堕天使⑥
「よいしょっと」
両手に抱えた大量の書類を執務机に置き、胸の辺りまで積み上げられた量に思わず苦笑いを浮かべ見せたエルネスト。不在の間リゼルが代わりに執務を熟してくれていたとは言え、魔王である彼にしか決済不可な案件は多数ある。ある程度はリゼルの判断で処理されても限界がある。今日から溜まりに溜まった書類を捌いていく。人間界に戻るのは、少なくとも悪魔狩が終わるまで。久しぶりに此処の椅子に腰かけるとリゼルが入った。
両手にはエルネストが運んだ書類と同じ量が。
「ぼくがいなくても大丈夫かなって思っていたんだけど……」
「俺が今持って来たのは昨日発生したものだ。今さっき出来上がったのもある」
「やっぱり、悪魔狩の影響、かな」
「だろうな」
人間界に住む魔族達にとって悪魔狩は厄介極まりない。天使見習いからすれば、正式な天使へと昇格する為の大切な試験。狩られる側はたまったものじゃない。
「人間界の方は大丈夫かな。ネルヴァくんがいてくれているけど心配だ」
「相手は智天使なんだろう? 神であったネルヴァがいるなら心配するだけ無駄だ」
「そうだね」
認めたくはないがネルヴァの強さはリゼルが一番知っており、相手が熾天使であろうと遅れを取るとは思っていない。今日までに全て片付けろとリゼルに言い放たれたエルネストは必死に回避するべく謝っていれば、一匹の通信蝶がひらり、ひらり、とリゼルの側に飛んで来た。極力神力を抑えられている通信蝶は当然魔族が作成者じゃない。触れても痺れを感じるくらいだとリゼルが通信蝶に触れた。相手はネルヴァ。考えずとも分かり切っているが、リゼルに連絡を寄越すということは緊急事態が起きたと見える。
手の甲に蝶を乗せたリゼルの相貌が見る見るうちに険しくなっていき、只事ではないと感じ取ったエルネストが内容を問えば——
「アメティスタの当主が智天使の身体を乗っ取り堕天使に堕としたそうだ」
「なんだって?」
「更に言えば、大量の天使見習いも奴によって全員堕天使化された。智天使や他の堕天使共を相手にしている現状、リシェル達の方まで手が回らないとある」
天使見習いは完全な堕天使と怪物になった二種類に別れ、智天使は完全な堕天使へと落ちた。元々ネルヴァやエルネストが相手をした智天使は、唯一神族に罰せられる権限を与えられた特別な天使。そんな智天使が完全な堕天使になれば、いくらネルヴァといえど片手間で相手をするのは不可能。最後に通信蝶はリゼルが人間界に来いと言い残し光の粒子となって消えた。
「リゼルくんを?」
「アメティスタ家の当主が絡んでいるからだろう」
思念となってまで蘇ったのはリゼルへの復讐ただそれだけ。天使を巻き込んだのは、より確実にする為。一度魔界に帰還したエルネストを再度呼び寄せるより、関係の深いリゼルを呼ぶのが得策と考えたのだろう。
「あいつの誘いに乗るのは気に食わんがリシェルの安全が第一だ。エルネスト、俺がいなくても執務を滞るなよ」
「分かってる。僕の方から、魔界の扉を開けるよう伝えておくよ」
「ああ」
リゼルがいずとも一人で魔王の仕事を熟せる筈なのだが、エルネスト自身がリゼルの補佐がいない自身をポンコツ宣言しているせいで周りも本人もそう思い込んでしまっている。エルネストを一瞥した後、執務室を出たリゼルは転移魔法ではなく、自身の足で門へ向かった。
——到着するとエルネストの連絡が先に管理者に伝わっていたらしく、リゼルが姿を見せるとすぐに駆け付けた。
「公爵閣下! 魔王陛下より連絡は頂いています。もう間もなく、鍵の解除が終わります」
「ああ。ところで、まだ人間界に残っている者はいるか?」
「完全には把握しきれておりませんが僅かには。ただ、閣下や魔王陛下の言う帝国には誰一人おりません」
「そうか」
現在最も天使が集中しているのがネルヴァ達のいる帝国。そこにいない限り、当面は安全。
人間界にいた時からエルネストやネルヴァが連絡をリゼルに送るから、大体の事情は把握している。エルネストが目的にしていた息子ノアールへの誕生日プレゼント探しは難航、特に皇族が管理している天使の祝福がかけられたブルーダイヤモンドから祝福が盗まれていると聞いた時は疑問を持った。天使の祝福を盗んだということは、悪魔の呪いに侵されているか余程の馬鹿かのどちらか。或いは……。
「或いは……力を失った天使か神族のどちらか、か」
まだアメティスタ家の当主が生きていた頃、ある話を耳にした。例の帝国に、神力を大幅に削られた神族が人間の振りをしていると。恐らくジューリアを狙うと決め、周辺の調査をしている時に知ったのだろう。神族と知り怖気づくも、力のない神族なら恐れるに足らないと。
「どうでもいいか」
何故かジューリアの話を沢山リゼルにするエルネストやネルヴァのせいで思い出すも、リゼルには関係がなく、管理者が鍵の解除が終わったと言いに来て頭の隅から消した。
「リシェル……無事でいてくれ」
巨大な扉の前に立ち、眩い光の先は何も見えない。
躊躇なくリゼルが扉を潜ると門番は急ぎ扉を閉ざし、鍵を閉めたのだった。
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