第22話:四月の桜の満開の下 前
長期休暇中、俺は目覚ましをかけない。
好きな時間に寝て、自由な時間に起きる。
その生活はきっと世界中のだれよりも幸福に満たされていることだろう。
カーテンの隙間から射し込む朝日に瞼を開けると、銀千代の穏やかな寝顔が隣にあった。
「……」
オーライオーライ、これぐらいは予想できていた。絶対ベッドに潜り込んでくると思ってたぜ。
驚きはないし、もちろん不貞行為は行っていない。
寝ているときでさえ無駄に整った銀千代の表情に、勘違いでときめく心臓を落ち着かせ、ゆっくりベッドから這い出て、そっと自分の部屋を出た。
「腹減ったー。おかんー」
リビングのドアを開けながら、母親を呼ぶ。朝ご飯を食べたら、コンビニへ立ち読みに行こう。
「あれ?」
誰もいなかった。
買い物にでも行っているのだろうか。
時計を見ると、十時過ぎだ。少し寝過ぎたかもしれない。
「仕方ない」
キッチンに向かう。腹が減ったのだ。なにかしらを食べて小腹を満たそう。ふと食卓に目を落としたら置き手紙があった。
母さんからだった。
『お父さんが骨を折ったらしく、しばらく入院するそうです。補助のため、しばらく家を留守にします。
お金を封筒に入れておくので、使ってください。
春休みだからといってあまり羽を伸ばさないように。
金守さんには知らせてありますが、銀千代ちゃんにもよろしく伝えてください。 母より』
「……」
父さんが骨折した?
母さんはいない?
バットタイミングすぎる。
ということはいまこの家には俺と銀千代の二人だけということか?
ため息をついた瞬間、背中に視線を感じた。
振り向くと、廊下からこちらをじっと眺める銀千代と目があった。
「うおっ」
びっくりして、声が出た。いつの間にか起きていたらしい。
「おはよう、ゆーくん」
光無い瞳で、声をかけてきた。
「銀千代、おまえ……」
「やっと、二人きりになれたね……」
「え?」
肌が粟立つ。
この手紙はたった今、俺が見つけたのだ。
なんで内容を把握しているんだ、こいつ。
「まさか、お前、……父さんになにかしたのか?」
情けないことに、声が震えていた。寝起きで喉が乾燥しているからだろうか。
「? 何にもしてないよ」
「だ、だよな。まさか、そんな。はは」
落ち着け。長野に単身赴任している親父に、なにかできるはずがない。
頬を汗の玉が伝って落ちる。
考えすぎだ。二人きりになりたいからって、いくらなんでも、そこまではやらないだろう。そもそも結果論的に母さんは父さんの補助に行ったけれど、そんな都合のいい未来見通せるはずがない。
しかし、……、
銀千代は昨日の午前中、行方不明だった。動機はあって、アリバイがない。
「……なんで手紙の内容を知ってんだ?」
「和子さんが出ていく前にたまたま偶然直接お話したからだよ。はいこれ」
銀千代はパジャマのポケットから封筒を取り出して、俺に差し出してきた。
「預かってたお金」
「おお、ありがとう」
手紙に書いてあった封筒だろう。受け取り、中を見てみると、一万円の束が入っていた。
「えっ!?」
一センチ近くある。なんでこんな大金と混乱する俺に、
「お世話になるから銀千代の分の食費とか、足しといたよ。節約して使おうね」
と微笑まれた。節約しなくても豪遊できる金額だ。
「こんな使わねぇよ」
「でも、新生活になにかとお金は必要だよ。ニトリで家具揃えよう」
「一週間ぐらいの居候のくせになにほざいてやがる。母さんはいくらいれてたんだ」
「もとは五万円だったよ。銀千代の心付けが百万円」
封筒から五万円ぬいて、残りを銀千代に突きつける。
「贈与税を気にしているなら、110万円までは控除さ……」
「ちげぇよ。お前から金なんて受け取れるかよ」
「そっか。うん、夫婦の共有財産だもんね」
「違う」
こいつに借りを作るのは非常に危険な行為だ。
「それで、ほんとうに父さんには、なにもしてないんだよな」
「今朝お見舞い用にメロンを送ったけど……」
「いや、そうじゃなくて。骨折ったっていうけど、なにがあったのか知ってるか?」
「スキーで転んで右足を挫いたみたいだね」
「事故にお前は関与してないんだよな?」
念のための確認に、銀千代は暫しの間、きょとんとしていたが、やがて、ハッと表情を変え、
「まさか、銀千代がゆーくんと二人きりになるために清春さんの足の骨を折ったって思ってるの?」
「いや、そうとは言ってないけど……」可能性は感じてる。
「二人きりにはなりたいけど、さすがにそんなことしないよ。他の人を傷つけたりすると、ゆーくんが悲しむって知ってるから」
「おお、そうか。それ聞いて安心……」
ふと銀千代のいままでの暴力沙汰が脳裏に甦った。
一月、初詣でナンパしてきた男に飛び蹴り。五月、ストーカー男を押さえ込み。九月、関係を迫ってきたファンをボコボコに。二月、従姉妹を路上で絞め落とす。
「どの口が言ってんだよ」
銀千代も自己の発言の矛盾に気づいたのか「えへへー」と誤魔化している。
「でもでも、今回に関しては、ほんとうに偶然だよ。スキー無料チケットをプレゼントしたのは銀千代だけど、転んじゃうとは思わなかったし」
「……」
そ、それぐらいならセーフ。セーフだ。セーフと思い込もう。
「気温上がってるから雪の状態はあまりよくないって一応伝えたしね」
確信犯ではなかろうか。
「てか、お前、俺の父さんと連絡取り合ってんのか?」
「うん。ブログによくコメントくれるんだ」
銀千代じゃなくて父さんに軽く引く。
「清春さん、スキー好きだからね。和子さんと出会ったのもゲレンデだったし」
俺も知らない両親の馴れ初めをなんでこいつが知ってるんだ?
「お義父さん、早く良くなるといいねぇ」
空々しいことを呟く。というか俺の親族に根回しを始めているのかよ。恐怖で動けなくなる俺をそのままに、銀千代は、鼻唄まじりにキッチンに向かって歩き始める。同時進行で、パジャマのボタンもはずし始めた。
「うぉ、おまえ、いきなりなにしてんだ!?」
「なにって……ゆーくんのために朝御飯作ろうと思って。お腹すいてるでしょ?」
くるりとこちらを振り向く。はだけたパジャマがふわりと浮き上がる。
「いや、パンでも食べるからいいよ。って、パジャマ脱ぐな、おい人の話聞けって! なんでブラしてねーんだよ!」
俺の制止を全く聞かない銀千代から慌てて目をそらす。
「寝る時、下着つけないから。待っててね、ゆーくん。いまから裸エプロンでトースト焼いてあげるから」
「トーストだったらエプロンいらねぇだろ!」
いかん、パニックになりすぎて自分でも言ってる意味がわからんくなってきた。
暴走する銀千代を落ち着かせ、食パンを二枚、トースターにセットする。
「そこで座ってジッとしてろ!」
食卓の椅子を指差して命令する。
「旦那様の手料理……」
「なにもかもが間違ってんだよ……」
室内にパンの焼ける音といい香りが漂った。
朝の空気がようやく落ち着きを取り戻し始める。
「ゆーくん、今日はどうする?」
いい感じに焼けたトーストと、銀千代がいれてくれたコーヒーを食卓に並べ、少し遅い朝食をスタートさせる。銀千代はトーストにイチゴジャムを塗りながら訊いてきた。
「松崎くんとゲームかな」
隙をみて、ホームセンターで防犯アラーム買いにいこう。
「そうなんだ。じゃあ銀千代とお花見にいかない?」
「いや、松崎くんとゲームするから」
「実はね、もう準備は出来てるの。気合い入れすぎて今朝は起きるの遅れちゃったけど」
「……準備?」
「うん。お花見といったら、お弁当でしょ?」
トーストを一旦皿に置いてから、銀千代は立ち上がった。
マーガリンを塗り終わった俺はトーストにかじりつく。うまい。
「ほらー、これー」
銀千代は冷蔵庫から三段の重箱を取り出した。
「……」
あまりの大きさにポロリとトーストを落としてしまった。
「食材は今朝仕入れたんだ。やっばりこういうのって自分の目で見て選びたいからね。朝早すぎて、二度寝しちゃったら、ゆーくんが先に起きちゃったけど、がんばって作ったから許してね」
「いや、えっと、は?」
「えへへ、気になるラインナップはお花見会場でのお楽しみ! ゆーくんの喜ぶ顔が早くみたいな。場所取りも出来てるから安心してね」
「いや、行かないよ」
「え、……食材痛んじゃう……」
「…… 」
「桜も散っちゃうよ」
銀千代の瞳が涙で滲む。
「……わかったよ。行こう」
「それじゃあ、朝御飯食べ終わったら出発しよ! まだ冷えるから暖かい格好してね」
すぐに笑顔になる。案の定、嘘泣きだった。




