第5話:三月は深い眠りから 前
とても幸せな夢を見ていた。
幼なじみの女の子が、涙目で、はにかむ優しい夢だった。
いったいどこから俺たちの関係は歪になってしまったのだろう。合わない歯車が、軋みながら回転するように,俺たちは常にすれ違っている。
「ゆーくん、ゆーくん、起きて」
可愛らしい声とともに体を揺さぶられる。寝ぼけ眼で目を覚ますと、幼なじみの女子中学生が俺の名前を呼んでいた。
室内はほんのりと明るいが、まだ時間的には夜だろう。
ぼんやりとする視界をはらさそうと目を擦り、
「なんだよ……いま何時だよ……」
尋ねると、時報のように銀千代は答えた。
「午前5時43分21秒だよ」
「正気かよ……くそぅ、お前やりやがったな。……あれほど勝手に部屋に入るなって言っておいたのに」
「そんなことより、急がないと間に合わないよ」
そんなことですませられるか。と怒りが沸き上がるよりも先に、眠気が。
「ほら、はやく」
無理やり上体を起こされる。
「3、2、1、はい!」
ゾンビのようにうなだれながら、謎のカウントダウンの終わりを聞く。銀千代はパチパチと拍手した。静まり返った室内に乾いた拍手の音だけが響く。
「ゆーくん、お誕生日おめでとう!」
「……まじかよぉ……」
そのままバースディソングを歌い始める。無駄に美声なのが腹立つ。歌い終わってお礼を言うよりも先に俺は自然と呟いていた。
「今何時だと思ってんだよ……」
「午前5時43分57秒だよ。ちょうど十五年前にゆーくんが生まれたんだ。銀千代ね、この世にゆーくんを生まれさせてくれてありがとうって神様にいつも感謝してるんだ」
父と母に感謝してくれ。
朦朧とする意識のまま毛布を被ろうとしたら銀千代に止められた。
「もうちょっと待って、ほら、ゆーくん」
銀千代がカーテンを開けると、青ざめた血の空が広がって、いや、眠すぎてよくわからないことを言ってしまった。白ずんだ空だ。もうすぐ朝だ。鳥が鳴き始めている。
「なんなんだよぉ……」
眠すぎて怒鳴る気もしない。それほどまでに睡眠欲求がすごかった。
「ほら、綺麗な朝日だよ」
銀千代が囁くようにいうと同時に朝日がカーテンの隙間から俺の両目を射抜いた。ぐあああ。
「素敵な夜明け……十五年前も今日と同じぐらい快晴だったんだって。ゆーくんと銀千代の将来を祝福するように光輝いてるね」
うっとりとした表情で呟く銀千代。
曇りだった去年は「これからどんどんよくなってくる二人の未来を暗示したような天気だね」で、雨だった一昨年は「仲の良さに嫉妬してお天道様も悔し涙ながしてるね」だったことを俺は忘れない。くそっ、毎回誕生日に部屋に侵入してくるから、今年こそはと思って強化ガラスの保護フィルムと補助錠までつけたのに。
「あれ?」
開かれたカーテンの向こうの窓ガラス。たしかに閉じられている。鍵は閉まったままだ。
「ん?」
部屋の入り口のドアを見る。鍵はしまっている。
「んー?」
銀千代を見る。にこにこしている。
「あのさ。お前、どっから入ったの?」
「ドアからだよ」
銀千代は目をそらした。やましいことがある時こいつは俺の目を見られない癖があった。
「いや、ドア閉まってるじゃん。鍵どうしたの?」
「銀千代が入ったときは開いてたよ」
「いや、寝る前に絶対施錠したぞ」
指差し確認しながら、閉めていったから間違いない。
この部屋は完全に密室だった。
毎年迷惑な時間に誕生日を祝おうとする銀千代から逃れるための自衛手段だ。
「お前どうやって入った……」
「入り口からだよ。鍵は開いてたよ」
正直村の住人のように俺に対して嘘はつかない銀千代の弁を信じるならば、結論は一つだ。
「まさか俺より先にこの部屋に侵入して、隠れてたのか?」
「……」
「またベッドの下に隠れてたな!」
「……」
銀千代は無言で頷いた。
「だぁー! それやめろっていっただろ、こぇえんだよー!」
「サプライズ……」
「ただのホラーだから!」
ベッドの下からこんにちは、は通算二回目である。
「おまえ、まじでいつからこんなんになっちまったんだよ。昔はわりと普通だったじゃねぇか!」
頭を抱えながらうつ向くと、銀千代はきょとんとした顔のまま呟いた。
「普通って……どういう状態かわからないけど、銀千代は素直に生きているだけだよ。ただ好きなことは好きだって」
「伝え方をもう少し考えてくれっていってんだよ。早朝に起こされたらガンジーだってぶちギレるだろ」
「誰よりも早くおめでとうって、言いたくて……。ごめん、ゆーくん迷惑だったよね……」
殊勝な態度をすれば許されると思ってるところが腹立つ。
「もういいから帰ってくれ。俺は二度寝するから」
今日も授業がある。春休みにはまだ少し早い。
「うん、お休み」
銀千代はぺこりと頷いて、かがみこみ、そのまま、ベッドの下に潜り込もうとした。
「そこはお前の家じゃねぇよ!」
「あっ! ナチュラルに間違えてた! 銀千代にとってはセカンドハウスみたいなものだから」
「いいから、出ていけ」
「うん。また後でね。おやすみなさい」
窓を開けて、出ていく。少し冷たい空気が室内に吹き込んだ。銀千代はお向かいさんで、窓からよく出入りしていた。
夜明けの春風と共に、ようやく嵐が去り、穏やかさを取り戻す。
「ふぅ」
ため息をついて、毛布を鼻まであげて、目をつむる。すぐに寝入ることができた。
全身が溶けるように意識を失っていく。
ほんとにあいつはなんなのだろう。
怒りもやがて睡魔に塗りつぶされる。
窓の向こうの咲き始めた桜の蕾に思いを馳せているうちに、心地のよい夢が始まった。
夢と言う名の思い出だ。