4.星の御子、そしてダゴン
セシルが息を呑む音が、耳に抜けていく。緑青子もこの状況をどう説明するべきか、言葉に迷っていた。
「とにかく、画像を送る」
ポケットから端末を取り出し、地に伏した魚人の全体像と、件の布切れを撮影する。送信が完了すると、すぐにセシルから返事があった。
『このマークは』
「ああ」
死体に張り付いた白い布、そこには緑青子たちが所属する機関のシンボルマークが縫い付けられていた。この布はおそらく、魚人がまだ人間だった頃の名残だ。
「調査員との通信が途絶えたのはここだったか?」
『いいえ、まだ先のはず』
「ならこの先で改造されて、この辺に放たれたってことか」
『それにしてもこの姿……とても、冒涜的ね』
「……人間を歪められるだけ歪めたって感じだ」
業務上、人間が変異した成れの果てに遭遇することは珍しくない。だがそれでも、日常とは絶対に相容れない異質を前にした時の、吐き気を催す感覚に慣れることは決してないのだ。ましてそれが、同胞であったなら。
「楽に死なせてやれたとは思ってる」
ほんの数秒だけ、遺体に黙祷を捧げる。
黙祷の最中、緑青子は目をつむっていた。視覚の遮断、それは、他の感覚器の鋭敏化を伴う。
「まだいるッ」
聴覚、嗅覚が危険を訴える。危険が未だ遠ざかってはいないことを、緑青子は肌で感じていた。
前方から、魚が跳ねるような生臭い音がする。しかも一体ではない、複数だ。
さらに耳へ意識を集中させれば、遠くから人の話し声のようなものまで聞こえてきた。
「まずいな、囲まれそうだ」
『ハデな戦闘は極力避けて』
「分かってる、今は退くよ」
音を立てないように、少しずつ後ずさりする。音やにおいから、敵がいない方向はあらかた把握した。後はいつ逃げ出すかだ。
「気づくなよ……頼むから」
気味の悪い足音は次第に大きくなる。月明かりは緑青子に味方し、敵の方角のみを照らしていた。
冒涜的な造形が4体ほど顕になった。あちらが緑青子を発見した様子はまだない。だが、
「チッ、ちゃんと埋葬してやるんだった」
緑青子が斬り伏せた1体の切断遺体、それが見つかってしまった。4体の魚人はその遺体を取り囲み、何やら泣いているかのような声を上げた。
泣く、と言っても、我々人間が悲しみに暮れて出す声とはまるで異なる、脳を揺さぶり鳴らすかのような声だ。そんな声にも関わらず、緑青子はそれが泣いているものだと、直感的に理解できた。
緑青子が「アタシは奴らの感情を理解できている」という事実に、激しいおぞましさを覚えた時、魚人の中でもひときわ体格の大きいものが、突然緑青子の方を振り向いた。
「おいおいおいおいおいおい、そりゃないだろ」
嫌な予感は的中し、魚人たちは一斉に叫んだ。
『ミオちゃん、逃げて!』
「了解! ……深海魚みたいなツラして視覚が発達してんのか?」
疑問を思考するより早く、意識を逃走ルートに向ける。緑青子が駆け出すと同時に、魚人たちも彼女を追いかける。
「あ、あいつら意外と早いッ! あの足でよくやるよ!」
魚人たちは、陸地を走るには向いていないはずのヒレ付き足で、驚くべき速度をもって追いかけて来る。しかも緑青子が後ろを振り返った時、魚人の数が増えているように見えた。
「逃げ切れない速度じゃないが……」
走りながら、緑青子は魚人の声とは別の、人語として聞き取れる音声の方に注意を向けた。細かい会話までは聞き取れないものの、「儀式」がどうとか「生贄」がどうとか、お誂え向きの言葉が聞こえてくる。
「これはアレだ、一度山を降りるべきだな──うおっ!」
『ミオちゃん!?』
周囲にばかり気を取られていたせいで、緑青子は自分が今、どこを走っているのか理解していなかった。
滑った足が再び地を蹴ることはなく、緑青子は大きくバランスを崩した。
暗くて見えないが、感覚で分かる。ここは崖だ。
「おおおおああああああーーーーーーッ」
緑青子の叫びは、こだますることもなく、虚しく山に吸い込まれていった。
〜〜〜〜〜
『……ちゃん! ミオちゃん!』
「痛ってぇ……何メートル落ちた……?」
『ミオちゃん! 良かった! 生きてた!』
「うっわ、髪めっちゃ汚れてる……伸ばしたのが徒になったか、でもアタシ長い方が好きなんだよな」
気づけば遥か崖の下。どうにか一命を取り留めた緑青子は、髪に付着した落ち葉や土を払いながら、冷静に周囲を見渡した。
周囲は変わらず暗いが、月はそれほど動いていない。気絶していた時間はそう長くないだろう。
魚人や人間の声は聞こえず、気配もない。ひとまず安全か。
「でもずっとここにいるのはダメだ。動けるか……」
緑青子はゆっくり起きあがろうとして、瞬間走った激痛により、再び天を仰ぐことになった。
「やっべぇ、足折れた」
『そんな!』
「いや命に関わる感じじゃないよ? まあこのままだと時間の問題だけど」
痛みをこらえ、治療できる状態かどうか確認する。
しかし緑青子の足はあらぬ方向に折れ曲がり、応急処置程度ではどうにもならないのが見て取れた。
それをセシルに報告すると、彼女は一瞬だけ取り乱しそうになったものの、すぐさま救護班の手配をしてくれた。
「ちっくしょー、あの番組の依頼者と同じ状況になっちまった」
緑青子はこの任務のきっかけとなった番組の内容と、今自分が置かれている状況がまるきり同じであることに気づくと、自嘲気味に笑った。
『……そういえば、ちょうどその時に少年が現れたのよね』
「あー、だったね。セシルみたいにキレイなおねーさんなら少年も寄って来たと思うけど、アタシはどうだろうな」
冗談を言いながら、頭の中で救護班との合流地点を考える。古炭久はあまりにも危険なため、村の中まで来てもらうことは難しい。だが自分が移動することはもっと難しい。
思ったよりヤバいんじゃないか、そう思った時だった。
「お姉さん、大丈夫……?」
「……マジか」
視界の向こうの暗がりから、金髪、碧眼で色白の少年が姿を現したのだ。
「セシル、ターゲットと接触」
『ほ、ほんとにいるのね……?』
「雰囲気はただの少年だが、間違いない」
目の前にいる少年は、どこにも異常な点などなく、文字通り「少年」と形容するしかない存在だった。だが彼が放つ気配はどこか神々しく、気軽に触れてはいけない気にさせられる。
そんな彼女の警戒を強制的に解くかのように、少年は緑青子の元へ駆け寄った。
「足、ケガしてる」
「言われなくても分かって――なにしてんだ少年」
少年はおもむろに屈むと、緑青子の足に手をかざした。
光が緑青子の足を包み、焼け付く痛みが、心地よい温かさへ変わる。
発光が収まったとき、緑青子の足は完全に元通りになっていた。
「すげ……治った」
『えっ、ミオちゃん足治っちゃったの?』
「お姉さんなら、まだ間に合う」
「待て待て、せめて説明を頼む少年」
緑青子の言葉を無視し、少年はさらに緑青子に近づくと、おなかの辺りに手を当てた。
「ちょ、ちょっとどこ触って……」
大胆な接近に困惑したのも束の間、緑青子は強烈な吐き気に襲われた。
「うっ……うぐっ……お前アタシに何を……」
『ミオちゃん? ミオちゃんどうしたの!?』
「う、お゛っ、ぇぇえ゛ええええ」
セシルの気遣う声が耳に届くが、返事をしている余裕はない。せり上がる胃酸のにおいに鼻腔を焼かれながら、胃の中のものを一気に吐き出す。
緑青子の体内を蹂躙しながら這い出てきたのは、オタマジャクシのような黒い塊だった。ズルリとこぼれ落ちた塊は、地面の上でビチビチと跳ね動く。
「うげぇーーーーッ! なんだよコレ!」
『なに!? なにを吐いたの!?』
「あ、アタシの中から……オタマジャクシが出てきた……しかも生きてるよ」
『なに言ってんの!?』
自分でも何を言っているのか理解しがたいが、今、自分が吐き出したものが事実だ。
この村で食べたものにそっくりの黒さと、質感を持った異物。
「この黒いの……まさか、ゴンダか?」
「ゴンダじゃない」
緑青子の予想を、少年が否定する。
「じゃあなんだよ、まさか方言の通りクロマグロって言うんじゃ――」
「ダゴン」
その言葉をインカムが拾い、セシルはつい声を漏らした。
「どうしたセシル? もしかしてダゴンのこと知ってんの?」
『古代メソポタミアにおける神様よ。それと……クトゥルフ神話に出てくる怪物』
「クトゥルフっていうと、あのラヴなんとかさんの?」
『ハワード・フィリップス・ラヴクラフトね』
H・P・ラヴクラフト、20世紀初頭に活動していた実在の作家だ。おぞもましくも魅力的な作品群は数多の人間の心をとらえ、彼と彼の生み出した世界は「クトゥルフ神話」として大系化された後、今日にいたるまで、様々な作家と作品に影響を与えながら長く愛され続けている。
ただ、それは創作物だからこそ楽しめるという話。そのおぞましい世界のかけらが、我々の世界に踏み込んでくるというのなら話は別だ。
「なあ、アタシの仕事ってのは、不思議な物質を回収したり制圧したりすることだよな? 神話生物は管轄内なのか?」
『まあ……広い目で見たらそうじゃない? それにこうして現実に現れたなら、たとえ神話だろうと私たちで対処しないとね。それに、もしかしたらミオちゃんの体にまだ何か残ってるかもしれないし、どっちにしても放っておけないわ』
「つまり?」
『お仕事がんばって♡』
「はーっ……了解した。とにかく少年の保護だな」
緑青子は、大人しく自分を見守っていた少年に目を向けた。
「まず少年、ケガを治してくれてありがとう。それとここは危険だから、すぐに離れた方がいい」
「僕は大丈夫」
少年はそれだけ言うと、ついてこいとでも言うかのように歩き出した。
「ここ、見えづらいけど小さい川があるんだ。これに沿っていけば山を下りられる」
「いや、アタシはここに残らなきゃいけないんだ。それより少年、キミ何者?」
いきなり現れ、ケガを治したかと思えばゴンダ、もといダゴンを取り除いてしまった。どう考えてもただの美少年ではない。
少年はしばらく口ごもった後、迷いながらも口を開いた。
「みんなには、星の御子って呼ばれてる」
「星の御子……ね。なんか呼びにくいからとりあえず少年でいっか」
緑青子は少年から目をそらし、地面を見る。先ほど吐き出した黒い塊は、その場で弱弱しく跳ねていた。
「ところでこれはどうしたらいい……?」
「放っておけば、土にかえる」
少年の言う通り、すでに弱まっていた動きはすぐに止まり、黒い塊はボロボロとくずれていった。月明りが照らす下には、もうただの地面しか残っていなかった。
異物が自分の中から完全に消え去ったという安心感が、胸をつつむ。
さて次はどうするか、と緑青子が口を開きかけた時、少年に教えてもらった道の方から懐中電灯の光が届いた。見つかってしまったと思い、緑青子はすぐさま戦闘態勢をとる。だが、少年がそれを制した。
「御子様~っ、お嬢ちゃんも! 無事だったかい!?」
「おばちゃん!?」
山道を上ってきたのは、食堂のおばちゃんだった。
「てめー……よくもアタシにあんなもん食わせやがったな……」
「落ち着いて、この人は味方だから」
「どういうことだ少年」
少年とおばちゃんは顔を見合わせた後、説明を始めた。
数十年前、古炭久がまだ炭鉱を活用していた時代のこと。一人の宗教家がこの村を訪れた。彼は村の人々を言葉巧みに操り、ある儀式を行った。だが儀式は失敗し、本来呼び出そうとしていたものとは違う怪物を召喚してしまった。
それでも宗教家はあきらめず、より強硬的な手段で儀式を行うようになった。先に呼び出した怪物と取引をし、生贄を用意し、警察などにも根回しをし、周到に進めていった。
そして数年前の儀式で、偶然「星の御子」が現れた。宗教家はそれを兆しととらえ、さらに儀式を深めていくことにした。怪物の一部を人々に食べさせることで、より「向こう側」へ至ろうとした。
「その怪物がゴンダ……いや、ダゴンか」
「ダゴンの肉体を食べた人は、だんだん、あっちに近づいていく。食べれば食べるほど」
「それじゃウチのやつは、よっぽど食わされたんだな」
少年に合わせて、おばちゃんも緑青子を見た。
「私の役割は、よそから来た人にゴンダを食べさせることだったんだよ……よその血も混ぜないといけないからって。でももう、こんな事イヤで……お嬢ちゃんにも食べさせたくはなかったんだけど、疑われるのが怖くて……ごめんね、ごめんねぇ……」
おばちゃんは過去を一度に振り返り、耐え切れず涙をこぼした。少年が彼女の背をさすり、言葉をつむぐ。
「僕も、村の人たちや外の人が犠牲になるのは嫌だった。だからがんばって、ダゴンの力を弱めた」
「弱めるって、どうやって?」
「空に手をかざして、気持ちを送るんだ。そしたら、ちょっとずつ弱くなった。でも、ここまで抑えられるようになったのはつい最近で……」
今ひとつ要領を得ないが、少年のおかげで助かったことは事実なのだと、緑青子は理解した。彼が時間をかけてダゴンの力を弱めてくれたおかげで、自分はこうして人間のままでいられる。
「つい最近、か。アタシはギリギリ間に合ったわけだ。……そうだ少年、ひとつ聞きたいことがある。この村に1人の女性と、ある番組のスタッフが何人か来てるはずなんだけど、何か知ってることはないか?」
数十分前に緑青子が倒した魚人、あれは機関の調査員の成れの果てだった。しかし、行方不明になっているのは機関の人間だけではない。番組の人たちはどうなったのか?
それを聞くと、少年は「図書館」と答えた。