第42話:Shine On You Crazy Diamond 2
いったい全体どういうことだろう。
銀千代の演技がうまいことは知っている。いままでだって散々な目にあってきたのだ。彼女に騙された回数は片手の指じゃ足りないだろう。
今回もまた、演技に違いない。
わかってもいても、違和感を感じてしまう。それほどまでに以前とは「感じ」が違っていた。
目の前にあるはずの見知った幼馴染みの顔が遠く感じた。
なにも言えずにいると、銀千代は小さく息をついてから、「あの……」と躊躇いがちに続けた。
「あなたが、ゆーくん、ですか?」
長いまつげに艶っぽい唇。白雪のような肌に、スッと通った鼻筋。普段と同じ、見た目はいつも通りの銀千代だが、纏った雰囲気は別人のそれだった。
「……」
変貌に俺は言葉を紡げずにいた。まさか、ほんとうに忘れるとは。
「宇田川太一……さん、ですよね」
銀千代は俺の名前を呼んで、たどたどしく続けた。
「私の、部屋にあなたの写真がたくさん貼られていました。その、まったく覚えていないのですが、私は【ゆーくん】という人が好きだったみたいです。それはもう偏執的に」
こんなに落ち着いた銀千代を見るのは、ずいぶんと久しぶりだ。
「だけど、あなたの名前には【ゆ】の文字が入っていません。どうして、【ゆーくん】と呼ばれていたんですか?」
幼稚園のとき、漢字が書けず中途半端に【太】の字をカタカナで書いたのだ。
タ一。
それをみた銀千代が鼻で笑って、「これじゃ夕一じゃない、一も汚くて読めないし、伸ばし棒みたいだから【ゆー】ね」とそんな話の流れだった気がするが、あんまり覚えていない。
なにも言えずにいる俺に銀千代は戸惑ったように、
「も、もしかして、違いましたか? すみません、私、本当に【ゆーくん】が誰だかわからないんです。それ以外のことは、……わかるのに」
と額を軽く押さえた。
「……」
騙されるなと心が警鐘を鳴らす。
いままで色んなパターンで俺を謀ってきた女だ。この程度のことに心を動かされるわけにはいかない、と瞬時に判断、
「さぁ、どうだろうな」
とだけ返事をして、席についた。
「違うん、ですか。そうですか」
彼女は少し残念そうに俯いた。
「それじゃあ、なんで私の部屋にあんなにたくさん写真が貼ってあったのでしょう……」
俺が聞きたい。
何とも言えない空気が流れる。気まずいな、と思い、机に突っ伏して寝たフリしようかと考えていたら、
「おは」
と声をかけられた。顔をあげると雑司ヶ谷くんが立っていた。背が高く、スラッとした男子生徒だ。
「あ、おはよう」
「ここの席、俺だぜ」
なんでもないことのように鞄を机の上に置かれる、イジメか? と戸惑っていると、「ああ」と雑司ヶ谷くんは合点がいったように頷いてから続けた。
「昨日休みだったっけ。席替えがあったんだよ。宇田川の席は……たしか、そこ」
指差されたのは同じ列の一番後ろの超当たり席だった。
「ああ、そうなんだ。ごめん。いまどくよ」
「ゆっくりでいいぜ。つか、怪我まじで酷そうだな、階段で転けたんだって? 大丈夫か?」
雑司ヶ谷くんは心配そうに声をかけてくれた。
「腕、折れてんだろ? 鞄持つよ」
「ありがとう」
かけられていた鞄を親切に持ってくれて、俺の新しい席まで運んでくれた。
去り際、
「金守さんの隣、もらったから」とニヤリと微笑んで戻って行った。
別にどうでもいいが、銀千代は席替えしても、前と同じ席だったのだろうか。そういうやつたまにいるよね。
放課後になった。ここまで平穏に満ちた学園生活ははじめてだった。
性格が豹変した銀千代に、クラスメートの大多数は戸惑っていたが、常に笑顔を絶やさずにいる彼女に、いつの間にか魅了されているようだった。銀千代がおかしくなるのは往々にして【ゆーくん】絡みのときなので、俺のことを忘れたのであれば、いまの銀千代が本来の姿になるのだろう。明るく社交的なアイドルしている同級生だ。
昼休みの時は鈴木くんに「どういうことだよ!」と怒鳴られたが、「やっぱ芋洗坂の筆頭は黒髪ロング清楚系に限るよな」と放課後には意見が百八十度変わっていた。
ホームルームが終わり、チャイムが鳴った。
帰宅部の本領発揮である。即刻帰宅しようと席を立ち上がり、後方のドアから出ようとしたとき、
「待って!」
と呼び止められた。
振り返ると銀千代が立っていた。
「なんだよ」
「あの、私、これから撮影があるんで、あまり時間が無いんですけど、ちょっとだけ、お話しませんか?」
一部の記憶を失ったとしても、仕事に関しては問題なくこなせているらしい。どういう状態なのだろうか。母さんの話によると病院には行ったらしいが。
「ダメ……ですか?」
「別にいいけど」
「ありがとうございます! 歩きながら話しましょう」
銀千代が横に立って歩き出す。日常風景だが、歩き方が違うので違和感だ。いつも引っ付いてこようとするのに、今日はそれがない。
「私が一昨日、気を失う前に確かに存在した【ゆーくん】についてお聞きしたいです」
銀千代はどこか緊張した面持ちで続けた。
「ずばり聞きます。ゆーくんとは誰なんですか?」
廊下の喧騒が吹き飛ぶくらい明瞭ではっきりとした質問だった。一瞬なんて返そうか迷ったが、嘘をつく理由もない。
「お前が付きまとってたのは俺だよ」
「やはりそうですか。そうですよね。そうだと思うんですが、その、なんでしょうか」
「なに?」
「ときめかないんです」
「は?」
「いまのあなたは、過去の私が残した記録でみる【ゆーくん】と一致しないんです。どういうことですか?」
それはこちらの台詞である。
怪訝な顔をする俺に銀千代は俯きがちに鞄から辞書を取り出して掲げた。
「これは一昨日までの私が残していた日記です」
「日記……?」
よくよくみると表紙にdiaryと書いてある。
とてつもなく分厚い本を、彼女は立ち止まって開き、
「一部読み上げます。こほん」
と軽く咳払いしてから、続けた。仕方ないので俺も歩みを止める。
「四月二十五日。今日はゆーくんと放課後ランデブー。銀千代が「好きだよ」っていうとゆーくんも「俺もだよ」って返事してくれた。えへへ。嬉しいな。だけどね、たまに暗い表情するから、えーなんだろ、大丈夫? って聞いたら、銀千代が好きすぎて困ってるんだって。モォウバカバカ! 不安にさせないでよ! お互い好き過ぎなのはおんなじだね。このままずっと二人だけで幸せに暮らせれば、他にはなにもいらないのにね。帰りは二人でラーメン食べたよ。味噌ラーメンの美味しいところ。太らないように気を付けなきゃって言うと「ちょっとポチャッてもかわいいよ」って言ってくれた。ゆーくん銀千代好きすぎてすぐ甘やかしちゃうんだから! 自分磨き怠らないようにしなくちゃ。頑張ってゆーくんのために可愛くなるよ。今日はとっても楽しかったね。明日はもっと楽しくなるよね、ゆーくん!」
なにを聞かされてるんだ。俺は。
吐き気がしてきた。
妄想の夢日記だ。
「……以上です」
過去の自分の文章なのに、恥ずかしそうに銀千代は顔を赤くし、パタンと日記を閉じた。
「今日一日あなたを観察しましたが、この日記に出てくるような性格は、していないように見えました」
「だろうね」
銀千代は鞄に日記を戻してからゆっくりと歩き始めた。
「だから、率直にお聞きします。ほんとうにあなたは【ゆーくん】なのですか?」
なにそれ。ゆーくんって概念的存在になったの?
「ゆーくん、ゆーくん、って、しつこく引っ付かれたのは俺だな。だいぶ妄想を拗らせてたような気はするけど」
なんて答えたらいいのかわからなかったので、事実のみを伝えることにした。
「……なるほど……。そういうこともあり得るのですね」
苦虫を噛み潰したような表情で彼女は曖昧に頷いた。
「私は、あなたを愛していたんですね」
「……」
過去形だった。
なんかちょっと嫌だった。
下駄箱についた。ローファーに履き替えながら銀千代は蚊の鳴くような声で、
「あの、迷惑でしたか?」
と何かにすがるような物悲しい表情で尋ねてきた。
「正直言おう」
小さく息を吸い込んでから続ける。
「盗撮や盗聴、監視や監禁、迷惑じゃなかったといえば嘘になる」
「……なんの話ですか?」
過去の悪行の話である。
「俺がされたことだよ」
「ま、まさか。そんな酷いこと私がするはずありません。人のプライバシーを踏みにじるような、デリカシーのないこと……」
「したんだよ」
かまととぶりやがって。
「に……日記には一言もそんな事……書かれて」
「裁判で不利になるような証拠は残さないのが金守銀千代という女だ」
「……たしかにおかしいとは思ったんです。遠くにいる【ゆーくん】の様子を完全に把握しているような描写がいくつもあるんで……でも日記には【愛の力】とだけ書かれていたから、そういうのあるんだなって思っていたのに……」
「あるわけねぇだろ」
「そう、ですか……」
それから無言でエントランスのガラス扉を抜け、校門前で別れた。
やはり本調子ではないらしい。少しだけ元気無さそうだったので「記憶が戻るまで休めば?」と声をかけたら「私事で仕事に穴を開けるわけにはいきません」と力無く微笑んでタクシーに乗っていった。なんて人間できたやつだ。過去の銀千代に聞かせてあげたい。
とりあえず、いつもの「今日の銀千代のこれからの予定お伝えコーナー」が開かれることはなかったので、スムーズに解散することができた。毎日これぐらいの時間に帰れれば幸せなのに。
そういえば今年の五月のゴールデンウィークにも、銀千代が精神的におかしくなったことがあったなぁ、と思い出した。
あのときと同じ精神科医にかかっているのだろうか。セカンド・オピニオン手配したほうがいいような気がする。
母さんの話によると普通にしていればそのうち元に戻ると説明されたと言っていたが、銀千代の普通の状態って今なんじゃないだろうか、とぼんやりと考えた。俺に付きまとってるときは常軌を逸してたし。
「……」
戯れ言だ。




