嫌われ幼女遁走記
最初の方にわりと残酷表現あります。ご注意を
東京のど真ん中、とても賑やかな場所で、アリスは産声を上げた。
アリスの名前は、母親が好きなアニメーション、から取ったらしい。
生まれてすぐのアリスは、母親がずっと指に着けているピカピカな指輪のような白金の髪と、キラキラの宝石みたいな碧い目だったからだ。
ちなみに漢字は『有寿』と書く。祝い、めでたい事があるように、喜び有る生を歩めるように、という意味らしい。
椎名有寿。それがアリスの名前だ。
地上10階にあるマンションの一室に置かれたアリスのベッドは、天井から床まであるガラス窓のすぐ傍に置かれ、赤や黄色、青に紫、ピンク、緑と、朝も夜もチカチカする光が、ぼやけた視界の中でいつも瞬いているのが見えていた。
アリスは、生まれた時から見聞きした事をしっかりと覚えている。
掛けられた優しい声も、読んでもらった絵本も、歌ってもらった曲も。
成長するにつれて、アリスの異常な記憶力と理解力に気が付いた母親は、それでも特に態度を変える事も無く、むしろいっそう愛情深くアリスに接してくれた。
与えられる本も絵本から段々と変化していき、アリスが読みたいと望めば、婦女子向けの雑誌だろうが気難しい学術本だろうが、いつでも与えてくれた。
だからと言って子供扱いを止めるわけでもなく、忙しい中で時間を作っては、一緒に工作をしたり、公園に行ったり、食事を作ったりもしてくれた。
アリスの母親は、いわゆる『夜の仕事』の人だった。
成人前にアリスを生み、それからずっと、一人親で育ててくれていた。
若くて綺麗で、良い匂いがして、おっきなおっぱいにぎゅっと抱きしめて『大好き』と言ってくれる母が、アリスも大好きだった。
大好きだけれど忙しい母親に、24時間営業の保育園に朝から深夜まで預けられ、寝ている間に帰り、寝ている間にまた連れてこられる、そんな環境で4年強を過ごした。
生まれてから半年ほどでその保育園に入れられたアリスは、母親と過ごす時間よりも、24時間保育園で過ごす時間の方が圧倒的に多かったから、常に同世代の幼児兄弟と、沢山の父母に囲まれていたような認識だ。
動物の子供のようにコロコロとくっつきあって笑い、学び、時には喧嘩して、先生に叱られながら愛情いっぱいに育ったアリスは、その環境に満足していたし、アリスを包む優しさをしっかりと理解して甘受していた。
ここでもアリスの異常性を薄々知りながらも、他の児童達と分け隔てなく、普通の子供として扱ってくれた先生達に、母子揃って感謝していた。
とはいえ、若いシングルマザーとやらに世間の風は冷たい。
母親はアリスをいじめる事なんてこれっぽっちも無いのに、体を張ってアリスを養うための養育費を稼いでいるのに、ただ、アリスの母親が若くてシングルマザーだからという理由だけで、アリス達親子を嫌な目で見る奴もいるのだ。
24時間保育園だって、預けられる子達はまったく可哀そうでも不幸でもないのに、預けられている、ただそれだけの理由で、大好きな先生や遊び仲間達まで一くくりにして悪く言うのだ。
『あそこ、子供を夜まで預けてるんですって。本当に働いているのか解らないわね』
『どうも夜のお仕事らしいわよ』
『若いのに一人で? 大変ねぇ。親御さんも恥ずかしいでしょうに』
『お相手は逃げたのかしら?』
『外人らしいわよぉ。子供が、ね、ほら、目が青いでしょ。髪も……』
『内緒だけど……同棲して、できちゃって、相手、蒸発したらしいわよ』
『まぁぁぁ!それは、可哀そうねぇ』
『働いている間、面倒見てくれる親戚もいないのかしら』
マンションのゴミ捨て場で母親が見ていない時、買い物の間にキッズコーナーで待っている時。アリスが解らないと思って、ボロボロと零される言葉には悪意がいっぱいだ。
しかしこれは、親子2人がそろって一緒にいる時には、コロッと態度も台詞も変わるのだ。
『ママに似て可愛らしいお子さんねぇ!』
『ほんと!眼も青くて金髪で、将来はアイドルかしらね!』
『大人しくていい子ねぇ。お母さんも楽でしょう?』
『うちの子もこんなに美人さんならいいのに』
『ぱっちりおめめはお母さん似ねぇ』
嫌な目つきで笑っていた顔が、福々しいつやつやの笑みに変わるところは、いつ見ても感心するほどだ。
確かに、人が聞いてないところで、べちゃべちゃ下らない事を汚い笑顔で話している他所のママ達にしてみたら、若々しくてお化粧もばっちりで、高級な香水のいい香りと綺麗な服を身にまとい、彼女らの旦那の眼を釘付けにする母親が妬ましいのは解るけれども。
『アリスは、聞かなくていいのよ。あんなの、通りすがりの犬の声より意味のない雑音だもの。だって、私は賢いアリスと二人でいるのが楽しいし、保育園の先生には感謝してるし、アリスのお友達もいい子達って知ってるもの。あと、私が美人だってこともね』
そういってパチリとウインクする母親は、娘から見ても大層魅力的で美しかった。
地毛だと言うサラサラな焦げ茶の髪と、それよりも明るい茶色の瞳、白い肌。色素が薄いのだと笑いながら言っていた。
だからアリスの眼の色も茶色と碧が混じった不思議な色でしょ、と自慢気に鼻先をつついてくる細い指の先は、いつも違う色で塗られていて、それを掴んで眺めるのも好きだった。
ママ、と呼ばれるのが好きなのに、杏ちゃん、とたまの外出の時は名前で呼ばせて、年の離れた姉妹みたいでしょ!と笑う悪戯な笑顔も可愛かった。
すべて、過去形だ。
その日は、珍しく母親が一日お休みを取っていて、数日前からソワソワしっぱなしで保育園の皆に良かったね、楽しみだね、とからかわれながらも、指折り待っていた日だった。
なにせ、アリスの誕生日だからして。
当然保育園はお休みだ。
朝からマンションの広いキッチンで母親と一緒に朝食を作り、おろしたての薄水色のワンピースを着て、母親お気に入りのブランドバッグのミニサイズを斜め掛けし、ピクニックだと少し離れた公園に行って食べた。
同じ色合いで腰がキュッとつぼんだタイトなワンピースと、通常サイズのブランドバッグを持った母親とお揃いの出で立ちだ。
花盛りの景色を堪能しながら散歩した後、百貨店に入り、服や玩具、デパ地下なんかを冷やかしながら、気に入った玩具や縫いぐるみに服、お揃いの小物を買い込んで、レストランでランチを取った。
デザートまでしっかり食べてから、腹ごなしに再びお店を巡り、今度は母親用の、おしゃれだったり上品だったり、あるいは『夜用』の服なんかを買いながら歩いた。
これは将来、アリスが使うようになるかもしれないから、と言って真剣な目で貴金属を吟味する横顔は、どんな宝石でも似合うと思うくらい、綺麗だった。
日が伸びてきた頃だったから夕方でも十分明るいけれど、途中で抱き上げられながらも半日以上歩き回っていたアリスはそろそろ限界で、じゃあ、ケーキを受け取って帰ろうか、と手を繋い時のことだ。
その声が聞こえたのは。
「貴女ねッ! 人の旦那を誑かして! 離婚までさせようったって、そうはいかないから!」
驚いて振り返ったアリスが見たのは、もとは綺麗だろう顔立ちを鬼のように引き攣らせ、血走った眼で母親を睨む女だった。
ただでさえ人通りの多い場所は、夜が近付くにつれて一層混み合ってくる。
場所柄ゆえか、喧嘩が起きることも多い事は、アリスも知っていた。
当事者になるとは思ってもいなかったが。
けれど同時に、警察が近くに居ることも知っていたから、下手に騒ぎ立てず静かにアリスの前に佇む母親にならって、大人しくしていたのだ。
どうせ調べれば、女の人の言い分が間違っていることなどすぐに解るのだから。
今の所、僅かでも時間があればアリスの為に使ってくれている母親は、ただ一人、アリスの父親だけを愛し続けていると知っていたから。
歳は母親よりも10ばかり上だろうか。スーツを着た、一見真面目そうな女性は、黙ったままの母親に何やら捲し立てているが、反応を返さないことに痺れを切らしたのか、今度はアリスに矛先を向けて来た。
「なによ! そんな子供までいるくせに! 私の家庭を壊しておいて、よくものうのうと! 許せないっ!」
青白い顔のなか、血走った眼と赤く塗られた口が大きく開かれ、どこから出したのか包丁を掴んだ骨ばった手が、
アリスに向かい
「やめてぇっ!!!」
良い匂いがした。母親が好んでつけていた香水の匂いだ。
アリスが好きだと言ったら、いつからか他の物は付けずに、それ1本だけが常備されるようになった。
服越しにおっきなおっぱいが顔に押し付けられて、窒息するかと思った。
柔らかくてもちもちしてて、一緒にお風呂に入るとプカプカ浮かぶ、まっしろのおっぱいだ。
ぎゅうっと抱き締められて、綺麗なサラサラの髪がアリスの頬をくすぐった。
保育園で仲間達とプロレスごっこをする時みたく地面に倒されて、思わず声が出た。
そのすぐ後に。
ざく、という音が、くっついた母親の身体を通して、振動と共にアリスにも伝わった。
それは一度では止まず、ざく、ざく、ざく、と幾度も続いた。
そのたびにアリスを締め付ける母親の身体が跳ね、そして体に回された腕の力が強まっていく。
いつの間にか周りが蜂の巣をつついたような騒ぎになっているけれど、アリスの耳に届くのは、やわらかなおっぱいの奥から聞こえる母親の心音だけだった。
ああ、それと、アリスの名を呼ぶ母親の声。
「アリス、アリス……ママは、あなた、が……だい、……す、き…………」
「杏ちゃん?」
いつもは弾けるように大好きよ! と言ってくれるのに。
少しばかりの不満を覚えて、埋まった胸からもぞもぞと顔を上げた。
動きに気が付いたのか、ほんの少しだけ腕の力が緩む。
上げたアリスの視線と、うつむいた母親の視線が合わさった。
薄茶色の綺麗な瞳が、アリスを見てニコリ、と笑みの形を作った。
食事の後に口紅を塗り直した、綺麗な形の唇が、もう一度、だいすき、と声無く動く。
そのまま、おやすみの前やおはようの時みたく、アリスの丸い額にちゅっと、口付けが落ちた。
そして背中に回っていた腕が、ゆっくり、とてもゆっくりな動きで引き出され、指先まで綺麗な手がアリスの顔の横に置かれて、薬指に嵌まった指輪にも同じように口付けが。
「―――、アリス、を……お願い、―――、……」
「アンちゃ、」
掠れていた所為で聞き取りにくかった言葉は、どこか異国を感じさせる、名前、だったのだろうか。
聞き返す間もなく、指輪から発されたまばゆい光に包まれたアリスは、多分、そのまま意識を失ったのだと思う。
気が付いたら、見た事もない豪華な部屋の、どでかいベッドの上で、驚きに目を見開いた男の人の太い腕の中にいたのだから。
◆◆◆
あの日。
男の人の腕の中にいたアリスは気付いていなかったが、なぜかその身体は大きくなっていた。
正確に言えば、色こそ元のままだが、母親と瓜二つな姿へと変化していたのだった。
「……ま、……まさか……アン、なのか…?」
震える声でそう呟きながら、アリスを抱き着しめようとする大きな男の人の顔に手を突っ張り、それ以上近付かないようにしてから、アリスは口を開いた。
「アンじゃないよ、アリスだよ。あなた、だれ?」
「……だれ……だと……?」
愕然とした男の人は、アリスと似たようなピカピカした白金の髪に、キラキラした碧眼をしていた。
カッコいいと思う。ネットの映画で見る俳優さんみたいな見た目だったから。
けれど男の人は、そのまま動かなくなってしまったから、アリスは仕方なく言葉を続けた。
「アンちゃんは、アリスとね、一緒にお買い物してたの。でもね、いつもしてる青い指輪が光ってね、気が付いたらここにいたの。……それで、あなたは、だれ?アンちゃんはどこにいるの?」
「!!」
今まで以上に目を見開いた男の人は、凄い力でアリスの肩を掴んできた。そのまま引き倒される。
「指輪が光っただと?!」
「いたっ、いたいよ!」
「どういう事だ! アンに、アンに何があったというのだ! あれは、何か危機が訪れた時、彼女の望む通りに出来るよう魔力を込めた守護石だ! 離れなくてはいけない私の代わりに、愛するアンを守れるようにと渡した……!」
「え?しゅご、なに……?」
早口の大声でまくしたてられて、何を言っているのか聞き取れない。
「貴様ッ!アンと同じ顔をして……っ、以前に彼女を迫害し追いだしたと言う家族かっ?!アンを危機に陥らせておいてのうのうと私の元に現れたというのか!」
「はくがい、って、なんのこと、……キャッ」
怒鳴るだけ怒鳴った男の人は、次の瞬間アリスをベッドから突き飛ばした。
床に倒れ込み呆然としているアリスを、男の人の碧い目が睨み据える。
「誰か!誰かおらぬか!狼藉者だ!」
張り上げた声に反応してか、ばたりと開かれた大きなドアから、わらわらと男の人達が駆け込んできた。
「陛下っ!?」
「ご無事ですか陛下ッ!!」
「貴様ッ?!どこから侵入したっ?!」
「そのようなはしたない格好で! 陛下を誘惑に来たのか!」
「な、なに……」
ギラギラと光る大きな刃物を突き付けられ、アリスの身体が震える。
「や、やあ……っ」
ずり、と尻をついたまま後ずさるアリスに、動くなっ! と大声が投げかけられる。
ビクッと肩を揺らして止まったところに、背後から冷え切った声がさらに掛けられた。
「貴様が何をしてアンを危機に陥らせたか、ゆっくりと聞きだしてやる。……ただで済むと思うなよ…」
混乱のままに振り返れば、見た事も無いほどの憎しみを瞳にたたえた男の人が、これまた大きな刃物を抜いて、アリスへとつき付ける姿があった。
少し前に見た女の人の、鬼のように怖い顔と、その手が掴んだ包丁のぬめった光が脳内を過ぎる。
「ひっ! 来ないで! やだよう! ママっ! 助けてッ! ここ、やだぁ!!」
とっさに頭を抱え込んでアリスは叫んだ。
その瞬間。
「!!!」
再びアリスの身を包むまばゆい光。
眩しさに驚いて頭を上げれば、先ほどに負けず劣らずの驚愕を露わにした男の人の姿が、光の向こうに見えた。
その、剣を持った手がアリスへと伸ばされる。
「いやっ!!!」
力いっぱい拒絶の言葉をはいた直後、アリスはまた、いずことも知れぬ森へとその身を移していた。
今度は、いつものアリスのままで。
「ヒック、……ここ、どこなの……」
怖い男の人から離れたと思ったら、今度も訳が分からない場所にいる。
アリスはいい加減、大好きな母親が恋しかった。
しかしその一方で、常人とはかけ離れた理解力によって、自分の置かれた状況が普通ではない事も理解していた。
なにより、身にまとったワンピースのそこかしこに、ベッタリとついた赤色。
木登りをしていて落ちた時、怪我をした足からこんな色の血が溢れ出していた。
それでも、穿いていたズボンの、小さな範囲が染まる位だったのに。
女の人が振り上げた包丁。あれは、どこに下ろされたのか。
「ママぁ……」
アリスの瞳から、ぼろぼろと涙があふれてくる。
以前読んだ本では、人が流して危険に陥る量の血液は、全量の2割から3割。
母親ならば、牛乳パック1本分位が限度のはずだった。
未だに、雫を垂らすスカートの裾を見なくても解る。
明らかにそれ以上流された血に、アリスはもう、母親の危機を悟っていた。
「ひっく、まま……ひぐっ、うぇぇ……っママぁ……会いたいよぉっ」
嗚咽しながら声を発したその時、アリスに異変が起きた。
ぐんぐんと地面が遠くなる。
急にバランスが崩れ、思わず近くの木に手を付いた。
「ひくっ、……ひ、う、……はぇ?」
なんだかおかしい。いつもの自分の手じゃないみたいだ。
アリスはそっと指を動かしてみた。
幹から外して、顔の前に持ってきた指を、一本ずつ曲げ伸ばししてみる。
意志通りに動くけれど、やっぱりおかしい。
「なんで……おっきいの?」
こてりと首をかしげて、アリスは更なる違和感の正体に気が付いた。
「地面が……離れたんじゃなくて、私が、伸びた、の?」
唖然と呟いてから、そろそろと身に着けていたバッグに手を伸ばす。
なぜかミニバッグではなく、母親の持っていた通常サイズへと変化しているが、今は置いておいて。
かちゃかちゃと中身を漁り、手鏡を取り出した。
これも、母が愛用していたコンパクトタイプの物だ。
また一つ涙が頬を伝う。
「……なんか、成長してる……」
パカリと開けたコンパクトのミラーには、ぼうっとした表情の女の人が映っていた。
母親によく似た、すこしだけ彫りの深くなった顔つき。
色だけがいつものアリスと同じだ。
「うう……っ、」
手の中のコンパクトを握り締め、アリスはその場に崩れ落ちた。
「ママぁ……っ、ま、ま……っ!」
それから、どれくらい泣き続けたのだろう。
ガサリと響いた葉擦れの音に、ノロノロと顔を上げたアリスが見たのは、金色の目を丸くして、銀灰色の耳と尻尾をピンと立てた、これまた随分とがたいのいい男の人だった。
◆◆◆
「い……今の魔術は……」
「いえ、それよりも、女の姿が……幼児、に……?」
「あの色は……陛下の……」
片手を伸ばしたまま呆然と立ちすくむ男の後ろで、事情を呑み込めない騎士達のざわめきが部屋を満たしていた。
「あ、れは……まさか……」
最後の瞬間に現れた姿が、男の網膜に焼き付いていた。
怯え、涙を零す碧の瞳。ふわりと流れた白金の髪。小さな、まだ生まれて数年しか経っていないだろう幼い体つき。
その身にまとった薄青いドレスに似合わぬ、どす黒い赤。
王の居室の絨毯が、一瞬の間に垂れた血で汚れていた。
嫌な汗が止まらない。
アレは、最後に何と言った?
『ひっ! 来ないで! やだよう! ママっ! 助けてッ! ここ、やだぁ!!』
ママ。
彼の地ではたしか、母親を表す言葉だったはずだ。
思い返せば、見た目にそぐわぬ幼い言葉遣いは、あの姿で話したのなら違和感無いモノのはずだった。
「まさか……」
カラン、と音を立てて、大剣が手から落ちる。
無意識に見下ろせば、数多の戦場を共に駆け抜けてきた大切な相棒が、所在無げに床へと横たわっていた。
「……あ……、」
これを、向けたのだ。自分は。
あの、
自分の、娘かもしれない、幼子に。
「あ、あ……っ」
混乱していた。
だって、そっくりだったから。
世界で誰よりも愛しいと思いながらも、手放さなければならなかった人に。
「ぅ、あ、あぁぁああ……っ!」
腕の中に舞い降りた愛しい人が、けれど自分に誰だと問いかけた。
あれだけ愛し合った自分を知らないならば、彼女に似た、別人なのだと。
昔、寝物語に聞いた彼女の悪辣な家族ではないかと、瞬時に決めつけたのだ。
冷静になって思えば、自分と同じ色をまとっていたと言うのに。
「あ゛あ゛あ゛……っ!」
あの幼子が最後に使った魔法は、転移の魔法だ。
市中には単に珍しいだけだとの認識が浸透しているが、あれは、代々王家の血筋にしか伝わらない特別な物だった。
必ず王家の子孫のみが引き継いでいく特殊魔法は、逆に言えば、転移魔法が使えれば、どんな卑しい身分の母親から生まれようとも、王族の血が混じっているとの証明になる。
だから、そう。
自分が昔、様々な要因によって引き起こされた魔力の暴発から逃げる為、無意識に異世界まで飛んだように。
あの幼い子供が、転移を使ったのならば。
それはただ一つの真実を表していた。
父である男から逃れるために、魔法を発動したのだと。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」
慟哭し、頭を抱えて崩れ落ちた国王に、声を掛けられる者はその場に一人もいなかった。
◆◆◆
「アージュ、そろそろ場所を変えるか」
「ん? もう?」
連泊で取っている安宿の一室で、アリスはテーブルの向かいに座る男へと首をかしげて見せた。
今日の夕食は、屋台で買った角ウサギの串焼きだ。10本買うとおまけで野菜スープとパン2つが付いてくる、何とも家計に優しいありがたい屋台だった。
ちなみにアリスが買い物に付いていくと、パンの個数が倍に増える。
「ああ。2つ前の街で、王国の手の者が居たと知らせが飛んできた。今は色を変えているとはいえ、俺のアージュはこんなに美人なんだから、誰の目に留まるとも知れん。下手な詮索はされたくないからな」
「んー。わかった。じゃあ、ドリーが明日行く予定だったギルドの依頼をこなしたら、その足で町を出ようか」
「そうだな」
いつも当たり前のように、サラリと会話に混ぜ込んで与えられる独占欲の混じった褒め言葉に、大げさに反応することはもう無くなった。
同時に、それほどまでに惜しみなく与えられる愛情の欠片を疑う事も無い。
くしゃりと襟足ほどまで短くなった髪を撫でてくるアドルファスは、一年ほど前にアリスを森で保護した狼の獣人だ。
驚いた拍子に幼児へと戻ってしまったアリスの姿に驚きはしたが、泣き痕も残ったままの顔を見て、親身になって話を聞こうとしてくれた。
アリスを怖がらせないように、少し離れた場所に座り込み、腰に刷いていた剣を外して地面に置き、それから自分の氏名を名乗って見せたのだ。
その時のアリスは知らなかったが、名前の全てを教えるという事は、家族以外では全幅の信頼を寄せているか、もしくは騙されてもいいから相手の信頼を得るためにしか名乗らない物なのだそうだ。
知らなかったけれど、心配げな感情を乗せた金の瞳に、押されるようにアリスは口を開いた。
こことは全く別の場所から飛ばされて来た事。
その直前で起きた、どうやら母親が害されてしまったらしい事。
飛ばされた先で、初見の人をなぜか怒らせてしまい、殺されかけた事。
その男が、陛下、と呼ばれていた事までも。
とんでもない剣幕だったから、逃げ出したアリスを探し出してまた殺そうとするかもしれない、と締めくくった。
全てを聞き終わったアドルファスは、しばらくの間耳をピコピコと動かし思案していたが、やがてアリスに改めて向き直ると、一つの提案をしてきたのだ。
俺と一緒に行こう、と。
その日からアリスは、外ではアージュと呼ばれるようになった。
保育園の先生が、漢字の名前を読み間違えたことから、幼児仲間からもたまに呼ばれていたあだ名を使う事にしたのだ。
「陛下」の前でアリスと名乗ってしまったから、念のためだ。
森から出る前に、アドルファスに髪を短く切ってもらい、更に色変えの魔道具で髪と眼の色をアドルファスと同じものに変えた。
綺麗な髪なのにと散々渋っていたアドルファスを、自分がいた所では短髪はファッションだったからと言い含め、なんとか少年と言い張れる長さに整えてもらう。
いつか使うかもしれないと、切った髪を大事そうにしまい込んでいたのを捨てさせるのは諦めた。
獣人ではないけれど、親戚、と言い張れなくも無い。そんな見た目となる。
この世界では女の人が髪を短くすることは滅多に無いらしい。だから短髪にしたアリスはバレ難くなるだろう。男の人でも長髪が多いという。
なぜなら、魔力が髪に宿るからだ。充電池の役割だとアリスは理解した。
そう、この世界には魔法があったのだ。
なぜかアリスが伸び縮みするのも、「陛下」の腕の中にいたのも、その陛下の傍から遠く離れた森にいたのも。
全てが魔法の力だったということだ。
アドルファス曰く、アリスのもつ転移の魔法は特殊魔法という物に分類されるらしい。
発現する確率が極めて低い、珍しい固有魔法。
だから、危険が迫っているのでない限り、人前では絶対に使うなと言い含められた。
珍しい魔法だからこそ、それを持つ人は捕まえられて、子供に引き継がせようと無理やり番わされることもあるのだと言う。
「俺は、お前の成長した姿に一目惚れしたんだ。だから、お前があの姿になるまで、お前の傍で守りながら待つ。お前はその間に、ゆっくり俺の事を好きになれ」
あまりにもあんまりな告白だった。
そもそも、年齢差がいくつだと思っているのか。
けれど、それを告げた時のアドルファスの金の眼はこれ以上ない程に真剣で、たった5歳のアリスに対して、嘘やごまかしは欠片も感じられなかったから。
だからアリスは、いいよ、と答えたのだ。
その日から、アドルファスは本当にアリスを守り続けた。
森で魔物に襲われた時も、街で攫われそうになった時も、王国の手が危うくアリスに届きそうになった時も。
すでに王国の地は遠く、いくつかの国を越えている。
その途中でアリスは、ギルドに登録して冒険者になり、アドルファスとパーティーを組んだ。
そしてその時にギルドの説明を聞いて初めて、アドルファスがそれなりの強さを持った冒険者だと知ったのだ。
「だから、守ってやるって言っただろ」
眼を真ん丸にして金色のタグを見詰めるアリスに、アドルファスはニヤッと口端を上げて笑って見せた。
幼いアリスの小さな胸が、トクン、と密かな音を立てた瞬間だった。
そうやってアドルファスに守られて、時に森へ、時にダンジョンへと潜りながら、アリスは旅を続けている。
途中途中で会うアドルファスの知り合い達は、全部ではないけれどアリスの事情を聞いて、それはもう憤慨し、王国の動きを掴んだら、どんなに小さなことでも教えてくれると約束してくれた。
おかげでアリスは、さほどの危険も感じることなく逃げ続けることが出来ている。
けれど最近では、アリスの似顔絵まで出回り始めているらしい。
必ず生きたまま、無傷で王国まで連れてくれば多大な褒賞を出すとの注釈付きで。
男の子の姿になっている今、そう簡単に見つかるとも思えないが、そうまでしてアリスを捕まえ、国王自ら剣の錆にしたいのかと、アドルファスの敵意は増すばかりだ。
アリスにしても、国王の執念深さにはほとほと呆れかえっている。
アンの、母親の何を知っているのか知らないが、その娘の自分をこうまでして始末しようとしているくらいだ。
とんでもなく深い恨みを持っているのだろう。
勿論アリスは、最後まで子を守って亡くなっただろう母親を信じているから、恨まれるにしても逆恨みに決まっていると確信していた。
そう、それこそ母親を死に追いやった女性のように。
その母親が、文字通りの命がけで守ってくれたアリスの命だ。
くれてやる気など全くない。
精いっぱい生きて、若いうちにその身を散らした母親の分も、しっかりと最後まで生きるのだ。
「ねぇドリー。今度は、海の方へ行きたいなぁ」
「それもいいな。美味い魚でも食いに行くか」
食事が済んだら、明日気持ちよく宿を発てるように、身の回りの物を整理しよう。
別に大変でもない。出していた物を全部手持ちのバッグへと押し込むだけだ。
なんと、アリスが持っていたブランド物のミニバッグは、こちらで言うマジックバッグへと姿を変えていたのである。
あの日に買った物や持っていた物が、全てアリスの両手を広げたほどのバッグに収納されていたのだ。
愛らしい縫いぐるみ、お揃いで買った小物、カラフルな菓子類に同じ色をした大小の服。
いつかアリスが使うからと、母親が真剣な顔で選んでいた貴金属も。
それらを見るたびに涙ぐむアリスを、アドルファスは無言で膝の上に乗せ、何度でも何時間でも抱き締めてくれた。
そして、最高の母ちゃんだな、って言ってくれるのだ。
そのたびにアリスの胸は、トクン、トクンと音を立てた。
最近アリスは考える。
そろそろこの胸の高鳴りが、アドルファスの言う所の『好きになった』証拠だと言っても良いのではないかと。
出会ってから1年。大切に大切に、守られてきた1年。
ふむ、と一つ頷いて、早熟な幼児は口を開いた。
「それとね、ドリー……――――」
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