文章を書くこととは、自分らしさと自己満足の探求である
◇なんでも二番手
僕は小学生のころ何でもいいから一番になりたい願望が強かったんです。
勉強、足の速さ、ゲーム。どれも、そこそこのところまで行けたけど1番になれない。
そして、いつも結果に対して苦笑いを浮かべる状況でした。
このように全部が一流未満で終わってしまっていました。
決して目立ちたいわけではなかったんですけど、自分が満足いく結果が出なかったことがとても不満でした。
そんなある日、作文コンテストがありました。
僕は残念ながら入選しなかったのですが、友達からこう言われたことが今も印象深く残っています「よく分からないけど凄いね」と。
自信作と豪語していた僕に対しての慰めの言葉だと思うんですけど、
妙に心に残った言葉でした。
◇高校で一応トップに
中学に上がるぐらいになると、“現実”が見えるようになってきたんです。
僕はどうにも何事にも一番になることができないようだと。
凄い奴はいくらでもいる。
学校内で1番にすらなれない奴が果たして1番を目指していくことに意味があるのか?と素朴に疑問に思いました。
しばらく色々と考えた結果、小学生の時に言われた「よく分からないけど凄いね」という言葉が蘇りました。
僕は論理的な思考で考えるのが好きだったのでその当時は受験などでも使える小論文を中心に書くようになりました。
そして高校2年の時、一応賞金が出るような高校の小論文コンテストで「マグレ」ともいえるような最高賞を貰いました。
それと同時に「これ以上の作品は書けないな」と思って満足もしてしまい、一旦は書くことをやめてしまいました。
◇社会人でまた執筆復帰へ
しかし、社会人になってまた躓きました。
そんなに何か絶望的なことが起きたわけではないんですけど、
“限界が見えた”というか“先が見えてしまった”んですよね。
これぐらいの収入になって、こういう家族を持って、こうやって死ぬ
――そんな図が浮かんでしまってなんだか人生そのものの目的が無くなった気がしたんですね。
こんなの生きているような死んでいる“ゾンビ”みたいな状況じゃないか? って思ってしまったんです。
そういう心境の時に「人生で満足することってなんだろう?」とも考えました。
そこで出た結論が“自分らしさを見せる”ということだと思ったんです。
それで思い出したことが文章を書くことでした。
高校時代の自分のマグレ作品を超えるのは実を言うと相当難しいんですが、
今できることをやろうと思ったんです。
そう思って学生時代の時に書いていた作品の続きを書いていた時にとんでもないことが起きました。
それはロシア・ウクライナ紛争です。
◇政治経済エッセイへ
ロシア・ウクライナ紛争を見た瞬間に思いました。
『あぁ、これはマスコミプロパガンダでウクライナ支援一辺倒になるな。
理想はインドみたいにどっちつかずでノラリクラリすることなのに』
予想通りの展開になっていきました。
政治には興味が兼ねてからあった上に、世間一般の報道と僕の感覚の間に随分乖離があるということが分かったので、「政治経済エッセイ」を書こうと決めました。
それが僕の“生きる目的”なのだと直感しました。
その後もLGBT法案や予算の配分の仕方、緊急事態条項などの問題が次々と波状攻撃的に殺到してきているわけで、独自の視点で次々と書けているわけです。
◇人間は誰もが“自己満足”で終始している
僕レベルの文才しかない人間では底辺を彷徨うことは間違いわけですし、
主流の流れとは全く違うところにい続ける予定なので今後も浮上の眼は無いでしょう。
政治経済エッセイなんて見ている人そのものが少なそうです。
そんな中、いったい何をモチベーションに書けているのか? というと『自己満足』です。
そもそも、生きていること自体が壮大な自己満足だと思っています。
歴史に残るような人物でもなければ100年後の人達の記憶に残ることはないわけです。
歴史に残る偉人も人類史そのものが破滅してしまえば何も残りません
極端な話、その視点に立った時に地球上80億人に「生きてる意味なんてない」ですし、
この世は地球刑務所ともいえるのではないか? とすら思えてしまうのです。
そう思ったときに、評価とは関係なく「自分らしい作品」ができればそれでいいかなって「満足」できると思いました。
◇“極めた先が見えない”ことの魅力
僕は比較的に早く実力が全然な段階でも“極めた先”というのが見えてしまうのですが(その業界で一番上手な人を見ているだけですが)、
文章に関しては“何が最善か未だに見えない”ところが最大の魅力だと思います。
世界観やキャラクターそれに伴う展開は状況次第で無限大の選択肢があると思っています。
また、時代の潮流によっても“最善“と思える表現や展開というのは変わっていきます。
文学はまさしく世相を映す“生き物”と言えるような存在だからです。
そんな中で、自分なりに適切な選択肢を選んだ時の嬉しさや喜びというのはひとしおです。
そうやって作り上げた文章を皆さんが読んでくださったときに、
良いと思ってくれて、僕の感覚と合致してくれたらなおのこと嬉しく思いますね。
他人の文章が妙に良く見えて、自分の文章が空前の駄文に見えてきて公開するのが怖くなることもないわけではありません。
それでもそう言った“怖い”と思った瞬間を乗り越え、僕が満足しつつなるべく皆さんのためにもなるような作品を提供できればと思いました。
理想としては僕の名前が隠れていても僕の文章だと分かってくれるような人が一人でも増えることを目標にこれからも何かしら文章を書いていこうと思いました。