5.窓に! 窓に!
「図書館?」
「行ったらわかる」
「すでに行ったけど……まあいいや、どのみち同じ場所に留まってはいられないんだ」
緑青子たちは少年に教えてもらった道を下り、一度村に戻ることにした。
少年が言うには、今の時間はみんな儀式のために山に入っており、逆に村は安全らしい。
「え、じゃあアイツらアタシをほったらかしにして、山行ったってこと?」
「……私が、見張りのはずだったんよ」
まだ涙声のおばちゃんが答えた。
「なるほど、ならおばちゃんはアタシを捕まえに来たのか? 本当に信用していいのか?」
純粋な疑問として、緑青子は聞いた。脅すつもりはなくとも、彼女の声には威圧感があり、おばちゃんは縮こまる。
「し、信じて! 私は……あいつらの仲間じゃないんよ! ゴンダも食べたことない!」
「本気で言ってんの……? あの村で食べずに、それを隠し通したって?」
「ゴンダを食べると体がおかしくなっちゃうから、外の人と関わることが多い私がそうなったらいかんのよ! だからお前は食べちゃイカンって、そういう決まりだったんよ……」
緑青子はちょっとした気分で聞いただけだったので、おばちゃんの必死すぎる様子が、逆に怪しく思えてきてしまった。
それを察してか、少年が間に入った。
「僕にダゴンの力を弱められないかって相談してくれたのは、その人なんだ」
彼女をかばうように少年は言った。「だから大丈夫」と。
「そうなのか、おばちゃんよくそんなこと思いついたな」
「止められる方法はないかって、ずっと考えてたからねえ……初めて御子様を見たとき、この子ならって思ったんよ」
「ほー、直感でそう感じたわけか」
緑青子は小声で「セシル」と呟いた。インカムは即座に音声を届ける。
『声聞いてる感じだと、嘘を言ってるようには思えないわ。私の直感』
「ほー」
間の抜けた返事をする緑青子の表情は、どこか楽しげだった。
「わかった、信じるよおばちゃん。アタシを助けてくれた少年が味方だって言ってるんだからな、信用できる」
『あららら? 私の言葉は信じないの?』
セシルに対しては、適当に「ククク」と笑って返事をしておいた。
~~~~~
おばちゃんが落ち着きを取り戻すころには村についた。
図書館まで戻り、様子を確認する。相変わらず電気はついたままだった。入る前に、村の方へ気を配る。聞いていた通り、人の気配はなかった。
「で、この図書館に何があんの?」
「こっちよぉ」
おばちゃんと少年は図書館の中の、漫画コーナーに向かって行った。てっきり村の歴史コーナーにヒントが隠されているのかと思っていた緑青子は、拍子抜けした。
「踏み台取ってくるから」
おばちゃんは、背の低い子どもが使うための台を取りに行った。待っている間、少年はぴょんぴょんジャンプして、必死に本棚の上の方に手を伸ばしていた。
緑青子はその姿に微笑ましさを覚えたが、次第にじれったくなって、何も言わず少年を抱え上げた。
「わっ」
「ほれ、どの本?」
「じ、自分でやれるからおろして」
「できてなかっただろ。それとも踏み台の方が好みか? アタシは踏み台になるべきだったか?」
「あぅ……」
『ミオちゃんが取ってあげればいいんじゃない……?』
途中で、セシルが管制室から口を挟んだ。言われてみればそのとおりだと思ったが、少年を抱えた状態はなんとなく心が落ち着いたので、そのままにした。
「アレだよ、アタシらまだ知り合ったばかりだから。触れ合って信頼関係築かないといけないから」
少年に、そしてセシルにも伝わるように説明をした。信頼関係という言葉が良かったのか、少年は力を抜いて体重を預けてきた。
「ふっふっふ、やっと観念したか。で、どの本を取りたいの?」
「右端の、48巻」
「はいよ」
「ひとつ下の段、真ん中、15巻」
少年はそれぞれ別の作品の別の巻を取ったかと思えば、それを入れ替えて棚に戻した。
「次、2巻。上に戻って17巻」
疑問を抱きつつ言われた通りに動いてやると、少年はまた巻を入れ替える。
「ちょっと待て少年、イタズラは感心しない。いいか? たとえばCDを聞き終わったらキチッとケースにしまってから次のCDを聞くだろ? 本も同じように、あるべき棚にあるべき順番で置くべきだ。少なくともアタシはそーする。ちなみにアタシの仕事仲間はそのへんズボラでね、大事な資料が部屋に散乱してる。少年にはそんな大人になってほしくないな」
『最近は片付けがんばってるもん……』
「いいから。お姉さん、次は下の段」
「話聞いてた?」
少年の態度に呆れつつも、信頼関係のことを言い出したのは自分なので、今は少年に従うことにした。
「後でちゃんと直せよ」
「うん。それより、見てて」
何度か作業を繰り返し、少年が最後の一冊を並べ終えると、背後からゴゴゴ……と壁がずれ動く音がした。
慌てて振り返ると、本当に壁が動いているのが目に入った。そしてすぐ横には食堂のおばちゃんが。
「おばちゃん……いたなら声かけてよ」
「そうしたかったんだけど……邪魔しちゃ悪いかなって」
緑青子は、自分に抱えられて猫のようにブランと垂れている少年を見やった。気恥ずかしそうな表情を見せる彼に嗜虐心をくすぐられたが、何も言わず下ろしてやった。
「隠し扉か。少年、お前が入れ替えた本が鍵になってたんだな」
「うん。教祖がこの仕掛けを作ったんだ。あの人がいじってるのを何度か見て、覚えた」
教祖、というのが今回の黒幕だろうか? そう考えながら、緑青子は隠し扉の方へ進む。
ためらいなく進む緑青子を、おばちゃんは引き止めた。
「お嬢ちゃん、やっぱり、見るのはやめたほうが……」
「これが仕事なんだ。それとさおばちゃん、昼間は話せなかったけど、アタシ田村明のファンなんだよ、芸人の。彼が今どうしてるか気になってしょうがない。この先に行けばそれが分かるんだろ?」
それを聞いたおばちゃんは、意を決したように道をあけた。緑青子も同じように覚悟を決め、先へと進んだ。
「階段……地下か」
壁の裏側には小さな空間があって、そこに螺旋階段が備えられていた。横幅はかなり広めで、緑青子がかばんを持って入っても、空間には余裕があった。
コツ、コツと音を立て、一段一段踏みしめるように階段を下りる。進むにつれ、山中に似た蒸し暑さが緑青子にまとわりついた。
そして、嫌になるほど嗅がされた生臭さも。
「このにおい……まあそうだよな、察してはいたよ」
階下に足を下ろした時、緑青子の前には、中途半端に変異した姿の田村明がいた。山で遭った魚人とは違い、顔は比較的原型を留めていて、誰なのかがハッキリとわかる。しかし体は、手足が異常に伸びたり、鱗やヒレが部分的に形成されていて、いっそ変異しきった魚人の方がマシに見えた。
「それと、アンタもここにいたか」
変異体はもう一体。番組に以来をよこした女性だ。
写真を撮影し、セシルに送る。
2体は檻の中で鎖につながれており、苦しそうにうめいていた。まだ生きているということが、彼らにとって希望なのか絶望なのかは考えたくなかった。
「僕がダゴンを弱めきれなかったせいで、こうなってしまったんだ。…………前に見に来たときよりも酷くなってる」
緑青子の後ろから少年の声がした。緑青子を心配して、少年とおばちゃんも地下に降りてきていた。
「それは違うぞ少年、これはダゴンを呼び出したやつのせいだ。少年には何の責任もない」
緑青子は2メートル近い身長を無理やり屈め、少年と目線を合わせてしっかり言う。少年は小さくうなずいた。
「お嬢ちゃん、あんまり驚かないんやねぇ」
「仕事柄、こういうのは見慣れてる」
どんな仕事? と聞かれる前に話題を変える。
「にしても、調査打ち切りの裏でこんなことが起きていたとはね」
改めて番組のことを思い出す。打ち切りになる理由はいくつかあり、たいていはそのどれもが現実的な理由だ。だがひとつだけ例外がある。
取材が打ち切られるもうひとつの理由、それは「一般人にはどうすることもできない事象に遭遇した時」だ。
「それに対処するのがこっちの仕事だ。アンタらの調査、アタシが引き継ぐ」
この村に来た当初とは違う、本物の覚悟の言葉だった。それを胸に、檻の中の2人を見据える。
まじまじと観察すると、山で出会った魚人との違いがよくわかった。それについて、緑青子の中にひとつの疑問が生まれた。
(変異はウチの調査員の方が進んでいた……だが、先に村に来ていたのは番組の方だったはずだ)
さらに思い出してみれば、番組の中で調査打ち切りを伝えたのは、他でもない田村明本人だった。つまり、彼は一度無事に生還している。
(そういや、映像の中に古炭久村は出てこなかったな。その代わり、山の中に家が数件……)
何かが頭の中で引っかかり続ける。
「ねえおばちゃん、この2人はダゴンを食べてこうなったんだよね。村に来たのはいつごろ?」
「2週間くらい前かねぇ」
それなら合点がいく。彼らが有神山を訪れたのは、機関が調査員を派遣するより前のことだが、村に入りダゴンを食べたのは、それより後だ。
①番組が来る・②無事に取材を終え放送・③機関が情報を入手、調査員を派遣・④番組メンバーが行方不明、という順番になるわけだ。③と④で時系列が前後するからわかりづらかったのだ。
しかし、何故そんなことが起きるのか? この2人も強制的にダゴンを食べさせられてこうなったのだろうが、こんな中途半端な状態になっている理由はなんだ? 機関の調査員と同じように、完全に変異するまでダゴンを摂取させればいいのではないか?
「そもそも、なぜ最初は古炭久村に行かなかった……?」
疑問を口にした時だった。
「ゥヴヴア! ゥゥゥゥアヴア!」
「どあああビックリしたあ!」
田村明の変異体が、檻を叩きつけながら叫び声をあげた。彼は顔の形こそ留めているものの、表情まではコントロールできないようで、めちゃくちゃに筋肉を動かしては何かをアピールしていた。
しかし、緑青子には彼が何を言っているのか理解できなかった。ただ暴れ狂っているようにしか見えなかった。
早く地下から出なければという思いに駆られ、緑青子たちは螺旋階段を急ぎ足で上った。その途中、緑青子は自分が魚人の言葉を理解できなくなっていることに気付いた。山の中では理解したくなくても感覚でわかったのに、今はそれがない。さらに言うと、ゴンダを食べたい、他人に食べさせたいという衝動も消え去っていた。
(あのとき吐き出したからだろうな)
自分の中にいた寄生虫のような黒い塊、あれが原因としか考えられなかった。それを取り除いてくれた少年に、緑青子は心の中で惜しみない感謝を述べた。
階段を上りきり、図書館エリアへと戻る。万が一にも地下の変異体が外に出ないように、隠し扉の鍵となっている漫画本をすぐさま整理しにかかった。
片付けながら、緑青子は願いにも似た思いを少年にこぼした。
「あの2人……可能なら助けたいな」
「僕もそう思う。そういえば、あの女の人は、探してる男の子に会えたのかな。僕と同じような力を持ってるみたいだけど……この近くにいるのかな」
「なに……?」
つながっていた情報が、一瞬にして切断された。
話が違う。番組の中で、彼女は昔出会った男の子にお礼がしたいと言っていた。だが、ここにいる少年の口ぶりは、彼と彼女が出会ったことはないということを示していた。
「少年、前にあの人に会ったことは?」
「え? ないよ?」
抱えていた少年を下ろし、咄嗟にセシルに連絡を取った。向こうも今の会話を聞いていたようで、すぐに依頼者の女性のデータを探し始めた。
背中を冷や汗が伝う。このまま進むわけにはいかないのに、強制的に歩かされているような感覚に陥った。
ピチッ、ペタッ。
「ッッッ!」
図書館の外から、あの足音が聞こえた。少年とおばちゃんもしっかりと聞いたようで、思わず3人で身を寄せ合った。
「な、なんでここにおるん!? 今は山の方じゃあ……!」
「おばちゃん、静かに。大丈夫だ、何かあってもアタシが守る」
2人の肩を抱き、緑青子は自分ごと鼓舞した。
幸いなことに、足音の数からして敵は1体だと思われた。ならば後は位置を探るだけだ。
本棚の影に隠れ、意識を集中させる。
ピチッ、ペタッ。ピチッ、ペタッ。
緑青子の冷や汗が大粒になった。この図書館の出入り口はひとつ。緑青子たちのいる場所からは、ちょうど本棚に隠れて見えない位置にそれはあった。
普段なら気にもとめないことが、今は気になって仕方がない。
(あの出入り口、施錠されてないよな)
図書館の鍵が開いていることを、こんなにも恨む日が来るとは思いもしなかった。今、魚人は図書館の外周を回るようにして歩いている。いずれ出入り口のところに到達し、確実に中に入ってくるだろう。
本棚がお互いにとっての遮蔽物になり得る以上、敵の位置を性格に把握した者が勝つ。
ピチッ、ペタッ。ピチッ、ペタッ。ピチッ、ペタッ。
ピチッ──。
音が、止んだ。
「ああ! 窓に! 窓に!」
おばちゃんが緑青子の背後を指差し、顔をこわばらせる。振り返ると、魚人が窓に身体を張り付け、こちらを覗いていた。口元はタコ足で隠れてよく見えないが、確かに笑っているように見えた。
魚人の拳が、力強く窓に叩きつけられた。ガラスが蜘蛛の巣状にひび割れる。もう一発。ひびが深くなる。3発目で、外と中を隔てる盾に穴が空いた。
軟体動物が岩の隙間に入り込むように、体をくねらせ、魚人は図書館に入り込んできた。
緑青子の手には、すでにかばんから取り出した日本刀が握られていた。しかし、いきなり切りかかることはしなかった。
山の中での感触が、嫌な手ごたえになってよみがえる。緑青子は自らの手で同胞を切り殺したのだ。
(派遣された調査員は1人じゃないからな。身内の可能性がなればやりやすかったんだけど)
他人なら気にしない、というわけではないが、やはり「仲間殺し」という行為に対しての忌避感は尋常ではなかった。
(それに)
緑青子は自分にしがみついている少年を見た。彼は確かに「ダゴンの力を弱められる」と言った。彼が成長すれば、このダゴンの呪いを完全に解除できるのではないかという期待があった。
ならば。
「アルキュミア」
緑青子の想いに応えるように、かばんは内部の闇から新たな武器を生成した。
それは、巨大な金づちだった。
右手に刀を、左手に金づちを携えて、緑青子は魚人と対峙する。
魚人は自慢げに腕を振り回しながら、ゆっくりと近づいてきた。ヒレや水かきのせいで普通よりも面積が広い腕は、ただ適当に振るだけで周囲のものを巻き込み、破壊していく。
雑誌を、小説を、児童書を。辺り一面に本が散らばる。
緑青子の足元に、〈はらぺこあおむし〉が飛んできた。
「お前なあ、本は大事にしろよ。みんなが読むものだぞ」
本を拾い、彼女は続ける。
「まあ少なくとも、お前が小さいころに絵本とか全然読んでなかったってのはわかったよ。心の教養って言えばいいのかな、そういうのがまったく感じられない。今からでも読み聞かせしてやろうか?」
緑青子は絵本のページをパラパラとめくってから、まだ壊されていなかった漫画本の棚に置いた。
緑青子の言葉が通じているのかいないのか、魚人は変わらず腕を振り回して図書館を破壊する。
棚の破片が緑青子の顔に降りそそぐ。敵の拳が、目と鼻の先にあった。
「オラァ!」
先手を取ったのは緑青子だった。拳をしゃがんで避け、起き上がると同時に左手の金づちを叩き込む。
口元のタコ足がクッションになっているとはいえ、緑青子の手にはしっかりと、アッパーカットが決まった手応えがあった。
「本大事にしろっつったよなぁー、しかも図書館の本だぞ。え? 自分が利用しないからって雑に扱っていいとでも思ってんのか?」
アッパー後の体勢から、金づちを思い切り振り下ろす。柔らかい頭がドゥルンと金づちを滑らせるが、魚人はフラついた。緑青子はそれを見逃さず、ダメージが入っていることを確信した。
「致命傷にはならないってのが逆に恐怖だろ」
緑青子の左手は止まらない。ゆっくりだが確実に、魚人の頭部に衝撃を与えていく。魚人は声にならない悲鳴を上げ、やぶれかぶれに拳を突き出す。
だが、その拳も当たらない。緑青子は正確無比に攻撃を見切り、魚人の手に刀を突き刺した。
長い刃は手を貫通し、床にまで到達する。魚人はその場に固定された。
「できれば早めに気絶してくれよ。少年の前でタコをボコり続けるお姉さんってのは絵面がよろしくないからな」
緑青子は執拗に魚人の頭を殴り続けた。日本人離れした長身に、色々な意味で肉付きの良い身体、その体格から繰り出される鉄槌は、いかに軟体の怪物といえど耐えられるものではなかった。
薄れてゆく意識の中、魚人が最後に見たのは、長い黒髪の奥に輝く、獣のような瞳だった。
やわらかい体を何度かバウンドさせ、魚人は床に倒れ伏す。ビクンビクンという痙攣が、かろうじて生命を維持していることを示していた。
『すごい音してたけど大丈夫?』
「ああ、全部アタシが殴った音だ」
セシルがドン引きしているのが伝わったが、緑青子は意に介さない。それよりも気にするべきは、後ろにいる2人だ。
「もう終わったよ、敵は倒した」
緑青子が優しく語りかけると、少年とおばちゃんは安心しきった顔で緑青子を見上げた。
「お嬢ちゃん、あなた何者……」
「説明は後だ。追撃が来る気配もない、今のうちにここを出よう」
へたり込んでいた2人を立たせた、その瞬間。
──ウウウゥアア
開けっぱなしの隠し扉、そっちの方から声がした。檻を破ったような音はしなかったはずだが、「脱出された」という予感が全身を貫く。
「ウソだろ……」
声は想像以上に近く、螺旋階段を上ってきているようにも聞こえた。
「少年ッ、急げッ! 本を元に戻せェェェェーーーーッ!」
自身は隠し扉の前に走りながら、急いで少年に指示を出す。少年は緑青子の形相に面食らっていたが、瞬時に状況を理解し、本の並びを入れ替えにかかった。
漫画本の棚が壊されていなかったことと、上段の作業は終えていたのが幸運だった。後は少年でも手の届く下段だけだ。
少年が本の並びをキチッと元に戻した時、重たい壁が動きだし、隠し扉は完全にふさがれた。壁は厚く、声はすっかり遮断された。
「いい動きだ少年。さすがにあの人たちとは戦いたくないからな」
緑青子が軽く頭をなでてやると、少年は少しだけ頬を染めて顔を伏せた。
「それじゃ出るか、アタシはまだやることがあるけど……2人は村から逃げたほうがいいかもしれない」
村の外であれば、機関の人間と安全に合流できるかもしれない。できればダゴン対策として、少年には一緒にいてもらいたかったが、危険にさらすわけにはいかなかった。
少年とおばちゃんを引き連れて、図書館の出入り口へ向かう。
そこから外に出ようとした時、緑青子は正面数百メートルほどの位置にも、大きな何かが動いているのを視界にとらえた。
暗闇の中、見えるのはシルエットだけ。ヒタヒタと身体をゆらして歩く姿は他の魚人と変わらないが、雰囲気が何か違う。
距離は十分離れている、だがこのまま正面切って出るのはマズい、そう判断した。
「窓に! 窓に!」
窓の方から逃げろ、という意味で、緑青子は2人に指示した。同時に、かばんを思い切りぶん投げる。窓に直撃したかばんはガラスをぶち破り、人がじゅうぶんに通れる穴を作りだした。
そして2人がけがをしないよう、刀を振るって窓枠に残ったガラスを残らず切り落とす。
建物の裏側に出る形で、緑青子たちは脱出に成功した。すぐ近くには海が見え、青白く照らし出された水面は、まるでその下に何かが潜んでいるかのように波打っていた。