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アマガエル殿下の呪いを解くには真実の愛が必要らしい

作者: 遊井そわ香

 時計の針は夜中の零時を過ぎた。宮廷にある職務棟で明かりがついているのは、薬師室だけだろう。


「眠い、帰りたい」


 私は襲いくる睡魔と必死に戦いながら、まぶたをこじ開け、薬草棚に貼ってあるラベルから目的のものを探す。薬の材料を間違えるわけにはいかない。


「あった、ナナイロソウ」


 引き出しを開け、ナナイロソウの葉を一枚、取り出す。それを乳鉢に入れると、また薬草棚に目を向けた。


「次は……乾燥ユキノシズク草、っと……」

 

 上司も同僚も帰ってしまった。私が出す音しか聞こえない、静かな職場。

 一ヶ月連続残業、しかも休日返上。

 心身はすでに限界を迎えている。動作は鈍く、思考は停止しがち。

 それでも、頼まれている薬草調合注文書をあと十枚さばかないと、家には帰れない。


「頑張れ……眠気も疲労も、すべては気のせい。私は眠くない、眠くない。絶対に眠くない……。毎日毎日、深夜二時に帰宅して、化粧を落とさずに寝て、六時半に起きてシャワーを浴びながら化粧を落として、再び化粧をして、八時半に出社しているけれども、眠いはずがない……。私は二十二歳。まだ若い。やれる……」


 薬草を調合しながら、横になりたい誘惑と必死に戦う。少しでも横になったら、無意識の領域に落ちてしまうこと確実。

 ゴリゴリ……。

 薬草をすりつぶす音が真夜中に響く。

 乳鉢の中で薬草をすりつぶしているのだけれど、乳棒をくるくると回していると、頭の中まで回ってしまいそう。


 薬草調合を終えたら、次は袋詰め。それから、使用方法と注意事項が書いてる文書を添付して、受付テーブルに置く。そうすれば明日の朝、依頼主にスムーズに渡すことができる。

 仕事はこれで終わりではない。使った薬草を表に記入し、使用した器具を洗って元あった場所に戻す。

 ここまでやって、終わり。


「二時には帰れそう。ふふふ、ハハハっ!!」


 笑いが込み上げる。楽しいわけじゃないのに。

 人というのは、笑うことでつらさをやり過ごそうとする生き物なのかもしれない。

 そんなふうに笑いの分析をしていると、夜のしじまに、私が出す音とは違う音が響いた。


 ──トントンっ!


 遅れて、男性の声。


「すみません。誰かいますか?」

「あ、はい……」


 幻聴かと一瞬思ったが、守衛だろうと思い直して、調合室から出る。

 薬師室のドアを開けると、宮廷魔道士の制服を着た、190センチはあるであろう長身の男性が暗い廊下に立っていた。

 背の高さと、魔道士という神秘的な職業。そして彼の眼光の鋭さに、私は思わず後ずさった。


「あの、なんでしょう……」

「私は宮廷魔道士のユリウス・タラー。あなたは薬師?」

「はい。そうですけれど……」

「良かった。由々しき事態が起こりまして。薬師室の明かりがついているのを見て、藁にもすがる思いでドアを叩いたのですが……いてくれて良かった。いや、良かったというのは気が早いか。宮廷薬師といえども、解決できるわけでは……」

「?」


 ユリウス・タラーは、端正で理知的な顔をしている。胸元や袖に金色の刺繍が入った、黒を基調とした品位ある制服がよく似合っている。

 有能な雰囲気の漂う魔道士が言い淀む様に、「由々しき事態」という単語に重みが加わる。


「あの、私、ここに勤務して二年目で、役職についているわけでもないですので、お力になれるのか、わからないです」


 自信のなさを正直に告白したにもかかわらず、彼は(おや?)というように片眉を上げた。それから、強ばっていた唇をふわりと緩めた。


「ふふっ。素直なお嬢さんですね。お名前は?」

「リーシェ・フランシュアです」

「フランシュア、フランシュア……」


 彼の目の動きが止まった。頭の中で貴族名鑑のページをめくっているのだろう。


「私、貴族ではないです。ノンチェスター町出身の平民です」

「平民?」


 信じられないというふうに、ユリウスの切れ長の目が大きくなった。

 彼が驚いた理由はわかる。宮廷に勤めるには学歴や才能だけでは不十分で、身分が必要。

 平民がなぜ宮廷に、しかも薬師というエリート集団の中で働いているのか不思議なのだろう。

 彼だけじゃない。みんながそれを不思議に思って訊ねてきた。私は今までみんなに説明してきたとおり、アレクシオ王弟殿下の名前を出そうとした。

 その矢先──。


 宮廷魔道士の広い袖口から、なにかが飛び出してきた。


「ああっ、おまえか! クワッ!!」


 ジャンプしてユリウスの手のひらに降りたものは──黄緑色のアマガエル。

 ユリウスは慌てふためいた悲鳴をあげた。


「ああっ! 出てきてはいけません!」

「無理だ。死んでしまう! 早く水に入れてくれ! おまえの体温で乾涸びてしまいそうだ! クワックワッ!!」

「それはいけません! リーシェ嬢、桶に水を張ってくれませんか!」

「はい!」


 勢いに押されて、私はすぐに木桶に水を張った。

 アマガエルは水の中で気持ちよさそうに泳いだのち、桶の内側にペタリと張りついた。


「ああ、助かった。ありがとな! クワッ!」

「どういたしまして」


 お礼を言うなんて律儀なカエルだと微笑ましく思っていると、視線を感じた。ユリウスが目を丸くして、私を見ている。


「リーシェ嬢は、その、カエルが人の言葉を話すことをおかしく思わないのですか?」

「そういえばそうですね。不思議なカエルですね」

「……感想はそれだけですか?」

「えぇと、あとは……元気になって良かったなって思います」

「カエルそのものについては、どう思いますか?」

「私、田舎育ちなので、カエルを追いかけて遊んでいたんですよね。アマガエルってかわいいですよね。両生類の中で、一番好きです」

「クワっ⁉︎」

「っ⁉︎」


 ユリウスは息を呑み、アマガエルは鳴き声を上げた。彼らは顔を見合わせ、しばし考え込むような沈黙を落とした。

 カエルが人の言葉を話すなんて変だし、普通に会話が成立しているのもおかしいとは思う。

 けれど、私は寝不足なのだ。

 

(頭が全然働かない。瞼が重い。これが夢か現実か、わからなくなってきた……)


 二人の沈黙が、私を眠りへと誘う。

 うつらうつらしていると、頭がガクンと落ち、驚いて目が覚めた。


「ハッ! 寝てしまった。カエルが話す夢を見ていた……あっ……」


 夢ではなかった。木桶にへばりついたアマガエルがこちらを見ている。


「決めた。この子にするクワッ!」

「いいのですか?」

「いいも悪いもない。これ以上、傷つきたくないのだ。おまえだって、カエルを愛せる女探しをするのは嫌だろう? クワッ」

「はい。正直に申しまして、王都周辺に住んでいる御婦人方に希望を見出せません。カエルに慣れている田舎貴族を訪ねるしかないと覚悟していました」

「田舎貴族は退屈を持て余している。俺がカエルになったことを、おもしろおかしく吹聴するだろう。それは避けたい」

「確かに」

「リーシェでいい。宮廷への推薦状を書いたのは、俺だからな。クワッ」


 なにやら会話をしているようだが、私にはそれを耳に入れている暇はない。

 時間は止まってくれない。私にはやるべきことが残っている。

 しゃがんでいた腰を上げると、二人に断りを入れてから、ふらつく足取りで調合室へと戻った。

 再び薬草をすりつぶしていると、調合室のドアにもたれるようにして、ユリウスが私の手元を見つめている。


「こんな時間に仕事とは……。急ぎですか?」

「はい。明後日、いえ、日付が変わったから、明日ですね。大型連休に入るでしょう? 町の調合薬草店も休みになるので、それで注文が殺到しているのです」

「なるほど」


 ユリウスはドアから背中を離すと、テーブルに置いてある薬草調合注文書を手に取った。


「この薬は……大衆薬ですね。町の調合薬草店で手に入るものを、なぜリーシェ嬢が作っているのです?」

「それはあの……」

「宮廷薬師は、新薬開発が仕事。大衆薬作りは一般薬師に任せればいいのでは?」

「そうなのですが……」


 ユリウスの話し方は丁寧だが、眼光が鋭いので、嘘やごまかしを見抜かれてしまいそうな怖さを感じる。

 睡眠不足も限界を越えると、ハイになる。私は自嘲気味に、洗いざらいぶちまけた。


「新薬の開発がうまくいっていないんです。上司も同僚たちも焦っていて。だったらそれを、開発への情熱に注げばいいと思うのですが、有力貴族のご機嫌取りのほうを頑張っているんです。おかしいですよね。もっとおかしいのは、上質な薬草で薬を作れるからと大衆薬の注文を取ってきては、私に作らせる。売った媚びの責任は自分でとればいいのに、大衆薬は平民が作るものだって、私に押しつけて……」


 鼻の奥がツンとして、目の縁が熱くなる。

 泣いたら負けだと思って、今日まで踏ん張ってきた。

 けれど、宮廷薬師として働いて二年。いまだに新薬開発チームに入れてもらえない。薬草管理や器具洗浄、書類作りといった下働きばかり。さらには、貴族のご機嫌取りとして請け負った大衆薬作りを、私に押しつけてくる。

 私は、持ち上げていた乳鉢をテーブルの上に置いた。コトンという音が響く。


「二年前。ノンチェスター町の視察に、アレクシオ殿下が訪れたときがあって。腹痛を訴えた殿下が飲んだ薬草が、私が調合したものだったんです。とても喜んでくれて、宮廷で仕事をしたらいいと推薦状を書いてくれました。──現在世の中に出回っている薬では、治せない病気がある。不治の病で苦しんでいる人々を助けたくて宮廷薬師になったのに、開発チームに入れてもらえない。宮廷薬師の仕事ではない、大衆薬調合ばかり押しつけられる。弱音を吐きたくないけど……虚しいです」


 私は乾いた笑いをこぼすと、ユリウスから顔を背けるために薬草棚に体を向けた。鼻を啜り、棚に手を伸ばすふりをして涙を拭う。

 背後から会話が聞こえてくる。


「アレクシオ様。今までなにをやっていたんですか? まさか、推薦状を書いて終わりにしたんじゃないでしょうね?」

「すまない。公務が忙しくて……って言い訳だな。リーシェのこと、忘れていたクワッ」


 ──アレクシオ様? 私のことを忘れていた……?

 

 彼らの会話の不可解さに、私は体ごと振り返った。いつの間にかテーブルの上に、カエルが乗っている。


「あの、アレクシオ様って聞こえたのですが……」

「はい。実はここに来たのは、アレクシオ王弟殿下に降りかかった呪いについて、ご相談するためでした。薬師たちに解決できるものではないと思いつつ、もしかしたら人間に戻す薬があるのではないかと、一縷の望みがあってのこと。カエルになった人を、人間に戻す薬はありますか?」

「ちょっと待ってください」


 訪問客を迎えたり、書類仕事をするための机が並んでいるのが薬師室。その隣に調合室があり、さらにその隣にあるのが書庫。

 書庫には、世界の薬草について載っている薬草学辞典がある。カエルを人間に戻す薬なんて聞いたことがないけれど、世界のどこかにはあるかもしれない。

 

(というか……あのアマガエル。アレクシオ王弟殿下なのかな?)


 現実と幻覚が入り混じったような、ふわふわした頭で考える。


 三十分後。効能索引に目を通した私は、ため息とともに調合室に戻った。


「薬草学辞典五十巻すべてを調べてみましたが、人間に戻す効能効果がある薬は見つかりませんでした。呪いは、薬草学が得意とする分野ではありません。魔道士様の分野ではありませんか?」

「そうなのですが……。相手が悪くてね」

「ユリウス、あの話をしてくれクワッ」

「はい。ですが、今までの御令嬢方と同じように怖気付かないといいのですが……」

「そうなったら、カエルとして生きていく覚悟をするまでだ」


 ユリウスは長いため息をつくと、探るような目で私を見た。


「リーシェ嬢は、魔女をどう思いますか?」

「魔女ですか? 別にどうも……」

「どうも? だって、魔女ですよ? 人に呪いをかけて、病気にしたり不幸にさせたりすると昔から言われている。人々から忌み嫌われている魔女を、どうも思わない?」


 私はおかしくなって、クスクスと笑った。明るい声で答える。


「昔は医療分野が未熟でしたから、病気が起こる原因がわからず、不安を誰かのせいにするしかなかった。病気も不幸も、魔女のせいではありません。遺伝や生活習慣や思考や衛生状態が病気を引き起こす。不幸は、思考が形作ることが多い。私は魔女に同情します」

「訂正するクワっ! リーシェでいい、ではない。リーシェがいい!!」

「はい! 私もそう思います!」


 ユリウスとカエルは顔を見合わせると、同タイミングで深く頷いた。


「リーシェ嬢。包み隠さずお話しします。どうか最後まで、聞いていただきたい」


 そう前置きすると、ユリウスによる悲劇語りが始まった。


 事の発端は、満月の晩に森の奥深くで魔女集会が行われているとの噂。

 魔女のすることに、国が関わる必要はない。昔のように魔女狩りへと発展してしまうからだ。

 魔女はひっそりと生きている。魔女が悪いことをしない限り、国としては放置しておく。 

 そういう考えでいたのだが……。

 

「私もアレクシオ様も、魔女に友好的感情を持ち合わせていませんが、だからといって敵対心もない。一言でいってしまえば、興味がない。それなのに、満月の晩の魔女集会と聞いて、ひどく興味をそそられたのです。今思えば、魔女の誘導魔法にかかっていたのでしょう。私とアレクシオ様は魔女集会に潜入しました。名誉のために言っておきますが、女装はしていません。カツラを被って、黒いローブを着ただけです」

「そんな変装では、すぐに見破られたのではないですか?」

「すぐではないですが、見破られました。私たちは魔女に取り囲まれ、一人の年老いた魔女が杖を振りながら、こう言いました。──私には未来が視える。愛を知らない、哀れな男よ。おまえには真実の愛が必要だ。……そうして、アレクシオ様はカエルになってしまったのです」

 

 私は、テーブルの上にちょこんと座っているアマガエルを見た。アレクシオ殿下の面影はまったくない。


「アレクシオ様を人間のお姿に戻そうと、魔道士たちであらゆる魔術を試しました。だが、魔女の呪いのほうが強かった。情けない話です。ですが、希望はあります。いにしえの文献に、同じものを見つけたのです。やはり魔女の呪いによって、愛を知らない王子が野獣へと姿を変えた。しかし真実の愛によって、人間に戻ることができたのです」

「なるほど」


 点と点が、ようやくつながった。

 魔女の呪いによって、アレクシオ王子はアマガエルになってしまった。呪いを解くには、真実の愛が必要。

 そういった事情で、アレクシオ殿下とユリウスは御令嬢方の元を訪ねた。しかしうまくいかず、困り果てて薬師室を訪れたということらしい。

 納得した私は、アマガエルに微笑みかけた。


「今までうまくいかなかったのは、お嬢様方に、毒に対する懸念があるからでしょう。正しい知識を話せば、受け入れてもらえると思います」

「正しい知識? クワッ?」

「はい。アマガエルの皮膚から分泌される粘液には毒があります。ですが、弱いものですから、死ぬことはありません。注意事項としては、アマガエルを触った手で、目をこすったり、傷口に触れないこと。そして触った後は、手を洗うこと。これらのことをお相手のお嬢様にお話になれば、不安を取り除けるでしょう。アマガエルは世界一かわいいカエルですから、愛してくれるお嬢様が見つかるはず。うまくいくよう、祈っております」

「……リーシェ嬢。あの、知識以前に、女性は生理的にカエルが嫌いなようです」

「ええっ? ま、まぁ、カエルが嫌いな人もいるでしょうね。でも、全員というわけでは……」

「エリザベートはダメであったな。クワッ」


 エリザベート?

 首をひねった私に、ユリウスが「アレクシオ様の婚約者です」と教えてくれた。


「婚約者様がいるのですね! だったら、話は簡単。アマガエルのかわいらしさをわかってもらいましょう!」


 グエッグエッ。あごの下の袋を膨らませてカエルが鳴いた。

 私にはそれが、笑い声のように聞こえた。


「あいつは顔を引き攣らせながら、愛していると言ったな。クワッ」

「エリザベート様はカエルがお嫌いですから。でも、愛していると言っただけでもご立派かと……」

「あいつの好きな猫に変身したとしても、俺は人間に戻れないだろう。グエッグエッ」


 ユリウスは気まずそうに口を閉ざし、アレクシオ殿下は鳴き声を響かせた。

 それから、私の近くにピョンと飛び跳ねてきた。


「リーシェ。他人事のように話しているが、おまえが俺を愛せばいいのだ」

「は?」

「俺が人間だったときの姿を覚えているだろう?」

「ま、まぁ、おぼろげには……」

「おぼろげ? 二年前はそう遠い昔ではないぞ、クワッ!」

「そうですが、殿下のお姿を直視できる度胸など、田舎育ちの私にはありません。太陽のように輝く金髪と、知的な碧眼。大変にまばゆいお姿であったことは覚えていますが、詳細まではちょっと……」

「宮廷に勤めて二年だ。俺の姿を見る機会があったのではないか? クワッ」

「仕事一筋に生きてきましたし、宮廷行事に参加したことはないです」

「そうか。では、俺の絵姿をくれてやる。人間の姿を知れば、愛しやすいだろう。クワッ」

「本当に私が愛するのですか⁉︎」

「おまえだけじゃない。俺もおまえを愛する努力をする」

「ええーーーっ!! 王弟殿下が平民を愛するってアリなんですか⁉︎」

「だったらおまえは、俺に死ぬまでカエルのままでいろと?」

「そういうわけでは……」


(でも、身分差がありすぎる!! 宮廷薬師といっても下働きだし。みんなから、いじめられちゃう!)


 反対の声をあげてもらおうと、ユリウスに救いの目を向けた。ユリウスは、わかっています。というふうに、深く頷いた。


「一歩通行の愛は、単なる独りよがり。それは真実の愛とはほど遠い。真実の愛とは、双方の想いから生まれる」

「愛の定義を聞きたいわけじゃありません! 私は平民で、殿下は次の国王様。身分が違いすぎます!!」

「平民であることは、こちらでなんとかします。今の世界情勢を鑑みると、平民出身であることは、むしろ好都合かもしれない。ちなみに、アレクシオ様がカエルになって一週間が過ぎました。五十人ほどの御令嬢と御婦人に会いましたが、誰一人、人間に戻せなかった。あなたが最後の希望の砦なのです。私たちを見捨てないでください」


 反対の声どころか助けを求められてしまい、私は困り果ててしまった。



 ◆◇◆◇



 王族が住む、宮殿の一室にて。

 私は侍女に髪を結われながら、ユリウスの話に耳を傾けた。


「リーシェ嬢は、宮廷薬師になる夢を描いていた。その夢を叶えたのは、アレクシオ様の推薦状。平民初の宮廷薬師となったリーシェ嬢は、アレクシオ様に深く感謝した。だが二人の間には、身分という壁が立ち塞がっている。リーシェ嬢は遠くからアレクシオ様を見つめ、お慕いしていた。ある日、魔女の呪いによって、アレクシオ様はカエルになってしまわれた。絶望の中にあるアレクシオ様の力になりたいと、リーシェ嬢は薬師としてお側に仕えた。素直で愛らしいリーシェ嬢にアレクシオ様は心惹かれ、二人の間に愛が芽生えた。この真実の愛によって魔女の呪いが解かれ、アレクシオ様は人間に戻った。感動した宰相は、リーシェ嬢を養女にした。身分という障害が取り払われた二人は、仲睦まじく幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。──いかがでしょう?」

「いかがでしょうと言われましても、いろいろと無理があります……」


 侍女たちによってピカピカに磨かれていく体とは反対に、疲労していく心。なんでこんなことに……と、遠い目にならざるをえない。


 アレクシオ殿下とユリウスが薬師室を訪れたのは、昨夜十二時半。その後、二時間近いやりとりをしてから、私は帰り支度をした。


「仕事が終わったので帰ります」

「宮殿にある客室に泊まっていいぞ。クワッ」

「結構です。帰ります」

「いや、泊まっていけ。クワッ」

「いえいえ、帰ります」

「俺が泊まっていいと言っているんだ。命令だ! クワッ!」


 王弟殿下の命令に背くわけにはいかず、恐れ多くも、宮殿にある客室に泊まることになった。

 けれど、私は厚かましい性格ではない。


(一時間ほど仮眠して、こっそりと帰ろう)


 そう思ったのに、なんと!! 私は十五時間も寝てしまったのだ! びっくり!!  

 疲労困憊のうえの睡眠不足とは恐ろしいものである。 

 寝過ぎて頭痛を起こした私を待っていたのは、侍女たちによる体磨き。


「一人でやれます!」


 何度訴えても、侍女たちは「これが私たちの仕事ですから。うふふ」と楽しげに笑うばかり。

 私はお風呂場にて、髪と体を洗われ、爪を切ってもらった。さらには、全身のマッサージと、フェイシャルエステ。

 その後、薔薇の香りのするパウダーパフを全身に叩かれ、豪華なドレスを着せられ、化粧をしてもらった。


 そして、現在。髪を結えられている最中である。

 ユリウスは鏡越しに、首を傾げた。


「どこに無理がありますか?」

「まず私は、殿下に感謝していますが、慕ってはいません。それに、宰相が私を養女にするなんて無理があります」

「無理ではありません。宰相は、私の父ですから。相談したら、最先端の考えだと賛成してくれました。それと、エリザベート様のご実家は新興宗教を支持していまして。国教を脅かすと、一部貴族たちから反発の声があがっているのです。国際的な状況からしても、アレクシオ様とエリザベート様のご結婚は火種となる可能性がある。リーシェ嬢が現れたのは、まさに神の采配」

「そんな大袈裟な……。国際的な状況というのは?」

「…………」


 ユリウスは口を閉ざし、眼球だけを動かした。目が動いた先にいるのは、侍女。

 他の人に聞かれたくない話なのだと察し、私は口を閉ざした。


(国際的な状況って……。市民革命が起こった、リステイン国の話をしているのかしら?)


 もしそうだとしたら、余計に王族や貴族と関わりたくない。巻き込まれるのは嫌だ。誰もがそうだと思うのだけれど、私だって自分の身が一番かわいい。

 ここは、両親が反対します。と言うべきところなのだろうが、残念ながら、私には両親がいない。病で二人とも亡くなった。それが、薬師を目指すきっかけになったのだけれど。

 宰相の養女になるなんて話。天国にいる両親が聞いたら、さぞやびっくりするだろう。


「完成しました」


 私の髪を結っていた侍女は微笑むと、その場から離れた。

 鏡に映っているのは、宮廷侍女というプロ集団によって磨かれた私。

 過労でくすんでいた顔は健康的なピンク色になっており、露出した首や肩は滑らかで、指先まで光り輝くような透明感にあふれている。

 ラズベリーピンク色の髪は、サイドの髪を編み込んである。ボサボサ毛だったのに、トリートメントパワーで艶やかな光を取り戻した。

 そしてなんといっても、化粧の力はすごい。地味顔だった私が、お姫様のような愛らしい顔になっている。


「平凡な顔だと思っていたけれど、お化粧ってすごいですね」

「意地悪な顔の人は、どんなに化粧をしても、優しい顔になることはできません。リーシェ嬢は心が美しい。優しさ、素直さ、思いやり。そういったものを、化粧が引き立てたにすぎません。大変に美しいですよ」

「ユリウスさんって、口がうまいですね」

「私は本当のことしか言いません」


 ユリウスは私の手を取って立ち上がらせると、大粒のダイヤモンドのネックレスをつけてくれた。


「アレクシオ様が待っています。晩餐といたしましょう」

「はい」


 ユリウスからは、「とりあえず一週間、お願いします。どうしても愛せないというのでしたら、それ以上は引き止めません」と言われている。

 アレクシオ王弟殿下を愛する自信はないけれど、とりあえず一週間。頑張ってみよう。



 宮殿での晩餐。それは目も舌も喜ぶ、豪華な品のオンパレード。

 甘いカボチャのスープ。もっちりとしたパン。新鮮なきゅうりとトマト。鶏肉は、ナイフでスッと切ることができる。


「こんなにおいしいものを食べられて幸せです! ほっぺたが落ちそう!」

「それは良かった。クワッ」


 長いテーブルの向こうにいるのは王子様だけれど、姿はアマガエル。なんともシュールな光景である。

 ちなみにアレクシオ殿下のお食事は、冷たいカボチャスープ。一杯だけで、十分にお腹が膨れるそう。

 食事を終えると、ユリウスがクッションを持ってきた。その上に、アレクシオ殿下がぴょこんと飛び乗る。


「見せたいものがある。ついて来い」

「はい」


 ついていくと、階段の踊り場でユリウスは足を止めた。


「あぁ……思い出しました」


 踊り場に飾られている人物画を見上げた私は、感嘆の吐息をついた。

 太陽のように輝く長い金髪を、紫色のリボンで一つにまとめている青年。そのまとめた髪は腰まで垂れている。

 知的な青い瞳。輪郭は丸すぎず、尖りすぎず、ちょうどいい。

 左手は腰に添えられており、右手は杖を掴んでいる。その指には大きな宝石の指輪。

 彼の美しい容姿は女性の心を掴むだけでなく、男性にも崇拝を抱かせる魅力がある。

 人間の姿のアレクシオ王弟殿下は、次の国王になるにふさわしい聡明さを醸しだしていた。


「どうだ、俺の人間の姿は? クワッ?」

「カエルのお姿も素敵ですが、人間のお姿もいいですね」

「クワッ?」

「はっ?」


 カエルの鳴き声とユリウスの声が、同時に疑問を放った。


「カエルの姿が素敵だと? クワッ? どういうことだ?」

「お話したかと思いますが、私、両生類の中で一番アマガエルが好きなのです」

「そうであったな。両生類ということは、生き物の中では違うというわけだ。生き物の中では、何が一番好きなんだ? クワッ?」

「イボイノシシです。とぼけたような顔が可愛いですよね」


 なぜか二人は沈黙した。

 その後。親睦を深めるためにと、私と殿下はバルコニーに出た。ユリウスは下がり、二人っきりになる。


「夜風が気持ちいいな。クワッ」

「はい。一年の中で、一番気持ちのいい季節ですね」

「お? 初めて気が合ったな。俺も、新緑薫るこの季節が好きだ」


 バルコニーの手すりに乗っているアレクシオ殿下は、気持ち良さそうに目を閉じた。心静かにして、風を感じているのだろう。

 邪魔しないよう、私は黙って、半月を眺めた。

 しばらくして、アレクシオ殿下が口を開いた。


「なぜ、話しかけてこない? クワッ?」

「風を感じているようでしたので」

「驚いたクワッ。女というのはどうでもいいことをしゃべり倒す、うるさい生き物だと思っていた。気遣いができるとは感心したクワッ」

「女が全員、うるさいわけではないですよ。それに、気遣いのできる人はたくさんいます。私が特別なわけではありません」


 カエルの黒目が、私をじっと見ている。カエルには、人間のようなはっきりとした表情の変化がないので、殿下がなにを考えているのかはわからない。


「俺が褒めたのだぞ? クワッ」

「はい」

「嬉しくはないのか? クワッ?」

「嬉しいですよ」

「ではなぜ、優越感に浸らない? 特別な女なのだと、喜んでもいいのだぞ」

「アレクシオ様に褒めていただいたのは嬉しいですけれど、人それぞれ、素晴らしいところがありますので。なにも私が特別ということはありません」

「リーシェは……」


 アレクシオ殿下は体の向きを変えると、遠くにある山を見やった。

 風に乗った殿下の声が、耳に届く。その声は男性にしては少し高いが、落ち着いていて、耳に心地良い。


「昨日のおまえはひどかった。ボサボサの髪に、目の下のクマ。病人のような、げっそりとした顔。生気のないやつれた女だった。見た目はアレだが、性格は悪くない。その一点で愛するしかないと、諦め半分の覚悟を決めていたクワッ。……召使いから、おまえは十五時間も寝たと聞いた。ひどく疲れていたのだな」

「ははっ。寝不足だったもので、すみません」

「謝らなくともよい」


 アレクシオ殿下はしばらく「クワックワッ」と鳴いたのち、早口で言った。


「今日のおまえは綺麗だ!」

「は?」

「グエッグエッ。帰るぞ!」

「は、はい」


 私たちは就寝の挨拶をすると、別れた。

 与えられた一室のベッドにもぐる。十五時間も寝たので、すぐには寝つけない。

 カーテンの間からこぼれてくる淡い月の光を眺めながら、私は殿下がくれた言葉を反芻した。


「綺麗、か……。ふふっ、褒められちゃった」


 アレクシオ殿下は、平民にも思いやりある言葉をかけてくれる優しい人。

 殿下を愛せる自信がでてきた。

 


 ◆◇◆◇



 私とアレクシオ殿下は互いを知るために、なるべく多くの時間を一緒に過ごすことになった。

 一緒に食事をとって、一緒に散歩をして、ユリウスの父親である宰相からの報告を一緒に聞いて、ペンを持てない殿下の代わりに私が伝達事項を書く。

 夜は涼やかな風を浴びながら、バルコニーで語らう。


 最初は緊張して、うまく話せなかった。殿下を落としたら大変だと、カエルを運ぶ手が震えた。

 けれど次第に、緊張が解けてきた。

 殿下が、静寂な時間を好むことがわかったのだ。思考にふけることが多い殿下の邪魔をしないよう、私は口を閉ざしてそばにいればよかった。


(私もおしゃべりなほうじゃないから、安心した)


 私たちの会話は、互いを知るための情報交換といった感じだ。



 国王に会いにいった殿下を待っている間。宮殿の廊下で、ユリウスと話す。


「アレクシオ様は、無駄話を嫌います。実のない話に心を割けない人なのです。けれど女性は、しゃべることで気が晴れる方が多い。殿下は婚約者のエリザベート様に、『結論はなんだ?』『それを聞くのは二度目だ。同じ話をするな』『この流れで、その質問はおかしい。状況を読め』と、注意なさいます。しかしエリザベート様は、おしゃべりが大変に好きな方で、結論を求めて話すわけではない。おもしろいことは何度でも話したい。思いつくままに、ただ、話したい。そういう方です。──どちらかが間違っているわけではない。性格が違いすぎるのです」

「なるほど」


 有益な会話を好む殿下と、他愛ないおしゃべりを楽しむエリザベート様。二人の溝は深そうだ。


「殿下のような冷徹な男性が人を愛するのって、難しそう」

「そうかもしれません。愛とは、理論整然としたものではありませんから」

「もしも殿下が私を愛せなかったら、どうするのですか? 新たな女性を探すのですか?」

「うーん……」

 

 ユリウスは考え込むように、うなった。

 

 ガチャリ──。


 扉の開く音がし、国王の部屋からアレクシオ殿下が出てきた。使用人が掲げるクッションの上にお行儀良く座っている。


「待たせた」

「大丈夫です」

「今日の仕事は終わった。外に行くぞ。クワッ」

「はい」


 廊下にある椅子から立ち上がった私に、隣に座っていたユリウスがうんざりしたように言った。


「私は魔道士です。花嫁探しが仕事ではありません」

「ふふっ、確かに」


 ユリウスは私に期待している。けれど私は、男性と一度もお付き合いをしたことがない。淡い恋はいくつかあったけれど、遠くから見ているだけで満足して終わった。

 それでも、恋と呼べるものを体験したのだから、冷徹な理性の中で生きている殿下よりは、愛に近い位置にいるはず。


(私が殿下を愛するよりも、殿下が私を愛するほうが難しそう……)



 私は、宮殿の裏に広がる庭園を歩いた。

 散歩のときは、私が殿下を運ぶことになっている。殿下が乗っているクッションを両手で持ちながら、愛について考えていると、小石につまづいてしまった。


「うわっ⁉︎」


 クッションが手から放り出され、反動でアマガエルがピョーンと飛んでいく。


「グワッ⁉︎」

「殿下ーーっ!!」


 青空に放物線を描いて飛んでいく、アマガエル殿下。

 私の叫びが虚しく響いたのち、あたりはシーンと静まり返った。血の気が引く。


「どど、どどど、どうしようっ!! 殿下が飛んでいっちゃった!!」


 殿下と私の親密度を上げるために、散歩の際は従者をつけていない。

 私は一人パニックになりながら、殿下が飛んでいった先を探す。

 そこは運悪く、生垣迷路園。人の背丈よりも高い生垣で、いくつもの曲がり角が作ってある。

 私は迷うことなく迷路園に足を踏み入れた。次々に現れる別れ道に戸惑う。


「えぇっと、どの道を行けば出口に……って、違う!! アレクシオ殿下ーーっ!! どこにいますかー⁉︎」

「俺はここだクワッ!!」

「ああ、ご無事で良かった! 今すぐにお迎えに行きます!!」


 右側から殿下の声が聞こえた。それを頼りに右に曲がったのだが──……なんと、行き止まり!!


「ええーっ⁉︎ 先に進めない? えっと、どうすれば……」

「ケロケロッ! 俺はここだー!!」

「やっぱり右のほうから声がする! 今すぐに行きます!!」

 

 ドレスをつまみ上げて、今来た道を引き返す。慣れない靴につま先が痛み、踵が擦れる。

 それでも、走るのを止めることはできない。


「殿下ー! 殿下ぁーーっ!!」

「俺はここだーークワッ!!」


 声が聞こえるのに、近づけない。なんというもどかしさ。汗が背中を流れる。


「リーシェ! 止まれ!!」

「はい!」

「この生垣の向こうに、おまえがいるように思う」

「確かに声が近いです。今すぐに行きます!!」

「止まれーー! グワグワッ!!」

「はい!」


 走り出そうとした足を止める。

 緑の濃い生垣の向こうから、殿下が指示を飛ばす。


「おまえはだいぶ方向音痴な気がする」

「そうなんですか? まぁ、確かに今、自分がどの辺にいるかわかりません」

「よし! 俺がおまえのところに行く。そこで待て」

「はい」


 その場でおとなしく待っていると、二メートル以上ある生垣の上にアマガエルが現れた。生垣を登ってきたらしい。


「殿下ーっ!!」

「飛び降りる!」

「はい!!」


 ジャンプしたアレクシオ殿下。アマガエルの脚がぴんと伸びる。

 私は両手を前にだして、狙いを定める。

 差しだした手のひらの上に、アマガエルが見事に着地した。

 私は感動して、涙を流した。


「再び会うことができて嬉しいですーっ! もう二度と会えないかと、ううっ……」

「大げさだ」


 私は殿下に指示されるがままに、迷路の分かれ道を折れた。あっという間に、出口にでることができた。


 宮殿内に戻った私は、汗をかいたドレスを着替えるために自室に入った。

 新しいドレスに腕を通し、侍女に髪を結い直してもらっていると、殿下付きの従者が訪ねてきた。


「傷薬でございます。足に塗るようにとのことでございます」

「足に……」


 走り回ったせいで、靴擦れを起こしていた。殿下は私の歩き方の不自然さに気づいて、傷薬を手配してくれたのだ。

 侍女に薬を塗ってもらいながら、私は殿下の配慮を嬉しく思って涙ぐんだ。

 

 

 夕食の席で、私とアレクシオ殿下は生垣迷路園の話で盛りあがった。


「あの迷路は、俺の八歳の誕生日祝いで作ってもらったものだ。俺は、十五分で出口にでたぞ」

「十五分ですか⁉︎ 殿下って天才ですね」

「そういうことではない。リーシェが方向音痴すぎるのだ」

「私たちは何分ぐらい、あそこにいたのでしょう?」

「三十分は軽く超えていた。クワッ」

「私一人なら、死ぬまで出られない気がします」

「リーシェの方向音痴は伝説級だな。よし、明日もう一回、迷路に入るぞ。出口までの道を教えてやる」

「ありがとうございます」

「リーシェが、迷路園の中で白骨になったら困るからな」

「ふふっ、あり得そうです」

「そこは否定しろ。冗談で言ったのだクワッ」


 夕食後。涼やかな風を浴びながら、バルコニーで語らう。いつもより会話が弾む。

 

「リーシェが、イボイノシシを好きだと言ったとき。この女は相当にヤバいと思ったぞ。クワッ」

「だから黙り込んだのですね。殿下のお好きな生き物はなんですか?」

「蝶だ」

「薬師室に野良猫が入ってきたことがあります」

「俺は蝶の話をしたのだ。なぜ、猫の話をした?」

「ふふっ。おもしろいかなと思って」


 私は親しい人と話すとき、話を少しずらす癖がある。突っ込みを入れてほしいという、遊び心が働いてしまう。

 けれど相手は、有益な会話を好むアレクシオ殿下なのだ。


「すみません。変なことを言ってしまいました。全然おもしろくないですね。蝶って、種類がたくさんあるんですよね? お好きな蝶はなんですか?」

「…………」


 アレクシオ殿下からの返答はない。呆れているのだろうと、私も口を噤んだ。

 しばらくしてから、さらさらと流れていく夜風に、殿下の生真面目な声が乗った。


「おまえは不思議な女だ。理解できない思考回路をしているが、嫌いじゃない……」

「殿下は優しいですね。私が話し上手だったら良かったのにって、思います。会話の上手な人って、知識が豊富だし、相手を喜ばせるすべを知っている。私もそうだったら、アレクシオ様の話し相手になれるのに……」

「話し相手になっているではないか」

「そうですが、でも……」

「なんだ? 言ってみろ。クワッ」


 ──私と話して、楽しいですか?


 心にある、疑問。だけど、それを口にしていいものか迷う。


「黙るな。言え」

「言いたくないです」

「なんだと! クワッ!!」


 殿下はバルコニーの手すりから下りると、ぴょんぴょん跳ねてきた。椅子に座っている私の足元で、止まる。


「俺に隠し事をする気か!!」

「隠し事じゃないです」

「じゃあなぜ、言わない⁉︎」

「相手を困らせることは言いたくないという、気遣いの問題です」

「おまえ、まさか……」


 怒っているかのような、しかめっ面のアマガエル。


「ユリウスが気になっているんだろう!! ユリウスが『私は魔道士です。花嫁を探しています』と言っていたのが聞こえたぞ! おまえは嬉しそうな顔をした。命令されたから俺と一緒にいるだけで、本当はユリウスの花嫁になりたいんじゃないのか!!」

「全然違います! 殿下は勘違いしています!」

「どう勘違いしているっていうんだ。説明せよ!」


 私は大きく息を吐きだすと、椅子から下り、ひんやりとした床に座った。少しでも、アマガエルと目線を近づけたくて。


「アレクシオ様が私を愛せなかった場合、新たな女性を探すのですか? と、尋ねました。それに対してユリウスさんは、『私は魔道士です。花嫁探しが仕事ではありません』と答えました。アレクシオ様の話をしていたんです」

「そ、そうだったのか。俺はてっきり……」


 しばしの沈黙ののち、殿下は難しいことを訊いてきた。


「俺のこの気持ちは、愛だと思うか? それとも、別なものだろうか?」

「それは……私に聞かれても困ります」

「そ、そうだな! うむ、そうだ。では、次の質問だ。おまえは俺のことを、どの程度愛しているのだ? クワッ」

「どの程度って……。私、惚れっぽい性格じゃないんですよね。簡単には愛せないかもしれません。一年ぐらいかかるかも……」

「なっ⁉︎ 一年⁉︎ 無理だ無理だ!! 今すぐに俺を愛せ!! これは命令だ。一分以内に俺を愛するのだ!!」

「一分以内……頑張ってみます」

「…………。一分経った。どうだ?」

「真実の愛って、なんでしょうね。そこからして、よくわからないです」

「おまえーーっ!! グワッグワッ!!」


 笑う私と、怒るアレクシオ様。

 私たちは感情剥きだしの会話をしている。無駄が多くて、他愛ない。まったくもって理性的じゃない。

 けれど、実のない会話だとは思わない。

 アマガエル好きな女として殿下を愛する役目を担った私と、人間に戻るために妥協して私を愛することにした殿下。

 そういった使命から出てきたものではない会話をしているように、思うから……。

 

 アレクシオ様の怒りが収まらないようなので、正直に打ち明けることにした。


「本音を隠したことで、アレクシオ様に勘違いをさせてしまいました。すみません。私は薬草には詳しいですが、興味の広い人間ではありません。会話の引き出しが少ない。だから、アレクシオ様は私と話しても楽しくないのではないか。そう思ったのです。でもそれを口にして、優しいアレクシオ様に気を遣わせては申し訳ないと」

「そうだったのか……。いや、すまない。俺のほうこそ、変なことを口走ってしまったクワッ。──俺は、カエルになったことで多くのものを失った。家臣は、俺が次期国王だから、忠誠を誓っていただけ。女たちは、俺の容姿に心酔していただけ。カエルになった俺には、なんの価値もなかった……。だが、態度の変わらぬ者たちもいる。それがどんなに嬉しかったか。リーシェ、おまえもその一人だ。俺を見るリーシェの目は、ユリウスを見る目と同じ。人間扱いされているのだと、嬉しくもあり……腹が立つケロケロ」

「腹が立つ? なぜです?」


 殿下はぴょんと跳ねると、私の膝の上に飛び乗った。ケロケロ鳴いてから、笑い混じりに言う。


「特別扱いされたいのだ。……わからないという顔をしている。そうだろうな。お子ちゃまリーシェには難しい話だ」

「お子ちゃま⁉︎ た、確かに愛については、よくわかっていませんけど……。でも殿下だって、愛を知らないでしょう⁉︎」

「悪いが、俺は手応えを感じている。ケロケロ。覚悟しろ」

「なにを覚悟するんですか?」

「明日、ユリウスから話させる。あいつは口がうまいからな。リーシェ、これは命令だ。丸め込まれろクワッ!」

「なんか怖い! 良からぬことを企んでいる!」

「クワックワックワッ」


 夜が更け、吹く風が冷たくなってきた。

 私は殿下を手のひらに乗せると、バルコニーから室内へと入った。殿下を部屋に送り届け、それから自室に戻る。

 結わえていた髪を侍女に解いてもらっていると、殿下付きの従者が訪ねてきた。


「アレクシオ様から伝言がございます。──蝶から猫に飛躍した思考回路が謎だ。これが他の女だったら無視するが、リーシェには説明を求める。リーシェを理解したいという心の働きだ。……とのことでございます」

「謎は謎のままがいいと思います。と、伝えてください」


 しばらくしてから、また、従者が訪ねてきた。


「俺はリーシェを理解したい。リーシェと話すのは楽しい。これについて、おまえもなにか言え! ……とのことでこざいます」


 私と侍女は吹きだした。生真面目な態度の従者も、口元がピクピクと震えている。

 私は伝言ゲームを楽しみたくなった。


「アレクシオ様のおかげで会話が上達しました。ありがとうございます。と、お伝えください」


 その数分後。部屋の扉を開けた従者は、真っ赤な顔をして息を切らせていた。全力で走って来たらしい。


「はぁはぁ……アレクシオ様からの伝言でございます。──おとぼけリーシェ。そういうことじゃない。俺と話すのは楽しい。俺と話してもつまらない。答えは二つだ。……とのことでございます」

「二つは困ります。三つにしてください。と、伝えてください」

「そんなぁ! アレクシオ様の機嫌が悪くなります!! 今ですら、イライラしているのに!」


 従者が初めて、自分の言葉を挟んできた。顔面蒼白になった従者がかわいそうで、言葉を続けた。


「私は三つめの答えを希望します。……アレクシオ様とお話している時間も、話さずに黙っている時間も、どちらも好きです。一緒に過ごせるだけで楽しいです。──そう伝えてください」

「それは……大変に喜ぶと思います」


 従者は肩を撫で下ろすと、安堵の表情で出ていった。

 これで伝言は終わったと思っていたら、呼吸を整えた従者がまたやってきた。


「おやすみ、リーシェ。俺の夢を見てもいいのだぞ、とのことでございます」

「はい。迷路園の夢を見たいと思います。おやすみなさい、とお伝えください」


 従者が部屋の扉を閉めると、侍女が軽やかな笑い声をあげた。


「リーシェ様と殿下は、大変に仲がよろしいのですね」


 その日の夜。本当に、迷路園の夢を見た。追ってくるドラゴン。殿下は巨大なアマガエルに変身して、長い舌でドラゴンを追い払った。かっこいい夢だった。

  


 ◆◇◆◇


 

 翌日。ユリウスに「お話したいことがあります」と、宮殿の庭に連れだされた。

 ちょうど薔薇が見頃を迎えていて、色とりどりの薔薇が咲き乱れている。貴族らしき人々が薔薇を鑑賞している。

 それを遠くに見ながら、ユリウスと私は開けた庭に出た。

 芝生が広がっている。開放感があって気持ちがいいが、人々は薔薇のある庭園に行っていて、誰の姿もない。


「話というのは、お二人の将来に関わることです」

「なるほど。だから、ここに来たのですね。遠くまで見渡せるので、誰かがこっそりと聞いている、そのような心配をしなくていいですものね」

「ご名答。リーシェ嬢は賢い」


 ユリウスは微笑むと、目にかかる長い前髪を払った。


「世界情勢、国際的な状況。以前、そのようなことを私は言ったかと記憶していますが、百年前とは時代が違っています。貴族は特権階級ではありますが、なにをしても許される存在ではなくなっている。平たく言えば、庶民が賢くなっており、傲慢な貴族連中に搾取されることの理不尽さに不満を募らせている。──半年前。リステイン国で市民革命が起こり、何百人もの貴族が処刑された。他人事ではありません。我が国にも波及する問題です」


 ユリウスは一旦言葉を切ると、まわりに視線を走らせた。

 私たちの他には誰もいないことを確認すると、ある女性の名を口に乗せた。


「エリザベート・ロクシュタン様は、公爵令嬢。彼女の父親は、市民革命が我が国でも起こることを恐れ、民衆を押さえつけようと躍起になっている。それが、新興宗教の立ち上げです。王族とは神の血が流れる者であり、絶対的君主。貴族は、その君主を支える忠誠心ある者たち。貴族と平民とは格が違うのだと、訴えたいのでしょう。ですが私にはそれが、民衆の怒りを煽るように思えてならない。庶民は我々よりも圧倒的に数が多い。庶民こそ、国を支える土台。土台を失うことは、国の崩壊につながる。民衆を押さえつけるのではなく、活かしていかなければ未来はない。そこで、リーシェ嬢の出番です」

「へっ⁉︎ 私にできることなど、なにも……」

「平民初宮廷薬師になったリーシェ嬢なら、平民初王妃になっても問題ありません」

「いやいや、問題大ありです! というか、問題しかないです!!」

「そうでしょうか? 市民革命によって王政が滅び、貴族が大量処刑されることのほうが大問題です。王家は平民を人間として見ており、愛を注いでいる。それを象徴するのが、王妃となったリーシェ嬢。貴族と平民の橋渡しになってください」

「私には無理です!!」


 反発しながらも、心が揺れる。

 宮廷に来て、二年。貴族たちは平民を人間として見ていないことを思い知った。


 ──平民って、牛や豚と同じ家畜だから。俺らのために、死ぬまで働けよ。

 ──有力貴族と知り合いになりたくて、宮廷薬師になったわけ。薬がなくて民衆が死んだって、別にいいし。

 ──就業時間内に終わらない? そんなの知らないわよ。こっちは社交パーティーで忙しいんだから、残った仕事はあなたが片付けなさいよ。愚民がうちらのために働くのは、当たり前でしょう? 


 私たち平民にだって、怒り、苦しみ、悲しみ、痛みがあり、幸せになりたいと願う欲求がある。

 力のない平民は過酷な労働を強いられ、わずかな賃金しか与えられない。搾取されている現実を変えることができたら、どんなにいいだろう。

 

 だからって、私が王妃──……。


「あははははー! 私には無理です。教養ある、素晴らしい女性が王妃になったほうがいいです!」

「教養ある素晴らしい女性なら、探せばいるでしょう。ですが、アルクシオ様が彼女を愛し、彼女はアマガエルを愛する。──そこが問題です。次期国王は、アレクシオ様。カエルの姿で国王の椅子に座ることはできません。そこは理解できますね?」


 国王の立派な椅子の上で、アマガエルが「クワッ!」と鳴いているのを想像した。

 

「誰も命令を聞いてくれなさそう……」

「命令を聞かないだけなら、まだいいです。カエル国王を暗殺しようとする者が大量発生するでしょう」


 ユリウスは瞬きをせずに、私を見つめた。


「アレクシオ様と愛を結べる女性であり、かつ、知性とマナーと美しさと柔軟性と体力と強い精神力を備えた平民。これが、アレクシオ様の求める王妃の条件です」

「知性とマナーと美しさと柔軟性と体力と強い精神力を備えた平民……。そんな人、いますか?」


 疑問を放った私に、ユリウスは不思議そうな顔をした。


「います。私の目の前に」

「えぇっ! まさか、私⁉︎」

「宮廷薬師として二年間耐えているのですから、体力も精神力もお持ちでしょう。──アレクシオ様は心を決めております。他の女性は目に入らないご様子。この人と決めたら直情的になるあたり、リーシェ嬢の好きなイノシシのようではありませんか」

「私はイボイノシシの見た目が好きなのであって、気性は別に……」

「リーシェ嬢。正直に答えていただきたいのですが……」


 ユリウスは前置きした。青灰色の瞳が私の心を探るように、注視する。


「アレクシオ様が人間に戻った後のことです。身分のことでしたら、私の父が養女の手続きをします。世界最高峰の教師に、王妃教育をさせます。ですから、身分や王妃への不安ではなく、リーシェ嬢のお気持ちを知りたい。アレクシオ様が人間に戻った後。リーシェ嬢は、どうしたいですか?」

「どうって……。正直に答えても、本当にいいのですか?」

「はい」


 私は心にあるものを、偽りなく吐き出した。


「とても戸惑っています。殿下が人間に戻ったら、私の役目は終わる。お別れするものだと思っていたので……」

「お別れだとっ⁉︎ クワッ!!」


 ユリウスの魔道士服の袖口から、アマガエルが飛び出してきた。


「聞いていたのですか⁉︎」

「俺への未練はないのか! 薄情な女め。俺を捨てるなんて許さないっ!! クワッ!!」


 アレクシオ殿下は芝生に降り立った。

 新緑薫る季節。アマガエルの黄緑色は青々とした芝生に溶け込んでしまい、目を凝らさないとどこにいるのかわからない。

 私は芝生に座った。


「あ、あの、殿下……」

「グェェェェェーーッ!!」


 殿下は発色の良い黄緑色の体を膨らませ、口を閉じたまま鳴いた。


(これはっ! カエルが本気で怒ったときの鳴き声!!)


 天敵などに襲われたとき。アマガエルは体を膨らませ、低く鳴いて威嚇する。

 昨日も殿下は怒っていたが、その比ではない。


「あ、あのですね、誤解でして……」

「なにが誤解だと言うのだ。申してみよ! グエッ!!」

「私が殿下を捨てるのではありません。殿下が私を捨てるのかと……」

「グエッ! 俺がいつ、リーシェを捨てると言った! そんなこと、一言も言っていない!!」

「そうなのですが……」


 私は考えをまとめるために、口を閉ざした。誤解を生まないように、適切な言葉を探そうとした。

 そのだんまりを、殿下は誤解したらしい。


「ユリウスの目が気になって、言えないというわけか。俺に捨てられたと泣いて、ユリウスの同情を誘い、抱かれる気なんだろう!!」

「そんなことしませんっ!!」

「いや、する! エリザベートはそうだ!!」


 黙って聞いていたユリウスが、


「アレクシオ様に相手にされないと、エリザベート様が泣いて寄ってきますが、はっきり言って迷惑です」


 と、ぼやいた。


「アレクシオ様、芝生の中にいると見えずらいです。私の手に乗ってください」


 殿下へと、伸ばした手。

 アマガエルは一瞬だけ口をプハッと開けると、「ギュルッ!!」と鋭く鳴いた。

 それからすばやく飛び下がると、ふてぶてしい顔で、「グェェェェェーーッ!!」と威嚇した。

 本気の怒りは継続中らしい。


「カエルのくせに、抱かれる発言をして。気持ち悪いって思っているだろ!!」

「そんなこと思ってないです!!」

「じゃあ、あれか。カエルらしく、池に入ってゲロゲロ鳴いていろってか!」

「そうは思っていないですが……。でも今日は暑いですから、池で泳いでみてはどうでしょう?」

「おまえはそういう女だ! カエルが好きだから優しくしてくれるだけで、俺のことなんて好きじゃないんだっ!!」

「そんなことないです! アレクシオ様はアレクシオ様です」

「だったら、その、お、俺の、俺のこと、愛しているか……?」


 シーンと静まり返った空気。

 殿下が、「グェェェェェーーッ!!」と怒りの鳴き声をあげた。


「俺ばっかり愛して、バカみたいだっ!! 笑った顔がピンクの薔薇のようで可愛いとか、俺がなにを言っても優しく受け止めてくれて嬉しいとか、とぼけた性格にハマってしまったとか、一緒にいると居心地が良すぎて離れたくなくなったとか。……──愛する人がいるって幸せなことだと、嬉しく思っていたのに……クワ……」

「ごめんなさい! 私の話を聞いてください!! 楽しい話ではないのですが……」

「わかった。傷つく用意をしておく。クワ……」


 アマガエルの鳴き声に、元気がなくなってしまった。

 直射日光を浴びている体がきついだろうと思い、殿下を膝の上に乗せた。両手で影を作る。


「アレクシオ様は、私を捨てる発言をしていません。私がそのように思っていただけです。その理由を聞いてくださいますか?」

「ケロ……」

「アレクシオ様は、宮廷薬師への推薦状を書いてくださいました。出勤初日。到着したことをアレクシオ様に報告したいと思い、上司に相談しました。ですが、身分が違うことを理由に却下されました。そこで私は仕事が終わった後、宮殿の周囲を歩くことにしました。偶然会うことを期待したのです」

「会うことができなかったというわけか……」

「いいえ、一度だけ会うことができました」

「クワッ⁉︎ 記憶にないぞ!」

「記憶にない。やはり、そうですか……。宮殿の付近で偶然会ったとき。目が合ったように思いました。でも殿下はすぐに、別なところに顔を向けてしまった。髪型と服が違うから、わからなかったのだろうと思いました。私は諦め、仕事で恩を返すことを決めました」


 殿下を責める気持ちはないことを示すために、私は明るく笑った。


「そうしたら、公務が忙しくてリーシェのこと忘れていたクワッ、って言うんですもの! ふふふっ。おもしろいですね。殿下の記憶に私はいなかった……。殿下は人間に戻りたいから、カエルが好きな私を愛そうとしているだけ。人間に戻ったら、用事済みだと言われる。愛が続くなんて、思いあがってはいけない。そう、思っていました」


 殿下からの返事はない。かざした手の下を見ると、アマガエルがぐったりと伸びていた。


「きゃあーっ!! いますぐに水に……」

「連れて行きます!!」


 ユリウスは急いで両手でアマガエルを包むと、「メサラマサラリチノス!」と呪文を唱えた。

 ユリウスの目の色と同じ青灰色の光が地上から放射線状に伸び、彼の全身を覆った。

 光が消えたとき、ユリウスと殿下の姿は消えていた。



 アレクシオ様の具合が心配だけれど、心の中を整理したい。思いが入り乱れたこの状態では、アレクシオ様の望む答えを出せそうにない。


 芳しい薔薇の香りに誘われるようにして、薔薇園に足を踏み入れた。

 色とりどりの美しい薔薇に目を奪われつつも、頭の中はアレクシオ様で埋め尽くされている。


「殿下は、私との未来を考えてくれている。嬉しいけれど……」


 アレクシオ様は、私を一人の人間として見てくれている。それなのに私は、(次期国王様と庶民の結婚だなんて、許されるものではない)という恐れが強い。

 貴族と庶民を区別する線が、自分の中にもあることを痛感する。


「私はどうしたらいいんだろう……」


 王妃になる未来を描けない。自分に自信をもてない。


 重い足を無理矢理に前に進めていると、前方から歩いて来た女性が怪訝な顔で立ち止まった。


「あら? 見ない顔ね」


 高々と盛り上がった髪。その髪の上には、なぜか船が乗っている。くびれたウエストはあまりにも細すぎて、美しいというより痛々しい。

 驚きのあまり声をだせずにいると、なぜか女性は満足そうに笑った。扇子を広げ、大袈裟な身振りで話しだす。


「オーホッホッ! 私って、どこに行っても注目の的ね。困ってしまうわ。でも、美しいのだから仕方がないわね。さ、見ることを許可してあげますわ。将来の王妃になる者として、寛容な心は必要ですもの。どうぞ、私をご覧くださいまし。心ゆくまで誉めていいですのよ。うふふ」


 強烈な個性を持つ女性の登場に、開いた口が塞がらない。


(どこを褒めろと? 頭の重みで、首に負担がかかっていそう。コルセットの締めすぎで、骨と内蔵系が心配。褒めるよりも、心配する言葉しか思い浮かばない……)


 沈黙を貫く私を見かねたのか、女性の後ろに控えていた侍女が声を張りあげた。


「エリザベート・ロクシュタン様が話しかけてやっているというのに! 挨拶なさい!!」

「ハッ! 申し訳ありません!!」


 私はカーテシーの挨拶をしながら、(エリザベート・ロクシュタン様って、アレクシオ様の婚約者では……)と、記憶と照らし合わせる。

 間違いない。ユリウスが教えてくれた名前と同じ。


「リーシェ・フランシュアと申します。お会いできて光栄です」

「リーシェ? どこかで聞いたような……」

「アレクシオ殿下を人間に戻す役目の女でございます!」

「まぁ、この子が⁉︎」


 侍女の耳打ちに、エリザベート様は目を丸くして、ぽとりと扇子を落とした。

 侍女はその扇子をすばやく拾うと、固まったままのエリザベート様の手に持たせた。


「ううんっ!」


 エリザベート様は喉の調子を整えるかのようにうなると、顔を上下に動かし、私の頭の上から足の先まで視線を何往復もさせた。


「あなたが貧乏くじを引いた女ね。同情してあげますわ! 醜いカエルと、毎日過ごさないといけないなんて! 美しいものが大好きな私には無理ですわ!! オーホッホッ!」


 エリザベート様は片手を腰に当て、閉じた扇子の先を口元に当てて高笑いした。

 私とエリザベート様の笑いのセンスは違うらしい。真顔でいると、彼女は高圧的にフフンっと笑った。


「どう? 汚いカエルを愛せそう?」

「私はカエルのことを汚いとは思っていません」

「まぁ! あなたっておもしろい感性をしているのね。すっごく変!! ねぇねぇ、この子、変よ! 本物のカエルと結婚式をしたらいいと思わない⁉︎」

「いい考えでございます」


 侍女に話しかけるために振り返ったエリザベート。ひとしきり笑い合うと、彼女はまた私に向き直った。


「早く人間に戻して。私、カエルが大嫌いなの」

「努力してみます。それよりも、あの……姿はカエルでも、中身はアレクシオ殿下です。エリザベート様も、愛する努力をしてみては……」

「まぁっ!!」


 エリザベート様は目眩が起こったようで、額に手を置いて足をふらつかせた。


「信じられない! だって、アレクシオよ? 顔はいいけれど、真面目すぎて超退屈な人なのよ。話をするよりも黙っている時間のほうが長いって、変ですわ! なにが楽しくて生きているのかわからない人の、どこを愛せばいいっていうの? プププっ、無理ですわ! それにあの人、五十年後、百年後の話をするの。信じられます? 国の未来なんて、そのとき生きている人が考えればいいのよ。だって、百年後は生きていないもの。国がどうなったって別にいいわ。今を楽しく生きることのほうが大事ですもの!!」


 国がどうなったって別にいい──その言葉がガラスの破片ように胸に突き刺さる。

 私はそうは思わない。


「リーシェ様……あっ!」


 私付きの侍女が声をかけてきたが、エリザベート様がいることに気づいたらしく、手に持っていたものを背中に隠した。 

 エリザベート様が、それをめざとく見つける。


「なにか隠したわね? 見せなさい」

「リーシェ様へのお手紙ですので……」

「だったら問題ないわ。私たち、知り合いになりましたもの」


(知り合いになったからって、手紙を見るのは問題だと思うけれど)


 手紙を受け取り、目を見張った。差出人は、ノンチェスター町の町長。

 町を離れて、二年。町長から手紙がくるのは初めてだ。

 胸騒ぎがして、私はその場で開封した。エリザベート様が覗き込む。


「綺麗な字を書く方ね」

「薬師の先生が病気で危ないって……帰らないとっ!」


 イマルマ先生が危篤状態にあるとの手紙に、私は走った。

 イマルマ先生が重い病気にかかっているなんて、知らなかった。けれど、町を離れて二年。二年という月日の早さを感じる。


 アレクシオ殿下の私室に入ると、アマガエルがバスタブの中で泳いでいた。


「アレクシオ様! 具合はどうですか⁉︎」

「元気になった。太陽を浴びすぎたようだ。クワッ」

「元気になって良かったです」


 私はホッと胸を撫で下ろし、それから、町長の手紙を見せた。


「イマルマ先生は薬師の先生というだけでなく、両親を亡くした私の面倒もみてくれました。会いに行ってもよろしいでしょうか?」

「もちろんだ、クワッ。ノンチェスター町を訪問した際、俺もイマルマ氏にお世話になった。立派な人だ。危機を脱するよう、祈っている」

「ありがとうございます。来月には帰ってきたいと思いますが……」

「来月? 遅すぎる。三日後に記念パーティーがある。それまでに帰ってこい」

「ええっ⁉︎ 無理ですよ! ノンチェスターへは、乗合馬車で片道十日かかります」

「ユリウスなら、一分もかからずに、ノンチェスターに行けるぞ」


 殿下はバスタブから出ると、従者が用意した小さなタオルで体を拭いた。手を使って器用に体を拭く様は、姿はカエルでも人間っぽい。


「ユリウスを貸すから、三日後に帰ってこい」

「そんな悪いですよ。ユリウスさんには仕事があると思いますし。一人で行きます」

「一人では絶対に行かせない。リーシェになにかあったら、俺の心臓が潰れてしまう。ユリウスを護衛につける。あいつは仕事人間だ。ノンチェスターは海が綺麗な町だから、ちょうどいい。あいつに三日の休暇をやろう。クワックワッ」


 殿下は従者に、ユリウスを呼ぶように言った。私は深く感謝した。


「なにからなにまで、ありがとうございます。それと、すみません」

「なぜ謝る?」

「アレクシオ様は人間に戻っていません。私のせいですよね。それが、申し訳なくて……」


 アレクシオ様は、私を愛していると言ってくれた。それなのに人間に戻れないのは、私が殿下を愛していないからだ。

 殿下は穏やかな口調で「気にするな」と、慰めの言葉をくれた。


「泳ぎながら、真実の愛とはなにかを考えていた。俺はリーシェを好ましく思っているが、真実の愛ではないのだろう。──時代は改革期にある。民衆に力をつけさせるのを恐れていては、国際競争に負ける。国を発展させるためには、将来を見据えた戦略が必要だ。伝統を守りながら、改革も進めていく。難しいことだが、俺にはその覚悟がある。数年前から、王妃はエリザベートではなく、貴族と庶民の橋渡しができる者がいいと考えていた。リーシェは、平民初の宮廷薬師。貴族のことも、平民のこともわかっている。ユリウスの言葉を借りれば、王妃となるに最適な人物。だが……」


 殿下は言葉を切ると、壁を這ってのぼり、窓枠に飛び乗った。窓の外を眺めたいらしい。


「俺は帝王学を学び、自分の信念の元に、国を改革する。だがその覚悟を、リーシェに押しつけるのは違う。リーシェにはリーシェの意思がある。薬を開発したくて、宮廷薬師になったのだろう? その道を、俺が捻じ曲げるのは違う。俺のは、身勝手な愛なのだろう。真実の愛とは、相手を尊重する先にあるのかもしれない。愛とは難しいものだな。ケロケロ」


 真面目な話の締めくくりが、ケロケロ。

 私は吹きだし、殿下も口を開けて笑った。


 ユリウスが部屋に顔を出した。話し合った末、三時間後に出発することになった。

 私は鞄に荷物を詰めると、薬師室に行って休暇届けを書いた。

 時間はあっという間に流れ、アレクシオ様に別れを告げるために、殿下の執務室を訪れた。


「では、行ってきます」

「ああ、気をつけて行ってこい。三日後に帰ってくるんだぞ。クワッ」

「はい」


 ユリウスが呪文を唱える。「メサラマサラリチノス!」

 青灰色の光が足下から噴きだす。光は私とユリウスを包み、風景が流れる。ものすごい速さで移っていく風景に目が回りそうだ。

 懐かしい潮の匂いが鼻につき、流れていた風景が止まった。

 ──眼前に広がるのは、懐かしい故郷の風景。

 石灰石で作られた白い家々と、太陽が照りつける真っ青な海。カモメの鳴き声。海の反対側には、緑豊かな山。


「すごい! 一瞬で帰ってきた!!」


 イマルマ先生に早く会いたくて、胸に抱えていた鞄を右手に持ち変えて駆けだした。

 石の階段を降りた先に、先生の家がある。


「あれ? 先生?」


 重い病気に臥せっているはずの先生が、自宅の玄関前に座っていた。天日干しした薬草の仕分けをしている。


「おっ⁉︎ リーシェ? どうした?」


 先生の眼鏡の奥にある小さな目が、弟子の登場に驚いている。

 私も驚きの目で、先生を凝視した。体格のいい、でっぷりとした体。血色の良い顔色。総白髪だが、ふさふさの髪。

 余命幾許もない人には見えない。


「先生が重い病気にかかって、命が危ないって手紙が来たんだけど……」

「はぁ? 俺は元気だぞ」


 鞄から町長の手紙を取りだして見せる。イマルマ先生は顔をしかめた。


「町長は一年前に亡くなった。誰がこんなイタズラを?」

「イタズラ?」


 どういうこと? わけがわからない。

 

(誰かが、町長の名前を使って手紙を寄越したんだ。どうして……)


 嫌な胸騒ぎがする。

「中に入って休め」という先生の声を振り切って、ユリウスを探す。


「後をついてきてくれてもいいのに!! どこに行ったの⁉︎」


 町中を走っていると、懐かしい顔から声をかけられた。


「あれ? リーシェちゃん? 帰ってきたのかい?」

「おばちゃん! 背の高いイケメンを見なかった⁉︎」

「うちの旦那かい?」

「全然違うでしょ! 青い髪をしたイケメン! 知り合いなの」  

「リーシェちゃんの旦那かい?」

「ちがーう!!」


 私は足踏みしながら会話を終え、再びユリウス探しに奔走する。

 走ること十五分。カフェでコーヒーを飲んでいるユリウスを見つけた。

 私は汗をダラダラかいているというのに、ユリウスは涼しい顔だ。


「はぁはぁ……なんで、後をついてきてくれなかったんですか……」

「休暇で来ています。どこに行こうが、なにをしようが、私の勝手だと思いますが」

「はぁはぁ、そうだけど、でも、そうも言っていられなくなったの!!」


 町長からの手紙が偽物だったことを説明する。


「殿下からユリウスさんを引き離すための、暗殺者からの手紙かもしれない!!」

「悪い考えをもった者が近づかないよう、結界術をかけていますのでご心配なく。それと、暗殺者からの手紙ではありません。私が書きました」


 顔色を変えることなく、平然と告白したユリウス。


「ええっ⁉︎ ユリウスさんが書いたの⁉︎」

「はい。お二人を少し、離したほうがいいと思いまして。アレクシオ様は愛に溺れて理性が低下していますし、リーシェ嬢は王妃の話に困惑している。考える時間が必要だと判断しました」

「さすがユリウスさん。有能ですね」


 一人になって考える時間がほしいと思っていたので、ありがたい。

 私はユリウスと別れると、イマルマ先生の家に戻った。


 夕食後。イマルマ先生に相談した。王妃に望まれているとの話に、先生はあんぐりと口を開けた。


「リーシェが王妃? なんとまぁ、恐れを知らない人だなぁ。だが、うん。時代が変わってきているというのは、俺も感じている。貿易が発展して、世界が広くなっている。能力とチャンスがあれば、庶民でも成功する時代が来るだろう。リーシェは、その先駆けだな」

「そっか……。私、王妃としてやっていけると思う?」

「人の意識はすぐには変わらない。陰口を叩かれたり、嫌がらせをされるだろう。だがそれに負けてしまったら、後に続いていかない。リーシェは開拓者として、踏ん張らないとな」


 先生は豪快に笑った。他人事だと思って、呑気なものである。けれどシリアスになるより、笑ってくれたほうが気が楽だ。

 先生につられて、私も笑った。


「それにしても、アレクシオ殿下は勇気のある人だな。高貴な地位にある人が、民衆に目を向け、力をつけさせようとしている。先を見据える目がないとできないことだ。リーシェ、力になってやれ」

「うん……」


 先生に背中を押してもらい、勇気が湧いた。

 アレクシオ様を支えたい。平民でも、夢が叶う世界を創りたい。

 

(苦しみにある人々を助けたくて、宮廷薬師になった。王妃という立場でも、人々を助けられる。虐げられている人たちを救うことができる)


 私は決意を固めた。

 この先どんな困難が待ち構えていようとも、五十年後、百年後の未来に生きる人々の幸せのために、私は頑張りたい。

 そしてなにより──……アレクシオ様と一緒にいたい。

 故郷は懐かしさであふれているけれど、寂しい。

 アレクシオ様の不在は、私の心にぽっかりと大きな穴を開けている。




 帰る当日の朝。故郷の風景を目に焼き付けたくて、海沿いを歩いた。

 すると、杖をついている老婆が目に入った。真っ黒なローブに垂れている、長い白髪。腰が九十度に曲がった姿。

 見覚えがある。


「サラおばあちゃん! 私、リーシェ! 覚えている?」

「あぁ、リーシェ。覚えているよ」


 ざらざらの声が、嬉しそうに私の名前を呼んだ。黒いフードの中にある皺くちゃの顔には笑顔が浮かんでいる。


 ノンチェスターの町は、西側に海。東側に山がある。

 三年前。薬草を採りに山に入ったところ、崖下に老婆が倒れていた。意識を失っていた老婆を背負って町に戻り、医者に連れていった。

 目を覚ました老婆は、サラだと名乗った。きのこを採っている最中、足を滑らせて崖から落ちたそうだ。


 アレクシオ様から推薦状をもらってノンチェスターを離れる日、サラは教えてくれた。──自分は魔女であると。


 それから二年。サラは変わらぬ姿で、私との再会を喜んでくれている。

 

「山で倒れたアタシを看病してくれた。その恩を返したよ」

「え? どういうこと?」

「アタシは未来が視える。リーシェは立派な王妃になれる」


 思いがけない言葉に絶句していると、サラは優しい目で笑った。


「あの男は仕事に夢中で、いつまで経っても、リーシェに目を向けようとしない。もどかしくなってね。魔法で誘いだして、カエルにしてやった」

「それって……!!」


 サラは私の向こうに目をやった。振り返ると、ユリウスが目を丸くしている。アレクシオ様をカエルにした魔女が私と話していることに、驚いているのだろう。


 サラは皺々の手を伸ばすと、私の頬に触れた。


「アレクシオ様と幸せにおなり」

「うん……ありがとう……」


 胸が熱くなって、涙がせりあがる。

 サラは笑みを深めると、杖を振った。虹色の光が消えるとともに、サラも姿を消した。


 ユリウスは「まさかあの魔女が……二人を引き合わせるために……私の魔術よりも強い魔法……弟子入りしたい……」と、ぶつぶつつぶやいていたが、ハッと我に返って叫んだ。


「アレクシオ様が本の下敷きになったとの連絡がきました!!」

「えっ⁉︎ 結界魔術で守られているのでは?」


 ユリウスは青髪の中に片手を入れると、わさわさと掻いた。


「結界は、悪意ある者から守る防御魔術。つまり、悪意のない者には効かない。私の父が手を滑らせ、分厚い本がアレクシオ様の上に落ちてしまったのです!」

「そんなっ! あの、大丈夫なのですか⁉︎」

「わかりません! 今すぐに帰りましょう!」


 ユリウスが魔術を唱えると、青灰色の光が私たちを包んだ。景色が物凄い速さで流れ、酔いそうになる。

 風景がぴたりと止まる。アレクシオ様の執務室に私は立っていた。


「父さん! アレクシオ様は無事なのですか⁉︎」


 私が問うより早く、ユリウスが、ソファーに座ってうなだれている男性に声をかけた。

 飛び跳ねるようして立ちあがった宰相。


「すまない! 私の首を刎ねてくれ!!」


 ユリウスと同じ、鋭い眼光を持つ宰相。その彼の目が、テーブルに向けられた。そこに置いてあるのは、世界言語辞典。

 二千ページはあるであろう、その分厚さに、血の気が引く。


「まさか、殿下はこの本の下敷きに……」


 目の前が真っ暗になってふらついた私を、ユリウスが支えた。

 宰相はぎこちない口調で、謝罪を始めた。


「申し訳ありません!! でも、ご心配なく。素晴らしい男性はいくらでもいます!! 私の甥っ子なのですが、実に優秀でして。薬草に詳しい男なのです。リーシェさんと話が合うこと、間違いなし。紹介します!」


 私は首を振った。涙がふわっと、目の縁に上がってくる。


「アレクシオ様じゃないと嫌です。……離れて、気づいたんです」

「なにをですか⁉︎」

「なにに気づいたのですか⁉︎」


 ユリウスと宰相が興奮気味に食いついてくる。

 私は頬を流れる涙を、手で払った。


「愛って、情熱的なものだと思っていました。出会った瞬間に雷に打たれたような衝撃を受けるとか、この人しか見えなくなるとか。世界が変わるのが、愛だと……。でも、私はそうではなかった。だから、気づかなかった。春の雨のような、愛もあるのですね。優しく降り注いで、芽を出させる」


 落としていた視線を上げ、真剣な顔をしている二人に笑いかける。


「いつの間にか、私の心に愛の芽が出ていたようです。アレクシオ様と過ごした時間が、育ててくれた芽です。……アレクシオ様じゃないと嫌です。他の人ではダメなんです。どんな姿でもいいです! アレクシオ様に会わせてください!! 解剖学を学んだから大丈夫です。ひどい状態でも気絶したりしません。アレクシオ様に会わせてください!! アレクシオ様を愛しているんです!!」


 私は大バカものだ。失ってから、気づくなんて──。

 愛の芽は、まだ生まれたばかり。けれど、地中深く根を張っている。

 この先私はアレクシオ様の不在を嘆きながら、寂しく生きていくのだろう。愛に気づくのが、遅かったばかりに……。

 

 涙をこぼす私の耳に、二人の会話が入ってきた。


「父さん、私の言ったとおりでしょう! 相手の不在、つまり孤独が、愛を欲する起爆剤となるのです」

「でかした! だが私の演技力で、リーシェさんが愛に気づいたのではないかな?」

「演技力? わざとらしい、あの言い方が? リーシェ嬢は素直だから騙されましたが、普通の人ならしらけますよ」

「あ、あの、演技って……」


 ユリウスと宰相は微笑んでいる。その視線は、私の肩越しになにかを見ている。

 振り返ると、執務室の隣のドアが開いていた。そのドアの戸口に立っているのは──。


 太陽の光を浴びて輝いている金髪。腰まであるその髪は、紫色のリボンで一つに結ばれている。輪郭は丸すぎず、尖りすぎず、ちょうどいい。

 ユリウスほどではないが、それでも背がスラリと高い。

 女性の心を虜にし、男性には崇拝を抱かせる、聡明ある美青年。


「アレクシオ様……?」

「そうだ」


 知的な青い瞳が、恥ずかしそうに揺れた。


「ユリウスが、離れることで愛に気づく可能性があると言ったものだから……。騙して、すまなかった」

「アレクシオ様っ!!」


 私はためらうことなく、殿下の胸に飛び込んだ。


「生きているんですね!!」

「ああ」


 アレクシオ様の手が背中に回され、そっと、私を包んだ。

 静かな足音と、そっと閉まったドア。ユリウスと宰相が部屋から出ていったのだろう。


「人間に戻れたということは、リーシェは俺を愛している。そう、思っていいのだろうか?」

「はい。殿下が本の下敷きになったと聞いて、ショック死するかと思いました。愛に気づくのが遅くて、すみません」

「いいのだ」


 アレクシオ様の手が伸びてきて、私の前髪を払った。その額に落とされた、やわらかな口づけ。


 殿下はカエルでも人間でもどちらでも素敵だと、言ったことがある。その考えを変える。

 抱きしめられて感じる彼の体温。肺深くに入ってくる彼の匂い。彼の唇の柔らかさ。髪を撫でる優しい手。

 アマガエル殿下よりも、人間のアレクシオ様のほうがずっとずっと、素敵だ──。

 

 

 


 ✰⋆。:゜・*☽:゜・⋆。おしまい✰⋆。:゜・*☽:゜・⋆。


 


 



 



 

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― 新着の感想 ―
[良い点] 何がだろう。 全部良かったです!テンポ、文体、ストーリー、落ち。 宰相親子のキャラ! 色物あまり好きではないんですけど、読んで良かったー 楽しかったです!
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