第42話:Shine On You Crazy Diamond 3
まあ、いいや、と切り換えてスマホをポケットから取り出す。
好きなアーティストが新曲を発表したので、YouTubeで流しながら、帰宅することにした。イヤホンで流れるオルタナティブロックは秋の空気と相まって最高だ。
「へい」
肩を叩かれた。
振り返るとポールがキャベツを持って立っていた。
「こんにちわんこそば」
金髪外人はニコニコとお辞儀した。
そろそろ来る頃だと思っていたよ。銀千代のドッキリのネタばらしか?
ひそかに身構えながら、耳からイヤホンを外す。
「……怪我どしたの?」
「あー、転びました」
「ドジっ子ちゃんだね。気を付けないとダメだぜ」
「肝に銘じます。ポールさんはどうしたんですか?」
「ああ、ゆーくんにはお世話になったからね。ある程度研究データとれたから明日アメリカに帰ることにしたんだ。サンクスね!」
「えっ」
帰るん!?
思わず声をあげた俺にポールは嬉しそうに二回ほど頷いて、
「うんうん、わかるよ。離れていても、友情ってやつに距離は関係ないんだぜ」
ぐっと親指たてられた。俺はお前に友情を感じたことはない、と言えるような雰囲気ではなかった。
「じゃあ、またね。これお礼のキャベツ」
なんでキャベツ?
反射的に受け取ってしまう。
「アッチついたらメール送るね。シーユーネクストタイム! バイバイ!」
ポールが背中を向けたので、思わず、
「待ってくれ!」
と呼び止めてしまった。
「ん?」と振り返る。柔らかな秋の日差しが彼の金髪を輝かせる。
「あ、いや……」
俺はなんで呼び止めたんだろう。
言い淀む俺を見て、ポールはうんうんと頷いた。
「わかるよわかるよゆーくん。切ないね、悲しいね。だけど、花に嵐のたとえもあるさ。さよならだけが人生だ、また会え」
うるせぇ。
「いや、えっと、あのさ、銀千代には挨拶、したの?」
「ギンティヨ? うん。昨日たまたま会えたからね」
「あ、そうなんだ。その、どうでした?」
「どうってなにが?」
「いや、性格、変わってませんでした?」
「……ん? とくに変化はなかったけど」
「あ、そうですか」
「ゆーくん、どうしたんだい? 変なのはたぶん君のほうだぜ」
「いや、なんか銀千代が俺のことだけ忘れちゃったらしくて」
「……どゆこと?」
俺が聞きたい。
二の句が告げずにいる俺の目の前でポールは顎に手をやって「うーむ」と小さく唸った。
「言われてみれば、確かに、昨日のギンティヨは普段以上にクールだったね。アメリカで会ったときと同じ感じだったよ。ただ英語で会話してたから、彼女の感情の微細な変化は読み取れなかったな」
「特定の個人だけを忘れる、そんな記憶喪失ってあるんですか?」
「症状としては聞いたことないけどなぁ、まあ、あり得ないことではないと思うよ」
「まじですか」
「記憶喪失は体験した「エピソード」が思い出せない状態のことで、断片的な記憶はあったとしても、それがどうつながっていて、どんな内容だったのか分からなくなってしまうことを言うんだ。だから特定個人だけを忘れるというのも十分にあり得るだろう」
ポールはスマホを取り出して、操作をして耳に当てた。
コール音が漏れ聞こえたが、相手が出ることはなかった。
「繋がらないね」
銀千代にかけていたらしい。仕事中だろうか。
「原因は? いったいなにがあったんだい?」
ポールが心配そうに訊いてきたので、起こったことを話した。一気に捲し立てるように話したので、喉が渇いてしまった。
「なるほど。まさしく解離性健忘だね。トラウマやストレスがトリガーとなって起こる記憶喪失のことだよ。女性が起こしやすいと聞いたことはあるが、外傷が原因じゃなかったのは良かった」
話を聞き終えたポールは懐から手帳を取りだし、俺から聞いた情報をメモ取りながら答えてくれた。
「治るんですよね?」
「わからない。数日で治る場合もあるし、数十年かかる場合も……」
「なんでそんなことに……」
「原因はゆーくんの怪我になるんじゃないかな」
それなら記憶喪失になるのは俺の方じゃないか?
「より正確に言うなればゆーくんに対する罪悪感。それが強いストレスとなってギンティヨの記憶をショートさせたんだ」
「罪悪感?」
「ギンティヨは君が怪我したのを自分のせいだと認識した。だから自分が君と干渉さえしなければ、その怪我が起こらなかったと無意識下に判断したんだ。罪悪感に押し潰される寸前、ギンティヨの脳はそれを防ぐため、君との思い出を消去した。その防衛反応は、ある種の記憶の改竄と言えるかもしれない」
さすが銀千代の脳味噌だ。相も変わらずぶっ飛んでいる。
「消去された記憶を戻すにはどうすればいいんですが?」
「ふとしたきっかけで戻ることはよくある。例えば現場の再現とか音とか匂い……。いや、まて、……もしかしたら……」
ポールは目を見開いてメモ帳を閉じると、それを胸の内ポケットにしまい、代わりに小瓶を取り出して、掲げて見せた。
瓶には色とりどりのジェリービーンズが入っている。
「覚えているかい?」
「それは……」
「薬だよ。君には数ヶ月前に見せたね。あの時は試作品だったけど、銀野家の協力のお陰で完成したんだ。認可申請中だけどね」
暑い夏の日を思い出す。
蝉時雨の中で俺はあのジェリービーンズの小瓶を一度見ている。
「でも、その薬はたしか……」
「そう。認知症の薬だ」
「銀千代は記憶喪失ですよ。関係ないじゃないですか」
「前に説明したかもしれないが、認知症で特に見られる症状が記憶障害なんだ」
ジェリービーンズの小瓶が日差しを浴びて、きらりと輝いている。ポールはニヤリと笑ってから続けた。
「若く健康的な脳に対しては想定外な副反応が起こる可能性は高いけど、ダメージを負った脳に対して効果が期待できる」
「まさか、それを銀千代に」
「うん。かなりの確率で改善が見込める、と思うよ。なぜならこの薬はキャナモリ・ギンティヨとポール・マッカートニーの共同研究たる人類の叡知だからね」
自信満々にポールは頷いた。
それはとても良いことのように思えた。
一瞬だけ、そう思ってしまった。
「いや……」
考えるより先に舌が動いていた。
「銀千代はただ俺を忘れただけで、……日常生活に支障はない」
「ゆーくん……?」
「もとよりリスクを取る必要もないじゃないか。だって銀千代は、今の銀千代は別に困ってない」
俺だって……。
そうだよ。彼女の記憶を戻そうとするなら、それこそ俺のエゴなんじゃないか?
「ゆーくん、それは考えすぎだよ」
ポールは寂しそうに呟き、小瓶を差し出してきた。
「元の状態に戻そうとすることは悪いことじゃない。副反応についても本人に説明し許可を貰った上で投与すれば君に罪は生まれない。一筆書いて貰えさえすれば」
別に、また付きまとわれるのが、嫌なわけじゃない。……いや、嫌だけど。
元の彼女に戻ってくれれば、そりゃ、今の他人行儀な感じよりは幾らかマシに思うけど、
「思い出さなければ幸せなこともあるんじゃないかな」
少なくとも、今日一日、彼女はクラスメートと信じられないほど打ち解けていた。仕事もいままで以上に上手くいくことだろう。なぜなら金守銀千代という女は俺が好きなこと以外は完璧だからだ、
「ゆーくん、いいのかい?」
そもそも銀千代の精神状態のことを思えばいまのほうがよっぽど正常だ。
俺に執着する姿はどう考えても「精神的」に異常だった。
ポールは浅くため息をついて、懐に小瓶を戻した。
「最後に一つ忠告をしておく。
君はギンティヨにこれから先、避けられる可能性がある。
エレベーターで事故に合った人がその記憶をなくした時、本能的にエレベーターを避けるようになったという事例があるらしい。もし、ギンティヨが罪悪感で君を忘れたのだとしたら、以前のような関係を再構築するのは困難だ。それでもいいんだね?」
「その記憶が本当に必要だと思うなら自然と思い出していくものですよ」
「……それもそうだね。君たち二人の幸せを祈っているよ」
ポールは薄く微笑んで、去っていった。
どうするのが正解かわからなかったが、怪しい薬に頼ってまで以前の銀千代に会いたいとは思わなかった。もしこれで重大な欠陥が彼女の脳に現れたとしたら、俺は耐えられそうになかったからだ。
「あ……なんでキャベツなのか……聞き忘れた」
ポールと話し込んでいたら、すっかり遅くなってしまった。金木犀の花はいつの間にか散ってしまったらしい。懐かしい香りがすることもなかった。




