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ムーンライト #魔女集会で会いましょう

作者: 鴎野水平線

獣が傷ついた体を舐めて癒すように、魔女は月の白い光を治癒の魔法に使う。

『宴の魔女』は、城のバルコニーで月の光に己の身体を舐めさせていた。

晩秋の冴えた月光が、一糸纏わぬ魔女が囁く呪文によって、その白い肌についた傷痕をするすると解くように癒していく。

窓の向こうの大広間はすでにしんと静まり返っており、秋の豊穣の宴はとうにお開きになっていた。

もはや魔女の他には誰もいない、物音ひとつしないはずの深夜のバルコニーで、カタン、とかすかな人の気配が突如現れて、魔女はまじないを止めた。

振り向くと、あどけない顔をした少年が一人で立っていた。

魔女が口を開く前に少年は訊ねた。

「怪我をしているのですか?」

傷はもうほとんど治癒されたところだった。魔女は慌てずローブを拾い上げ、肩から羽織って肌を隠し、囁いた。

「……見ない顔だね」

「僕、ほんとは宮殿に上がってはいけないんです。今日のパーティーにも招かれてないんです。内緒で来たんです」

7、8歳だろうか。小さい声で喋っているがもじもじしたところがなく利発そうな印象を受ける。

「見つからないようにカーテンの後ろでじっとしてたら眠ってしまいました。もう誰もいないのかと思ったら、貴女がここにいて……。あの、貴女は誰ですか?」

では、この少年はずっと大広間にいたのか。

魔女の胸はズキリと痛んだが、しかし、あくまでもきょとんとした少年の顔つきと、今はじめて魔女の姿を見たような振る舞いは演技とは思えなかった。カーテンの後ろで寝入ってしまったというのはおそらく本当なのだろう。

ならばいい、と魔女は思った。こんな幼い少年に『宴の魔女』の舞台を見せてはいけないのだから。

魔女が長い睫毛の下から黙って少年を見下ろしていると、少年は小首を傾げた。

「あの、お怪我は大丈夫ですか?」

「質問が多いね。おまえは誰なの」

「僕は、ええと……お城の菜園の西側の、キャベツ畑の近くにある小屋で暮らしてます」

なるほど、使用人の子どもか。

貴族たちが集まる秋の宴には確かに招かれざる客だ。

「パーティーを見てみたかったのだね」

魔女は優しく言った。

すると少年は首を横に振って、

「お父さんにお会いしたかったんです」

「……おまえの父さんは畑を耕しているんじゃないのかい」

「いいえ。いいえ。僕のお父さんは南に領地を持つお方で、宮殿にいらっしゃるのは、年に数回、王さまのお召しがある時だけなのです。僕は正式な子どもでないので会うことは禁じられているのですけれど、お母さんの病気が悪くなっていることを知ってほしくて……」

今度は、胸ではなく左肩の後ろがズキリと痛んだ。月光で癒したばかりの傷が、あの髭面を思い浮かべただけで反射的に幻痛を引き起こす。

南の領地を治める貴族。突き出た顎と、骨と皮ばかりの細い腕をした男。

病の母を想って宮殿に忍び込み、こんな真夜中に得体の知れぬ女と差し向かいでも堂々としている少年とは何ひとつ親子らしき共通点が見出せない。

月明かりに煌めく金髪と淡いブルーの瞳は品があり、父親の要素は明らかに受け継がれなかったようだ。

去来した様々な思いをすべて飲みくだし、魔女は告げた。

「残念だが宴は終わってしまったし、お父上には会えないだろうよ。小屋にお帰り。おまえが城に入り込んだことは誰にも言わないから、おまえも、ここで私を見た、と誰にも喋るんじゃないよ」

「貴女が、魔女さまだから?」

「そうだよ。さま、はいらないけどね。私は『宴の魔女』だから」

「宴の……」

「お城で宴が開かれる時だけ必要とされる魔女は、魔女のうちでも最下層。最も低い、いちばん下、つまり踏んづけても何してもいいってことさ」

表向きの宴会が仕舞いになったあと、王によって特に選ばれた貴族だけが参加できる深夜の宴は公然の秘密だった。五百年前の王が捕らえたという美貌の魔女が、王が何回代がわりしても変わらずひそかに宮殿の地下深くに繋がれていて、王が直々に催す祭事の時に限り戒めを解かれ地上にのぼり務めを果たすのを強いられていることは、この国の王にとっては城の庭に愛玩用のアヒルが放たれている風景と同じくらい普通のことなのだ。


「踏んづけられてもいい人なんていません。魔女さま、今なら逃げられるのでは? 僕、誰にも言いませんから」

宴の内容についてはたぶんよく理解していないものの、この魔女が虐げられた存在であることを真剣に受け止めた少年は、城の外を指差した。

魔女は、いま会ったばかりの他人に対して驚くほど真っ直ぐな少年を、好もしく感じた。だから正直に答えた。

「国王の許しがなければ城を出ることはできない。五百年前に、そう契約を結んだから」

気取った貴族どもの薄暗い欲望からできた傷を月の光で治したあとは自らの足で地下牢へ戻り、次の宴の季節までじっとしている。数百年の時を経ても変わりばえしない人間の悪徳に吐き気を覚えることすらもうなくなった。そして、次の王、次の次の王に期待を抱くのもまた、とっくの昔にやめていた。

「おまえはいい子だね。母上の病気が良くなるように祈っているよ」

魔女は膝を折り、少年の額にキスをしようと柔らかな金色の前髪をそっと持ち上げて、はっと手を止めた。

前髪の生え際ぎりぎりの所に、奇妙な形の痣がある。

五芒星を斜めに断ち切って、魚の尾ひれをくっつけたような、言葉にするのが難しい形状の痣だ。

「……見たことがあるぞ」

こんな不思議な形の痣は一度見たら忘れない。

ましてや、己の人生を大きく捻じ曲げた相手の顔にあったものなら。

蛇腹状に広がっていた五百年の歳月が一瞬で折りたたまれて、この身を捕らえた王の薄ら笑いと歪んだ痣が、つい昨日目にしたものとしてまざまざと蘇る。

「僕のおでこ、変ですか……?」

「いや。……運命とはまことに度し難いものよな」

魔女は少年の手を取り、額でなくその甲にキスをした。

「私はおまえに良い贈り物ができるかもしれない。それは同時に、私自身への贈り物にもなるのだ」

少年は目を瞬いた。

「僕、謎かけは苦手なんです……」

「私たちはまた会える、という話だよ」

自分の正しい身分も教えられず、与えられて然るべき恩恵を隠されたまま、母親と城内に住まわせてもらっていることに感謝すらしているであろう少年は、それはそれで幸福な人生を送るのかもしれなかったが、この夜の邂逅は、彼の人生における予定調和をぶち壊すに充分だった。

王国が亡ぶ日を待つより、少年の美しい金髪に王冠を被せる方がずっと楽しそうだと魔女は思った。たとえその王冠が彼にとっていばらの冠であっても。

さあ、明日から忙しくなる。

白く光る月が雲に隠れ、少年がはたと気がつくと、もう魔女は消えていた。

まぶたの裏に焼きついた魔女の裸身と妖しい微笑が、生まれた時からひたすらに無垢で純であった少年の心にひとしずくの闇を垂らしたことはまだ誰も知らない。

凪の王国に風が起こる。激動の時代の始まりだった。





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