氷蓮の実践訓練 1
戦いが終わった後に少しハプニングはあったが、今は身体中の汗を流してさっぱりとリフレッシュしていた仁乃。
降り注ぐ温水がとても心地よく、戦闘で溜め込んだ疲れも一緒に洗い流されるような気分だ。
「はあ…スッキリするわ…」
ふと目の前にある洗面鏡に映し出される我が身を見てみた。
「それにしても…あのバカ何度触れば気が済むのよ」
異空間から出た直後に起きた事故を思い返して赤くなりながら溜息を吐く仁乃。
もちろん事故である事は理解しているのでそこまで怒るつもりはないが、心なしか自分の胸部を触られる回数が多い気がする。
「もしかして実は…わざと…?」
加江須だって年頃の男の子である事は重々理解している。
鏡に映る自分のスタイルは我ながら同年代の女子からすれば良い方だと思う。その中でも目に付く場所はやはり胸部だ。今まではもう少し小さい方が良いと思っていた部位であるが……。
「お、大きい方が良いのかしら?」
もしそうだとすれば恋人の中では一番のアドバンテージを自分は持っている事になるのだが……。
「…ハッ!! 私は何を考えているのよ!!」
自分が何やら変な事を考え始めている事を理解し赤面する。
「ああもうっ! これも全部あのバカのせいよ!! 今度何か奢らせてやるんだから!!」
◆◆◆
仁乃が風呂場で加江須に対して少し理不尽気味に怒りを向けている間、今度は氷蓮が異空間へと降り立っていた。もちろん今のこの異空間は先程と同じで実践モードの設定状態だ。
「さて俺の相手は誰が出んだろうな?」
そう言いながら拳をバキバキと鳴らして不敵な笑みを浮かべる氷蓮。
そしてその数秒後、彼女の対戦相手が目の前に現れた。
「……マジかよ?」
氷蓮がそう言うのは無理もないだろう。
確かに対戦相手は自動的に選ばれるとは言われていた。しかしよりにもよってこの流れの中で〝彼女〟が敵として現れるとは思いもしなかった。
自分の前へと出現した相手の少女は氷蓮と同じように不敵に笑う。
「ふん、まさかアンタと本気で戦うなんてね。言っておくけど本気で命を取りに行かせてもらうわ」
「へ…上等だぜ。どこからでもかかって来いよ――仁乃ぉ!!」
自分の目の前に現れた対戦者、仁乃の紛い物に対して氷蓮が即興で作り上げた氷の剣を突き付けた。
◆◆◆
異空間内の映像を見ていた皆は思わず息をのんでしまった。
確かに対戦相手は記憶の中から自動的に現れる様な仕様かもしれない。でも…それでもだ。どうしてこのタイミングで彼女の前に仁乃が現れてしまうのだろう。
異空間の外で本物の仁乃の戦いを見ていた氷蓮は確かに仁乃には負けていられないと言っていた。しかしだからと言ってここで彼女を敵として出すのは惨過ぎる。
「こんな戦いあるかよ…」
それは加江須の心から零れ落ちた本音である。
自分で口を開いて言葉を出したつもりはなかった。完全に無意識に零れ落ちていた言葉、つまりは心の声であった。
「これ…止めた方が良いんじゃ…」
黄美も同じ気持ちなのかこの二人のぶつかり合いを止めた方が良いのではとイザナミの顔を見る。しかしこの戦いを外部から止める事は出来ないのだ。一度実践モードを設定し中に入れば対戦相手を倒す、もしくは異空間内の人物が『強制排出』と叫んで自分から脱出するしかないのだ。
「戦いが始まってしまった以上はあとは氷蓮さん次第です。彼女が『強制排出』と口にしないかぎりは…」
自分たちにはどうする事も出来ないとイザナミは申し訳なさそうに伝える。
「で、でも相手は所詮偽物でしょ? 本物の仁乃さんが家にいるわけだしさぁ……」
愛理の言う通りである。確かに今この家には本物の仁乃が居るのだ。相手は所詮記憶内から生み出さされた紛い物だ。あの氷蓮がその程度で動じるとは思えない。
だがやはり自分の大切な人たち同士が命がけの戦闘を行う事は見ていられないのか顔を思わず加江須は背けてしまっていた。
加江須の顔が逸らされると同時にモニター内の二人が激突した。
◆◆◆
「相手にとっては不足無しだぜ!!」
「その減らず口もすぐに叩けない様にボロ雑巾にしてあげるわ!!」
氷蓮と仁乃は互いに地面を蹴って真っ向から向かって行った。
それぞれが氷と糸の剣と槍を手に持ち、二つの得物がけたたましい音と共にぶつかり合う。
「ぐ…このヤロ……」
「どうしたのかしら? パワーが足りないわよ!!」
鍔迫り合いを制したのは仁乃の方であった。
彼女は氷蓮の体を剣もろとも後ろへと弾き飛ばしてやる。
「そらそらそらどうしたのかしら!!」
弾き飛ばされた氷蓮の事を追いかけすぐに間隔を詰め、手に持っている槍で凄まじい速さの突きのラッシュを繰り出す仁乃。
鋭利な糸の先端を剣で弾き続ける氷蓮であるが、ひと際強い突きが放たれバランスが崩れてしまう。
「隙ありよ!!」
「ごっ!?」
体制が崩れてしまい隙が出来た彼女の腹部に蹴りが放たれる。
見た目は華奢な脚には似付かわしくない蹴りの威力に苦悶の表情を浮かべ、肺の中の空気が強制的に外へと吐き出されてしまう。
「舐めんなよコラァ!!」
いつまでもしてやられてたまるものかと彼女は吹き飛ばされながらも大量の氷柱を空へと生み出し、それを一気に射出する。
だが飛び道具を持っているのは相手も同じである。差し迫る氷柱の大群を同じように糸で生成した槍の群生で迎撃をしてやり過ごす。
蹴り飛ばされた氷蓮は空中で1回転して地面へと着地。
地に足を付けると同時に神力で脚力を強化し、獲物を狙う猛獣の如く爆発的な速度で仁乃へと直進する。
「お返しだぜ!!」
そう言いながら氷蓮は強化した足蹴りを仁乃へと向かって繰り出す。
自分の頭部目掛けて繰り出された蹴りに対して仁乃は腕でガードをする。
「重いわね…けっこうやるじゃない」
「なっ、止めやがっただと!?」
たかだか蹴りを止めただけで驚きすぎだと思われるかもしれないが、今の蹴りにはかなりの量の神力を足に籠めた状態で蹴り込んだのだ。それをガードして体制を僅かに崩す事もなく踏み止まったのだ。
蹴りの衝撃で片目をつぶっているがそこまで危機感の宿ってない仁乃の表情に氷蓮は内心で戸惑う。
おいおい嘘だろう? 今の蹴りを余裕を持って受け止めきるなんて…こいつ…俺が想像していた以上の力を蓄えていたのかよ?
自分の想像以上に力を身に着けていたのかと驚く氷蓮であるがそれは少し違った。実は彼女自身気づいてはいないがこの戦いが始まってから彼女は本来の力を発揮できていなかったのだ。
◆◆◆
モニター内で激しい戦いを繰り広げている少女たちの行方を固唾をのんで見守る加江須たち。
今のところは僅かばかり偽物の仁乃の方が優勢にも見えるがまだ決定的な有効打は両者与えられていない。しかしこれまでの戦いを見ていて加江須は何か違和感を感じていた。
「氷蓮のやつなんだか動きが少し鈍くないか?」
そう、声を張り上げ思いっきり戦っている様に見えるがどこか動きがぎこちなく感じるのだ。
「(まさか相手が仁乃だから無意識に力が出せないのか?)」
もちろん仁乃と戦う事は氷蓮だってこれが初めてではない。この水晶内で互いに全力を出して戦っていた場面を自分は見ているのだ。
だがあの時の戦いはあくまで互いに切磋琢磨する為の模擬試合だ。それに引き換え今回は実戦方式の戦いなのだ。現に相手の偽物の仁乃は氷蓮を本気で殺そうと考えている筈だ。
「この戦い…やっぱり中断した方がいいんじゃ?」
加江須がそんな不安を口にしていた時、部屋のドアが開いてシャワーを浴び終わった本物の仁乃が戻って来た。
「ああ戻って来たのか仁乃」
「ええシャワーありがとう。おかげでさっぱりしたわ…てっあれ?」
部屋に入ると氷蓮の姿が見えない事にすぐに気が付いた仁乃。
そして神具の真上にはモニターが出現しており、すぐに今度は氷蓮が戦っている事を察した。
「へえ今はあいつが実戦形式で戦っている訳ね。状況は……って私じゃない!」
皆に加わり戦いを観戦しようと腰を降ろしてモニターを眺める仁乃だが、モニター越しに映る対戦相手が自分である事を知って声を上げる。
「たくっ…何でよりによって私なのよ」
文句を言いつつ氷蓮の戦いを見つめる仁乃であるが、彼女は戦いを見てからわずか十数秒で違和感を感じる。
「あいつ何で本気で戦わないのよ? 私との練習試合の時と比べると動きが悪すぎるわ」
実際に彼女と本気で戦っていた仁乃には今の氷蓮が本来の動きを出来ていない事を見抜いていた。
「何を偽物なんかに手間取っているのよあのバカ…」
そう言いながら舌打ち交じりにモニター内で苦戦する氷蓮の事を仁乃は見つめていた。
◆◆◆
「クソがッ! どうしてだ!!」
戦いも長引いてきて氷蓮自身も自分の中の違和感を流石に自覚出来始めていた。
「(何で俺は攻め切れねぇんだよ!?)」
何故だか分からないが攻撃にいつもの勢いが乗ってくれない。神力のコントロールも雑だし作り出す氷の強度や造形もイマイチだ。
それに引き換え目の前の偽物の仁乃は存分に力を使って戦っている。これでは自分の方が押され気味になってしまうのは当たり前だろう。
「ほらどうしたの! いつもの生意気が全然出てないわね!!」
「ぐ、うわああ!?」
仁乃の槍が剣で防御した氷蓮の体を遥か後方へと吹き飛ばす。
そのまま空中に浮かんだ氷蓮は背中から地面にぶつかり地面を滑って行く。
「くそ…俺は何をしてんだ?」
そう口にしつつも内心では理解していた。自分は目の前の相手が友人と同じ姿をしているから無意識に力をセーブしてしまっているのだ。これが練習ならばともかく、本気の命のやり取りと言う事で偽物相手でも躊躇してしまっているのだ。
こんな心構えではこちらがやられてしまう。そう思いつついっそ一度この異空間から出るべきかと考えていると――
――『何をやってんのよこの大馬鹿!!』
気の合わない女の声が自分の耳に聴こえて来た気がした。




