俺とお前はもう戻れない
「あ~…ひどい目に遭った」
疲れたように溜息を漏らしながら加江須は自分の家へと向かって歩いていた。
思わぬラッキースケベなハプニングに遭ってしまい仁乃に相当絞られるハメとなった。
「いっち~…あんなに強く引っ張る事ねーだろ仁乃のやつ…」
加江須の両頬は赤くなっており、ジンジンと今も痛む。
転んだ拍子に偶然にも仁乃にバストタッチしてしまい、怒り狂った彼女に渾身の力で頬を引っ張られてしまったのだ。相当怒っていたようであの時の引っ張られた痛みは相当なものであった。
「まだ痛み続けてるくらいだからなぁ…」
今もまだ熱を帯びている頬を押さえる加江須。
しかしこの程度で済んで良かったとも思う。いくら事故とはいえ女性の胸を触ってしまったのだから最悪、もう口をきいてもらえなくなるとすら思っていた。
あのハプニング直後、怒りを収める事に手間取りはしたが何とか許してもらう事は出来た。しかし償いとしてまた今度時間のある時にイチゴのショートケーキを奢る約束を取り付けられたが……。
「しかし仁乃のヤツ、苺が好きなのかな? ジャムパンだのイチゴ大福だのと……」
何気に彼女の好物を知ることが出来た加江須。
もしまた怒らせたときは苺関連の何かを差し出せば案外許してくれるかもしれない。そんな呑気な事を考えていた加江須であるが、次の瞬間に謎の悪寒が走る。
それはゲダツの放つ威圧感とはまるで違う、全身にヘドロの様にまとわりつく嫌な気配。
「……どういう事だよ」
加江須が前方を見るとそこに1人の少女が立っていた。
「一体今日は何の用だ?」
そう言って進路方向に立っている影に向かって声を掛ける。
――そこに立っていたのは自身の幼馴染である黄美であった。
◆◆◆
昨日と同様にまたしても自宅の近くであの女に遭遇した事を心の中で嘆く加江須。
転生する前は自分から声を掛ける事が当たり前であったが、転生してからは向こうの方から接触してくる機会が増えたように感じる。
かつての自分であればあの女と話せる機会に恵まれれば喜びもしたのだろうが今は違う。むしろできる限り距離すら置きたいくらいなのだ。
いっそ無視して素通りしようとする加江須であるが、行く手を遮るかのように黄美も体をずらし進路を塞いで露骨に邪魔をしてくる。
「はあ…何か用か? 昨日と違って鞄を持ってきたわけじゃないんだろう。今日は学校に忘れ物をした記憶はないぞ」
「………カエちゃん」
「……は?」
黄美の口から出て来た単語に眉を顰める加江須。
それはかつて、まだ自分と彼女と仲良く過ごしていた時に言われていた呼ばれ方。
「昨日はごめんなさいカエちゃん。あんなに傷つける言葉を言ってしまって……」
「はあ? おい、何を……」
「本当は明日謝ろうと思っていたんだけどやっぱり一秒でも早く謝るべきだと思ってね、急いでカエちゃんの家の前まで走ってあなたが来るのを待っていたんだ」
そう言うと黄美は加江須の手を握って来た。
突然手を握って来た黄美に不快感を抱きその手を振りほどこうとするが、彼女の手は傷だらけで特に指先は酷い有様であった。
自分の傷ついた手を見つめられて黄美は恥ずかしそうな表情になり、加江須の手を離して自分の指を隠すように折りたたむ。
「ああごめんね。本当はこの指、家に帰ってから包帯でも巻こうと思っていたんだけどまずはカエちゃんに謝る事を最優先にすべきだと思ったから」
そう言って照れ臭そうに笑う黄美の表情はとても可憐で、恐らく学園の男子共が見れば胸をときめかせるかもしれない。しかし加江須には今の黄美が薄気味悪くて仕方がなかった。
「お前…本当に黄美か…?」
昨日までは自分をいつも通り貶していた女が、翌日の今には屈託のない笑顔を向けている。しかも当たり前の様に幼き頃のあだ名で呼び、そして自分の手を握ってすら来た。
自分の記憶の中の黄美の性格を考えればいずれも彼女らしからぬ行動だ。向こうから手を握ってくるなど本当にどれだけ久しぶりか。
そんな不審さを感じている加江須とは違い、相も変わらず笑顔を向けてくる黄美。
「それでカエちゃん、許してくれるかな……?」
上目づかいで自分の事を見つめてくる黄美に対し、普通ならふざけるなとでも言い返してやりたいところだが、怒り以上に今の目の前の彼女からは不気味さを感じる。
そう思う根拠はこの別人とも思われる態度の豹変だけではなかった。
――自分を見つめる彼女の瞳が黒く濁っているのだ。
口は笑っているが目はまるで笑ってはいない。それどころかまるで瞳の中にブラックホールでも渦巻いているのではないかと思う程にどす黒く濁りきった色をしている。
今の彼女は関わるべきでないと判断して速攻で会話を打ち切ろうとする加江須。
「昨日の事で来たならもう許している。分かったら帰れ」
極力短く、そして簡潔に返事をするとそのまま彼女の横を通り過ぎようとするが、彼女の横を通ろうとすると今度は腕をガシッと掴んできた。
煩わしく強引にその腕を振り払おうとするが、彼が行動を起こすよりも先に黄美が口を開いた。
「ねえカエちゃん――一緒に居たあの娘はだぁれ?」
「……一緒?」
「公園で一緒に居たでしょ? 誰なのアレ?」
この瞬間、加江須は自分の中で流れている血が一瞬凍り付いく感覚に囚われる。
「(さっきまであの公園にコイツも居たのか……)」
あの時、仁乃と話している最中に出くわした人間はゲダツに襲われたあのジョギング中の青年だけのはずだ。という事はこの女はあの時、公園のどこかに身を隠して自分と仁乃の様子を観察していたという事になる。
「(だとしたらどのタイミングから見ていた?)」
ゲダツとの戦いが終わった後に自分と仁乃はもう一度公園に戻り親睦を深めようと思い談笑していた。その瞬間から隠れて様子を見ていたのか、それともゲダツとの戦いも含めて全てを見ていたのか……。
もし後者だとすれば非常に面倒である。ゲダツの姿は一般人には見えないが、自分や仁乃の特殊能力は目視することが出来るはずだ。
実際に黄美が隠れて二人の事を盗み見ていたタイミングはゲダツを倒した後なので、ゲダツの存在、そして加江須や仁乃が転生者である事実はバレてはいない。
しかし当の本人はそれが分からないので緊張が途切れなかった。
「カエちゃん、私が公園に来た時に私の知らない女の子を押し倒していたよね。アレはどういう事?」
口元だけは弧を描き笑顔を保っているが、相変わらずヘドロの様に瞳は濁っている。
しかし今の彼女の発言から、どうやら盗み見ていたのはゲダツを倒した後であることが判り少し安堵できた。
一番説明が面倒な部分が知られていない事を確認できると、もう彼女に付き合う必要は無いと感じた加江須。自分と仁乃が何をしてようとこの女には何一つとして関係などない。どう思おうがお好きなようにすればいい。
そう思い加江須は腕を払って黄美の掴んでいる手を振り払った。
――その瞬間、黄美の態度が急変した。
「どうして振り払ったりするのカエちゃん!?」
今までのしおらしさがうその様に怒号を出して加江須の腕を両手で掴んで顔を近づけて来た。
先程まで濁っていた瞳は今度は微かだが充血している事に気づき、腕を強く握った事で黄美の傷ついていた指先からは再び血が滲み始める。しかし出血など気にせず加江須に必死の形相で語り掛ける黄美。
「なんで無視して行こうとするの!? カエちゃんはいつも私の事を置いて行ったりしなかったでしょ!?」
「一体いつの話だよ? 今の俺にとってお前は他人と変わらないと言ったはずだ」
そう言ってもう一度振りほどこうとするが今度は彼女の手は離れなかった。
「どうして…カエちゃんの幼馴染は私なのに。それがどうしてあんな名前も知らない子なんかと楽しそうに……どうして…ドウシテ?」
「お前には関係ない。分かったらこの手を離せ」
「どうしてカエちゃん。ちゃんと訳を話してよぉ…」
目尻に涙を溜めながら理由を訊いてくる黄美の姿を見て苛立つ加江須。
本当にこの女は一体どうしたというのだ。昨日まではいつも通りに人をコケにしておきながら仁乃と仲良くした途端に取り乱し、みっともなく縋り付いてくる。
元々最初に人を拒絶しておきながら今更…本当に今更このような事を言い出してきた黄美に加江須は溜まっていた感情を吐き出した。
「元々お前が俺の存在を否定し続けていたからだろうがッ!! 小さな頃から一緒に居た幼馴染にお前はこれまでどれだけ罵声を浴びせムシケラ同然に扱い続けて来た!? こっちの方こそ今になってそんなしおらしくなった理由を訊きたいもんだぜ!!!」
「違うの、違うのぉ…。私はただ…ただ素直になれなかっただけなの。本当はカエちゃんの事が大好きだったのぉ。でも…でも……」
「何をいまさら。俺が好きだった? 寝言は寝て言えよ」
そう言って加江須は強引に黄美の腕を振り払う。
先ほど以上に大きな力で振り払われて手を離してしまう黄美。そのまま彼女は後ろに下がり尻もちをついてしまう。
涙目で見つめてくる幼馴染を冷めた目で見ながら加江須は切り捨てるように言った。
「もう俺とお前は赤の他人同然だと認識しろ。今までの事を謝りたいなら勝手に謝っていろ。だが謝罪を口にしたところで俺とお前の関係はもう昔の様にはならない」
「カエちゃん…どうしてぇ…うっ…ううっ…」
「……自分の胸に聞いてみろ。どうしてこうなってしまったのかをな……」
そう言うと加江須は今度こそ背を向けて歩いて行く。
背後からは黄美が自分の名前を呼びながらむせび泣く声が聴こえてくる。
「ひっ…ひぐ…わ、私は…うう~……」
後ろで少女が泣いている。しかしソレは決して幼馴染などではない。ただの同じ学園に所属している女子生徒が勝手に泣いているだけだ。別に特別な関係じゃなくなった自分が親身になってその涙をぬぐう必要は無い。
そう思いながら加江須は背後で泣いている〝大して親しくもない女子生徒〟を置き去りにしてその場を後にするのであった……。




