第30話:六月と雨上がりの昔語り 前
傘を忘れたので、雨宿りしてから帰ることにした。夕方には止むらしいので、図書室で時間を潰すことにしよう。
あまり利用しない図書室ではあるが、放課後の利用者はわりと多いらしく、窓側の自習スペースはほとんど埋まっていた。もうすぐ期末だからかだろうか。
ちょうど一席空いていたので、鞄を置く。漫画を取りに行こう棚に向かおうとしたら、
「あ」
隣の席の女生徒が声をあげた。
「ん?」
目が合う。大きく見開いた澄んだ双眸。
沼袋七味だった。
「あ、どうも」
「こ、こんにちは」
気まずい。
体育祭ぶりである。あまり会話を交わした仲でもないので、会釈程度の挨拶を交わし、ブラックジャックを取りに歩きだそうとしたところ、
「銀千代さんはどうしたんですか?」
と声をかけられた。ニコイチと思われてるのだろうか。心外である。
「東京で撮影だって」
四限終わりに、車に乗って早退していった。まともに授業受けなくてもテストの点が採れるから、うらやましい。
「さすがですね」
「……沼袋は勉強?」
「はい」
小さく頷いた少女の机には、英語の教科書が広げられていた。彼女は困ったように眉間にシワをよせながら、頬をかいた。
「中学とは、やはりレベルが違いますね。難しいです。先輩は期末の勉強ですか?」
「いや、雨宿り。夕方にはやむらしいから」
窓ガラスを叩きつけるように振る雨。風も強いので、嵐のようでもある、
「ま、頑張れよ」
「ありがとうございます」
エール送り、棚からブラックジャックを取り出して、机に戻る。セコセコとペンを動かす沼袋の横で欠伸をしながら、ページを開く。
重厚なストーリー、魅力的なキャラクター、心揺さぶる展開。
「くぅ」
やはり名作である。
一時間ほどして、雨が小降りになりだした。本を閉じて机に置く。これぐらいの小雨なら帰れるなと、窓をつたう雨粒を眺める。
ふと隣を見ると沼袋は口をへの字にして教科書を睨み付けていた。
「ボチボチ帰るわ」
「あ、ああ、はい。お疲れさまでした」
声をかけたら、大学生のような返事をもらった。さすが社会に出ている女子は違う。
「……解けないの?」
先程から「うーん」も吐息が漏れていたので気になってはいた。性的な意味ではない。
「はい。明日までに教科書の文章を訳さないといけないんですが、なんかどうも日本語がおかしくて」
「へぇー。見せてみ」
素直な気持ちで提案したら、少しだけ恥ずかしそうに教科書をこちらにスライドしてくれた。
「ここの文章なんですけど」
「あー、これね」
去年俺もわかんなくて恥をかいたところだ。
「ここのcrazyはもっと砕けた意味で、最高的なニュアンスなんだよ」
「あ、なるほど!」
ペンをもってすらすらと続きを訳し、「よし」と納得したように沼袋は頷いた。
「ありがとうございます。しっくりきました。先輩、英語得意なんですね」
「いや、そうでもないけど、銀千代に教えてもらったんだよね」
「ああ、そうなんですね! 銀千代さん、頭いいですもんね」
「頭良いんだけどね……」
なんであんなことになっちゃってるんだろうね。
窓の外は曇り空。日が傾きかけて薄暗くなっていた。
「そういえば先輩は銀千代さんと幼馴染なんですよね。昔の銀千代さんはどんな感じだったんですか?」
「昔? うーん、小五くらいから、あんな感じだけど、初めて会ったときはツッケンドンなやつだったな」
四歳か、いや、五歳のころだっただろうか。
隣の家に越してきた金守家がうちの玄関チャイムを押したのは、ちょうど今ぐらいの、夏に向けて日が高くなる時期だった。
「これからよろしくね」
おばさんが優しく微笑み、小さく会釈をしたことを覚えている。
まだ幼い銀千代は恥ずかしそうに母親の足にしがみつき、俺を睨み付けていた。
あいつは昔、引っ込み思案で人見知りだったのだ。
新しい地域に越してきたばかりでご近所付き合いを意識した銀千代のおばさんは、六本木だかの有名洋菓子店のスイーツを持って、よく俺の家に遊びに来た。
ミーハーな母さんは医者の奥さんのお洒落な生活に興味津々でお互いのニーズは合致していた。
リビングで親たちがお茶会をしている最中、俺と銀千代は二階の子供部屋で二人きりで遊んだ。いや、遊ばれたというのが正しいのかもしれない。
「コンセントの穴にシャープペンシルのシンをさすと、すごいらしいよ」
「え、なにがおこるの?」
「やってみて」
けして真似してはいけない。
死にかけた俺を銀千代はケラケラ笑いながら見ていた。
人見知りの少女は打ち解けると、ウザイやつだった。
「はい、きな粉。前にお餅好きって言ってたから、食べて」
「ほんと! ありがと!」
「粉だけを一気に飲み込んでね!」
けして真似してはいけない。
「ぶふぉお!」と思い切り咳き込んだ俺を銀千代はケラケラ笑いながら見ていた。
昔の彼女はともかく好奇心の塊で、迷惑系ユーチューバーみたいなやつだったのだ。
それでも当時の俺は純粋無垢で、この世に悪意なんてものはなく、世界は優しさで溢れていると勘違いしていたもんで、懲りずに銀千代と一緒にいたのだ。
「なにしてるの?」
幼稚園で花の絵を描く時間に銀千代は変な呪文を白い紙に書き連ねていた。
「ロケットの弾道を計算してるの。この角度で打ち上げると一番抵抗が少ないんだよ」
「お花の絵を描かなくていいの?」
「もう終わってる 」
裏面をペラリと掲げて見せてくれた。写真と見紛うようなタンポポの絵が書かれていた。
「はやく終わったらべんきょうしなきゃなんだよ」
「平仮名ならもうマスターしてる。英語も喋れるもん。いまはタガログ語を勉強中」
「たか……?」
「……ふぅ。ゆーくんって頭悪いから話してて疲れるわ」
こんな調子だったので、当然友達はいなかった。俺だって幼馴染のよしみで声をかけてやっていただけの話である。小学校に上がる前、ようやく自我に目覚める頃には、無邪気に他人を貶める彼女が嫌いだった。
と、言っても、親同士が仲良いので離れることは出来ず、俺たちの関係性は、同じ町内の小学校に進学してからも変わらなかった。
「銀千代ブスじゃないから。訂正して」
小一の時、大喧嘩した。
俺と銀千代の家が近所だと言うことが、下世話な噂好きのクラスメートにばれて、冷やかされたのだ。当時女子と仲良くしている男子はエロ野郎と罵倒され迫害された。それを避けるために「あんなブスどうでもいい!」と声高々に言い訳したのが銀千代の耳に入ったらしい。
「ブスだよ。銀千代はブス!」
「ブスじゃないもん。バカ!」
「バカじゃねぇよ! ブス!」
「ブスじゃないよ! ゆーくんのバカ! もう知らない!」
そんなバカみたいな言い合いをして、俺と銀千代はしばらく疎遠になった。いまにして思えば俺の人生において唯一の凪ぎのような期間だったといえる。
銀千代は頭の回転が早く、知能指数が高かった。東大教授のゼミに参加し始め、共同で論分を執筆し始めたと聞いたのは小学五年生の頃だった。
転機である。
小学五年生のあの日。
誕生日の一件、弱っていた彼女を励ましたが故に現状に至るのだ。
「ゆーくん、好き好き!」
この頃には気狂いになっていた。
「チューしよ。チュー」
「金守さん、席に戻ってください」
授業中、席が離れているにも関わらず、わざわざ俺の膝の上に来るので、邪魔の極みだった。当然担任の先生から注意される。クラスメート「またか」とあきれた目線を送っている。
「金守さん! いい加減にしなさい! いまは授業中ですよ! 戻りなさい!」
「嫌です。ゆーくんが離れると銀千代の推理力は四十パーセント減です!」
加減を知らない分、昔は今よりヤバかったような気がする。人目を憚ることをしなかったし、ところ構わずいちゃつこうとするので、鋼のようなメンタルを持っていた俺も、一回ノイローゼになってしまったほどだ。
子ども電話相談室に相談したこともある。返答は「彼女に自分の気持ちをちゃんと伝えなさい」だったけど、伝えても伝わらないと言ったら「もう忘れて寝なさい」とアドバイスを貰った。わりと理にかなったアドバイスだった。感謝している。




