発見
「緋彩お兄ちゃん。あたし、友達の家に遊びに行ってくるね!暗くなる前に帰ってくるから」
小夜に帰宅早々そう告げられ、俺は一人家に残された。
誰とも予定は無いし、見たい番組もない。惰性で机に向かい、途中で投げ出していた数学の問題集を開いた。
しばらくは、誰の声もしない久しぶりの静寂のおかげか集中できた。だが、微分の問題と格闘しているところで階段を上る重たい足音に気がついた。
藍が帰ってきた。
別にいつも足音がうるさいなんてことは無い。
大方ムカつくことでもあったのだろう。そう思った。
コツコツとドアがノックされる。返事をしようと口を開いた所で、許可なくドアノブが回された。
こちらの返事を待たないならノックなんてせずに、いつもみたいに遠慮なく入ってくればいいものを。そうして開かれたドアの隙間からこちらを伺う瞳はーー。
こういう様子には覚えがある。
重い足取り。ほんの少し遠慮がちな態度。何より幾つかの感情がないまぜになった目。
俺たちが初めて転校というものを両親から伝えられた後だとか、二人だけでしばらく暮らすように言われた後にそうなっていたのを鮮明に記憶している。
「あのさ、今話いい?」
そう問われてしまうと、目の前の問題集のことなんて大した問題じゃないように思える。
ペンを置いて、問題集も閉じる。
そんな俺の行動を見て、藍はテーブルの傍に膝をついた。
「何かあったのか」
そう聞くと彼女は眉をひそめた。
「なんでそう思うの?」
「一体何年一緒にいると思ってるんだ」
「17年になりまーす」
「言葉通りに受け取るな...…」
「あはは……最近はそこまで一緒にいないけど。緋彩にしては珍しく、ちゃんと友達が出来たみたいだし」
「九条のことか」
これが本題では無いと直感でわかる。話が広がりそうにない言葉を返すと、藍も頷くだけでこの話題を続けようとはしなかった。
「聞きたいことっていうか、緋彩はどう思うか気になることがあって」
「……」
「ちょっと長くなるんだけど」
そんな前置きから始まった話は、予想より重くない内容で、そこまで長くもなかった。
最初はどうせ藍が登場人物のどれかだろうと思ったが、神様云々言い出したから単にそういう物語なんだと思い直した。
「……って感じなんだけど、どう思った?」
「うーん。やっぱり神様って人間より人間らしいなって」
素直に感想を伝える。しかし俺の答えに藍は不満気だった。
「そういうのじゃなくて〜。ほら、最後の信じる心だのの所とか」
「あぁ。そうだな……ストレートに考えると、その子は言われた通り大人しくしているのがいいと思うけど」
「けど?」
「だけどその前の話からすると、神様は人の信心があるからこそ神として在ることができる。そこは善悪とか関係ないんだ…と思う。
つまるところ――悪い神様は"そう"だって言われているだけだろ。実際には大した手助けもしてくれない神様を信じるよりも、悪いと言われている神様が良い神様だって信じる方が俺はいいと思う。噂話が根も葉もないものばかりだって事を藍は――俺達は知ってるだろ」
真剣に考えて話したのがなんだか気恥ずかしくなって、最後は少し茶化してしまった。皮肉っぽく笑顔を浮かべた俺を見て、藍は何故か顔を両手で覆ってしまった。
その隙間から、
「うわ、そうだ。そういうことだぁ」
と弱々しい声が漏れ聞こえる。
何て言葉をかけたらいいか分からず、静かに見守っていると藍は勢いよく立ち上がりそのまま出ていこうとする。
緋彩の言葉を聞いて、どうにもジッとして居られなくなった。今すぐ駅まで走って行きたくなって、部屋を飛び出そうとして気がついた。
「ありがと!参考になった」
感謝を伝え、走り出そうと足に力を込める。
「出かけるなら夕飯用の野菜買ってきてくれないか」
転びそうになって壁に手をつく。
人が意気込んでいるところになんて言葉を投げつけるんだ。口から出そうになった文句をグッと飲み込む。たった今助言をもらったばかりだ。
「わかった」
祠の場所に行く前にサクッとお使いを終わらせよう。指定はなかったし、野菜なら何でもいいだろう。
そう考えて、近場の無人販売所に走る。
見慣れてきた小屋のガラス戸を荒々しく開け放った。
「あれ」
いつも並んでいる野菜たちが無い。何だったら野菜が入れられていた木箱まで無い。
「なんで……」
こんな時に限って売り切れだなんて。商店街まで行くことを考えるとどうにも気分が落ち込む。
「おや?」
背後から聞こえた声に振り返ってみれば、そこには見知らぬおじさんが立っていた。
「こん、にちは」
咄嗟に笑顔で挨拶したけれど、声には警戒の色が乗ってしまう。
そんな私の様子を気にもとめず、おじさんは柔らかい笑顔を見せた。
「こんにちは。買い物かい?すまないね。ちょうど小屋の掃除をしていたところで」
改めて中を見渡すと確かに小綺麗になっている。そして掃除をしていたということは、この人が件の月岡さんなのだろう。
「何が欲しいんだい?家にはストックがあるから、来てくれたら売れるよ」
和やかに話す彼はどう見たって人殺しには思えない。やはり、噂は噂だ。
「その〜、明確にこれって決めていなくて」
「そうかい。それなら見てから決めればいい。家はすぐそこだしね」
歩き出した月岡さんの後ろを大人しくついていく。知らない人の家に行くことに抵抗はあるが、断るのも失礼な気がする。
すぐそこと言っていただけあって、ものの二、三分で叔父さんの家より大きな日本家屋にたどり着いた。
門塀を抜け、家の方に行くのかと思ったら保管庫はこっちと裏の方へ案内される。
きっと収穫なんかに使うのだろう、大きな乗り物が私を出迎えた。嗅いだことの無い匂いに満ちた納屋は薄暗く、少しだけ不安になってしまう。
そんな納屋の奥にある棚を示して、ここから欲しいものを取るように言った。
「うーん」
悩むほどの種類がある訳ではない。出来れば良い野菜を選びたいという欲が出て、じっくりとそれらを見比べていく。
ガタン、ゴン。
何か崩れたような、ぶつかったような音が聞こえて我に返る。
「月岡さん?」
返事はない。どこへ行ってしまったのだろうか。
怪我でもしていたら大変だと思い、音のした方へ歩いていく。なんとなく嫌な予感がする。
納屋の入口付近にあった物置から、カランカランと音がした。
「農具が倒れちゃったのかな」
取手に手をかけると妙に重い。鍵がかかっているという感じではなかったので、反対側から開けることにした。直せそうならそうしようと思って。
すんなり開いた戸から少し中に入ると、思った通りシャベルが地面に倒れてしまっていた。重かった方の戸側も確認しようと顔を向ける。
「え」
そこには、制服姿の女子がもたれかかっていた。手は後ろ手に縛られ、傍らにはちぎれたブレスレットが落ちていた。
私が渡したブレスレット――。
ドッと心臓が跳ねる。
「い、飯山さん?」
しゃがみ込んでそっと声をかけてみる。反応は……ない。
震える手で首元に触れる。脈はある!
「起きて、飯山さん!」
ぺしぺしと頬を叩いて、ようやく彼女は薄らと目を開けた。微睡みの中みたいなぼんやりした様子だったが私を認識したのか、大きく目を見開いた。
「困るよお嬢ちゃん。人の家で勝手されちゃ」
振り返らなくても分かる。月岡さんだ。どうしてここに飯山さんがいるのか聞くことなんて出来ない。どう見たって彼女は監禁されていた。
どうやってここから二人で逃げよう。
入口は月岡さんが塞いでいる。飯山さんがちゃんと走れるのか分からない。
地面に落ちているシャベルが目に入る。……やるしかない、のだろうか。
「ええ、はい。水神様が探していたのはこっちの娘だったのですね」
水神様?神様と会話している?
振り返ってみても、当然そこには人が一人立っているだけ。でも、月岡さんの目はどこか遠くを見ていて、放心したような力無い話し方も相まって、異様に感じた。
「藍さん」
小さく名前を呼ばれ、軽く袖を引っ張られる感覚。飯山さんは不自由な両手で私の袖を掴んだまま言葉を続ける。
「私が不意をつきます。とにかく走って逃げましょう。道は先導します」
力強い目で言われてしまえば、私は頷くしかなかった。
「では、行きます」
飯山さんが言うと同時に、月岡さんの手が伸びてきた。肩を掴まれそうになった私の髪を揺らし、茶色い何かが弾丸のように月岡さんの首にぶち当たった。
「いっっ」
よく見れば、首元に見覚えのあるイタチが噛み付いている。
「オサコさん!?」
私の後ろには誰もいない。飯山さんがオサコさんになった?
固まったまま動くのを忘れている私の顔を、器用にしっぽで叩いてからオサコさんは地面に降り立った。
そのまま月岡さんの横をすり抜けて行くのを見て、ようやく私の足が動く。
「何が、どう、なって」
数メートル前を走る後ろ姿に問いかけても返事はなく、こちらをチラとも見ない。
「待ちなさい!」
背後からの怒号に呼吸が浅くなる。
使われているのか分からない畑に足を踏み入れ、畝を幾つも飛び越える。
「オサコさん!絶対道路出た方がいいよ、これ!」
デコボコの地面だろうと軽やかに駆けるイタチは、私の言葉に対し短くキューと鳴いて、方向転換した。
キレイに直角に曲がった彼女に着いていこうと、向きを変える。
グキと音がした気がするほど、それこそキレイに足を捻って、私は転んだ。
「痛……」
すぐに起き上がろうとしたけれど捻った右足が悲鳴をあげる。
再びバランスを崩して地面に倒れた私の耳に、キーキーと甲高い鳴き声が届いた。
警告に似たその音にハッとして振り向くと、息を切らした月岡さんがすぐ後ろに立っていた。
「――ッ」
捕まったらどうなるか分からない。尻もちをついたまま距離を離そうとするけど、どうにも上手くいかない。
「だ、誰か!誰かいませんか!」
誰でもいい。助けてほしい。
叫び声は虚空に吸い込まれるだけ。
こんなところ、誰も通らないか。
月岡さんは何も言わず、どうしてか息を整えるばかり。
その顔は、歪んでいて、怯えているみたいに見えた。
「どうかしましたか〜」
間の抜けた声が近づいてきた。
「九条くん……!」
いた!こんな道をランニングコースにしている人が。
「あれ!?卜部さん?……え、てか何事?」
前と同じジャージ姿の九条くんは、戸惑いながらも近づいて私を助け起こそうと手を貸してくれた。
「ごめん、足挫いたみたいで……いやそれより!」
震える手で月岡さんを指さす。
「この人の家に、飯山さんが、監禁されてた」
私の言葉に、九条くんは一気に険しい顔つきになった。月岡さんと私を交互に見た後、唇を噛んだ。
「一弥君、私はーー」
「月岡さん……俺は、貴方はそういうことはしないって……信じて――」
そこで言葉を切って、九条くんは首を横に振った。そして、すぐにズボンのポケットからスマホを取り出した。
「警察、呼びます。いいですね?」