白は黒へ⑧
「そこを離れろ!!」
暴走は静まり、我が子の言葉に耳を聞き入れ深く反省しているユリアとユリアと一緒にアンドリューを殺した罪を背負うと覚悟を決めたヨハネス。母と子が和解し掛けた瞬間、瞠目したリゼルの危機に染まった声が迫った。二人が反応した直後、隆起していた地面から身の毛がよだつ感覚が容赦なく襲い掛かった。両手を前に突き出したユリアの手にヨハネスは突き飛ばされた。
「母……さん……?」
呆然とするヨハネスへ向けられたのは……ユリアの優し気な微笑み。口パクで「逃げて」と伝えられ、ヨハネスが遠ざかっていくユリアに手を伸ばした刹那。地面から黒い靄が噴出した。
「あれって!?」
驚愕するジューリアは強い力で後ろに引っ張られる。よく見るとネルヴァに抱き上げられキドザエルの側に置かれた。
地下で見たのと同じ……ネルヴァ達兄弟の母セレナが堕天化を引き起こした元凶がユリアに纏わりついた。全身から煙を発生させ、悲鳴を上げるユリア。恐怖で身が硬直してしまったジューリアはただ見ているしかなかった。
「母さん!!」
「触るなヨハネス!!」
ユリアに逃がされたヨハネスが身を起こして近付こうとしたのをネルヴァが阻止した。信じられない力でネルヴァの拘束を解こうとするヨハネスを後目に、ユリアに纏わりつく黒い靄をリゼルが掴んだ。引き剥がそうとしても力は尋常ではなく、リゼルでさえ簡単に引き剥がせない。
「ぼくも、ぼくも母さんを!!」
「お前は絶対にダメだ!! 地下で見ただろう! お前の祖母があの黒い靄によって堕天化が進んだのを!」
「でも! でも……!!」
ネルヴァへの復讐と憎しみによって発生した黒い靄に天使や神族が触れればあっという間に堕天化が進む。ヨハネスとて例外ではない。ネルヴァの場合は、幼少期魔界に行って瀕死の重傷を負った為か通常より耐性が強くなっただけ。今この場で黒い靄に触れられるのはリゼルだけなのだ。
「っ」
やっとユリアの胴体に巻き付いた靄を引き剥がすがすぐにまた別の靄が纏わりついた。手古摺っている間にもユリアの肌は焼かれ痛々しい姿へと変わっていった。リゼルの手も無事ではない。黒い靄は邪魔者を排除しようと強くリゼルを拒んでおり、掌の皮膚は抉れ血に染まっていた。悲鳴を上げていたユリアは黒い靄を引き剥がす力を緩めないリゼルの手に触れた。
「!」
「お願い、です……どうか……どうか、ヨハネスを連れて……逃げてください。私はどうなってもいいっ、だけど……っ、ヨハネスだけは無事でいてほしいっ」
顔にも纏われ凄絶な苦しみを味わっているのにも関わらず、天敵たる魔族に愛する我が子を託すユリアは穏やかでいた。魔界の事情を詳しく知らないとは言え、この場にいる魔族がリゼル=ベルンシュタインだとユリアも知っている。ヨハネスに危害を加えないと本能で察したユリアは託すことを決意した。
「お前が死ねば、折角の決意が無駄になるぞ」
誰の? とは言わず。
「はい……それでも、私にとって一番大切なのは……ヨハネスです。母親にとって我が子は、命に代えても守りたい存在です。貴方だって知っている筈です」
「……」
我が子は宝物とはリゼルとて同じ。愛する妻に瓜二つな、愛する愛娘。ヨハネスの為を思うなら意地でもユリアを助けるべきなのだろう。
「……安心しろ。おれが助けずとも、お前の息子を守ろうとする奴はちゃんといる」
誰が? とは言わず。
ユリアも分かっており、後ろで母を呼んで泣いているヨハネスに目を向けた。
本当ならまだ子供でいられたのに無理やり大人にされた挙句、望まない地位を押し付けられ、ずっと泣いていたヨハネス。天界の報せを聞いた時は絶望の淵に落とされたが今思うとアンドリューが死んで良かった。アンドリューが生きていたら、天界に戻った時ヨハネスの味方は一人もいなくなり、天界を脱走する以前よりも厳しい生活を送らされていた。
ふと、青緑の瞳と目が合った。ヘルトとセレナがネルヴァへの復讐を果たす為に欠かせない『異邦人』の少女。泣きそうな瞳で見つめられていた。海面を彷彿とさせる綺麗な色なのに、悲しみに染まっているせいで綺麗なのに綺麗ではない。ジューリアには一言でもいい——謝りたかった。
無関係な貴女を巻き込んでしまってごめんなさい、と。
「ネルヴァ様と共に……ヨハネスを頼みます……」
黒い靄を掴むリゼルの手を離させた瞬間——ユリアの身体は地中深く引き摺り込まれてしまった。
「あ……か……母さん……」
身の毛がよだつ感覚も視界に入れるだけで恐怖で足が竦む黒い靄も……ユリアと同時に消えてしまった。
絶望の底に叩き落されたヨハネスは声を出しても言葉にならず、呆然とリゼルの背を見上げていた。口を開きかけた直後ネルヴァによって気絶させられた。
「ネルヴァ様……」
「……恨み言は後でいくらでも聞いてあげる」
ヨハネスの涙を袖で拭き、軽々と彼を抱き上げた。
「ヨハネスとお嬢さんを安全な場所に逃がす。キドザエル、君は天界に戻りなさい。その状態じゃ碌に動けもしないだろう」
「はい……あ、ミカエルは?」
「ミカエル君には残ってもらう。この後最悪の事態が起きる」
「最悪の、事態……」
悍ましい力を秘めた黒い靄に連れ去られたユリアが死ぬだけとは到底思えない。
「リゼ君」
「母親の意思を尊重しただけだ」
「知ってる。君って案外情に弱いんだ初めて知った」
「殺すぞ」
「はいはい冗談はここまでにするよ」
顔色を変え、真っ先に語ったのは黒い靄によって引き起こされるユリアの堕天化。若しくは、一時的に堕天化の進行を食い止めているセレナの為か、神力を欲するヘルトがブランシュを使ってユリアを連れ去ったかのどちらか。
「あ、あの」
控え気味に声を上げたジューリアは、実は気になっていたことがあると告げた。
「前に、人間の私じゃ神力は感じられないってヴィルに教えられました。身体の中に二代前の神がいるとはいえ、人間のブランシュが神力を感じられるとは思えません」
「私も同感だ。私やリゼ君が逃げ出した為、ヘルトが出て事態を把握したのだろうね」
肉体が人間でも意識をヘルトが奪ってしまえば神力の感知は恐らく可能となる。牢から出る際、リューリューではなくブランシュを斃してもらうべきだったと選択を間違えた。
「ユリアか、それともセレナか。どちらにしても堕天化した神族との戦いは免れないな」
「はあ。エルネストに後で始末書を用意しておけと言っておくか」
「リゼ君程の魔族が魔力を全開したら、人間界に及ぼす影響は凄まじいね」
「お前もな」
リゼルにしろ、ネルヴァにしろ、強大な魔力と神力は人間界に多大な影響を齎す。
「甥っ子さん……」
内心は怖かった筈なのに、母を止めようと、助けようと身体を張ったのに、その結果がこれだと誰も報われない。二人ともユリアの堕天化は止められないと決め、キドザエルの方も然り。ジューリアが助ける方法がないのかとネルヴァに問うと無いと即答されてしまった。あの黒い靄がユリアの身体に纏わりついた時点で既に手遅れになっていて、リゼルが引き剥がしに成功していても堕天は時間の問題になっていただけ。
神様がいるならこんな仕打ち……と思い掛けるも、抑々この世界の神がヨハネスなのをうっかりしていた。その前の神がネルヴァ。……神頼みもできたものじゃない。
この後は、とネルヴァが口を開くと大きく息を切らしたヴィルが駆け付けた。
「ジューリア、兄者」
「ヴィルー!!」
地上を出てすぐのところで別れて以降、安否が不明だったヴィルを一目みるなりジューリアは駆け出し、腰に飛び付いた。ジューリアを難なく抱き留めたヴィルは膝を折って目線を合わせた。
「兄者と一緒で良かった」
「ヴィルも無事で良かった!」
「天界から最悪な報せが来たんだけど……知ってそうだね」
「……うん」
最悪な報せとはアンドリューの死亡。血に濡れたネルヴァとリゼル、泣き疲れて眠っているヨハネス、疲れ果てているキドザエルを見回した後ヴィルの視線はネルヴァへと移された。
「此処に着くまでに凄まじいユリアの神力を感じた。今はないってことは……」
「ヴィルが考えてる以上に最悪な状況だ。一旦この場を離れるよ。ミカエル君達は?」
「大教会のジューリアが使っている客室にいる」
「そこに移動しよう」
——誰か、誰か、と心の声が助けを求めようと誰も来ない。目の前の光景に腰を抜かして見ているしかないブランシュ——基ヘルトは、悍ましい魔力を発する黒い球体を戦々恐々とした思いを抱く。
「く……くそっ、私がもっと早く表に出ていたら……!」
折角捕えたネルヴァとリゼルを易々と逃し、同僚のリューリューは顔に一生消えない傷を負った。ネメシスにリューリューを託し、ブランシュの意識を乗っ取ったヘルトが表へ出たら信じられないことにユリアが神力を暴走させていた。
何故天界にいる筈のユリアが人間界に? と考えている間もなく、ヘルトは急ぎ地下へ向かった。理由はどうであれユリアの神力を奪う機会だと確信した。将来有望な天使の子供を誘拐するのに手を貸した時点でユリアは立派な協力者。脅迫すればすんなりと言う事を聞くと踏んだのだ。
セレナに嵌めている枷を解いたその時、全身に黒い靄を出現させヘルトを吹き飛ばした。多量の黒い靄は天井を突き破ってユリアを引き摺り込み、セレナをも飲み込み大きな球体と化して以降反応がなくなった。
何が起きているのか、これから起きるのか……想像する余裕すらヘルトには起きなかった。
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