白は黒へ――
不気味な静けさが漂っていた場内に突如大きな鼓動が轟いた。音の発生源は黒の塊。根源的恐怖を彷彿とさせる恐ろしき物体の前には、未だ腰を抜かしたままのヘルトがいた。意思を引っ込めさせたブランシュが早く逃げろとヘルトに叫んでいる。ヘルトとて逃げなければ命はないと感じているのに、身体が恐怖に屈し動けないのだ。黒い靄はネルヴァへの復讐心が具現化した生命体。ユリアとセレナを閉じ込めた球体の中は一体どうなっているのかも知りたいのに、やはりヘルトの意思が前に出ている以上動けない。
心臓の鼓動を直接聞いている気分に浸らせてしまう球体の表面に罅が広がっていき、今度こそ死ぬと直感したヘルトは意地で足を動かし少しでも遠くへ逃れた。神であった自分が同族でもない魔族でもない、ましてや人間でもない生命体に怯える等あってはならない。何とか立ち上がったヘルトは怒りに燃えた眼で球体を睨み付けた。
魔法を発動しようとした直後、広がる罅は球体全体に広がる。隙間から漏れる黒い光は魔族の魔力とも人間の魔力とも違う、全く別物へと変化した。
部屋が揺れているのか、震えによって自身の身体が揺れているのかヘルトにもブランシュにも判断のつきようはない。
死を覚悟したのはこれで二度目。一度目は息子のネルヴァに瀕死の重傷を負わされた時。当代の神として、次期神となる子を育てるのは当然の責務であり、親の務めであった。生まれながらに弱い神力を持つアンドリューでは役に立たないなら、ネルヴァに次ぐ強い神力を持って生まれたヴィルを予備として育てるのは当然の理。勝手に魔界に行った挙句瀕死になり、回復するなりふらっと天界へ戻っただけで碌に弟達と接してこなかった分際で長兄面をしやがって。今度こそネルヴァを殺して神力を奪う。ヴィルもヨハネスも逃がしはしない。
三人を殺す前に球体を破壊するべく、恐怖を捨て前を見た。ら——中にいるナニカが産声を上げた。人間とも、魔族とも、獣とも捉えられない不気味な声。球体は瞬く間に弾け飛び、欠片が次々に身体に突き刺さり、数秒もしない間に全身血に濡れ、所々皮膚が抉れ血肉が食み出ていた。ブランシュの面影を辛うじて残した姿のまま、呆然と目の前に立っている存在を見上げた。
「あ……」
漆黒に染まった髪、眉、睫毛、瞳、肌。ユリアの面影があることから、目の前の生命体は堕天化したユリアなのだろう。
天使や神族にとって黒は魔族を象徴とする色であり、生まれた当初より忌み嫌うべき色と刷り込まれる。嫌悪し、憎むべき色を纏った存在はこの世の何よりも美しい。
「あ」
ユリアだった存在がふわりと微笑みを見せた。聖母の如き慈愛に満ちた微笑みは、子供の頃にあった母親への愛を渇望する思いを一気に思い出させた。ブランシュの母もヘルトの母も既に亡くなっている。久しく母の温もりに触れられていない。無意識に手がユリアらしき存在に伸びていた。
「——」
微笑んだままヘルトの伸ばした手は素通りされ、額に人差し指を当てられた。
漆黒の瞳に浮かぶのもまた慈愛の情。魅入られ、母への愛を思い出してしまった為に、指先に膨大な力を込められてもヘルトが動くことはなかった。
読んでいただきありがとうございます。




