第57話:一月と君と終わりのコントラクト 後
「なんか銀ちゃん変じゃない??」
とは花ケ崎さんの見立てあるが、誰の目から見てもいまの銀千代は異常だった。生気がなく虚ろな目でぼんやりと黒板を眺めている。
机の上には筆記用具も教科書もノートもない。
その無気力状態は、黒板前で熱弁を振るう先生に喧嘩を売っているようにも見えた。だらりと垂れ下がった両手はペンも握らず、宙に投げ出されているだけである。
今朝、俺より先に登校していた銀千代ずっと同じ感じで、変わらず虚ろな表情を浮かべている。
心配じゃなかったといえば嘘になるが、異様な雰囲気に声をかけることができなかった。休み時間に花ケ崎さんが話しかけても「うん」とか「そう」とかBotみたいな返事しかしていないのを横目に、俺は机に突っ伏して惰眠を貪った。昨日の夜更かしのせいで眠いのだ。
そんなこんなで三時間目、あまりにも舐めた態度が癪にさわったのか、遂に先生が詰問するように銀千代を注意した。
「金守さん」
「……」
「教科書も開かないで、私の授業は聞くに値しないということですか?」
嫌味が込められた指摘に銀千代は一切反応しなかった。死んでるのかと思ったが、肺は動いているようなので呼吸はしている。
「返事しなさい!」
古典教師がヒステリックに叫ぶ。「おい銀千代」と小さく声をかけたところで、彼女はびくりと一回震えてから、
「はい」
と小さく返事をした。
「……それじゃあ、ここを現代語訳しなさい」
「あい」
あい?
ぼんやりとした表情のまま銀千代はゆっくりと立ち上がると、大きく口を開いた。
「ディスイズアパイナップル」
「は?」
「これはペンですか? いいえ、それはガンダムです」
「な、なにを……」
「正式名称は汎用人型決戦兵器ハム太郎サァン。人類の夜明け。ムケーレムベンベ。ほしいのほしいのほしいーのカービィ、バオウザケルガ、ファーブル……スコファ……モルスァ!!」
誰もなにも言えなかったが、俺だけは現状を正しく理解した。
銀千代が変になっている。
おそらく長時間(といっても十数時間程度だが)俺との接触がなかった為、気が触れたのだろう。
古典の先生は事情が飲み込めていないのか目を見開いて口をパクパクさせている。
クラスメートの机の上に広げられた古典のカリキュラムは「土佐日記」で「クトゥルフ神話」は指導要領に載っていないはずだ。
「あなたは、……なにを言ってるの?」
唖然としたように先生が訊ねると、銀千代は一度深く頷いてから続けた。
「とっくにご存知なんでしょう? 穏やかな心を持ちながら激しい怒りによって目覚めたピクミン。赤と青と緑とブルブルブルベリベリアイアイブルベリアイ」
「ちょ、ちょっと、え、なんなの!?」
「アントシアニンパワー!」
沈黙が教室を支配している。
発狂。
その言葉はまさしく今のためにある。
「か、金守さん!? 授業を妨害したいなら黙ってください」
「次回、あじゃらかもくれんてけれっつのぱっ! おじゃる丸フューチャリング、レッド・ホット・チリ・ペッパー、ウィズ、ビックシールドガードナー、来週も絶対心臓を捧げよ!」
右手を高く天にかがける。気狂いだ。
「ちゃ、ちょっと! か、金守さん!? も、もういい! もういいから座りなさい!!」
「すわり……こりん星?」
「そう、座るの! 席について」
「席にツク、ツクツクボウシツクツクボウシうぃよーうぃよーうぃよーああああああ」
「……」
「じじっ」
「……なん、なの」
「ちょげぷりぃぃぃぃ!」
幼児みたいにニパッと笑い、銀千代は歌い始めた。
「ある貧血もりのな浣腸くまさんニンニクアブラカラメヤサイマシマシエクストラコーヒーバニアフラペチーノ!」
淀みなく謎の独り言は続く。小さな悲鳴のようなざわめきが折り重なった。
「さ、さっきからあなたは何を言っているの!? ふざけてるんですか? あなたが潰している授業が、他のみんなにとって、どれだけ大切な時間だと思っているんですか!?」
先生が口から唾を飛ばすほどの勢いで怒鳴る。
「時間は大事。そんなこと、言われるまでもありません。アフリカでは一分につき六十秒経過しています」
「だ、だからなんなの!?」
「わからないんですか? ほんとうに大事なものは愛ということですよ。ラブイズオーバー。オールニードイズジャスティン・ビーバー。スティキーフィンガー、アリアリアリアリリンガーハット!」
「……」
「RINGER HUT!」
「なん、だってのよ」
「いっーひっひ!」
「ひ、ひぃ!」
突如として、銀千代が絵本の魔女みたいな声をあげて笑い始めた。恐怖しかなかった。狂気しかなかった。啓蒙が高すぎる。
「いーっひひ!」
「お、おい、銀千代……」
「ひっ……」
目の前の光景が理解できずに俺は思わず、ジョジョ立ちをする銀千代の手首をつかんだ。
「あっ……!」
電流が走ったかのように銀千代はブルッと一度大きく震え、
「……ふぅ……」
恍惚とした表情で憑き物が落ちたかのように、艶っぽいため息をついた。
「先生が座れって……」
なんとか声をかける。
「座……あ、うん。えーと、……あれ?」
銀千代は周囲をゆっくり見渡し自身に降り注ぐ好奇の視線を振り払うかのように大きく首をかしげた。
「んー……?」
教室全ての視線が銀千代に集まっている。人に見られるのはなれているはずの銀千代もさすがに少しだけ恥ずかしそう、鼻の頭を人差し指でかいた。黒板に書かれた文字列で今が古典の授業中ということを理解したらしい。
「男が書くと聞く日記というものを、女の私もしてみようと思って書くのである」
「は、……あ、は、はい。けっこう」
土佐日記の現代語訳をキリッとした表情で小さく呟いて、着席した。
つまるところ、こいつにあの契約を守ることなど、はなから不可能だったのだ。
俺との接触がないと廃人化することがわかっただけだ。
とにもかくにも契約書を守ることができなかったので、銀千代との旅行はなしになった。それだけでもよかったと思おう。




