喪失
目の前の怪物相手に内心ではビクビクと奥手は恐怖に怯えていた。その怖れと言う感情は心の内には留めきれずに体の外へと漏れ出る。自分では気付いていないが彼の体はガタガタと微かに小刻みに震え続けていた。だが残念ながら萎縮震慄とまではいかなかった。何故なら彼には目の前の化け狐を押さえ込む切り札が手中にあるのだから。
「へ、へへ…いくら睨みを利かせてもハッタリだとバレてんだよ。こうしていればてめぇは俺に手出し出来ないだろ?」
そう言いながら彼は腕の中に居る黄美をグイッと前に押し出してやる。
まるで物の様に扱われる黄美の扱いに加江須の中のはらわたが煮えくり返る思いであった。だが悔しいがあの男の言っている事は何一つとして間違いではない。例え変身して妖狐になったところでああまで密着されてしまってはどうしようもない。この距離ではどう動いても自暴自棄になったヤツが黄美に危害を加える事を防ぐまで一手足りない。せめて少し、ほんの少しでもあの男が黄美から離れてくれれば瞬速でこの尻尾でヤツの頭蓋を貫いてやるのに。
変身しておきながら一向に攻撃をしてくる気配が無い加江須の様子を見て自分には何も出来ないと高を括った奥手は次第に冷静さを取り戻し始めた。
「おら、いつまでもそんな狐のコスプレしてんじゃねぇよ。早く元の状態に戻れや。どうせ変身しようがしまいが俺には手は出せねぇだろうが」
「………」
変身して脅し文句を口にした当初は戦戦兢兢と言った感じの奥手であるが、次第に落ち着きを取り戻し始めて来てまたしても顔がにやけ始めて来た彼を見て内心で焦り始める加江須。
最初はこの変身した姿と重圧で相手を委縮させようと考えていたがさすがに甘すぎた様だ。
だがここで奥手と加江須、両者にとって予想外の事態が起こる。
「汚い手で人の身体に触れてんじゃないわよ!」
「うぎゃあ!?」
加江須ばかりに目がいっていた為に奥手は人質として扱っている黄美の動きまではイチイチと見ていなかった。それは加江須にも言える事であり、どうやって奥手の手から彼女を取り戻そうとしか考えていなかった。
両者が睨み合いをしているそのタイミングを見計らって黄美は渾身の力で奥手の指へと噛み付いてやったのだ。
凄まじい激痛が指に走り思わず黄美を離してしまいそうになるが、ここでこの腕の中の女を手放してしまえば一瞬で自分はあの狐に狩り殺されてしまう。だから指を嚙まれた程度では決して手放そうとはしなかった。
しかし黄美だって自分のせいでこれ以上この屑に加江須を弄ばせてなるものかと喰らい付いた指を決して離そうとせず、それどころか歯を左右にスライドしてそのまま齧りついている人差し指と中指の2本を食い千切ったのだ。
「うがああああああ!?」
骨ごと2本の指を食い千切られるとは思わなかった奥手は喉が裂けるのではないかと思う程の絶叫を迸らせる。もちろん黄美を人質として拘束し続ける事も出来ず思わず彼女から手を離してしまった。
彼女が解放されると同時、加江須と奥手は両者同時に動いていた。
「黄美ぃぃぃぃぃぃぃ!!!」
奥手から自力で脱した彼女へと名前を叫びながら手を伸ばし、その手を黄美も掴もうと精一杯自分の手を伸ばす。
だが指を食い千切られた奥手は加江須よりも黄美に対しての怒りと殺意が一気に爆発し、指先に力を籠めてそのまま彼女の背中へと貫き手を抉り込んでやった。
「が…あ…」
背中に重い衝撃と同時に激痛が走り、その後にはじんわりと炙られるかのような熱が発生する。更に思うように声が出てこず代わりに血を吐き出す黄美。
手と手が触れ合いそうなギリギリの至近距離で黄美の背中を抉られる光景を見た加江須は目を見開いて声を失う。
そのまま目を閉じて口元から血を垂らした黄美が自分にしな垂れて来た。
「よ…み…?」
自分に力なく体を預けた彼女を支えるが、その際に背中に回した加江須の手には奥手から攻撃を受けて傷ついた部分に触れ、そして彼に手には不快な生温かい感触が伝わった。
背中に回した手を見てみると加江須の手は彼女の血液で真っ赤に染まっていた。
「ははははは、ざまあみやがれ!!」
指を食い千切られた方の手を押さえながら奥手は全速力でこの場から走り去って行く。
もしここに残り続けていれば自分は一瞬で殺される。人質としていた女を殺してしまった以上はあの化け物を拘束し続ける鎖が切れたも同然だ。ならば恋人のショックで呆然として思考が定まっていない今のうちにこの場から逃げるしかない。
「はっ、はっ、はっ!」
息を出鱈目に乱しながら足を前へ前へと動かす事だけを考え続ける奥手。
全速力で逃げながら彼はどこか達成感で満たされていた。確かに加江須の事を殺す事は出来なかったが、彼のもっとも大切な者を目の前で殺してやったのだ。これはある意味張本人を殺すよりも相手に与える精神的なダメージは大きい筈だ。
「はは、これで終わりだと思うなよ久利。お前にはまだ他にも恋人がいるみたいだしな、今度は他の女を使って確実に息の根を止めてやるよ!」
してやったりと言った顔をしながら一度だけ顔を後ろへと向ける奥手。
――モフ……。
顔を後ろへと向けると同時、顔面に何やら暖かくて柔らかい物が押し当てられる。
それはまるで上質な絨毯にでも顔をうずめている様に感じる奥手であるが、その心地の良い感触を堪能など出来なかった。何故なら今自分の顔面に押し当てられている物が大きな尻尾であると理解しているからだ。
そして次の瞬間には全身が柔らかな尻尾に包まれてしまい、全方向からその柔らかな尾は徐々に締め付けて来る。
「ぐ、ぐるじい…」
自分を包み込んでいる柔らかな尻尾の体毛のせいで口元も覆われ息も上手く出来ない。しかも全身を包んでいる尻尾は奥手の身体を圧迫して行き、徐々に締め付けが強くなっていく。
「ぐ、やめ…苦しい…」
ギュウギュウと全方向から奥手の身体を圧迫して行く尻尾を押しのけようと抵抗の意思を見せるが、手も足も尻尾でガッチリと拘束されているので抵抗もままならない。
そのままギュウギュウと尻尾で押しつぶされていく奥手。やがては息苦しいなんて次元の話ではなくなる。神力を通してある尻尾は柔らかな体毛とは裏腹にとても固く、次第に彼の体は圧迫され続けて痛みが生じる。
「い、いだ…解放してくれぇ…」
だが声も満足に出せず、そして遂にバキッ、ボギッと体からは不快な音が響き渡る。骨が一斉に何本もへし折れた音だろう。その激痛に悲鳴を上げたい奥手であるが口元を尻尾で塞がれて悲鳴すらも上げれない。そしてそのまま何本もの骨が圧迫されてへし折れ、最後は潰され続けて皮膚が裂けて体の至る所から出血する。
「がぼぼ…がぼ……」
鼻や口からも行き場を失った血液が流れ出て自らの血で溺れるように呻く。
そして……とうとう尻尾で圧迫されて生じる音がバキッボキッからぐちゃぐちゃへと変わる。骨だけでなく肉も9本に包まれた尻尾の内部で潰され、捩じ切られている音が耳に届く。
「だず…げで……」
それがこの奥手の最後の言葉であった。
その直後に尻尾が一気にしぼみ、尻尾に包まれている内部からはぐぢゃっと一際大きな生々しい音が響き、重ね合わせている尾の隙間からは赤い果汁がボタボタと地面へと落ちて行った。
加江須は尻尾のみを逃げて行った奥手へと伸ばしており、彼の本体の方は血に染まった黄美の蘇生に全力を注いでいた。
「しっかりしてくれ黄美! 今神力で応急手当をしているから…!」
イザナミが行っていたように自分の神力で今も出血箇所を処置しようとする加江須であるがまるで上手くいかない。イザナミ程に自身の神力をコントロールできるのであれば助けられたのかもしれない、しかし彼女の領域まで至っていない加江須の処置はまるで意味をなしていない。今も黄美の身体からは負傷した個所から血液が零れ続けている。
「そ、そんな…どうすれば…どうすれば…!?」
半ばパニック状態となりながら加江須は必死に黄美を救おうとするが気持ちだけでどうにか出来るわけではない。いくら助けたいと願っていてもその為の力が無ければ虚しいだけだ。
もうどうしたらいいのか分からず涙を流しながら必死に黄美の名を呼んで救おうと神力を送り続けていた時だ。
「カエ…ちゃん……」
「よ、黄美! 意識が回復したのか!!」
今までぐったりと目をつぶっていた彼女はゆっくりと瞼を上げて加江須の名を呼ぶ。
彼女は今までのわざと取っていた冷たい態度を氷解させ、噓偽りのない本当の自分で加江須に話し掛ける。
「カエちゃん…ごめんね……」
「な、何でお前が謝るんだよ!」
彼女は口の端から血の糸を垂らしながら自分へ謝って来た。
どうして君が俺に謝るんだよ。どう考えても謝らなければならないのは自分の方だ。俺なんかと関わったがためにこんな大怪我までして……。
そう言おうとした加江須であったが黄美は彼の頬に手を添えて笑顔を浮かべて来た。
「私…カエちゃんの事が大好きだったんだよ。でも…でもあなたに迷惑を掛けたくないあまりにあなたから離れようと心にも思っていない言葉をぶつけてしまって。最低だよね私…一度はカエちゃんに本音を隠し続けて罵声を浴びせていた過去を持っている癖に。それなのに私は同じ過ちを繰り返して……ごめんねぇ……」
「あ、謝らないでくれ! 黄美は何も悪くない! だって俺と別れようとしたのも自分のせいでもう俺が怪我をしない為にと思っての事だったんだろ! 自分の心を殺して俺の為に……ごめん、ごめんなさい。俺は…俺がもっと早く黄美の本音を気付いてあげる事が出来ていたらこんな事には……こんな事には……!!」
彼女が今こうして血に濡れている一番の元凶はついさっき殺した奥手ではなく自分だ。もしウジウジと悩まず毎日彼女と向かい合っていれば黄美だって本音を口にしてくれたかもしれない。どうして自分と別れようと思ったのか、その真実を話してくれたかもしれない。そうなっていれば今この凄惨な未来も回避できたかもしれない、いや出来たはずなんだ。
「最期に…カエちゃんにお願いがあるんだ…」
「え、縁起でもない事言うな! 最期ってなんだ? 最期なんて言うなよ! 心配しなくてもこの程度の怪我なんて治してやるから! だから今はもう喋るな!!」
「……優しいなぁカエちゃん」
自分の最期のお願いと言う言葉に叱りつけながら必死に治療を施そうとしている姿を見て悲しそうに笑う黄美。
ああ、こんな最低な女の為にここまで必死になってくれる優しい幼馴染の心に自分は大きな傷跡を残してしまう。それだけが心残りで仕方がない。
「カエちゃん…キス…したい…」
「え、そんな事言っている場合じゃない…」
「お願い…あなたとしたいの……」
瀕死の重傷で何を言っているのかと思った加江須であったが、弱々しくも自分の願いをどうか聞いて欲しいと訴えるその瞳を見て何も言えなくなり、彼はそっと差し出されている彼女の唇に自分の唇を押し当てた。
「あは……やっぱり好きな人とのキスって……凄く幸せ…だ…ね……」
加江須とのキスの感想を嬉しそうな顔で口にし、そのまま彼女はガクッと一気に首の力が抜けて落ちる。
「……黄美?」
突然喋らなくなった黄美に呼び掛けるが返事は無い。
「………黄美?」
もう一度…もう一度彼女の名前を読んでみるがやはり返事は返って来ない。それどころか体もピクリとも動かない。それに……脈も感じられない……。心臓も動いていない……。
「あ…ああ…あああ……」
魂の抜けた黄美の事を抱きしめながら加江須はガタガタと唇を震わせ、視点も定まらずに眼球はぎょろぎょろと滅茶苦茶に動き回る。
理解できない、理解できない、理解できない、理解できない、理解できない、理解できない、理解できない、理解できない、理解できない、理解できない、理解できない、理解できない、理解できない、理解できない、理解できない、理解できない…理解……できない………。
「あ…ああ……うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!????????」
――愛野黄美………死亡………。




