IFの物語 失恋
これはもしも加江須が交通事故で命を落とさなかった場合のお話です。総合評価2000を超えたので記念として書きました。
ずっと恋焦がれていた幼馴染がいた。長い時間を共に過ごしたそんな彼女に一世一代の告白をした少年、名を久利加江須と言う。
そんな少年の想いをぶつけられた幼馴染、愛野黄美は一瞬だけ頬を染めて息をのんだ。その反応を見て自分の気持ちが伝わったのかとこの少年は思ったのだ。
だがそんな自分の淡い期待を蟻でも踏み潰すかの様に目の前の幼馴染はバッサリと切り捨てた。
『アンタみたいな取り柄のない愚図が幼馴染なんて私の人生の汚点でしかないのよ』
それが自分が長年想い続けて来た幼馴染に言われた返事であった。
幼い頃から何度も笑い合っていた可憐な笑顔は今はもう自分へは向けられない。目の前の少女は心底反吐が出ると言わんばかりのしかめた顔で自分を見つめる。その眼光はまるで汚物でも見ているかのようだ。
この日、久利加江須の幼馴染に抱いていた初恋は完全に砕け散ったのであった。
◆◆◆
決死の覚悟を決めて伝えた想いを黄美にビリビリに引き裂かれた加江須は学校を出て走り続けていた。周りが全く見えずに上履きのまま学校の外へと出て当てもなくがむしゃらに足を動かし続けた。
「はは…これが長年好きだった娘に受け入れられなかった哀れな男の末路か」
自虐気味な笑みを浮かべながらただ前だけを見続けて走り続ける。
周りが全く見えていない彼はそのまま十字路を赤信号のまま駆け抜けようとする。
――その時、今まで何も聴こえなかった鼓膜にクラクションの音が響いてきた。
「え…?」
思わず今まで動かしていた脚をあろうことか道路のど真ん中で止め振り向くと、すぐ目の前にはトラックが迫っていた。
「あ…死んだ…」
不思議な事にもうあと1、2秒後には死ぬと理解できながらも彼の心はひどく落ち着いていた。
今日まで息をして生きて来た中でつい先程に人生最大の精神的苦痛を味わったからだろう。今の彼にはもう生きる気力が殆ど無かったのだ。
だから彼はあと1秒後には轢き殺される事をあっさりと受け入れてしまった。
だがトラックが自分の肉体を弾き飛ばす刹那、自分の体が何かに勢いよく引っ張られた。
「え…なにが…?」
混乱のまま何者かに背中を引っ張られてトラックと衝突する直前に命からがら助かった加江須。そのまま彼の体は歩道へと背中から着地した。
「ぐっ…ごほっ…!」
背中から硬い地面に落ちたせいで呼吸が一瞬だけ詰まる。
苦し気な表情で咳をする彼に向けてトラックの運転手が運転席の窓を開け、『気を付けろこのクソガキ!!』と怒号を飛ばして来た。
そのままトラックは走り去っていき呆然としていると何者かにグイッと襟首を掴まれた。
いきなり強引に立ち上がる事になり振り向いた瞬間――頬に凄まじい衝撃が走った。
「この大馬鹿!! 何やっているのアンタは!!」
凄まじい怒りを含んだ叫び声と共に加江須の頬に平手打ちをしたのは赤みを帯びた橙色のツインテールの少女であった。
思いっきり頬をぶたれた加江須は目を白黒させて叩かれた箇所を押さえながら目の前の少女を呆然と見つめる。
「あと少しでトラックとぶつかっていたのよ!! 下手をしたら死んでいたかもってちゃんと分かってるの!?」
何も言わずに呆然としている加江須に対して尚も怒りをぶつける少女。
しかし加江須にはこの少女の言葉はほとんど頭には入っては来なかった。あの衝突の瞬間に自分は死を覚悟していたのだ。むしろ絶望の淵に立たされていた自分をあのまま死なせてくれた方が良かったとすら思っていたのだ。
だから彼の口からは助けてもらっておきながらこんなセリフが溢れ出てしまった。
「どうして死なせてくれなかったんだよ…」
「……なんですって?」
加江須のセリフを聞いて目の前で腕組をして睨んでいた少女の表情が変わる。そんな彼女の変化に気付いていない加江須は尚も今の自分の心境を口にする。
「助けてくれてありがとうなんて言うと思ったのかよ!! 何も事情を知らないくせに何で見知らぬ俺なんて助けたんだよ!! トラックにぶつかる瞬間、俺は正直このまま死んでしまっても良いとすら思っていたんだ!! お前は俺の命を救ったかもしれないが俺の心は逆に余計な事をされて怒りすら湧いてくるんだよ!!」
無気力感に襲われていた加江須は堰を切ったかのように大声を出して一方的に語り始める。いや、吐露し始めたと言った方がいいだろう。
この少女は自分の事情など何も知らない。そんな彼女に今の自分の苦しみを一方的に愚痴として言ったところでどうしようもない。しかし一度堪えていた感情を口にするともう歯止めが利かなくなってしまった。
「どうして助けた!? どうしてあのまま死なせてくれな…ぶッ!?」
自分の胸の内に溜まっていた鬱憤を命の恩人に対して吐き出している最中、再び凄まじい衝撃が頬へと走った。しかも先程よりも威力が大きく加江須の体はぐらつき地面に膝をついてしまった。
そんな彼の胸ぐらを掴むと少女は怒りを瞳に宿し怒鳴り散らして来た。
「ふざけるのも大概にしなさいよ!! どうして助けた? 目の前で死にそうになっている人間がいて助ける事が間違いだとでもいうの!! 生きる事を舐めてるんじゃないわよ!!」
そう言うと少女は至近距離まで顔を近づけ、加江須の瞳を真っ向から睨みつけて尚も続ける。
「だいたいアンタは自分が死んでも影響がないみたいな物言いだけどね、アンタの命はアンタだけのものじゃないでしょ!! ここでアンタが死んだら残された人達はどうなるのよ!!」
「残された…人…?」
少女のその言葉に加江須は少し戸惑い始めた。
今までは自分が死んでも誰かに迷惑をこうむる事になるとは考えもしなかった。だがこの少女の言う通りもしもあのまま自分が死んでしまえば残された家族はどうなっていただろう?
「俺が死ねば家族が悲しむ…?」
自信なさげにそう独りでに口にすると少女は彼の胸ぐらから手を離し、少し悲しそうな顔をしながら今までとは違いどこか優し気に話しかけて来る。
「そうよ。残されたあんたのお父さんとお母さんはどうなると思う? 自分の子供が知らぬ所でもう死んでしまっていたと知れば後悔する筈よ。それだけじゃない。家族以外にもあんたの友人だってきっと……」
「……でも」
確かに家族は悲しんでくれるかもしれないが、他の者はどうだろう。例えば先程に自分を虫けらの様に扱い、長年の想いを踏み殺したあの幼馴染なんて自分が死んでも悲しんではくれないだろう。
そんな風に未だ彼の心の中は黒いモヤで覆われていた時――その闇を目の前の少女が払ってくれた。
「あんたに何があったのか知らないけどねもっと自信を持ちなさいよ。大丈夫、死ぬほどに辛い思いをしても人生はそこで終わりじゃないのよ」
そう言うと少女は微笑みながら加江須の頭をそっと撫でてくれた。
「あ…ありがとう…」
柔らかな手の平から伝わってくる温もりに思わず加江須は頬を僅かばかりだが赤く染めてしまう。
絶望の泥沼に片脚を突っ込んでいた加江須であったが、その沼の中から目の前の少女は手を差し伸べて引き上げてくれた。
こんな自分にも優しい言葉を投げかけてくれた目の前の少女の優しさに内心で感激をしていると、もう大丈夫だと悟った少女は加江須の両肩を軽く叩いた。
「よし、じゃあもう馬鹿な事はするんじゃないわよ。それじゃあね!」
そう言って少女は加江須に背を向けてそのまま小走りで走り去って行く。
風になびいている少女のツインテールと背中を見つめながらその場でしばし佇んでいた加江須であるが、次の瞬間に自身の両頬を叩いて我が身に気合を入れてやる。
「……よし、もう大丈夫だ」
そう言いながら頬から手を離してしっかりとした瞳で前を見る加江須。
彼の眼はほんの少し前までは光が宿っていなかったが今は違う。失恋のショックなどもう彼の瞳の中にはなく生きる気力に満ち溢れていた。
「あの娘の制服ってウチの学校のだよな。今度もう一度お礼を言わないとな」
◆◆◆
「はあ…私、何をやっているんだろう?」
肩を落としながらトボトボと学園を出て帰路へとつく少女は先程に加江須の事をフった幼馴染の黄美であった。いや正確に言えば彼女は加江須の告白を断ったつもりなどは無かったのだ。最初は罵声を口にしたが最後にはそれでも付き合って上げる、そう受け入れるつもりであった。しかし自分が最後まで話しきる前に加江須は教室を飛び出しそのまま学校を出てしまったのだ。
急いで後を追ったのだが逃げ出した幼馴染の姿はどこにもなく、もう自分の家へと帰ってしまったのかもしれない。今から彼の家まで足を運ぼうかとも考えたが流石に気まずく自分の家へと大人しく戻る事にした。
「明日謝れば大丈夫よね。はぁ…あいつも早とちり過ぎるのよ」
そう言いながら加江須に対して申し訳ないと感じつつも、自分の話を最後までちゃんと聞かない彼に対して理不尽に怒りも覚えていた。
「だいたい私のあの程度の罵声なんて今更でしょ? どうしてあの程度で逃げ出すのよ」
かつては幼馴染である加江須とは仲睦まじかった彼女。今とは違い彼の事を『カエちゃん』なんて親しみを込めてあだ名で呼んでいたほどだ。だが精神が大人になるにつれて彼女はドンドンと純粋な素直さが欠けて行き、そして心にもない罵声までぶつけてしまう様になっていった。それでも加江須は優しく接して来るので彼女の傲慢ぶりに拍車がかかってしまった。
「明日にあいつが話しかけてきたら事情を説明しないとね。そうすれば晴れて私と加江須は恋人かぁ……」
加江須の優しさに甘え続けて来た彼女の心は僅かに歪み始めていた。その証拠に彼女はもう自分と加江須が交際する未来を信じてしまっているのだから。どれだけ罵声を浴びせても結局は彼は許してくれるだろう、などと自分勝手な楽観した考えを持ってしまっているのだから。
「たくっ…世話焼かせるんじゃないわよあのバカ」
この期に及んでも幼馴染の涙を見て反省の色がほとんどない黄美。
この時の彼女はまだ気付いていない。もう自分が取り返しの付かない過ちを犯してしまった事を。そして…自分がもっとも望んでいる未来など訪れない事を……。
◆◆◆
危うくトラックに跳ね飛ばされそうな加江須を救ったツインテールの少女は先程の出来事を思い返していた。
「それにしても本当に間一髪だったわね。あと一歩私の〝能力〟が間に合っていなかったらどうなっていた事か……」
この少女の名前は伊藤仁乃と言い、先程に助けた加江須と同じ新在間学園の2年生である。だがこの少女は実は普通の人間ではない。ある特殊な能力と力を持っているのだ。あの時、もうトラックと衝突する直前に加江須を救い出せたのも彼女の持つ能力のお陰だ。
「でもあいつ大丈夫かしら? 何かかなり深い事情があったみたいだけど…」
自分が助け出した直後の彼は虚ろな目をしており、そこには生きる事に対しての執着が感じられなかったのだ。しかも彼はあろうことか死んだほうが良かったとすら言っていた。
「確かウチの学校の制服着ていたわよね。明日少し様子でも見てみようかしら」
もしも何か変な気でも起こしたりしたら少し寝覚めが悪い。
それに純粋にあそこまで追い詰められていた彼を放置する事も出来なかった。
「……ん? この気配は……」
今まで動かし続けていた脚を止める仁乃。
他の人間には判らぬことであろうがこの少女が特殊な能力を持っているのはある怪物と戦う為である。その怪物の気配は一般人には感じ取れないがこの仁乃には感知できる。
「家に帰る前に一仕事しなきゃいけないわね」
そう言うと仁乃は再び脚を動かし始め、吐き気を催す気配を頼りにその場所へと駆けて行くのであった。
◆◆◆
下手をしたらトラックに轢かれ事故死をしていたかもしれない加江須は今現在は自分の家に戻っていた。
家に戻ると彼は自分の部屋にある勉強机に肘をついて自分を助けてくれ少女の事をずっと考えていた。
「明日…会えるかな…?」
もうこの世に希望など露程も無かったはずだったが、あの少女の説教で目が覚めた今の彼の瞳には光が宿っていた。
だがそれだけではない。あの時の彼女の事を考えると顔が熱くなってくるのだ。
「そう言えば名前も聞いていなかったよな。はぁ……」
物思いにふけるかのような顔をしながら彼の頭の中には自分を救ってくれた少女の事で埋め尽くされていた。




