空が細長く切り取られていた。だが、真っ暗な空ではない。高層ビルの合間に浮かぶ無数のネオンやホログラム広告の光が、空の一部を不自然に染め上げている。星ひとつ見えない夜空に、人工の輝きが滲んでいた。


路地の奥からぼんやりとした光が射し込んでいる。どうやらこの路地は大通りへと繋がっているらしい。壁際には細長い影のような機械が据え付けられており、先端が淡く光っていた。自動清掃ロボットか何かだろうか。見慣れない形状に、思わず息を呑む。視線を移すと、壁面に取り付けられた案内板がちらりと目に入った。しかしそれはただの看板ではないようだ。表面に数字や記号が浮かんでは消えている。もしかするとAR(拡張現実)対応のハイテクな案内表示なのかもしれない。肉眼で見えるのは断片的な光のパターンだけで、何を書いてあるのか私には読み取れなかった。


震える指で自分の腕を抓ってみる。鈍い痛みが返ってきた。残酷にも、これは夢なんかじゃないと告げているようだった。


夢ではないとすれば、私は死んでしまったのだろうか。ここは死後の世界なのか――そんな荒唐無稽な考えさえ頭をよぎる。しかし、この無機質で現実的な風景は、私の知る天国とも地獄とも似つかない。


すべてが見知らぬ景色だった。高層ビルの谷間に取り残されたこの路地裏の空気は、自分の知っている世界のものではない――そんな確信めいた違和感が胸に生まれる。これは未来の街? それともまったく別の異世界なのだろうか。現実離れした考えが脳裏をよぎる。

ここは私のいた場所とは違う。「知らない空、知らない街」――その言葉が頭に浮かび、じわりと恐怖がこみ上げてきた。心細さに耐えきれず、膝が小刻みに震える。誰か助けて、元の世界に帰して――と喉まで叫びが込み上げた、その時。


「――大丈夫ですか?」

不意に、耳元で声がした。静まり返った路地裏に、穏やかな女性の声が響く。私はびくりと肩を震わせ、慌ててあたりを見回した。しかし周囲に人影はない。壁際の暗がりにも、この路地には私以外誰もいないようだった。

(今の声……?)

混乱する頭で考える。確かに誰かの声が聞こえた。しかもすぐ近くで。私はゆっくりと息を呑み、耳に手を当ててみた。すると、右耳の辺りに小さな固い物が触れる。イヤーカフのような機械が耳に装着されているのが指先に感じられた。こんなもの、いつの間に……。私は戸惑った。しかし正体のわからないこの装置を外す勇気もなかった。耳元の声は、今の私にとって唯一の拠り所なのだから。


「ご安心ください」また声がした。やはり耳に直接響いてくるようだ。「私はあなたのそばにいるAIアシスタント、アテナです」


アテナ? AIアシスタント? 聞き慣れない単語に、私は戸惑いながらも黙って耳を傾けた。AI……人工知能だろうか? それが私に話しかけている?


「意識を取り戻されたようですね。気分はどうですか? お怪我はありませんか?」


穏やかで落ち着いた口調だった。その声を聞いていると、不思議と少しだけ心が安らぐ気がする。私は混乱しつつも、小さく「…だ、大丈夫…です」と答えた。本当は大丈夫なんかじゃなかったが、どう答えていいかわからなかったのだ。


「そうですか。よかった」アテナと名乗った声は、安心させるように優しく続ける。「ここはエルシェル市です。あなたは現在、エルシェルの中心街区にある路地裏にいらっしゃいます」


「エルシェル…?」聞き覚えのない地名に、私は思わずその名を繰り返した。


「エルシェル市は、先端技術によって運営される独立都市国家です。高度に発達したインフラとAIが整備された先進都市ですよ」


私はぽかんとしてしまった。私の知る世界のどこにも、エルシェルという都市国家など存在しない。なのに今、私は確かにエルシェルにいる。ますます現実味がない。未来都市の設定を聞かされているようだった。

「…そんな場所が本当にあるんですか…」と自分で呟いて、我ながら愚問だと思う。実際に今その場所にいるのだから。


アテナは否定も肯定もしなかった。ただ事実を述べるように静かに言葉を継いだ。


「現在時刻は午後10時26分。外気温は摂氏18度、湿度45%。周囲に危険な状況は検出されていません。ここは比較的安全な場所ですので、ご安心ください」


淡々と告げられる情報はまるで機械の案内放送のようだったが、その声音には確かなぬくもりが感じられた。私は夢でも聞いているかのようにぼんやりと、「…はい」とだけ返事をした。見知らぬ土地でひとりきりだという恐怖に変わりはなかったが、危険はないという言葉にほんの少しだけ安堵する自分もいた。自分のことなのに現実味がなく、まるで他人事の説明を聞いているような気分だった。アテナの言葉は日本語だった。不思議だが助かった。この見知らぬ街の中で、自分の言葉が通じる存在がいるというだけで心強い。


「念のためお尋ねしますが、お名前を教えていただけますか?」


不意の問いかけに、私ははっとした。名前――自分の名前…。頭が霞がかったように朧げだったが、それでも辛うじて記憶の底から引っ張り出す。

「…由依。私の名前は、由依…だと思います」

声に出してそう告げると、自分が自分にそう言い聞かせているような不思議な感覚に陥った。


「由依さん、ですね。承知しました」アテナは静かに受け入れてくれた。しかし少し間を置いてから、申し訳なさそうに告げる。「ですが、こちらのデータベースには由依さんに該当する登録情報が見つかりません。身分証や所持品などはお持ちでしょうか」


私は首を横に振った。着ぐるみの中でごそごそと手を探ってみるが、ポケットらしきものもないし、何も持っていない。そもそもこの世界に自分の身分証などあるはずがなかった。


「何も…持っていません」ようやくそう答えたとき、自分がひどく心細く無力な存在に思えて、胸がきゅっと縮こまった。自分が何者なのか、今の私にははっきりと説明することもできないなんて。私はいったい……。自分が何者なのか、霧がかかったように曖昧なままだった。


「これから…どうすればいいの…?」思わず独り言のように呟いてしまう。自分では答えの出ない問いだった。


「大丈夫ですよ、由依さん。私がいますから」アテナがそっと語りかける。「まずはここから出ましょう。ゆっくり立てますか?」


アテナの落ち着いた声に促され、私は「…はい」とか細く答えた。もうこの状況で頼れるのはアテナだけだ。私は見えない案内人に身を委ねることにした。


そして壁に手をつきながらゆっくりと足に力を込める。着ぐるみの分厚い足が地面を捉え、なんとか立ち上がることができた。頭の大きなマスコット部分がぐらりと揺れ、危うくバランスを崩しそうになるが踏みとどまる。少しめまいがしたが、大丈夫、立てる。


「よろしければ、そのまま路地の出口まで進んでみましょう」耳元で優しく指示が飛ぶ。


私はぎこちなく頷き、一歩を踏み出した。着ぐるみのせいで視界が狭い。足元もおぼつかないが、なんとか前進する。もこもことした足裏が地面を擦り、布が擦れ合う音が静かな路地に響いた。


その音に反応したのか、壁際の細長い機械がブイーンという低い作動音を立て始める。先ほど目に入った自動清掃ロボットが動き出したのだろう。突然の物音に私はぎょっとし、思わず身を竦めた。

「問題ありません。ただの清掃用ドローンです」アテナが直ちに優しく告げる。その言葉に私はこわばった肩の力をふと抜いた。


頭のウサギの耳がぴょこりと揺れ、視界の端でふらつく。


やがて路地の出口にたどり着く。


そこから先は、別世界だった。


ビルの谷間に広がる大通りが目の前に現れる。瞬きをするほどの眩い光が一斉に視界に飛び込んできた。

思わず足が止まる。ビルから放たれるネオンの光が、私の着ぐるみの白い毛並みに反射して赤や青に染まった。建物の壁面には巨大なホログラム広告が映し出され、宙に浮かぶ飲料ボトルや商品ロゴが鮮やかな色彩を放っている。その隣では、人間の女性が映し出されたホログラムが笑顔で手を振っていた。巨大なキャンペーンガールだろうか、現実離れしたサイズ感に圧倒される。道路脇には無数のネオン看板が立ち並び、どれもこれも見たことのない文字や記号で煌めいていた。


遠くからは宣伝らしき軽快な音楽とアナウンスが微かに聞こえてくる。しかし響いてくる言葉は聞き取れず、どこか異国の言語のようだ。それはこの場所が自分の知る世界ではないことを、否応なく思い知らせた。まるで近未来都市を描いた映画のセットに迷い込んだかのようだ──いや、これは紛れもない現実なのだ。


街頭を見下ろす位置に、半透明の案内表示がいくつも浮かんでいるのが見えた。おそらくARの案内板なのだろうが、私の目にはぼんやりと光るシンボルにしか見えない。それでも、街全体が高度な技術で彩られていることだけは否応なく理解できた。


静まり返った路地裏とは対照的に、大通りには微かな人の気配があった。遠くに二、三人の人影が歩いているのが見えた。夜も遅いせいか、人通りはまばらだ。人間の姿があることに少しだけ安堵する。しかし彼らは見知らぬ世界の見知らぬ人々だ。今の私には声をかける勇気などない。その肩越しにホログラムの光が揺れている。空中には小型の無人機らしき飛行体がいくつも飛び交っている。青白いライトを瞬かせ、ほとんど音も立てずにビルの谷間を旋回していた。そのうちの一つが私の頭上をすっと通過し、ネオンの海へと消えてゆく。舗装道路の上を丸みを帯びた黒い車両が静かに滑り過ぎていく。車体に車輪らしきものは見当たらない。本当に宙に浮いて走っているのか――そう思わせるほどスムーズな走行だ。見上げれば果てしなく連なる高層ビルの群れ。無数の窓が光を灯し、夜の闇を押し退けている。


私は圧倒され、足をすくませた。胸が高鳴る。恐ろしさと途方もなさに眩暈がしそうだったが、不思議と泣き出しそうなほどの孤独は感じなかった。耳元に感じるAIアテナの存在が、かろうじて私を支えてくれているように思えた。


「由依さん、落ち着いていますか?」アテナがそっと問いかける。


私はマスコットの被り物の内側で深呼吸した。火照った体に布越しのひんやりとした夜の空気が染み込んでくるような気がする。「…はい。大丈夫です」震えそうになる声を抑えて答えた。大きな着ぐるみの愛らしい笑顔に自分を隠していられると思うと、それだけで少し勇気が湧いてくる気がした。


大丈夫。ひとりじゃない。耳元にアテナがいてくれる。それだけでも、先ほどまでの絶望は少し和らいでいた。


私は着ぐるみ越しに固く拳を握りしめる。そして、おそるおそるではあるが、一歩、また一歩と未知の街路へと踏み出した。心臓が高鳴る。この鼓動は恐怖だけじゃない。未知の世界に踏み込もうとする、期待と不安が入り混じった高鳴りだった。


暗い路地裏から踏み出した先に、これからどんな運命が待ち受けているのか――もちろん知る由もない。それでも進むしかない。知らない空の下、知らない街を。耳元のアテナの声だけを頼りに、私は静かに歩き出した。




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