忘れられていた半ゲダツの怨嗟
かつて加江須に一方的にボロ雑巾の様な敗退を強いられた奥手はその憎しみの火を消すことなく彼の命を今でも狙っていた。そして彼が加江須を狙っているのは何も今この瞬間だけではない。もう彼は一週間前から彼の隙を窺い続けていたのだ。
あの日、形奈の連れて来た半ゲダツは全滅し、自分も四肢を失い地面に転がされていた。その時はもう自分はここまでだと、助からないのだと思い恥も外聞も捨てて涙と鼻水を垂れ流し嘆いていた。だがそこへ口から血を零している形奈がやって来たときは安堵の余り子供の様により一層大きな声で泣き喚いてしまった。
そして形奈から聞かされた話では生き残りは自分と形奈の二人だけと知った。その時に彼が抱いた感情は恐怖…ではなく烈火の如くの怒りの感情であった。
人様をさんざん上から目線で説教しておきながらてめぇは何人殺したんだよって話だろうが! ああんコラッ! 俺の手足をぶった切って外に放置してその上多くの半ゲダツを殺しやがって! それとも半ゲダツはもう人間じゃねぇとでも言うつもりかよ! 何という身勝手なクソ野郎だ! 自分が正義の味方だといつまでも酔い痴れてんじゃねぇぞ!! 今に見てやがれ、この俺が必ずてめぇの様な偽善的なクソッたれをぶち殺してやる!!!
自分の行って来た事を全て丸ごと棚に上げてのふざけた怒りを見せる彼に対して形奈は何も言わなかった。何故なら目の前で理解不能な怒りを抱いている餓鬼は所詮は捨て駒だ。正し折角のそれなりに貴重な半ゲダツと言う存在、つまりは多少は戦闘力を保有している捨て駒だ。それならば無駄だろうがこの殺意を力に変えて最後まで自分たちの役立ってもらおう。
憤怒の激情に駆られている彼に形奈はある注文をする。
「そこまで久利加江須が憎いと言うのであればお前は今後もヤツの動向を探ってくれないか? 私は一度旋利津市へと戻る。だがお前は引き続きヤツの行動を監視して隙あらばヤツを仕留めてくれ。土地勘もあるお前が適任なんだ」
正直に言えばこんな奴にまるで期待はしていない。どう考えても返り討ちに遭うビジョンしか見えないが、まあ一応は……。
そんな無謀としか思えない形奈の頼みを奥手はアッサリと引き受けた。
「ああ任せて置け! ここまで俺を苦しめたヤツに尻尾を巻いて終わりだなんて認められねぇ! 必ずこの手であのカスをぶっ殺してやるから待っていろ!!」
あれだけ一方的にやられておきながらその自信はどこから来るのだろうと訊いてみたくなったが、そこを呑み込んで形奈は引き続き久利加江須の動向を探り、隙があれば排除に当たるように指示を出しておく。
最初は元の人間に戻る為に行動をしていた奥手は気が付けば憎しみに囚われて当初の目的を完全に見失っていた。それどころか半ゲダツの力を最大限に利用する事すら考えている始末だ。もう普通の人間に戻る事なんて二の次であり、彼の最大にして最優先事項は加江須の殺害へとすげ変わっていた。もう彼を殺さなければ次に進めない程に末期の状態であった。
その日から彼は加江須の様子を遠巻きに窺い続けていた。隙あらば殺してやろうと目を光らせていたが、ハッキリ言って何日も彼の様子を探っていたが殺す隙なんて無かった。学園をはじめ人の集まりそうな場所は勿論行動を移せるわけもない。かと言って自宅にはイザナミと呼ばれる女戦士が居る。二対一ではむしろ勝率が減少する。今も背後からヤツを観察しているが踏み込めないでいた。
だが彼は気付いていない。人質と言うなら彼の親でも攫えば良いのに怒りで思考が単純化しているせいでソコに気付けない。それに今の加江須は自分の周りに居る恋人たちとのいざこざで全く意識が集中できていない。現にあの狂華ですらソレを見抜いていた。そんな上の空の状態であるにもかかわらず彼は加江須に襲い掛かれない。つまり気が抜けている状態の彼ですら奥手には荷が重い相手だと言う事である。
「(くそ…一見隙だらけに見えるが俺には分かるぜ。てめぇ…俺が出てくることを誘ってんだろ?)」
彼のこの考えは見事に大外れである。加江須は全くと言っていいほどに奥手に気付いていない。そもそも考えの中にすらいない。それどころか忘れられてすらいる。それはつまりまるで見向きもされていないにも関わらずこの男を牽制してしまえるほどに圧倒的な力の差があるのだ。
この段階ですでに彼には逆立ちをしても加江須に勝つ事は不可能だと言う事は確定している。だが彼は加江須にとって最大の弱点となりえるチャンスを握っていた。
「あれ、アイツさっきから動きが変だぞ? もしかして……」
加江須の事を睨み続けていた奥手であるが、ここでようやく彼は目の前を歩いている少年が自分の様に誰かの後を尾行している事に気付いたのだ。
「はっ、ストーカーかよ。気持ちわりぃヤツ」
一体どの口が言っているのかと問うてみたい。現在進行形で奥手だって同じことをしているのに。しかも彼に至っては逆恨みで加江須を殺す為と言う身勝手な行動理由なのだ。もしもこの場に形奈が居れば彼のこの言葉に腹を抱えて吹き出していた事だろう。
そんな暴言を吐きながら加江須が誰を尾行しているのか目を凝らして確認する奥手。
「え…あれは…」
加江須が後を付けている相手が黄美である事が分かった彼は首を捻って疑問符を頭の上に浮かべる。
どうしてアイツは自分の恋人を見張るかのように後について回っているのだろうか? 自分の恋人相手にする行動とは思えない。
彼はもう学園へと通っていないので知らないのも無理ないだろうが、黄美は加江須に別れを切り出しているのだ。しかしその事実を全く知らない彼は加江須の行動の意味を考え始める。だが彼の軽い頭では答えは出てこず結局のところ黄美は無視して再び加江須に焦点を合わせるが……。
「……待てよ。これ、使えるんじゃないか?」
ここで彼はとある策を思いついた。ハッキリ言ってまともにぶつかっても加江須に勝てない事は奥手自身理解できていた。だがそれは正攻法で戦った場合に当てはまる事だ。もしも…もしもヤツにとっての最大の弱みを盾にして戦いを仕掛けたと言うのであれば話は変わるだろう。
「はは…天は俺を見放してはいなかったな。あの女を利用すればワンチャン俺だけであのクソ野郎を殺せるかもしれない」
そうと決まれば彼は早速行動を開始する。
今まで向けていた視線を加江須ではなく、その先をとぼとぼと歩いている黄美へと変更して彼女をロックオンした。
そのまま黄美をしばし見つめた後、やがては彼女が向かうであろう地点を先読みして割り出し、すぐに奥手はこの場を離れて先回りを開始した。
◆◆◆
「くそ…俺はいつまでウジウジしてんだ? こんな風にコソコソと付いて行く位ならさっさと声を掛けろよ」
黄美の後をひっそりと尾行しながら加江須は自分の行動を叱りつける。本来であれば自分が今すべき事はこんな彼女の尻を追いかける事ではない。ダッシュで彼女の元まで駆け寄ってきちんと目と目を合わせて対話をする事だ。それなのにいざ話し掛けようとするとまた拒絶される事を恐れ、言い訳がましくタイミングなどと宣い言い訳の材料を探している。
もしも今の自分を黄美が、いや他の恋人たちが見ても心底失望するだろう。一体どこまで臆病なんだと……。
「(いい加減にしろ久利加江須! そもそもお前がこの自然公園に来た理由は何だった? 今の自分の大切な人たちのギスギスした現状を打破できずに煮詰まっていたからだろうが。その状況を黄美ときちんと話し合えば解決できるかもしれないんだぞ。それなら今している尾行は無駄なはずだ。今すぐにでも彼女の元まで走っていく事だ)」
いつまでも決断しきれない自分を責めているといつの間にか周辺の景色が変化し始めていた。今までは広々とした芝生の絨毯の上を歩いていたが、いつの間にか木々の立ち並んでいるエリアへと入り込んでいた。黄美の後を追う事や自分を叱責する事に夢中で足を動かしてはいたが周辺の景色の変化には遅れて気づく。
「いつの間にか随分と歩いていた……!?」
ここまで来て加江須は今更ながらに気付いた。自分のすぐ近くにゲダツの気配が微かに漂っている事を。
今までは形奈から教えてもらったやり方で気配を極力殺していた奥手であったが、加江須を殺す為の算段が建てられた事で気が緩み気配を残してしまったのだ。
すぐに辺りを見渡して感じる気配の向かい先を確かめる彼であるが、ゲダツの気配は自分ではなくそれより先を歩いている黄美の方へと向かっている事に気付いた。
「まさか…黄美ぃ!!!」
ゲダツの狙いが自分でなく黄美である事を察した加江須は大きな声で目の前を歩いている黄美へと向かって叫びながら駆け寄って行く。
背後から突然聴こえて来た加江須の声に思わず驚いて背筋がピンッと伸び、振り返ると予想通りの声の主が立っていた。
「カエ……何の用よ久利加江須」
加江須の姿を見て少し嬉しそうな本当の貌を一瞬だけ見せてしまいそうになる黄美であったが、彼女はすぐにいつもの冷たい上辺の顔を貼り付かせる。だが今の彼はそれどころではない。
「今すぐにこっちへ来い黄美! お前のすぐ近くからゲダツの気配が……」
黄美へと駆け寄りながらすぐにその場から離れてこちらへと来るように叫んだ。しかし残念ながら加江須は一手遅かったのだった。
――一手早く黄美の背後の木の陰から奥手が飛び出して来た。
「え…んぐっ!?」
背後から感じた人の気配を察知して振り返る黄美であったがその反応は間違いであった。何者かの気配を感じ取っても振り返らずにただ前を見て加江須の方へと走って行くべきだった。そうすれば二度も人質なんて間抜けを晒さずに済んだのだ。
「動くんじゃねぇぞ久利ぃ! これでお前はもう終わりだぁ!!」
勝利を確信した奥手の汚い笑みを見つめて加江須は息をのむ事しか出来なかった。




