第108話:West End Girls 4
金守銀千代、と結びに書かれたメールを読み終えたとき、なにも見えなくなった。涙が溢れて仕方なかった。視界はグシャグシャで、唇が震えて、奥歯がカチカチ音をたてた。スマホを握りしめて、ただ祈るように額にあてた。
ああ。
神様、どうか、どうか。
どうか、あいつが無事に帰ってこれますように。
それ以外なにも望みません。だからお願いです。金守銀千代が死なないよう見守っていてください。助けてください。どうか……。
カッコ悪く祈りながら、ひざまずいた俺の額が振動した。
「?」
着信だ。誰だ。こんな時に電話をかけてくるなんて。
涙を袖口でぬぐい、画面を確認する。
銀野金音と書かれていた。
金音?
銀千代の従姉妹だ。こいつなら今の状況を正確に教えてくれるかもしれない。呼吸を整えて、応答をスワイプし、俺はスマホを耳にあてた。
「もしもし。金音か。どうした」
「大丈夫ですか?」平静を装ったのに、声の震えを看破されたらしい。白々しく「なにが?」と返事をしたら、「銀千代ちゃんのことです。ニュースはご覧になられましたか?」と抑揚なく質問を返された。
「あぁ。見たよ。なんだよあれ。どうせ嘘だろ。お前もからんでんのか?」
「そうだったら本当によかったんですけどね……。今回ばかりは真実です。銀千代ちゃんは現在行方不明。マネージャーさんも」
それにしては随分と落ち着きはらった声音だ。やっぱり今回のことは嘘に違いない。そうだ、田舎で起こる一夏の恋とか、未来の娘が会いに来たとか、それと同レベルの話に違いない。
「私は今、政府関係者の人達と大使館に来てるんですが、ゆーくんさんもこちらに来ませんか?」
「なんで」
「ゆーくんさんはもう身内みたいなものですから。ここならテレビニュースで知り得るよりもずっと早く情報が入ってきますし、銀千代ちゃんとマネージャーさんを救うために直で意見が言えます」
「救うって……」堰が、切れそうになる。クラウドファンディングで身代金を集める以上の方法があるなら、教えて欲しい。なんでもするから。
「救うって、どうやって救うつもりなんだよ。俺がそんなところに行ったってなんの役にもたたねぇよ」
感情が溢れ、叫びそうになるのを、どうにかとどめ、できるだけ静かに金音に言った。
「それを考えるんです。ここにいる人達はみんな頭がいいですし、銀千代ちゃんのことを誰よりも知り尽くしているゆーくんさんがいればきっといい考えが」
「浮かぶわけねぇだろ。もうどうしようもないんだよ。物理的に時間も金も何もかも足りないんだ。俺じゃ、俺じゃ無理なんだよ」
足掻いても無理なら、やらないほうがいい。そんなのはわかりきっている。銀千代を救う手立てなんて、ないのだ。
「そんなことありません。銀千代ちゃんを救えるのはあなただけです。昔も、今も」
何を寝ぼけたことをいっているのだろう。こいつ状況がわかっているのか? そんな奇跡、起こせるわけがない。俺は誰よりもきっと小市民だ。
「銀千代ちゃんもきっとそれを望んでいます」
「……」
明かりをつけ忘れた室内は暗い。夜が近づいていた。
家の前の道路を原付が走り抜けたらしい。エンジン音がドップラー効果で遠ざかっていく。なんでもない町の音が遠くに聞こえる気がした。
「なあ。銀千代はまだ無事なんだよな?」
夜虫が鳴き始めている。リンリンと閉めきった窓の向こうから静かに聞こえて来ていた。
「……わかりません。なにもわからないんです。テロ組織が指定した四十八時間がいつから始まっているのか、さえ。一応動画サイトに投稿された時間を基準に救出作戦がスタートしてますが、それでいいのかすら、わかりません」
「救出作戦? スタートしてるのか? 銀千代は助けられそうなのか!?」
「お、落ち着いてください。残念ながら成果はあげられていません。相手がどこにいるのかもわからないんです。しらみつぶしに、現地治安局と協力をして、アジトとおぼしき場所を衛星画像などから探っていますが、核心的な位置にはたどり着けていないそうなんです」
「場所……」
「いま取引のリミットを延ばそうと交渉中です。ゆーくんさんが仰られた通り、時間が足りません。だから、なんとか人質解放までの時間を稼ぐアイデアを……」
金音の声が鼓膜を刺激する度に心がざわついた。魚の骨が喉に引っかかったときのような違和感。
「銀千代のいる場所がわかれば、なんとかなるのか……?」
もし誘拐されたのが俺で、銀千代が救助隊側にいたとしたら、居場所は直ぐに特定されるだろう。
かつて金音に誘拐された時もそうだった。
「そ、それはわかりませんけど、少なくとも、救出のための選択肢が増えるのはたしかです。でも、わかりっこないから、ともかくいまは時間を……」
「……待てよ」
わかるんじゃないのか?
「お前も」
「え?」
「お前も知ってるだろ」
「なにがですか?」
確認したいが通話中でスマホを耳からはずすことができない。
「銀千代のスマホと俺のスマホは相互監視アプリが入ってるんだ。だから、俺のスマホを辿れば、あいつの場所が」
そうだ。無理矢理入れられた、あのアプリ。あれを使えば、あいつの場所はきっと。
「……ダメなんです。スマホのGPSを辿るというアイディアは一番最初に出ました。だけど、犯人側に電源を落とされたか、もしくは破壊されたかで銀千代ちゃんのスマホはGPSが機能していません」
「そっちじゃねぇよ」
「え?」
「メガネだよ。銀千代が風邪ひいた時、お前がつけて代わりに学校行ったやつ。あれにもGPSがついてるんじゃないのか? なくても映像は配信されてるんじゃ……」
「メガネ……」金音は記憶をたどるようにぼそりと呟いた。
銀千代は俺と離ればなれになるとき、いつもあのメガネをかけるようにしていた。映像を見たのは、暇潰しの一度だけだけど、あれには確か位置情報が搭載されていたはずだ。
「ああ! た、試して見る価値はありますね。銀千代ちゃんが開発したアプリだからきっと高性能なはずですし」
光が見えた気がしたが、言うまでもなく、薄いものなのだろう。それでもないよりはずっとマシだ。
金音との通話を切り、俺は直ぐに家を飛び出した。母さんにタクシー代金を借りて、大使館がある東京の赤坂に向かった。
そこからはあっという間だった。二時間程度で目的地についた。受付には話が通っていたらしく、すんなり大使館に入ることはできた。俺のスマホを職員に渡し、軽く二三言、金音と会話をし、対策室となっている応接間に顔を出したら、あまりの重苦しい雰囲気に思わず竦み上がってしまった。
テレビで見たことある政治家に、銀千代の親戚一同が暗い顔であーだこーだと言い合っている。昼間家にいた銀千代のお母さんは机に突っ伏してピクリとも動かなかった。疲弊しきっているらしい。声なんてあげられるはずがない。
重苦しい空気に耐えられなくて、俺は帰ることにした。スマホを届けたのだから、お役ごめんだ。
大使館を出て、表の道路に待たせたタクシーに乗ろうとしたとき、金音が「大丈夫です。きっと、これで、なんとかなります」と作ったような満面の笑みで見送ってくれた。都会の夜空に星は見当たらなかった。
本当にそうなのだろうか?
あのメガネの充電は持つのだろうか?
そもそもGPSは正常に稼働しているのだろうか?
それに、銀千代の居場所が正確にわかったとして救出作戦がうまくいく保証はどこにもない。
嫌な考えばかりが頭をよぎる。
帰りのタクシーの車内、頭を空っぽにしようとしてもうまくいかなかった。
「お客さん、夜景、すごいですよ」
運転手さんが後部座席の俺に声をかけてきた。
言われて外に目を向ける。車窓の向こうには海辺の工場夜景が宝石のように輝いていた。
「本当に……」
アクアライン近くの一般道だ。流れはスムーズで、信号にもほとんど引っ掛からない。それが故、なんだかただのタクシーが宇宙船のように思えてきた。
あまりにも幼すぎる考えに自嘲ぎみに鼻をならしたら運転手さんに軽く首をひねられた。
「……本当に、綺麗ですね」
ぽつりと呟きを返し、俺は静かにうつむいた。これがもし宇宙船だったらいますぐ海外にでも飛んでいきたい。それで、そのまますべてをさらって、どこか遠く誰もいない世界に行きたい。
景色が後方へ流れていく。
何度も見てきた景色だが、なぜだかいつもと違って見えた。
明かりが海に反射し、沸き上がる湯気やら明滅やらで、この世のものとは思えない幻想的な光景になっていた。一人で見るにはあまりにも、もったいない風景だった。
地元についた。
街灯の少ない地方都市は今日も平静に包まれている。春霞に月が滲んで見えた。春の匂いが一層強くなっている。花の香りが俺を包み、夢見心地な気分になった。
俺にできることはもうないだろう。
スマホを渡してしまったし、情報を得る手段も少なくなった。
家について、母さんに事情を説明し、自分の部屋に戻って、ベッドに横になった。
なにもやることがないなら寝るのが一番だ。どんな時も俺は睡眠だけはきちんととってきた。これからだってそうするつもりだ。そう思っているのに、何故か心がざわついて眠れなかった。よくないことばかりが頭をよぎって、その度に体勢を変えていたら、いつの間にか鳥の声が響いて、外が明るくなっていた。
一睡もできなかったらしい。
最悪だ。自律神経がまた狂ってしまった。
日の出はそこまで早くない、はずだ。それなのにベッドで悶々と過ごして朝を迎えるんて、自らの行動にあきれてしまう。
ともかく熱を帯びたような倦怠感をスッキリさせようと、キッチンに向かう。コップに水道水を注ぎ、いつもの癖で、テレビの電源をオンにしてしまった。
見るつもり無かったのに。我にかえって、リモコンで消すより先に、朝の報道番組が映像ともに視界に飛び込んできた。
『バルベルデの首都近郊で大規模爆発。テロ組織の犯行によるものか?』
外国の見知らぬ町が黒煙を上げて、燃えていた。テロップに書かれた文字を見て、血が凍るような思いをした。
大規模爆発?
なんで、ここ、銀千代いる国じゃん。
『現地報道局からの情報によると、邦人二名の救出作戦が武装組織に流出し、その報復による犯行の可能性が高いと伝えられています。人質の安否は不明です』
アナウンサーが淡々と記事を読み上げる。これ以上なにか情報を得る前に、俺は直ぐに電源をオフにした。
前後不覚になりそうになる。寝不足のせいだ。
持っていたコップをテーブルに置き、俺は直ぐに自分の部屋に向かった。
カーテンは閉めきられ、薄暗い。
もう、なにも、考えられなかった。考えたくなかった。
だから、シンプルに行動することにした。
紙袋にプレステとゲームソフトを数本詰め込んで、家を出る。重いが苦にはならなかった。パッケージで買っておいて良かった。少しでも高値になればいいのだけど。
ネットオークションが流行っているせいで、買取ショップは隣町にしかない。俺は自転車の前かごに紙袋をいれ、ペダルを漕ぎ始めた。
確か、あのショップは二十四時間営業だ。
早朝、人気のない町を進む。
春は近い。花の香りが柔らかな風と共に吹き抜けていく。
季節が移り変わるように、月日は無情に過ぎていく。
もう遅いのかもしれない。
なにもかも、手遅れなのかもしれない。
もっと早くに彼女の気持ちに報いていればこんなことにはならなかったのかもしれない。
いや、たらればを言ったところで、現状が変わるわけではない。
息を大きく吸って、吐いて、ペダルを漕いで、車輪を回す。
少しでも、早く足を動かせ。
少しでも、多くお金を手に入れろ。
少しでも、可能性をあげろ。
なにもかも、差し出してもいい。だから……。
なにも考えられなくなっていても、意味がないことをしようとしていることには気がついていた。
それでも足を動かさずにはいられなかった。何かしていないと、気が狂いそうで。
河川敷に通りがかった。桜並木がずっと続く。満開だった。ピンク色の花が朝焼けの中に揺れていた。余りにも美しすぎる光景に、一瞬、現実感を喪失しそうになった。川風に桜吹雪が舞い上がり、幻想的な光景に一瞬目が眩んだ。
「あ」
向こうから女の子がゆっくりと歩いてきていた。疲れきった足取りでとぼとぼと、とでかいリュックサックを背負っている。長い黒髪が風に揺れ、その瞳と目があった。




