第37話:九月に君が死ぬ前に 後
それにしても今日は本当に珍しい。
銀千代がここまで俺に関与しない日が今だかつてあっただろうか?
少なくとも高校に上がってからは一日として、ないだろう。
もし、時間を繰り返せるなら、俺は今日一日を延々と過ごしたい、と思いながら、曲がり角を曲がったところ、道の真ん中に男が立っていた。
陽射しが強いので、男の影も濃くなってのびている。
このくそ暑いのに、長袖長ズボンだ。
見るからにやばそうな雰囲気。
隅によって、さっさと通りすぎようと歩みを進めたら、
「まて」
と声をかけられた。
思わず振り向く。
「ゆーくん、だな?」
今日は知らない人からよく声をかけられる日だ。怒気のこもった問いかけに返事をするのは危ういと判断し、無視して通りすぎようとしたが、腕を強く引っ張ら、
「痛っえ!」
勢いに負けて、尻餅ついてしまう。
俺に覆い被さるように男が馬乗りになる。
「ゆーくん、だな?」
「い、いえ」
やばい目をしている。
焦点の合わない瞳。ドブ川の臭いのような呼気。
思い出した、こいつ、
去年の五月に逮捕された銀千代のストーカーだ。
「お前はゆーくんだ」
違うって言ってんだろ!
「そして、僕がゆーくんになる!」
「!?」
「お前を食べる。ゆーくんになる」
「なるわけねぇだろ!」
猩々かよ、と声をあげる前に、戦慄した。男の手にゴツいアーミーナイフが有ったからだ。切っ先が鈍く光る。
嘘だろ。
こいつには洒落が通じそうにない。
総毛立つ。血が凍る。耳鳴りのような蝉時雨が、心臓の鼓動に飲まれていく。
死。
生まれて始めて意識した。
数秒後に迫り来る痛みに耐えるため、いや、現実から、文字通り目をそらすため、俺は固く瞼をつむった。
「サマーソルト、キックぅ!」
ドガン、と音がして、思わず閉じていた目を開けると、きれいな夕日に染まる茜空が視界に広がった。
軽くなった上半身を起こし、状況を正確に理解する。
突如現れた暴漢を、これまた突如現れた銀千代が撃退したのだ。
ふわりと軽く地面に着地した銀千代はファイティングポーズをとる。
「ゆーくん、ごめんなさい、遅くなって、あとは任せて!」
口早に言うと、銀千代は走り出していた。ブロック塀を背に昏倒する男に向かい大きく飛び上がる。
「銀ちゃん、ぼぼぼぼぼくは……」
呂律の回らない男の頭頂部に銀千代は、
「粗砕!!!!」
「ぶべっ!!」
強烈過ぎるかかと落としをお見舞いした。
鈍器をぶつけたような音が辺りに響いたが、直ぐにセミの声にかきけされた。
どさりと男が倒れる。
「ふぅ……」
さすがに疲れたのだろうか、銀千代がその場にへたれこんだ。
「あ、あり……」
お礼を言うためにがくがくの膝と腰に渇を入れ、立ち上がる。
「ん?」
俺の足元に紙切れが転がっていた。
ちらりと視界に写った不穏な文字列に、思わず紙切れを拾い上げる。
「これ……」
・前提→成田空港に行かず。ポールが町に来る。スーパーにエナジードリンクを買いにいく。
・エスカレーターで転倒事故→ポールが取材の人の足止めをしてくれる
・図書館で展示物落下事故→取材陣の足止めを三秒以内に
・図書館での六法全書→早朝ルナに電話をすることでゆーくんと遭遇させる
・横断歩道でのニトントラック→ポールが止める
・帰り道の居眠り運転→エナジードリンクを運送会社に送る
・電柱工事のおじさん→エナジードリンクを工事会社に送る
・外壁工事の落下事故→エナジードリンクを施工会社に送る
・不審者→コンカッセ
「なんだこれ……」
「ゆーくん、大丈夫、ケガない? あっ」
こちらこに向かい駆け寄ってきた銀千代は、俺の右手にあるメモを認めて、言葉を失った。
「読んじゃった……?」
「お前これなんだよ」
書かれている点のあとの出来事、身に覚えがないことも多々あるが、ほとんど経験したことだ。まさか、こいつ、
「一日中俺のことつけてたのか?」
「え……」
「まあ、いつも通りといえばいつも通りか」
いまさら気にするようなことではないかと思い直す。
「ち、違うよ、ゆーくん、つけてないよ! 今日はほんとバタバタしてて……」
銀千代が顔の前で右手をブンブンと内輪のように左右に動かす。
「ん?」
手の甲にマジックで数字が書かれていた。
343。
「お前、まさか……」
「はっ!」
銀千代は慌てて後ろ手にした。
手の甲に数字を書く理由なんて、そうそう思い付かない。なにかのパスワードか? でも三桁の暗証番号なんてあるだろうか? 違うとしたらなにかを数えるためか?
なにを? いや、まさか、そんな、ばかな。
「繰り返してるのか、今日を……?」
「……」
「タイムリープ、ってコト?」
「……」
銀千代はなにも言わない。
くっ、なんだこの、気まずさ。
そのあと銀千代が教えてくれた。
俺が九月四日に死んでしまうこと。
ジェリービーンズの効果で過去に戻って、何度も俺を助けようとしたが、何かしらの要因でいつも俺が死んでしまうと言うこと。
銀千代はよくわからない計算式で今日さえ越えれば俺の命が助かることを突き止め、そのために三百回以上タイムスリップを繰り返しているのだという。
着実に死を回避し続け、ようやくここまで来たのだと涙ながらに教えてくれた。
「銀千代、俺は、どうしたらいい?」
俺は死にたくなかった。
別に生きてやりたいことはなかったが、死ぬのはただ怖かった、だから、何度も俺を救うために奮闘しているらしい銀千代に助けを求めた。
「大丈夫、安心して。ゆーくんは死なないわ、銀千代が守るから」
よって、俺はいま、銀千代の部屋で、守られるように、彼女に優しく抱擁され、毛布にくるまっていた。
「……くっ」
震えがガタガタと起こる。
死にたくない。逝きたくない。
なんとか今日を乗りきって、俺はいつものようにゲームがしたい。
俺の震えを優しく抑えるように、銀千代が背中から抱きついた。
「怖くない……怖くない……」
「……!」
温もり、柔かな感触、背中にそれらが触れ、確かな安心感が俺を全身を駆け巡った。俺はまだ生きている。
と、確かな生を実感した、瞬間だった。
床に放置されていた銀千代のスマホがバイブで震えた。メールが着信したらしい。設定を切り忘れていたからか、画面に軽く文面が表示される。
『月見里月(危険度E)
件名:任務達成
本文:約束の口座に入金よろしく』
「……」
「……あ」
「……」
ゆっくりと横を向く。超至近距離に銀千代の顔があった。可愛い。目が大きくて、鼻筋が通ってて、肌がきめ細かい。一瞬意識が持ってかれそうになったが、ぐっとこらえる。銀千代が目を閉じて唇を尖らせてきた。無視して立ち上がる。
「わっ」
銀千代がこてんと転がる。
危ない。誤魔化されるところだった。
「き、きゅうに、立つなんて、酷いよゆーくん」
「お前、騙したな」
「なんのこと?」
「大方、占い研究部の部長とポールに演技するようにいったんだろ?」
「違うよ、ゆーくん」
「あ?」
「月は卒業生だから占い研究部の元部長だよ」
「そこはどうでもいいわ! よくも騙したアアアア!! 騙してくれたなアアアアア!!」
「……ううん、ゆーくん」
銀千代は俺の激昂を優しく微笑みで受けると、ゆっくりと立ち上がって、時計を指差した。
「世界線変わったよ」
「は?」
「銀千代はね、ゆーくんが生きていれば、それでいいの」
「……」
くっ、なんだこの腑に落ちない感じ。
結局彼女が嘘ついているのかよくわからなくて、こういう感じの笑顔で応対されると、嘘でも本当でも『無事でよかった』感を出されて、どちらにせよ負けたような気がする。
って、いや、まてまて、落ち着け、過去は変えられないって。
なに一瞬タイムスリップ信じちゃってんだ、俺。
「帰る!」
「うん。気をつけてね。送っていくね」
「ほっとけ!」
帰ってゲームして寝よう。
生きるとか死ぬとか、そういうのはフィクションの世界だけで充分だ。
やれやれ。
「……」
なんか忘れてる気がするが、まあ、いいか。
この時、俺は、薄く粘っこくまとわりつく、不安感の原因をきちんと考えるべきだったのだ。
週明け、数学の宿題を忘れたことを思い出し、死ぬことになる前に、ちゃんと思い出してさえいれば。
後悔しても、もう、遅い。