なーんだ、こんなもんかぁ…
リング上で勇敢そうな雄叫びと共に殴りかかって行く屈強なボクシング部の男子部員であるがその勇ましさも一瞬で潰される。
「うおおおおおおおッ!」
腹の底から捻り出している相手の声は河琉からすればただの喧しいサイレン。特に怯むこともなくその喧しいサイレンと共に繰り出されるジャブを全て紙一重で躱す。
まるで攻撃されているとも思えない程の焦りの無いフットワークに逆に焦りながらラッシュを続ける男子部員だがことごとく躱される。しかも相手は拳を避けながら欠伸までしている。
「ぐっ、眠てぇのかよそんなによォッ!!」
「ああ退屈だからな」
そう一言言うと河琉はパンッとやる気の無さそうなパンチを顎の下へと掠らせる。
相手を小馬鹿にしているかのようなパンチであるが、ピンポイントで顎下を打たれ一瞬で男子部員の意識のスイッチがOFFとなりリングに倒れる。
「はい次どうぞ~」
どこまでも相手を舐め腐っている態度を一貫する河琉であるがもうその事に関して誰も咎めもしなければ怒りもしない。ここまでの試合で全て一撃で相手を沈めているのだ。しかも未だに相手はノーダジであり、パンチを当てる事する出来ないでいるのだ。
次の部員がリングに上がろうとするが、そんな男子の肩を袴田が掴むとグイッと後ろの方へと引っ込める。
「もういいよ。お前たちじゃ絶対に勝てない」
「は、袴田…」
我が部のエースにこれ以上は無駄だと言われ残りの部員たちは少しショックそうな顔をする。だからと言って一切否定できないこともまた事実だ。袴田以外の部員達もこれ以上続けても恥を上塗るだけだと本当は理解できている。
それに我が部のエースが出てくれるのであれば問題はない。確かにあの河琉とやらは相当な実力だがこの袴田には通用しないだろう。それほどまで彼の実力は信頼されている。
「よお玖寂君。随分と物足りなさそうな顔をしているじゃないか。ここからは俺が遊んでやるよ」
「…まああんたがこの部のエースみたいだし、この試合であんたに勝てばもう帰っても良いか?」
「おーいいよいいよ。勝てればね…」
袴田はリングに上がるとグローブをバンバンと叩いて挑戦的な笑みを向けて来た。
ここまでの圧倒的な河琉の戦闘力を見せつけられてもまるで覇気を失っていないボクシング部エース。そんな彼を見て少しは楽しめるかと期待をする河琉。
リングの外では河琉の事を連れて来た先輩が圧倒的な彼の戦力に対して驚きの連続であった。するとトレーナーが話しかけて来た。
「すごいなあの坊や。最初は口先だけの男かと思っていたが凄まじいポテンシャルだぞ」
「ええ…できる事ならウチに欲しい人材ですよ。ただ彼は入部に乗り気ではないみたいでね、だから向こうが勝てば諦め、負ければウチに入るなんて約束をする事しか出来なかったですよ」
「…正直かなり欲しいな。鍛え上げれば来年のインターハイに出場だって夢ではないぞ」
最初はこの部の厳しさを思い知らせてほしいと言う思いしかなかったが、今は純粋に袴田に勝利して欲しいと思っている。是非ともウチのボクシング部へと入部させたい。
「さて、じゃあ始めようか」
「いつでもどうぞ」
リング上で向かい合っている二人は互いに口元に笑みを浮かべている。そしてそんな両者の心の中の想いも同じであった。
歯応えの無い相手たちに心底退屈していた河琉であったが、退屈していたのは袴田も同様である。この部内でエースとして活躍して来たが誰も彼も内心では自分と対等に渡り合えず退屈していた。皆が遠慮して縮こまりいつしか部内で本気を出す事も出来なくなった。
「(嬉しいぜ。そんな俺が本気で…大会でもないこんな場で本気を出す事が許されるなんて…!)」
最初は目の前の相手に怒りしか持っていなかった。だが今はむしろ感謝しているぐらいだ。よもや自分が全力を出して戦う事が許されるなんて……!!
「ところで玖寂君、ヘッドギアは着けなくていいのか?」
「はあ? 今更何を言っているんだよ。ゴワゴワして嫌だねあんなの」
自分相手にも特に態度を変化させないその豪胆ぶり、逆にそれは袴田をより昂らせてくれる。
――ああ…まさかこんな形で強敵と巡り合えるなんて……!!
まるで極上の生肉を目の前でぶら下げられているライオンの様な、もうこれ以上はとても我慢できない袴田は構えを取ると早く試合を始めようと口にする。
「じゃあ試合開始だ。遠慮なく打ち込んできていいぞ」
彼がそう言い終わる頃には既に河琉は動き始めていた。
まるで稲妻の様な拳が袴田の顔面を捉える、だが伸びて来た拳に反応してガードする。
「…へえ……」
今までは誰も彼も無抵抗同然に殴られていた彼からすれば攻撃を防がれたのは意外だったらしく、思わず感心しているかのような声を漏らしていた。
そこから軽いジャブを繰り出して様子を窺ってみる。傍から見たらやる気がなさそうな顔つきではあるがその速度は明らかにこの部の連中達よりも速かった。
「はは、いいじゃないか。」
だがそのラッシュを袴田は嬉しそうに全てガードし、今度はこちらの番と言わんばかりにグローブの中で拳を固く握り右ストレートを打ち込んでやった。
閃光の様なその拳を河琉はガードした。その際に生じたグローブとグローブがぶつかる乾いた音が部屋へと鳴り響く。
「うおっ…うるさ…」
今までの対決では河琉は全ての攻撃をガードせず紙一重で回避し続けていた。その為にここに来て初めて耳に響いてきたグローブの衝突音に少しビックリとした顔になる。だがボクシングでグローブ同士がぶつかるなど当たり前の事、袴田は当然攻撃の手を緩めない。
「ははははは!! そらそらそら!!」
嬉しそうに興奮気味に拳の雨を降らせる袴田。
その速度は凄まじくリング外から戦いを観ている部員達は驚いていた。
「す、すげぇ…拳が速すぎて追いきれねぇ」
「やっぱ袴田先輩半端ねぇわぁ…」
今までインターハイの大会でその強さを見た事があるとは言え、部室内のこんな間近で彼の真の実力を見た事の無かった部員たちは称賛の声を漏らす。気が付けばあの河琉に勝てるんかどうかと言う不安は消し飛んでいた。それを証明するかのように先程から河琉は防戦一方だ。
「やるじゃないか玖寂君。まさか俺の全力にここまで追いすがるとはな!」
リングを思いっきり踏み込んで渾身のボディブローを放ってやった。
その一撃は河琉のガードを抜けて腹部をまともに打ち抜いてしまった。
「おっしゃあ!!」
リング外で試合の行方を見守っていた部員の1人が思わずガッツポーズを上げてしまう。散々自分たちを見下して来た男がようやくまともな一撃、それももっとも破壊力のある我が部のエースのボディブローを受けたのだ。間違いなく大ダメージは期待できる。
袴田からこのスパーリングを通して初めて攻撃の直撃を受けた河琉、さぞ今の一撃に苦しんでいる事だろう。
「悪いなぁ大人げなくて。でもこれでボクシングが如何に厳しいスポーツか学べただろう」
そう言いながら袴田は勝ち誇っているかのような顔でそう言うと、俯かせていた顔を持ち上げる河琉。
そして次に彼の口から出て来た言葉はこうだった。
「ふーん…派手なモーションの割にはこんなもんかぁ…」
「……何だと?」
てっきり苦悶の表情を浮かべているかと思ったがケロリとした顔でそう言ってのける河琉。
リングの外で勝利を確信してガッツポーズまで出していた部員はその様子に目をむいて驚く。それもそうだろう、あのボディブローを受けてまるでこたえていないのだ。一体どんな腹筋をしていると言うのだ?
だがパンチを打ち込んだ袴田はふんっと鼻を鳴らした。
「強がりはやめるんだな。今の一撃、確かに手ごたえがあったぞ。やせ我慢なんて恥ずかしいだけだ」
「いやどんな威力なのかとわざと受けたんだよ。その気になれば防げたって」
「ほざいてろぉぉぉ!!」
ダァンッとリングの床を蹴って先程以上に振りかぶったパンチを打ち込む袴田、その攻撃に対してなんと河琉は特に防御の様子も見せず無抵抗のまま拳を撃ち込まれる。だが彼は顔色一つ変えずにすまし顔をし続ける。
「ば、バカな。今のは本気で打ち込んだぞ…」
「ふーん…じゃあオレもお返し…よっと」
覇気のない声と共にお返しのボディブローを打ち込む河琉。
その速さは今までの比ではなく反応すら出来ずにまともに袴田はボディを打ち抜かれる。
「お……おええええええ……!」
河琉の拳が深々とめり込んだ袴田は青い顔をするとそのまま膝をつき嘔吐する。
「うわ……勘弁しろよ…」
目の前で吐瀉物を吐き出す袴田にげえっとした顔をする河琉は慌ててリングの外へと脱出する。そして入れ替わるかのようにトレーナーや他の部員が駆けつける。
「おい大丈夫か袴田!?」
トレーナーが彼を介抱するがすでに意識はなく白目をむいている。
たったの一撃でこの部のエースを潰された事に誰も声を出せずにいた。そんな呆然とする周りの反応を気にせず河琉はグローブを取り外して放り捨てる。
「じゃあ約束通りオレの勧誘はもうしないでくれよ。それじゃあどーもー…あー疲れたー…」
そう言いながら河琉はそのまま部室を出て行った。
その後を追おうと一瞬迷った皆であったが、あれだけ恐ろしい戦闘力をまざまざと見せつけられた彼らは結局を手を伸ばしても何も言えずに黙って見送る事しか出来なかったのだった。
そしてこの日の彼の無双っぷりは翌日にはすぐに学園全体へと伝わる事となるのであった。




