第35話:八月の海辺、凪の向こう 中
海水で肌がべたつくし、こないだの台風で波は高いし、海に浸かるのは正直いやだ。
まあ、足首くらいまでなら悪くないかなぁ、とシートから立ち上がろうとしたら、
「え、あれ、芋洗の銀ちゃんじゃね?」
ビーチがざわめき始めた。
芋洗……とは銀千代が所属しているアイドルグループだ。
すっかり忘れていたが、銀千代は芸能人だ。
これだけたくさんいる観光客、所属する芋洗坂39のファンがいないはずかない。潮騒のように広がった波紋が、ビーチにいる人たちに伝播する。
「え、やばっ!」
全員がいつのまにか手にスマホを持っていた。どこから取り出したのだろうと混乱する俺を尻目に、示し会わせたように『ピコン』と録画開始の音が響く。
銀千代は眉間にシワよせて、
「どうしようゆーくん。世間一般の皆さんにバレちゃった」と照れ笑いを浮かべた。
こいつ、もしかして計算してたんじゃないだろうな。
考えろ。
とりあえず他人を装おうと銀千代から距離を取ったが、
「まっ、いいか! 見せつけちゃおう!」
時すでに遅し。彼女は、パラソルの下で動けずにいた俺に手を差しのべた。
「え、あれ、カレシか? やばくね?」
「あの男誰だよ。死ねよ」
「ほんものかな。銀ちゃんだよね」
「水着エロ!」
さまざまな憶測がビーチを飛び交う。
困ったことになった。
「気にせず遊ぼう」とか言ってるが、同調圧力による既成事実を手にいれようとしているのだろう。なんていうことだ。不味いことになった。
動けずにいる俺に銀千代が尚も手を差し出してくる。受けとれば全てが終わる。いまならまだギリ他人のフリができるはずだ。
せめて銀千代のキャリアを傷付けないように、と思慮する俺を無視するように銀千代が俺の手首を掴んだ。「わぁ」と浜辺に歓声があがる。はい、終わり。
「けっきょく来たんかい。散々行かないとか言っておいて」
ふと声をかけられて、顔をあげると、野次馬の向こうに鈴木くんがいた。
「あ……」
「え、てか、銀ちゃん!? 水着!? エッ」
ザワァ、と鈴木くんの後ろのクラスメートたちがざわめいた。
花ケ崎さんが言ってた冷やかしに来たクラスのメンバーがたまたま浜にいたのだろう。
「やば! 写真集でも水着なかったのに!」
鈴木くんが興奮したように叫ぶ。同級生の女子はみんな引いていた。キミはそれでいいのか?
「なんだ学校行事か」とスキャンダルを期待していた下世話な野次馬がスマホをしまいはじめる。
一部の人たちは気にせずに撮影を続けていたが、そのうち飽きるだろう。なぜなら彼らは純粋に海を楽しみに来た人たちだからだ。
「みんなでビーチバレーするから来いよ」
と鈴木くんが俺たちに手招きをした。
「むっ」
すこしだけ残念そうな銀千代には悪いが、ここでみんなと合流できたのは素直にありがたい。
青春の一ページを刻むべく俺は駆け出した。
ビーチバレーは普通に楽しかったが、野次馬が俺たちを取り囲むので恥ずかしかった。鈴木くんは「コミケの囲いのようだ」と誇らしげだったが、なに言っているのかわからなかった。
それにしても、同級生の女子の水着は刺激的である。花ケ崎さんが言っていたように、クラスメートの半数以上が来ているので、いつもの制服とは違う姿にちょっとドキドキしてしまった。特に驚いたのは、武藤さんが意外と胸が大き……、
「ぐっ」
「ごめん、ゆーくん」
顔面にボールが当たった。
息で膨らませるようなビニールのボールなので痛みはないが、直撃だと腹が立つ。飛んできた方を見ると向かいのコートの銀千代が能面のような無表情で俺を見ていた。
「……」
「はやくボール取りに行けよ」
「お、おう」
鈴木くんに言われて、慌てて駆け出す。銀千代のやつ、異様に黒目が大きかった。生物の授業で明るい場所では黒目は縮むって習ったのに例外はあるんだなぁ、と転がったボールを追いかける。
同い年くらいの女の子が拾ってくれ、「はい」とボールを差し出してくれた。
「あ、ありがとうございます」
お礼を言って受けとる。
「あ、やっぱ、そうだ」
少女が微笑む。
タレ目だが、かわいらしい愛嬌のある笑顔。どこかで見たことある、この顔。
「え、あれ、ひょっとして、桜井さん?」
「久しぶり! すごい偶然だね!」
中学の同級生の桜井華南だった。
昔はロングだったけど、今は黒髪ショートになっている。相変わらず美人だ。それに加えてここは海、桜井さんは水着を着ていた。また著しく成長されたらしい。思わず手を合わせたくなった。あなたが神か。
神が遠くを見据えるように目を細めた。
「あ、金守さんも一緒なんだ……」
「まあ、同じ学校だしね」
「……今日はクラスの人たちと旅行に来たの?」
「うん、そんなと、ぐっ!!」
顔面にボールが飛んできた。
ボスンとビーチに二個目のボールが落ちる。
「ゆーくん、はやくボールとってきてくれないと試合再開できないよ。みんなイライラしてるよ。早く」
また銀千代だった。ボールがもう一個あるなら試合できるだろ、と思ったが、流れを止めているのは確かなので、お礼を言って踵を返そうとしたとき、「この辺に泊まってるの?」と声を潜めて桜井さんが訊いてきた。
「え、うん」と小さく首肯したら、「よかったら十六時に白山泊の駐車場に来てくれない? 久しぶりだし、ちょっと話そうよ」と声をかけられた。
「あ、わかった」勢いに押され、頷いてしまう。
桜井さんはにっこり笑うと、
「会えて嬉しかった。じゃね!」
と、手を振って、仲間たちのもとへ駆けていった。桜井さんの仲間たちはみんな美人で水着を着ていた。可愛い子の友達はみんな可愛い。そうか日本には八百万の神がいるのか。海に来て良かった。はじめて心の底から神にいの……、
「ぐっ!」
「ゆーくん、早く来てくれないとゲームが再開できないよ。闇のゲームの始まりだよ」
またボールをぶつけられた。三つもあるなら一つくらいなくても良かっただろ、と思ったが、俺は無言でボールを持ってコートに戻った。
十六時時まで、あと四時間。
波のまにまに思いを馳せる。
ひょっとして、告白だろうか?
いや、会うのもかなり久しぶりだからそれはないだろう、いや、まさか、でも、確率はゼロじゃ、
「ぐっ! 」
そんなことよりお昼食べてないからお腹へった。
それからしばらく、浜場でスイカ割りしたり、浮き輪でプカプカしたり、みんなで海でグダグダしたが、空腹が限界になったので、一旦宿に戻ることになった。海の家は、ご時世的にやっていなかったのだ。
正直、食堂のカレーライスの味は普通だったが、空腹が極上のスパイスになっているからか、めちゃくちゃ旨く感じた。
ライスとルーを狂ったように口に運んでいると、金音が困ったようにこちらにやって来て、
後頭部をかきながら、
「ばれちゃいました」
と、呟いた。
「なにが?」
と訊ねると、
「替え玉」と返事をもらった。銀千代が小さく「未熟者……」と呟いたが、正直仕方ないと思う。
「雇用契約とか色々とあるから、本人に来てほしいとオーナーが言ってます」
舌をべろりと出す。なんだそのベタなアクションは。
「むぅ。そうか……」
銀千代はカレーライスを口に運び、浅くため息をついた。
「どうしますか?」
「ゆーくんとイチャイチャできないのは残念だけど会えない時間が愛を育むともいうからね。ここは大人しく雇用契約に従うことにしようか」
銀千代は契約とか約束とかそういう言葉に弱いのだ。もっとも完全に守ることの方がすくないが。
「報告ありがとう。金音はそのままゆーくん監視の任務に戻って」
「はっ」
なんだその不穏な任務は。とツッコミをいれる前に、金音は忍者みたいな返事をして去っていった。
よくわからない状況に口を挟めずにいる俺に、銀千代は、
「というわけだから、ゆーくん。部屋から出ちゃダメだからね」
と、言い放った。
なにが、というわけだ。
「なんでだよ。せっかく海に来て水着も持ってきてるのに、引きこもれっていうのかよ」
「うん。そもそも緊急事態宣言下だからね。浮かれて海に来てる場合じゃないんだよ。国民一人一人が強い危機感を持って臨まないといけない段階に来てるんだよ」
「はぁ……?」
どの口が……!
「ともかく銀千代はこれから働かないと、だから。ゆーくんのためにいっぱいお金稼いでくるね」
なんで俺がヒモみたいになってるんだ。
「宿から出ちゃダメだよ。お外は危険がいっぱいだからね。自粛しないと。ウイルスだけじゃなくて、気温が三十五度を越えるし、高温多湿だから、熱中症注意アラートも出てるんだ。ゆーくんを守るためなの。わかって」
「わからねぇよ。大体さっき一緒に外出てたじゃねぇか。旅行に行ったら観光をちゃんとするってのが俺の信条なんだ。べつに外出るくらいいいだろ」
「ダメ。部屋にいて。はい、これ」
「なんだよ」
銀千代が鞄からなにかを取り出し、俺に差し出してきた。
「ゲームボーイ。この間中古ゲームショップ寄ったときに売ってたから買ってきたの」
「古すぎだろ……」
「やはり一流のゲーマーを名乗るなら古いやつも一通り経験しておかないとって思って。ソフトも入ってるから、宿でこれやって時間潰しておいて。スーパーマリオランド2、6つの金貨」
「別にゲーマー名乗ってないから」
「シフト通りなら夕飯前には戻るから、そしたらまた一緒にイチャイチャしよう。花火買ってきたんだ。えへ!」
遅い昼御飯を食べ終わったら銀千代はそのまま雑司ヶ谷くんのおじさんのところに向かった。散々サボってたのだからコッテリ叱られるがいい。
俺はというと一人で海にいく気もしないので、はからずも、銀千代の言葉に従う形になってしまった。
部屋に戻り、クーラーをつけて、ゲームボーイを始める。
「……」
あれ、なんか、スゲーしっくり来る。
至福のときだ。
「お茶です」
「ありがと」
先に部屋に戻っていた金音がほうじ茶を淹れてくれた。旅館のお茶ってなんか美味しく感じるから不思議だ。
そうこうしているうちに時間が過ぎた。
時計を見ると、十六時までもう少しである。
ステージ2もクリアしたしちょうどいい頃合いだろう。
ゲームボーイの電源を落とし、立ち上がる。
「どこ行くんですか?」
金音に声をかけられた。
「ちょっと散歩してくる。ゲームボーイの電池が無くなりそうなんだ。コンビニとか……」
てきとーに誤魔化そうとする俺に金音は可笑しそうに微笑んだ。
「嘘はつかないで大丈夫ですよ。銀千代ちゃんからキチンと引き継いでます」
「なにが?」
「ビーチに桜井華南さんがいたそうですね」
空気がビリついた。やましいことはなにもしていないはずなのに。
なんだかヤバイ雰囲気だ。
「なんでお前が知ってるんだ」
「引き継いだ言ってるじゃないですか」
金音は読んでいた文庫本をパタンと閉じて、俺をじっと見据えた。
「桜井華南。十六歳、牡牛座のB型。熊上高校二年三組。趣味は映画。ゆーくんに群がるメスの危険度はAランク。欲望の共依存ガス生命体アイレベル」
「雑な引き継ぎしてるな」
「ちなみに私の危険度はCです。この危険度が下がれば下がるほど、銀千代ちゃんから信頼されているということになります」
「俺がお前を信用してないから低いだけだろ」
にやりと金音は片頬をつり上げ、机の上に文庫本を置いた。ドグラマグラだった。
「それは聞き捨てならないですね。私はゆーくん様を信頼してますよ。お互い歩み寄りましょう」
「お前が俺になにしたか忘れたとは言わせねぇぞ」
薬盛られて拉致監禁されたのだ。冷静に考えたらガチの犯罪者だ。銀千代もだけど。
こいつだけは心を許してはならない。銀千代もだけど。
「まあまあ、過去は水に流してください。大切なのは今。ここから先は交渉です」
ちらりと金音は時計を見た。
「十六時に桜井さんと待ち合わせをしているようですね」
「そこまで知ってんのかよ」
「私は銀千代ちゃんからゆーくん様をけして待ち合わせ場所に向かわせることがないように仰せつかりました」
「つまり、お前は俺の妨害をするってわけだな」
「……」
金音は目をつぶって味わうように湯飲みのお茶を飲んだ。少し傾きかけた日差しが窓から射し込んでいる。つくつくぼうしが鳴いている。
「さて、どうすると思います?」
「は?」
「単純ですね。あなたも……銀千代ちゃんも」
少しだけ寂しそうに彼女は呟いた。
「私の危険度ランクはCなんですよ。上がるか下がるかはこれからの行動次第です」
金音はポケットからスマホのような物を取り出した。
「なんだよ、それ」
「通信抑止装置。通称、携帯ジャマー。通信機器の電波を抑制することができます。銀千代ちゃんがあらかじめ仕込んでいるであろう通信機の類いを無効化することができます」
「な、なんで、そんなことを……」
金音はその不穏な機械を俺に差し出した。
「ゆーくん様、私は貴方の味方です」
「……」
「というのは建前」
でしょうね。
「もし、ゆーくん様が他の女性と結ばれたらどうなるか、考えてみてください。銀千代ちゃんはものすごく落ち込むはずです。もしかしたら相手の女性を殺しちゃうかも」
考えたくない。
「だけど、傷ついた彼女のそばにいれば、次の依存先として選んでくれる可能性は限りなく高いです。私はそれを狙っています。だから、ゆーくん様、私は貴方の恋を応援しているのです」
「別に、恋って、わけじゃないけど……」
「銀千代ちゃんには上手く伝えておきます。千載一遇のチャンスですよ。ここでの会話は携帯ジャマーによって銀千代ちゃんに伝わることはありません。私からこれを受けとれば、これからの会話が銀千代ちゃんに漏れることもないでしょう」
「……」
「さぁ」
アレがあれば地獄耳の銀千代を無効化することができるのだろうか。いつもどこかしらに盗聴機を仕込んでいる銀千代の呪縛を逃れるのに必要なアイテムだとしたら、喉から手が出るくらいに欲しいのは確かだ。だが、
「そんなものは、いらない」
「日和ましたか……。肝っ玉の小さい男ですね」
「違う。なんで旧友と会うのに妨害電波出す装置なんて持ってかないといけないんだよ。やましいことなんて一切してないのに」
「ふ」
金音は鼻で笑うと、
「ああ。成る程、確かにそうかもしれませんね」
と携帯ジャマーを懐に絞まった。
「旧友と会うのを止めるのは、いくら銀千代ちゃんの命令といえど、野暮、というもの。どうぞ私はなにもしませんので、ご自由に行動なさってください」
「そうさせてもらう」
こいつの腹の底は相変わらず見えない。背後でまたお茶をすする音がした。
とりあえず今は桜井さんとの約束を守らなきゃ。
スマホで待ち合わせ場所の駐車場を調べようとしたが、圏外になっていた。
「おい、それの電源を落とせ!」
携帯ジャマー、そんなものがあったのか。あとで注文しておこう。




