第5話:三月は深い眠りから 後
数年前、たしか小学四年生ぐらいの頃の話だ。
隣家の金守家との近所付き合いは極めて良好だったが、
「愚蒙が移るから話しかけないでちょうだい」
末娘の銀千代と俺の仲は険悪だった。
プライドが高く、自分にも他者にも厳しい銀千代にとって、幼なじみにも関わらず低知能の俺が嫌いだったのだろう。
どちらが優秀なんかは一目瞭然だったが、唯一の比較対照の俺のレベルが低すぎて、イラついていたのだろう。
小学校に入学する頃には因数分解を完全に理解していた彼女に、指を使って辛うじて一桁の足し算ができるぐらいの俺が敵うはずもない。
「こんなことも出来ないの? ノータリンね」
これが彼女の口癖だった。
小学校に入学しても、彼女の相手になるやつなんておらず、銀千代は予定調和のように孤立した。幼い少女には、周りが全員愚図に見えていたのだろう。
「貴方たちみたいな有象無象と足並みを揃えていたら、私の進化が阻害されるわ」
仲間の輪に入れようと声をかけても、銀千代は分厚い本から一切目線を外すことはなかった。
入学して四年、ずっとそんなかんじなので、当然友達なんてできるはずなく、話しかけるのは、教師か俺かぐらいなものだった。友達がいないことを心配した彼女の母親に頼まれ、用もないのに挨拶程度に声かけていただけの話である。
そんな銀千代との関係に転機が訪れたのは五年生に上がる前の春であった。
「あいつの父親、女子高生買ってたらしいぜ」
県立病院の医師だった銀千代の父親が、児童買春で起訴された。
SNSで知り合った当時十七歳だった女子高生に現金二万円を渡して、県境のラブホテルで如何わしい行為をした、とのこと。
センセーショナルなニュースが小さな町内を駆け巡るのに時間はかからず、娘の銀千代にも飛び火した。
普段から彼女をいけ好かないと思っていた連中は、ここぞとばかりに叩いた。
「変態の娘!」
隣のクラスの生徒がわざわざ来て、銀千代を指差して笑った。
表向きは普段通りで、気丈に振る舞っていた銀千代も、いわれのない誹謗中傷にさすがに限界が近づいていたらしい。
ある日の放課後、銀千代が、窓辺で沈む夕日を見ながら、ポケッーと突っ立っていたので声をかけたことがある。
「帰らないの?」
たまたま俺は日直で、教室内の施錠を任されており、クラスメートに残られると迷惑だったのだ。
「帰っても、私には居場所なんかないもの」
泣き出しそうな顔でポツリと言った。
聞けば、親父さんの不貞が原因で、夫婦仲が険悪になっていたらしい。当然と言えば当然だが、離婚の危機だったという。
「居場所とかどうでもいいから、早く帰ろうぜ。俺んちでスマブラでもやろう」
何て言ったか覚えていないが、そんな感じのことを言って、無理やり彼女を教室の外に連れて出した。教室の鍵を閉めて、早く帰りたかったのだ。
「なんで私が貴方と肩を並べてピコピコをやらないといけないのよ。そんなんで私の鬱屈とした感情が誤魔化される道理はないわ」
と唇を尖らせた銀千代と肩を並べてゲームをし、何だかんだで楽しんだあと、家の玄関まで彼女を送って行った時、
怒号がした。
外まで響くような怒鳴り声だった。
ビックリして銀千代を見ると、硬直していた。
「最近、ずっとこうなの……」
俺の両親が心配していた事を思い出して、とりあえず俺はチャイムを押した。
黄昏時の住宅街に梅の花の香りが漂っていた。
しばらくして、親父さんが顔を出した。
件の騒動に関しては、弁護士を通じて示談にしたらしいが、今はやつれ、目の下にクマを作っていた。
恰幅がよく、笑い上戸だったかつてのイメージはない。
「ああ……」
俺と銀千代を認めて親父さんは浅くため息をつき、
「来い」
と短く少女に声をかけた。
銀千代は「はい」と小さく頷いて、父親のもとへ小走りで向かった。
所在無げな彼女のシルエットが扉の向こう側に消え、俺はただ呆然と灯りが消えた軒先を眺めていた。
翌日の教室、彼女は頬に青あざを作っていた。
どうしたのか尋ねたが「なんでもない」と淡白に返事をされた。
「そういや、今日誕生日だな」
机の横のホックにランドセルを引っ掻けながら呟くように言うと、銀千代は不機嫌そうに唇を尖らせた。
「なんで貴方が私の誕生日を知ってるのよ」
「今日は俺の誕生日でもあるからだ」
特にお互いの誕生日を祝い合うという慣習は無かったが、前日のこともあったので、俺は銀千代に「お誕生日おめでとう」と声をかけた。
「べつに貴方に祝ってほしくなんかないわ」
と舌打ち混じりに答えた。
「素直にありがとうっていえばいいのに」
ムッとして俺も言い返すと、銀千代は無言でそっぽを向いた。
平穏に終わりの会が終わり、放課後に入る前、いつもの通り、班ごとに別れて各所の掃除を行うことになっていた。俺の班の週担当は『無し』だったので、早々にランドセルを背負い、サッカーボールを体育倉庫から取り出すため、教室をあとにしようとしたところ、
「下衆!」
教室の中心で、銀千代がお調子者の男子生徒を叩いていた。
詳細は見ていないが、どうせまた心無い悪口を受けたのだろう。
叩かれた男子は面食らったように呆然としていたが、
「……私に話しかけないで」
銀千代が冷たく言い放ち、自在箒で床を掃き始めたので、ゆっくりと教室はいつもの時間を取り戻し始めていた。
俺は無心で体育倉庫に向かって走った。
サッカーボールの競争率高く、早めに確保しないと、遊べないからだ。
雨の上がった校庭で友達とサッカーをして、泥だらけの服装で帰宅の途につく。
隣家の玄関前で銀千代が三角座りをして膝に顔を埋めていた。
「なにしてんの? ケツ濡れない?」
話しかけると顔もあげずに、「べつに」と返事をされた。金守家からは金切り声と男の怒鳴り声が重なりあっている。
「家居づらいのか?」
「……」
「なあ、腹減らない?」
「え?」
友達から誕生日プレゼントと称して地域振興券五百円分を貰っていたので、懐には余裕があった。
俺は落ち込んだ少女を誘って、シャッターが降りかけた商店街に繰り出し、駄菓子屋でお菓子を大量に購入した。
ラムネやさくらんぼ飴にきな粉棒……。
近くの神社の屋根の下で駄菓子をわけあい、ささやかな誕生日パーティーを開いた。
雨に濡れた草と土の臭いが心地よかった。
普段は大人びてクールな銀千代だが、心細いという感情もあってか、自分の悩みをつらつらと俺に語ってくれた。
「このままでは両親は離婚してしまう」
うまい棒を咥え、物憂げに呟く。
銀千代の瞳には涙が滲んでいた。
「……二人の関係だし、愛がなくなったというなら仕方がないことだと思うの。父様のしたことは世間的にも許されないし、ましてや妻子ある身にも関わらず未成年に手を出すなんて、反吐が出る」
銀千代の発言は大人そのもので、半分以上も意味が理解できなかったので、俺は曖昧に頷いた。
「事情はともかく、銀千代はどうしたいんだ?」
「どうっ、て……それは、二人がお互いに幸福だと思える道を歩めるのが一番よ」
「そうじゃなくて、銀千代がどうしてほしいかちゃんと言うべきだと思うよ」
「私が……」
手に持っていた空になったうまい棒の包装紙を丁寧に折り畳みながら彼女は恐る恐る呟いた。
「私は、私は、二人に別れてほしくない。私は、どんなに最低な行為をしたとしても、父様が父様でいてほしい。優しくてかっこよくて頼れる町のお医者様のお父様が、好きだから」
「なら、それを伝えるべきだろ」
ハッとした表情をして、彼女は涙目で頷いた。
少しだけ晴れやかな顔になって彼女は俺に向かって薄く微笑んだあと、照れたように頬を赤らめた。
「か、勘違いしないで。私がこの程度のことで貴方みたいな無知蒙昧に好意を持つと思ったら大間違いよ」
なにを言っているのかわからなかったが、ぼちぼち俺は家に帰りたかったので、
「でもお前ももっと素直になるべきだと思うよ」
なんてテキトーに返事をした。
「素直? でも私、こんな性格だし……」
「自分の生きたいように生きろよ。我慢なんてするなよ。頭の良いお前が素直になれば無敵だよ」
「……やってみる」
銀千代が小さく決心したとき、俺たちは懐中電灯の眩しい光に照らされた。巡回中の警察官だった。どうやらあまりにも帰りが遅い俺と銀千代は、町ぐるみで捜索されていたらしい。
気付けば辺りはすっかり暗くなっていた。春はまだ遠い。
俺はこっぴどく両親にしかられ、少ししょっぱいショートケーキを食べた。
次の日。
「ゆーくん好き好きぃ!」
「な、なにがあった!?」
登校すると同時に知能指数を五十ぐらい落としたアホ面の金守銀千代に抱きつかれた。
教室中が水を打ったように静まり返る。
昨日までの才色兼備の美少女がいきなりアホみたいなことを言い始めたので、誰もが閉口していた。
「あのね。父様と母様に別れないで、仲良くしてってお願いしたら、よりを戻してくれたの。ゆーくんのアドバイス通りにしたら上手くいったんだ。だから銀千代は素直に生きることに決めたの。もう仮面を被るの止めたの。ゆーくん好き好き大好き超愛してる!」
「お、おう、そうか。それは良かったな」
あまりの豹変に俺は言葉を失い、曖昧に頷くのが限界だった。
激変っぷりに、いままで彼女を白眼視していたクラスメートも唖然として言葉を失っていた。
精神的に追い詰めすぎた自分達の責任ではないかと、不登校になる生徒が出たほどだったが、
「ゆーくん、結婚しようー!」
本来の性格に戻っただけなのだろう。それはそれで異常だが。
眠りを切り裂くようにアラーム音が鼓膜を震わせた。
「……」
カーテンの隙間から朝日が射し込んでいる。目を覚まし、しばらくベッドで呆然とする。
十五才になったばかりの俺は同い年の少女に誕生日プレゼントを買うのを忘れていたことを思いだし、
「そうだ、あいつにもおめでとうって言わないとな」
なんとなしに呟いた。
「ありがとう!」
ベッドの下から声がした。
まるで成長していない……。
「……」
聞かなかったことにして、ベッドから這い出し、間もなく訪れる高校生活こそは、まっとうな青春を歩むと、窓の外の桜の木に誓いを立てた。