第8話:六月の報われない花嫁
学校から帰宅し、脱衣場で服を脱ぎ、浴室のドアを開けたら、バスタブに全裸の銀千代がいた。
「うぉおう!」
変な叫び声がでた。
ちゃぽん、と落ち着いた動作でこちらを振り向く彼女と目があった。
「きゃあ! ゆーくんのエッチ!」
白々しい叫び声が浴室内に反響する。慌てて脱衣場に避難し、扉を閉めた。
「なんでおまえいんだよぉお!」
今朝学校にいたときから、今日はやけに大人しいなっておもったら案の定だよ。
「今日、ゆーくんチ、親ぁいないんだよね」
「なんで知ってんだよ!」
ドアを挟んで叫ぶ。
ナチュラルにプライバシーが侵食されている。
しばらくしたら、がちゃりとドアが開いて、全裸の銀千代が湯気に包まれながら現れた。髪の毛から滴る水滴。
「ツっゥゥウ……」
高校一年生男子にはあまりにも刺激強すぎ光景だ。目を伏せて、タオルを投げつける。
「はやく出ていってくれ!」
「R指定は?」
「しないから、はやく服を着ろ!」
「服、ないよ。洗濯しちゃった」
タオルで体を隠した銀千代は、ピッ、と洗濯機を指差した。
ごうんごうん。
「は?」
稼働している。
俺はてっきり結婚記念日のディナーに出掛けた母さんが回したものと思っていたが、どうやら違うらしい。
「今日は裸族な気分……」
頬を上気させて言うもんだから、俺の精神的ダメージは計り知れない。
なんということだ。
モラルも洗い流したとしか思えない行動力だ。
仕方ないので俺の服を貸した。
「彼ティーというやつだね!」
下らないことをのたまう銀千代を居間のソファーに座らせ、「一歩も動くな」と命じ、風呂に入ることにした。
締めに冷水のシャワーを浴びて、冷静さをなんとか繋ぎ止めた。
「なにしに来たんだ」
「和子さんから頼まれたの。ゆーくんのご飯つくってあげてって」
「俺の母親とやけに仲いいよね……」
銀千代は愉快そうに微笑むと、立ち上がった。
「少し待っててね」
蝶のように軽やかに台所に向かう。
リズミカルな包丁の音、湯が沸く音、油が弾ける音。やがて漂ういい香り。
数分後、テーブルに銀千代の手料理が並んだ。
ステーキにサラダに、冷製スープ。彼女が料理上手なのは知っていたが、プロと遜色ないレベルだ。
「今日は和子さんと清春さんの結婚記念日だからね。そのお祝い」
「俺の親を友達みたいに言うなよ……」
「そしていずれは銀千代とゆーくんの結婚記念日……」
「……」
銀千代は不穏なことを言って、室内の電気を落とした。テーブルクロスがかけられた食卓の上のアロマキャンドルに火を灯し、優しく俺の目を見つめた。
「とりあえず乾杯しよう」
蝋燭の揺蕩う小さな光を瞳に宿した銀千代は美しかった。
「お、おう」
「かんぱーい!」
シャンパンが入ったグラスをぶつけ合う。カチンと小気味良い音がリビングに静かに響く。
「二人きりだね……」
まずい。
いつもはあまり気にしないが、この状況は非常にまずい。
緊張している。
この俺が。
「テレビでも観るか?」
しょうもないバラエティでも見ればこの不穏な空気も吹き飛ばしてくれるだろう。
テレビのリモコンに手を伸ばしたら、
「それより語り合おうよ」
さっ、と銀千代の手によって防がれてしまった。
くそ、なんだってんだ。
蝋燭の灯りでロマンティックな雰囲気を出す、銀千代の策略。
同じシャンプーの香りを髪から漂わせる銀千代は、いつも以上に色っぽく見えた。
「……ステーキうまいな」
「この日のために特上A5松坂牛を仕入れたんだ」
「うむ。美味だ」
味に集中することにより、邪念を追い払う。
そうだ!
稲妻に打たれたように思い付いた。
なにかで読んだことがある。
人間の三大欲求、すなわち性欲、食欲、睡眠欲は同時に発現はしないらしい。
つまり、とてつもない空腹を覚えたときは、寝る。とてつもなく眠くなったらエロいことを考える。とてつもなくエロい気分になったら、ラーメンのことを考える。
これで我慢できるのだ。
「ステーキ、うめぇええ!」
銀千代の誘惑を振り切る。
「む、むぅう」
すこしだけ不服そうに銀千代は唇を尖らせた。
食事のあとソファーでくつろいでいたら銀千代がTSUTAYAの袋を取り出してきた。
「ゆーくん、映画みよう。じゃあ、再生するね」
返事を待たずして、デッキの前に座り、トレイを開ける。
「なんてやつ」
「濡れた放課後。淫乱女子校生。Gカップの性欲モンスターの言葉責めに……」
当然ながら却下した。
銀千代、こいつ。
さては俺と間違いをおかして大義名分を得るつもりだな。
見え透いた罠に、屈するわけにはいかない。
一般的に男子高校生の性欲は大気圏よりも高いとされているが、コントロールできない俺ではない。
目に見える地雷女の金守銀千代を爆発させるわけにはいかないのだ。
「録画してあるクレヨンしんちゃんの映画でも見ようぜ!」
一般的な普通な映画をチョイスして、二人ならんで観始める。
ソファーに腰を下ろす。隣で画面を眺める銀千代の肩は柔らかい。
くっ。
なんていい匂いだ。
揺らぐ自制心、揺蕩う自意識。
映画館気分を味わおうと照明落としたままだったのも不味かった。
「ゆーくん……」
とん、と肩に頭を乗せられる。
「今日もかっこいいね……」
「……」
味噌ラーメン!
「寝るなら、自分の家に帰れ」
「むぅう……」
耳元で唸られる。まずい。
俺の弱点は耳なのだ。
「ちょっと眠くなったから俺寝るっ!」
「きゃっ!」
銀千代の頭をぶっ飛ばし立ち上がる。
「明日も学校だし、銀千代も早く帰って寝ろよ!」
「ゆーくん、夜はこれからだよ」
ちらりと時計を見る。現在時刻20時半。健全な小学生ならもう寝る時間だ。
「眠いから寝る! おやすみ!」
有無を言わせぬ就寝の挨拶に、さしもの銀千代も不服そうに唇を尖らせながらも納得してくれた。
「じゃあ、ベッドメイクするからちょっとまってて」
「ベッドメイク……?」
嫌な予感がしたが、
「良いっていうまで来ちゃだめだよ」
そう言うと銀千代はリビングから出ていった。
「は?」
ベッドメイクってなに?
万年床に近い俺のベッドを今さらメイクすることあるの?
布団乾燥機でもかけてくれてるのか?
色々なことが脳裏を巡るが、やっぱり意味がわからなかった。
「いや、まてよ!」
数秒遅れてリビングを飛び出す。
「!?」
薄暗い廊下に転々と何かが落ちていた。
意図的に、等間隔に並ぶ赤い紙切れのようなもの。
スマホのライトをオンにして照らす。
「なんだこれ」
しゃがみこんで、つまんで見てみると。
しっとりとした感触。
これ、
「花びら?」
赤い花びら。
すん、と鼻孔を擽る香り、恐らくは薔薇。
「なんでぇ……?」
目で床に散らばる薔薇の花びらを追うと、二階の俺の部屋まで続いてた。
「……」
言葉を失くして、俺は自分の部屋に急ぐことにした。
寝よう。
さっさと寝よう。
銀千代がなにをたくらんでいようが関係ない。
さっさと毛布かぶって寝てしまう。
夢の中の彼女の方がよっぽど秩序を重んじるだろう。
自室のドアを開ける。
「!?」
ピンクのセロファンが照明に巻かれ、部屋はなんとも幻想的な雰囲気に様変わりしていた。
「きゃ!」
花びらが巻かれた俺のベッドの上で、少しセクシーな寝巻きに身を包んだ銀千代が座っていた。早着替えにもほどがある。
「もぉう、ゆーくんたら、せっかちさんなんだから……」
照れ照れと何事かを宣っているが、俺の耳には届かなかった。
俺の愛用している低反発枕がない。
代わりに丸印のついた枕が二つ並んで……、
イエス、イエス、枕!?
「オーマイゴッド……」
欧米人でもないのに口をついていた。
「さ、ゆーくん、そんなところで突っ立ってないで……」
うろんな瞳で俺を見つめ、銀千代がベッドにごろんと横になる。
「カモン……」
「チャーシューメンッ!!」
「え?」
「魚介豚骨! ネギチャーハン!」
「え、どうしたの、ゆーくん、急に?」
「ネギトロチャーシュー野菜マシマシ!!」
「ゆーくん……!?」
「油マシマシ、ニンニクカラメ!」
精神をこの世に繋ぎ止める呪文の言葉に銀千代はあからさまに戸惑っている。
久方ぶりにこいつの焦る顔が見れた。
「ふぅ……」
よし、落ち着いた。
「ゆ、ゆーくん? だ、大丈夫?」
銀千代に頭の心配されたらもう末期だ。
「お前、もう帰れ」
「えー……」
子どもみたいに頬を膨らませたあと、
「ここまでしたのに欲情しないなんて……」
潤んだ瞳でじっと見つめられる。
仄かに赤らんだ頬に、ぷっくりとした唇。白い肌に柔らかそうな肢体。
涙が頬を伝って落ちた。
「ゆーくん……ひょっとして……」
「うっ、何回も言うが、別に嫌いって訳じゃなくて」
「不能なの?」
「……ちげぇよ」
冷静になってきた。
なんとかテキトーをでっちあげてお引き取り願おう。
「そういうのは結婚初夜までとっとくって決めてんだ」
「!?」
銀千代は鳩が豆鉄砲を食らったように目を見開いたあと、ぽん、と手のひらに拳をぶつける。
「ゆーくんは処女厨なんだね」
別にそういうわけではない。
「うん、そういうことだったら仕方ないね。純潔保っとくね」
はじめての相手がお前とは一言も言っていない。
「ふふっ、銀千代としたことが、焦り過ぎてたみたいだね。ごめんね、ゆーくん、今日は帰るね」
銀千代はそう言って立ち上がった。
くそ、肌の露出が激しい。
防御力皆無に等しい寝巻きの攻撃をラーメン花月のトッピングを想像することで防ぐ。
そのまま、銀千代は前屈みになった。
谷間。
ぐっ。
ベッドの下に行こうとする。
「そこはお前の家じゃねぇよ!」
何回言わせれば気がすむんだ。
「あ、いけない、つい癖で」
てへっ、と舌を出す。
窓から帰る銀千代を見送り、俺はベッドに横になった。
記念日のディナーを終えた母さんに、洗濯機のブラジャーとパンティについて詰問されたのは、それから数時間後のことだった。