第57話:一月と君と終わりのコントラクト 前
三時間目の授業中、机の下でスマホをいじっていたら、花ケ崎さんからラインが届いていることに気がついた。
「なんか銀ちゃん変じゃない??」
変なのはいつも……と返信しようとしたところで、家からいままで銀千代から一切接触がないことに気がついた。
横を見る。
隣の席の銀千代は無表情だ。糸の切れたマリオネットみたいに力無く椅子に腰かけている。
まさか、あの約束を守ろうとしているのか?
思い起こすのは、昨日の深夜一時。
長期休暇の夜更かし癖が抜けずにダラダラゲームをしていた時だった。
「来月の連休さぁ、婚前旅行しようよ」
マイクラで天空闘技場を作ろうとしていた俺の背中に、銀千代が声をかけてきた。
「しない」
「お金なら銀千代が出すから心配しないで」
「行かないって言ってんだろ」
「そ、そんな!」
発言を受けて銀千代は、俺の正面に回り込んで、正座した。
「……邪魔だ」
画面が見えない。
「なんでもするから。一緒にお出かけしてくれるなら、銀千代なんでもするから!」
「なんでも……ね」
「……!」
銀千代はなにかを期待するように目を輝かし、座り直した。
「! ありがとう! ゆーくん、さっそく予約と」
ポケットからスマホを取り出そうとした銀千代を制する。
「待てよ、まだ条件言ってないだろ」
「……条件?」
ゆっくりと首をかしげる。
「ああ、簡単だよ。これから、そうだな、その旅行が終わるまで、俺に一切接触するな」
「無理」
「無理ならこの話はなかったことに」
「うっー、うー」
頭を抱えてうずくまる銀千代。キラってバレたライトくんみたいにしばらく唸っていたが、やがて決心がついたように顔をあげて、「……わかったよ」と呟いた。
「え、まじで?」
「うん。ゆーくん、銀千代頑張るから! 頑張るから旅行いこうね!」
く、ここまで素直に条件を飲むとは、少し予想外だ。念のために言い含めておこう。
「……接触というのはストーカー行為もアウトだからな」
「……ストーカー?」キョトンと首を捻る。
「もともとそんなのしてないから大丈夫だと思うけど」
さすが、自分が悪だと気づいていない最もドス黒い悪。
だが、まぁ、グレーゾーンのままだと不都合なのはこっちも確かだ。
「どういうのがアウトか明確な基準を設けよう……。そうだな。まず、俺の半径一メートルに近づくな」
「それは不可能だね」
ちょっと食いぎみに反論食らった。
「いや、無理じゃなくて条件の確認だから」
「だってコバエがゆーくんにたかってたら反射で守っちゃうもん。もしそれを条件に入れるならゆーくんも人との接触を断ってくれないと」
て、なんで俺が条件つけられる側になってんだ?
「じゃあ、くっつくな」
「それも無理だね」
「無理じゃねぇだろ」
かぶりを振りながら銀千代は鼻で笑った。
「銀千代にとってゆーくんは酸素と同じ。酸素がないと呼吸できないでしょ? 呼吸できないと死んじゃうんだよ。銀千代にシネって言うの……?」
涙目で見つめられる。
もうそんな表情で誤魔化されるほど子どもじゃない。
「後半はともかく前半は意味わからんな。仮に俺が酸素だとしてもくっつく必要はないだろ」
「スマホの充電器をイメージして」
白く細い人差し指を一本、ピッとたてて彼女は続けた。
「ゆーくんから元気をチャージして銀千代は一日を頑張るの。バッテリーがゼロになると、銀千代、死んじゃうよ」
黒く濁った双眸は、純粋無垢に淀んでいる。
「……俺から元気吸いとってる自覚はあったんだな」
「吸いとってるんじゃないよ。元気を循環させてるの」
「循環?」
「うん。二人の間で元気を回してるの。だから銀千代とゆーくんは二人でひとつなんだよ」
「ちょっと言ってる意味が……」
「んー、そうだな。例えばロイコクロリディウムという寄生虫は知ってる?」
さっきからこいつはなんの話をしてるんだろう。
唖然とする俺を置いてけぼりに銀千代は満面の笑顔で続けた。
「この寄生虫は宿主であるカタツムリの触覚をイモムシみたいに変化させて、わざと鳥に食べられるように操作するの。それで最終宿主である鳥の中で増殖するんだ。そして糞から、それを食べたカタツムリに寄生するの。そういうのを繰り返して増える生き物なんだよ。それと同じように銀千代とゆーくんは元気を、いや、愛をぐるぐるぐるぐる回して増やしているの」
最悪な例えだ。いますぐ忘れたい。
「だからくっつかないと愛を循環できなくて銀千代が食物連鎖から外れちゃうの。わかった?」
「……」
吐き気でなにも言えず、青い顔をしているであろう俺を慰めるように、銀千代が正面から抱きついてこようとしたので、手押し相撲の要領で弾いて防ぐ。
「ええ、伝わらなかった? つまりね、空気で酸素のゆーくんのスマホのバッテリーの充電器で寄生虫……」
一から同じ例え話が続いたが、なに言ってるのかよくわからなかったので、脳内で四倍速に変換し、その場を流す
「というわけだよ、わかった?」
「ああ、わかった」
夜も更けてきたのでテキトーに話を切り上げて、寝たい。
「ふぅ。よかった。これで安心して旅行いけるね。オミクロンなんかに二人の愛は止められないんだから」
「いや、それとこれとは話が別だろ」
今日何人感染者出たと思ってやがる。
「それに、俺に接触しないという約束が守られなければ旅行なんて絶対いかないからな!」
「ええ……なんでそんなに……」
銀千代は少し考えるように上目遣いになって、静かに頷いた。
「そうか、うん、分かるよ……ゆーくんだって本当は意地張りたくないんだよね……本当は銀千代と婚前旅行に行きたくてしかたないんでしょ。だけどちっぽけな見栄や世間体が邪魔してるんだ……、大義名分がほしいから、条件をつけてるんでしょ?」
「都合の良い脳ミソしてんな」
「……新しい時代の幕開けの時には必ず立ち向かわなくてはならない『試練』がある」
なんだこいつ。
「『試練』には必ず「戦い」があり「流される血」がある。『試練』は「強敵」であるほど良い……、試練は「供えもの」だ。りっぱであるほど良い」
ぶつぶつぶつぶつ怖いんだけど。
「つまりこれは新しい扉を開くための試練ということ、だね、ゆーくん」
よくわからないが、納得してくれたらしい。
「まあ、そういうこと」
「わかったよ。銀千代、頑張るね」
「……え? ほんとうにわかったの?」
「うん、これから一週間、銀千代はゆーくん断ちするから達成できたら来月の三連休旅行しようね!」
「ああ、で、できたら、いいよ」
「ベネ!」
くそ、まさか条件飲むとは、とそのときは驚いてナチュラルに条件が緩くなっていることに気付かなかった。俺は来月の三連休まで、って指定したのに、こいつは、さりげに一週間に短縮していたのだ。まあ、今さら気付いたところでどうしようもない。
なぜなら、契約書を交わしてしまったからだ。
「それじゃあ、契約書を発行するね!」
銀千代は言うやいなや飛び上がるように立ち上がり、窓から自分の家に戻ると、数分で戻ってきた。エクセルで謎の契約書を作ってきたらしい。所々都合よく改編させようとする銀千代をバトルしながらなんとか納得できる内容に落ち着いたのはそれから一時間後のことだった。
『婚前旅行契約書
宇田川太一(以下『ゆーくん』)と金守銀千代(以下『乙』)は婚前旅行の実施において以下の通り契約を締結する。
第一条(目的) この契約はゆーくんと乙の円滑なコミュニケーションを維持するとともに、相互における信頼関係の調和、向上を図ることを目的とする。
第二条(定義) この契約における信頼関係の調和とは各号に定める通りである。
1 乙はゆーくんに不用意に接触してはならない。
2 相互関係においてトラブルが発生した際、暴力および罵倒の類いでの解決は図ってはならない。
3 ゆーくんと乙間は常に理解しあった関係であることが望ましく、相互関係における不備が発生した際は、互いを尊重しあい、問題解決に尽力することを原則とする。
4 乙はゆーくんに不必要な連絡をとってはいけない。不必要な連絡とは口頭を含む、電子メール、SNS、電話、手紙、またそれらに類するあらゆる伝達手段である。
5 乙はゆーくんのプライベートを尊重し、監視、尾行、盗聴、盗撮またそれらに準ずる行為を行ってはならない。
第三条(有効期限) 本協定は締結日より発効し、一週間有効とする。
上記協定の証として本証書を二通作成し、ゆーくん乙両名署名捺印の上、各一通を保管する。
西暦 年 月 日
ゆーくん 住所
氏名
乙 住所 千葉県浦安一丁目一番
氏名 金守銀千代 印』
「これでよしっと」
俺が判子を押す寸前まで背中にぴっりくっついていた銀千代は、俺の判を確認するために、ゆっくりと背中から離れた。
これでしばらく解放されるのだ。
「銀千代、頑張るね」
契約書で唇を隠し、潤んだ瞳で俺を見つめる。
「応援してる」
銀千代は俺の言葉を受けて、にっこりと微笑んでから、部屋に戻った。これ見よがしに力こぶを作る銀千代を突き放すようにカーテンを閉め、ベッドに寝そべる。
どうせ、明日の朝には忘れてる、と思った契約だったが、次の日の朝、銀千代が俺の家を訪れることは無かった。




