第31話:七月六日は雨傘記念日
今日は朝から雨が振っていた。
登校が億劫になる空模様である。一夜漬けと低気圧のせいか、脳がしゃっきりと目覚めていない。
あくびしながら、ドアを開け、吹きすさぶ霧雨を顔面に浴びる。
「おはよう、ゆーくん」
「……おはよう」
「銀千代、傘忘れちゃった。いれて」
「……いま、取りに行けよ」
一緒に行く約束なんてしていないのに、いつもの通りに銀千代が立っていた。銀千代はこれ見よがしに左手の腕時計を見てから、
「今行ったら遅刻しちゃう」
と、困ったように肩をすくめた。
「なわけねーだろ。お前ん家、隣だろうが。早く取りに行け」
「昨日、泥棒が入って傘が全部盗まれたの」
「下手な嘘をつくのはやめろ」
「ゆーくん、お願い。このままじゃ濡れちゃうから傘に入れてよ」
庇の下の銀千代は困ったように眉間にシワを寄せた。髪が濡れて頬についている。
俺はため息をついて、傘立てのビニール傘を二本引き出して、その内の一本を銀千代に差し出した。
「やる」
「……」
銀千代は無言で戸惑っていたが、受け取った傘を大事そうに胸に抱え、「ありがとう!」と微笑んだ。
パンッと小気味良い音がして傘が開く。柄を持って歩きだしたら、「んっ」と銀千代が当然のように隣に入ってきた。渡した傘は開いていない。話聞いてた?
「離れろよ。傘渡しただろ」
「うん、ありがとう。うれしいよ」
「いや、使えよ! なんで相合い傘してこようとすんだよ!」
「ゆーくんから貰ったものを汚したくないの」
「なんでもいいから、離れて歩け!」
「離れちゃったら、雨に濡れて、風邪ひいちゃって、また迷惑かけちゃうから、そんなことはできないよ」
「傘をさせって!」
「ゆーくんから貰ったものを汚したくないの」
人の話が通じない。NPCみたいな返答に「いいかげんにしろ!」と怒鳴ったら、
「これは新品未使用の状態でゆーくんと銀千代の愛の博物館に飾るから」
頑な返事をされた。こうなったらもう話を聞いてもらえないだろう。
「傘くれると君が言ったから、七月六日はアンブレラ記念日……」
変な短歌まで読みはじめやがった。
頭、Tーウィルスにでもやられてんのか?
周りの視線に顔を赤くしながらも、なんとか校舎にたどり着くことができた。
傘を閉じて、振って雨粒を落とす。
今日が憂鬱なのは雨のせいだけではない。
学生ならば避けて通れない決戦の日。
期末テストである。
中間が渋い結果だったので、気合いをいれないといけない。
気持ちいい夏休みを迎えられるかどうかは今日このときにかかっているのだ。
傘立てに傘を突っ込んで下駄箱に行こうとしたら、銀千代がタオルを差し出してくれた。
「ゆーくん、肩、濡れてるよ、風邪引くと大変だからタオル使って」
「誰のせいで濡れたんだろうね」
「なんだかんだで銀千代が濡れないように傘を傾けてくれるからゆーくん大好き。濡れちゃう」
下ネタか? よくわかんないからスルーしとこう。
無視してタオルを受け取り、肩を軽く拭く。いい匂いがした。礼を言ってタオルを返したら、
「これも愛の記念館にいれておくね」
と微笑まれた。笑顔だけは可愛いから腹立つ。
教室について、すぐに教科書を広げる。
今日は期末テスト最終日。
苦手科目の数Ⅱがあるのだ。ラスボスである。昨日は夜遅くまで方程式を頭に叩き込んでいたが、乗り切れるだろうか。いまから不安である。
「ゆーくん、ゆーくん」
隣の席の銀千代が耳元で囁いてきた。
「なんだよ。勉強してんだから邪魔すんなよ」
「数式作ったから解いて」
「ん、あぁ」
なんだかんだで銀千代は勉強を教えてくれるので、そこのところだけは感謝している。お言葉に甘えて、差し出されたノートを覗きこむ。
『128√e980』
書かれた文字列で頭がフリーズした。なんだこれ。ルートなんて今日やる範囲で出てきたっけ? と混乱しながらペンを動かそうとしたら、「違う違う」と銀千代がニマニマしながら、俺からペンを奪い取り、ノートに書かれた文字の上半分を隠した。
浮き出る『I Love you』の文字。
「えへへへへへ」
睨み付けたらにやにや笑われた。いらっとした。時間を盛大に無駄にした。
「ちっ」
舌打ちして、ノートを返し、自分の教科書に目線を落とす。もう銀千代は無視だ。いまの時間でどれだけ勉強できたと思うんだ。まったく。
「ゆーくん、ゆーくん」
「なんだよ、うるせぇな」
「二問目できたよ」
ちらっとみたら、明らかに今日やる範囲じゃない数式が書かれていた。よくわかんないから文字がずらっと書かれている。
「この関数をグラフに書いてね」
「書かない」
「お願い! チャレンジしてみて!」
「というか書けない」
「え?」
「まったく俺には解けない、その問題」
「んもう、しょうがないなぁー」
銀千代はニコニコしながら自分で書いた問題を自分で回答を始めた。浅く鼻で息をついて、今日の範囲に集中する。
「できた!」
数秒で問題を解いた銀千代が嬉しそうに声をあげ、俺にノートを見せてきた。
「はい! これ」
「なにこれ」
「グラフの概形を書くとハートマークが出てくるんだよ」
「へぇ。それは凄いな」
「でしょ!」
数学苦手だから本当かどうかよくわからなかった。
「これはね、昔、信州大学の入試で出された問題で、愛の方程式とよばれ……」
うんたらかんたらとなにか言っていたが、俺は鼓膜の機能を一時的にシャットダウンさせた。担任が教室に入ってくるまで、銀千代の変な数学のうんちくは続いた。
ホームルームもそこそこに一時限目の数学の問題用紙と解答用紙が配られる。
心臓が高鳴る。
「がんばれ、ゆーくん、がんばれ」
耳元で銀千代がささやいてくるからじゃない。
試験に対する緊張感だ。
「はじめっ!」
ゴングと等しいチャイムと共に試験開始が告げられた。
もともと数学は苦手だった。
文系に進んだのだって、数学ができないからである。
それでも、単位をとるためには、勉強しなければならないのだ。学生の辛いところである。
チャイムが鳴り響いて、試験の終了を告げる。
「ふぅ」
目一杯時間がかかったが、なんとか全問たどり着くことができた。
解放感が半端ない。学生はこの瞬間のためだけに生きているといっても過言ではないのだ。
想定よりも難しかったが、わりとできた方だと思う。頑張ったかいがあった。これでしばらくのんびりできるな、と解放感に包まれながら窓の外を見上げる。雨は上がっていた。
クラスメートたちは友だち同士の答え合わせに夢中になっている。不安になって嫌な気持ちになるので俺は参加しない。
「問一はエエイアア」
君から貰い泣き。
「黙れ」
銀千代がネタバレしてきた。それ以上ばらされないように慌てて封じる。
「それよりゆーくん、解き終わって暇だったからコレ作ったんだ。はい」
銀千代の机の上には、回収されなかった問題用紙が置いてあり、裏面の白紙に手作りクロスワードパズルが書かれていた。随分と手が込んでいる。珍しく熱心に問題といてるなと思ったら暇潰しをしてたのか。試験終了チャイム直前まで問題を解いている俺の横で失礼なやつだ。
「はいどーぞ」
「やらねーよ」
「当たってたら銀千代のこと好きにしていいよ」
「……」
閃いた。
こいつはなんだかんだで約束を守る女だ。いや、数日くらいで破るけど、少なくとも最初は話を聞いてくれる。
クロスワードパズルを解いて、そのご褒美に、しばらく海外にでも行ってもらおう。
「よし、貸してくれ」
「んふふ、ゆーくんも男の子だなぁ。ちょっとセクシーな下着用意しとくね」
ニコニコ顔の銀千代からクロスワードを受けとる。
タテの鍵
問一、ゆーくんが好きな女の子の名前はなんでしょう? 八文字。
「……」
銀千代はたぶん「かなもりぎんちよ」と書かせたいのだろうが、書いたら鬼の首を取ったように騒ぐんだろうな。
まあ、取りあえずタテはスルーしてヨコに手を付けよう。最終的な解答が当たってればクロスワードは問題ないのだ。
ヨコのカギ
問一、金守銀千代が好きな男の子名前はなんでしょう? 七文字。
「……」
他の問題にもザッと目を通して見たら、同じような下らないものばかりだった。
「なんだよ、これ」
「タテのカギはゆーくん、ヨコのカギは銀千代。織り成す糸は」
「ふん!」
「ああ! 力作だったのに!」
自由をあきらめて、俺は銀千代のクロスワードが書かれてた数Ⅱのテスト用紙を引き裂いた。
「ひどいよ! 最後までちゃんと解くと銀千代からゆーくんへの熱いメッセージが届く仕組みになってたのに!」
「聞くまでもないよ。どうせ、好きとか愛してるとかだろ。最後の答え」
「……!?」
「なんだよ?」
「す、すごいね、ゆーくん、どうしてわかったの? はっ、ひょっとして、これが以心伝心ってやつかな」
「正確にはマンネリってやつだな。語彙力ないのかよ、お前には」
「大好き、愛してる、大事に思ってる、守りたいと思う」
「そういうことじゃなくて……」
類義語辞典みたいになった銀千代にため息をつくが、止まる気配がなかった。
「会いたい、たまらない、キスしたい、付き合いたい、はぐしたい、ゆーくんの【自主規制】で銀千代の【自主規制】を【自主規制】して【自主規制】」
「やめろ!」
教室で言っちゃいけない言葉を連発したので慌てて口を手で塞ぐ。
「むぐ」
「ぬわっ!」
なめられた。
「きたねぇ!」
「ゆーくんに汚いところなんてないよ」
「ちげぇよ、いきなり、なめんなよ! きたねぇな!」
「銀千代を黙らせたいならキスじゃないと」
したり顔で笑われた、うぜぇ。
「それよりゆーくん、銀千代プレステ5手にいれたから遊びに来ない?」
片頬をつり上げながら、聞いてきた。
くっ、今まで一番心揺らぐ問いかけだ。
「いや……」
「え」
「いま、やりたいゲームないから……」
取りあえず来年までは耐えられる。頑張ろう。
ゲームにうつつをぬかしている暇なんて無いのだ。俺の現実は情なんてものはないのだからと、銀千代が初っぱなで食らわせた数学の答え合わせを思い返して、ひそかに項垂れた。
雨上がりの空に虹が浮かぶなんてことはない。結局今日も曇天だから。




