番外編 愛野黄美の苦悩 4
人間は様々な感情を心の内側に秘めている。その中でもっとも強い感情は果たしてどのようなものだろう? それは喜びだろうか? それは悲しみだろうか? それは怒りだろうか? それは諦めだろうか? それは驚きだろうか? それは嫌悪だろうか? それは恐怖だろうか? もちろん人はそれぞれがそれぞれ、十人十色違う考えで生きているのだ。今挙げていった感情の中、人それぞれもっとも強いと思う感情は異なるだろう。
そしてその中には人間の持つ感情の中で最も強い感情、それはすなわち〝愛〟であると思う者もいるだろう。愛情こそが人を動かす原動力であると信じる者も居るだろう。そう…この少女の様に……。
「ようやく…ようやくこの時が来たわ」
愛野黄美は歓喜に震えながら遂に自分の目的を成し遂げられた事を心の底から喜んでいた。
四方が全て一面真っ白で果ての見えない世界、その出口も見当たらない空間には二人の女性、黄美と黒い長髪の女性が向かい合って立っていた。
「いやぁ~まさかこの短期間でこれだけのゲダツを仕留めるなんて驚きっスねぇ~。転生戦士になってからこの短期間で願いを叶える権利を獲得した者はあなたが異例っスよ」
黄美と向かい合っている女性は感心したかの様な表情で目の前の少女を見る。
この女性は黄美を転生戦士として生き返らせた神、名をヤソマガツヒノカミと言う。とても神とは思えない軽快な口調が少し気になるが。
少し馴れ馴れしすぎるのではと思えるほどの接し方に対して黄美はうんざりとした顔をしながらさっさと本題に入るように促す。
「お褒めいただき光栄ではあるけどお世辞はいらないわ。約束通り願いを1つ叶えてもらえるんでしょうね?」
つい先程、現世でゲダツを倒した直後に黄美はこの一面が真っ白な空間〝転生の間〟へと転移させられたのだ。
この空間に来たのは今回で二度目となる。一度目は死んだ直後に転生戦士として蘇らせてもらう際、そして今回はゲダツを討伐し続けた功績として願いを叶えてもらえるためだ。
一定数のゲダツを討伐する事で見返りとして転生戦士は褒賞として願いを叶える権利を貰える。大抵の願い事なら叶えてもらえるのだ。そのような旨味があるからこそ転生戦士は皆が危険を承知でゲダツと戦うのだ。
「ようやく…ようやくここまで来たわ。さあヒノカミ、私の願いを叶えてちょうだい!!」
彼女が転生戦士となってから戦い続けてきた理由は全てこの瞬間の為であった。
どうしても自分には叶えたい願いがあった。その為に今日まで身を削る思いをしてゲダツのような化け物と戦い続け、そして勝利して来たのだ。
興奮気味にヒノカミへと今すぐ願いを叶えてもらおうと詰め寄る黄美。
グイグイと距離を詰めて来る黄美の事をどうどうと諫めながらヒノカミは慌てなくても願いを叶えて上げると言い聞かせる。
「そう急かさなくてもちゃんと叶えてあげるっスよ。それで願いの内容は――久利加江須クンを生き返らせてほしい…でいいんですよね?」
「ええ、それ以外に叶えたい願いなんて有り得ないわ」
それこそが彼女が身を削ってゲダツと戦いながらも叶えたい願いであった。
あの日、幼馴染である加江須からの告白に対して自分は最低な返答を吐き出してしまった。本当は大好きなのに…本当はとても嬉しかったのに…自分は彼の告白を踏みにじってしまったのだ。しかもその理由はただの照れ隠しだった。今思い返してもあの時の自分には吐き気を催すほどだ。心にも思っていない罵詈雑言を浴びせ、彼と言う人間性すらも貶して全否定したのだ。そんな自分の悍ましい対応は彼の心を砕き、その結果死に至らしめてしまった。
「(あの日…私はもう自分のこの先の人生に価値が無いと思っていた…)」
大切な幼馴染を死に追いやってしまいもう生きる気力が完全に喪失してしまっていた。取り返しのつかない過ちに対し自己嫌悪すら生温い感情に支配され、日に日に心が腐って行くのを実感できた。しかし幸運な事にもう一度彼と人生を共に歩めるチャンスを自分は与えられた。転生戦士となってゲダツと戦えばいずれ願いを叶える権利を得る事が出来ると知り戦いの中に飛び込んだ。
「(何度か死を覚悟するほどの窮地の戦いもあったけど全然恐怖は無かった。もし死んでしまってもカエちゃんの待っているあの世に私の方から行けるから……)」
黄美にとっては願いを叶える前に戦闘で死んでも悔いなど微塵もなかった。それならそれで自分も加江須と同じ場所へと旅立てると思っていたから。それほどまでに今の彼女の頭の中は加江須の事で埋め尽くされているのだ。もう脳が焼かれていると言っても過言ではないかもしれない。
これまでのゲダツとの戦い、そして過去の自分の唾棄すべき最愛の幼馴染に対する自分の過ちを思い返しているとヒノカミが話しかけて来た。
「それじゃあゲダツ討伐の褒美と言う事で今からあなたの願い、久利加江須クンを生き返らせるっス。それに当たっていくつか伝えておくことがあるので聞いてもらえるっスか?」
「伝えて置くこと?」
黄美が首を傾げて不思議そうに聞き返すとヒノカミは一度だけコクリと頷いて詳細を話し始めた。
「久利加江須クンはもう当に死んでいる人間っス。そう言う類の既に死去している方を蘇らせた時は少し現世の歴史に変化が訪れるんですよ」
「変化って…何か不味い事でも起きる訳?」
まさか自分の身の回りで何かしらの不都合でも起きるのではないかと少し不安になる黄美であるが、そんな彼女の不安を拭おうとしたのかヒノカミは手を左右に振って安心するように言った。
「いえ、要するに久利加江須クンが生き返ると同時に現世の歴史では彼が死んではいなかったと言う事になると言う事っス。つまり加江須クンが生き返った事実を知る者は黄美さんや他の転生戦士の様な特殊な方だけとなるって事っスよ。生き返った加江須クンにも死んでいた間の辻褄が合う様に記憶が修正されるんっスよ」
ヒノカミの説明を受けて黄美は安堵の息を漏らした。
それならばむしろ好都合だ。確かによくよく考えてみれば自分の住んでいる現世では既にカエちゃんは死んでいる。それが生き返れば間違いなく騒ぎになるだろう。そう考えればこのアフターケアはとても有難いことだ。
自分の説明を受けて理解と納得をしたと判断したヒノカミは黄美を再び現世に送り戻す準備を始めた。
「それじゃあ黄美さんの願いはもう叶えておいたっスよ。あなたが現世に戻った時にはもう久利加江須クンは生き返っている筈っスよ」
「……本当よね? 本当に本当に本当に本当に…カエちゃんは生き返ったのよね?」
「本当っスよ。疑り深いっスねぇ~」
少しは神様を信用してほしいもんだとぶーたれるヒノカミ。
「じゃあ現世に送り戻しますけど…1つだけ忠告してあげるっスよ」
「忠告…? まだ何か注意事項でもあるのかしら?」
黄美がまだ他に何かあるのかと思っているとヒノカミは頭を掻きながら少し言いにくそうな顔をしていた。
「いやぁ~…黄美さんって生き返らせた幼馴染クンが好きなんっスよね? だとしたら彼が生き返ったからと言ってあまり期待しない方がいいかも……」
「……言っている意味が分からないわね。もう言うべきこともないなら早く現世に送り戻してくれるかしら。生き返ったカエちゃんと再開して彼の顔を見たいんだから」
「……じゃ、再び現世に送り届けるっスよ」
黄美の言葉にしばし複雑な顔をしていたヒノカミであるが、それ以上は何も言わずに彼女は黄美の事をそのまま現世へと送り戻してあげた。
転生の間にはヒノカミだけとなり、彼女は溜息と共に独り呟いた。
「黄美さんは生き返った幼馴染クンにもう一度会える事を喜んでいたっスけど……久利加江須クンは死の直前に彼女に手酷くフラれて死んでいるんだよなぁ~……。つまり彼は生き返ると同時に死んでいた空白の時間は彼女に自分の想いを踏みにじられたその後の状態で過ごした事になる」
まあ自分の仕事はあくまで彼女の願いを叶えるまでだ。その後にどうなろうとそこまで面倒を見る必要はないだろう。
そう納得をしたヒノカミは大きな欠伸を一つした後、転生の間から姿を消したのであった。
◆◆◆
ゲダツ討伐の報酬として幼馴染の加江須を生き返らせると言う願いを無事に叶える事が出来たその翌日の朝、黄美は上機嫌で加江須の自宅へと足を運んでいた。本当は昨日の内に会いに行きたかったのだが、その時は既に夜分遅くなので仕方なくあきらめたのだ。
今日は平日の登校日であるため当然の如く学校もある。それでも真っ直ぐに学校へと向かわず加江須の家を目指しているのは彼と一緒に登校したいからだ。
「ふんふんふ~ん♪」
今にもスキップしてしまいたい程に鼻歌交じりに目に見えて浮かれながら加江須の家へと向かって行く黄美。
今まで素直になれなかった分、これからは自分の本音を包み隠さずに彼へとぶつける事にしたのだ。
「(もうすぐカエちゃんの家……ずっと夢抱いていた彼との再会までもう間もなくだわ♪)」
有頂天のまま加江須の家が目視できる距離まで接近した黄美であったが、もう間もなく目的地に到着する筈の手前で彼女は足を止めた。その理由は彼女の視線の先に映り込んだ一人の人物が原因であった。
「(カ、カエちゃん!! 良かった、ちゃんと生き返っている!!)」
加江須の家の玄関のドアが開き、そこから学生服を纏った加江須が出て来たのだ。
決して他人の空似などではない。自分の瞳に映り込む数メートル先に居る人物は紛れもない久利加江須だ。
これまで抑えに抑え続けて来た感情が一気に濁流の様に心の内側から流れ出る感覚を黄美は実感した。そしてそれは声となって彼女の口から迸った。
「カエちゃん!!!!!!」
かつてのあだ名を叫びつつ黄美は一気に加江須の元まで全速力で駆けて行く。一秒でも早く彼の元まで駆けつけたいと思うあまり無意識に脚力を神力で強化すらしてしまっていた。
背中越しにぶつけられた自分の名を呼ぶ声に振り返る加江須。それと同時に既に黄美は彼の眼の前まで接近していた。
まるでテレポートの様にいきなり眼前に黄美が現れた様に見えて少し驚きのけぞる加江須。
「よ…黄美……」
「うんそうだよカエちゃん! あなたの幼馴染の黄美だよ!!」
久々に聴いた加江須の声に思わず目頭が熱くなってしまう。この再開を自分は何度夢見た事か。ゲダツとの辛い激戦も途中で折れる事なく戦い続けられたのも、いつかはきっと訪れるであろうこの未来の為だと自分を鼓舞して来たからだ。
抑えきれない想いは声だけでなく瞳から涙となって溢れ出す。
「この日をずっと待ち続けていたんだよカエちゃん…」
そう言いながら黄美の両手は加江須の頬へとゆっくりと伸びて行き――その両手は加江須にはたかれて叩き落された。
「………え?」
一瞬何が起きたのか分からず目を丸くする黄美。そんな彼女に対して加江須は苦々しい顔をしながらこう言い放った。
「今更どういうつもりだよ…馴れ馴れしく昔の呼び方なんてして…ふざけろよ」
そう言いながら彼はギリっと奥歯を強く噛んだ後にそのまま黄美を置いて1人でお構いなしに歩いて行ってしまう。
ようやく再開できた愛しの幼馴染に向けられた嫌悪に対し彼女は何も言えずにただその場で呆然と佇む事しかできなかった。




