加江須の仕込み
昼食後のしばしの休憩を挟むと再び皆は海へと繰り出して思いのままの時間を過ごす。
加江須の視線の先では波打ち際でイザナミたちがビーチボールで楽し気に遊んでいる。しかしその輪の中には仁乃は加わっては居らず、彼女は加江須の隣で並んで座ってその光景を眺めていた。
ひとりだけ参加しようとしない彼女に加江須が問いかける。
「仁乃はいいのか? みんなと遊ばなくて」
「少し休憩よ。それにあんたに聞きたい事があるし…」
そう言いながら彼女は顔だけは前方に向けたまま視線だけを加江須へと移す。
「さっきのチャラ男と何があったのよ?」
その一言を聞いた加江須は小さな声でふっと笑った。
「やっぱり仁乃は気付いていたか」
どうやら彼は自分が疑念を抱いていた事を何となくであるが察していたようだ。
「何か昼過ぎから仁乃がどこか不信感を表情に出していたからな」
「よく見抜けたわね…」
「そりゃ察せるさ。お前は俺の大切な恋人なんだから」
この男はどうしてこういうセリフを息を吐くかの様にすっと口に出せるのだろうか……。
いつもは自分たちのアプローチ1つで照れ臭そうにするくせにこういう時には真顔でこんなセリフを口にしてこちらを困らせる。だが自分をちゃんと見てくれていると思うと嬉しくもある。
「んん…ごほんっ! そ、それはさておき改めて聞くけどあの男と何があったのよ?」
「ああ実はな…」
加江須はあのチャラ男とのやり取りを全て話して仁乃にことのあらましを伝えた。
その話を聞いて仁乃は心底不快そうな顔をした。完全な逆恨みで自分の恋人を妬み、さらには自分たちに手を出す算段まで立てていると聞かれて良い顔をする訳もない。
「本当に見下げ果てた連中ね。じゃああのバカ男はこの地元の腐った仲間を集めてあんたを襲って私たちに手を出す気でいる訳ね」
「ああ…それを聞いた時には思わずあの男の顔面を本気で殴ろうかと葛藤したもんだよ」
そう言いながら加江須がぎゅっと拳を握りしめる。
目の前で無邪気に楽しそうに遊んでいるイザナミたちを見ると尚更怒りが湧いてくる。特にイザナミには初めての海を満喫してもらいたいのだ。その思い出を下衆な企みの的にされるのは我慢ならない。
「それでその男はどうしたの? そのまま警告して帰してやったの」
「まさか。あのアホだけに警告しても他にも大勢仲間がいるからな。だからこちらで先手を打ってやった」
そう言うと加江須はふっと得意気に笑って自分の仕込みについて話始める。
◆◆◆
時間は少し遡り、加江須がチャラ男から全ての話を聞き終わると男へとある命令を下した。
『お前に頼みがある。その兄貴分から連絡をするように命令を受けているなら今から俺の言う通りに兄貴分へと報告をしてほしい』
『そ、それはどういう…?』
加江須の意図が未だに掴めていないチャラ男は戸惑いの色を顔に浮かべている。
そんな物分かりの悪い彼に対して加江須がより分かりやすく説明をした。
『別に難しい話をする気はないさ。ただお前には嘘の情報を兄貴分に教えてもらう。それを使って兄貴分とその下に付いている仲間共をここへ誘き出すのさ』
加江須の狙いがようやく理解できたチャラ男は顔を青ざめ始める。
もしも彼の言う通りに虚偽の連絡などしようものなら兄貴に何をされるか分からない。もしかしたら半殺し、いやそれ以上に悲惨な処遇を課せられるかもしれない。何しろ噂では兄貴は人を一人や二人ほど殺しているなんて噂も聞いているのだ。
とてもそんな指示には従えないと口を開こうとするチャラ男であったがその言葉は口外へと飛び出る事は無かった。
――拒否したらどうなるか分かるな?
加江須は決して口を開いて何かを言ったわけではない。だが彼の冷徹な瞳を見れば口に出さずとも彼が何を言いたいのか理解できた。
自分とほぼ同年代、いや少し若い少年であるにも関わらずそのオーラはまるで自分の兄貴と同じ、いやそれ以上に殺伐としていた。もしもここで彼の協力を拒めばどうなるか……。
そこまで考えると彼の脳裏には先程に加江須の拳で砕かれた岩を思い出してしまった。
『わ、分かりました。あなたの言う通りにします…』
そう言わなければ本当にこの場で殺されかねない。そう本能的に感じ取れた男は素直に頷く事しか出来なかった。
そして無事に協力を取り付ける事が出来た加江須は小さく頷くと電話で伝える虚偽の内容を教え、そして最後に目の前の男へと念押しをしておく。
『分かっていると思うが…もしも、もしもこの期に及んで俺を騙そうとしてみろ。その時は――ぶち殺す』
チャラ男の耳元まで口を寄せて『殺す』と囁いておく。
まるで熱を感じさせない凍えるセリフに男の全身の産毛が逆立つ様な感覚に陥る。この男の言葉は決して自分の様な小物のよく使う覚悟の無い言葉ではない。もしも逆らえば目の前の人の形をしたこの怪物は自分の命を摘み取ると理解できてしまった。
『けして…けして逆らいません。ですので命だけは…』
恐怖の余りチャラ男は涙目となりながら力なく半笑いの状態で自分の命だけはと頼み込む事しかできなかった。
◆◆◆
「なるほどねぇ…少しイキがっているだけの一般人相手にあんたが本気で殺気をぶつければそりゃ言う事もきくわ。それでその虚偽の内容は?」
「ああ、あの男には俺たちが夜遅くにこの浜辺で星空を眺めて夜のデートに繰り出す予定がある、そう報告させておいた」
加江須の嘘の報告で誘き出した連中を一網打尽にすると言う事だろう。だがこの作戦を聞いて仁乃は少し懸念点があった。
「でもソイツらがもしも全員集まらず何人かが私たちの方にやってきたらどうする気なの?」
「その不安もあるんだよな。あの男には全員で集まった方が確実だと電話でほのめかしておいたが…もしかしたらヤツの仲間の何人かは旅館に来るかもしれない」
あれだけ脅しておいたのだからあのチャラ男が自分を裏切るとは思っていないが、それでも果たしてヤツの馬鹿な仲間達が全員思惑通りこの浜辺に集まってくれるだろうか? あまりこんな事を考えたくはないのだが相手の狙いが自分の報復だけでなく仁乃たちの事を毒牙にかける事も含まれているなら人数を集めてくるはずだ。しかしだからと言ってヤツの仲間が全員来る保証はない。今仁乃が言った通りもしかしたら仲間の何人かは旅館の方に行くかもしれない。
もちろん加江須がこの話を皆へと話せば襲い掛かって来ても対応でき、返り討ちにすることも可能だろう。でも出来る事ならこのまま彼女たちに知られることなく終わらせたい。折角楽しんでいる皆の気分に水を差したくなかったのだ。
「でもやっぱり話しておいた方がいいかな…」
そう呟く加江須を横目で見ていた仁乃は小さく溜息を吐くと仕方がないと口にした。
「旅館の方は私が警戒しておくわ。もしあのバカ男の仲間が襲撃してきても対処しといて上げる」
「え、でもお前に迷惑が掛かるじゃないかよ。折角の旅行でこんな下衆の思惑に巻き込まれなくても…いてっ」
自分一人で何とかしてみせると言おうとした加江須の額に仁乃が軽くデコピンをしてやった。
ジンジンと熱が発生したおでこを押さえながら仁乃の顔を見ると、彼女はむっとした顔をしながら自分を軽く睨んでいた。
「私たちに迷惑をかけたくない気持ちはありがたいけどさ、でも事情を知っている私に何もせず黙っていろって言うのも酷じゃない? 別にあんたが悪い訳でもないでしょうに」
そう言いながら仁乃は加江須の手の上に自分の手をそっと重ねて来た。
「本当ならあんたが連中を一人で待ち構えるって作戦だって納得は出来ない部分があるわ。でも私たちの手を煩わせないって言うあんたの男を立ててあげるわよ。それに…彼女たちにはあんまりこんな話は聞かせたくないしね。まあ氷蓮のヤツはどうでもいいけど…」
「仁乃…すまないな」
「謝るなっての…」
そう言いながら彼女は加江須の手をぎゅっと握った。
まあ相手は不良グループの様なチンピラ達だ。万が一にも加江須が負ける事などないだろう。それも彼一人にこの問題の解決を任せてもいいと思った理由だ。
「でも約束しなさい。もしも不測の事態が発生したらすぐに私たちの元まで帰って来たちょうだい」
「…ああ約束するよ」
加江須が負けるはずが無い、そんな思いを抱いていながらもどこか不安そうな眼差しを向けて来る仁乃。そんな彼女を安心させようとでも思ったのか加江須は少し大胆な行動に出た。
波打ち際でビーチボールを夢中で空中へと高く上げ、トスをずっと繰り返しているイザナミたちがこちらへ視線が途切れているタイミングを見計らって――
「ん…」
仁乃の唇へ自分の唇を軽く押し当ててキスをしてあげる。
そんな彼の少し大胆な行動に驚いた仁乃であったが、彼女は驚愕しつつも全く拒む姿勢を見せず瞼を閉じて数秒間のキスを交わした。
「絶対に無事に帰って来るよ。だから仁乃はみんなを頼むよ」
「うん…」
今まで抱いていた不安が消え去った仁乃はそっと加江須の肩に自分の頭を軽く乗せて預ける。
自分へと身をゆだねている仁乃の頭をポンポンと加江須は軽く叩いてやる。
「あーッ! なに二人だけでイチャイチャしてるの!」
ふと声の方へと目を向けると黄美がこちらを指差して騒いでいた。どうやらキスの瞬間は見られてはいなかったようだが頭を撫でている場面は見られたようで、ビーチボールを持ったままこちらへと近付いてきた。
「私たちもかまってよー」
そう言いながら加江須たちの方へと集まってくる恋人たち。
そんな騒いでいる彼女たちの事を諫めながら加江須は夜この浜辺に現れる連中の事を頭の片隅で考えていた。




