第108話:West End Girls 1
ここ数年、平常時には予想できないことが多く起こっているような気がしてならない。
それは地震だったり、感染爆発、戦争や異常気象、不景気や天変地異、日常にそんなまさか、という言葉が溢れかえっている。
常識というのは思い込みなのかもしれない。こと、人生においては。
三月も終わりに近づき、新生活の足音が聞こえ始める早春の朝。その日はいつもより心地のよい目覚めを迎えることができた。カーテンの隙間から射し込む陽光は、ぼんやりと俺の部屋を照らしてくれている。冷えた空気が肌をつんと刺すが、冬のそれよりはずっと優しいものだった。今年の春は例年よりも暖かいらしい。
ベッドから上半身を起き上がらせて伸びをする。カーテンを開けると窓の外は雲ひとつない青空が広がっていた。
ここ数日、ずっとこんな感じだ。俺に付きまとう影はなく、人生の節目を、まったりとした空気感で過ごすことができている。あと数日で大学生になるが、このまま何事もなく入学式を迎えることを祈るばかりだ。
高校の卒業式は最悪だった……。
忘れようとしていた思い出がよみがえりそうになったので、寝起きの頭にしょうもない情報を流し込むことで防ごうと枕元のスマホを開いた。
ニュースチェックだ。大学生になるのであれば、視野を広く持つべきだろう。
「ん……?」
数十件のメッセージと着信があった。銀千代からかと思ったが、彼女はいま春休みを利用して、海外ロケしているはずだ。時差がどれだけあるのか知らないが、そんなに頻繁にメッセージを送れるはずがない。おそらく、たぶん、きっと。
それならこのラインの通知はなんなのだろう。首を捻りながら、花ケ崎さんのアイコンをタップする。
「銀ちゃん、大丈夫なの?」
謎のメッセージに首を捻る。送られてきたのは今朝の八時。休みの日に朝早くから活動できる人を尊敬しながら、
「なにが?」と返信をして、他の着信を確認してみる。知人や友人、数十人から、同じように「大丈夫?」と心配する声だった。
なにが?
あいつ、また逮捕でもされたのか?
花ケ崎さんからの返信がすぐにあった。
「銀ちゃんが海外でテロに巻き込まれたって」
寝起きの脳に文章がうまく入ってこない。
テロ?
テロって、
「はぁ?」と口にしながら、俺は首を捻った。
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武装組織「バニーハニャ」を名乗るグループがバルベルデ西部で映画撮影を行っていた俳優の金守銀千代さん(18)とそのマネージャーの稲田心さん(24)を人質に、日本政府に一億ドルの身代金の要求をしていることが21日、政府関係者の発表でわかった。
パニーハニャは期限を48時間と定め、拘束された二人の映像を動画サイトにアップしている。
政府関係者は国際社会の「テロに屈しない」「テロ組織とは交渉しない」という大原則を説明しつつも「邦人二名の救出に全力にあたる」と関係各所に協力を呼び掛けている。
バニーハニャは中南米のバルベルデ共和国を中心に活動する分離主義組織。初期はバルベルデ人の文化や言語を保護する目的で活動を行っていたが、現政権の政策に反発、同国内の自治権獲得を目的に取組を強化している。
―――――――――――――――
「……」
そんな馬鹿な。
ニュース記事を読んで、叫びそうになった。あり得ない、またどうせドッキリだろうと、首をふる。
いつもにまして、大がかりな、他人を巻き込む悪質な嘘。そうに決まっている。
くらくらする頭を冷水でさっぱりさせようと一階の洗面台に向かったら、リビングで母さんがマグカップを片手に硬直していた。
「おはよう」と背後から声をかけたら、「た、太一」と震える声でテレビを指差された。
湯気と共に漂うコーヒーの香りが、鼻孔を優しくくすぐる。
テレビ画面ではロープで縛られた銀千代と稲田さんが、椅子に座らされている映像が流れていた。二人ともラフな格好をしている。銀千代がオブのときにかけている眼鏡は、レンズにひびが入り、稲田さんは憔悴しきった顔をしていた。
右上のテロップには「邦人二名誘拐。身代金は一億ドル」と物事を端的に伝えている。どうやらインターネットにアップロードされた動画らしい。画面では覆面をかぶって、映画やゲームでしか見たことないようなアサルトライフルを持った複数の男がヒステリックに叫んでいた。日本語訳されたテロップが下に表示されるが、何を言っているのかわからなかった。「神」とか「土地」がどうたら。そんなよくわからないものに銀千代が危険な目にあっている意味がわからなかった。冗談だろと思わず呟いていた。男は銃口を銀千代に向けた。少女は恐怖に震えながら、下唇を強く噛んでいた。
母さんがマグカップを落とした。バシャンと音がして、床に水溜まりができる。
アナウンサーは神妙な顔で銀千代と稲田さんの無事を祈ると「さ、次は関東地方のお天気です」とキャスターをスタジオから呼んだ。中継先のキグルミとアイドル上がりのお天気おねえさんがはしゃいだ声で天気予報を伝え始める。関東はこれからぴーかん晴れらしい。花粉に注意とはしゃいだ声で伝えている。
「なにこれ」
現実感がない。きっと、知り合いじゃなければ、もっと、すんなり現状を受け止めることができたのだろう。だけど、無理だ。そんなの、できるはずがない。
連絡先から銀千代を呼び出して、電話をかける。いつぶりだろうか、俺から彼女にかけるのは。電波の届かないところにいるか、電源が切られているためかかりません。発信と同時に無機質に返された。いつもはワンコールしないうちに出てくれるのに。
「一億ドル……」
円でいくらか、まったくわからないが、とても個人で払える金額ではないだろう。話は知らぬ間に国家間のやり取りに変わっているらしい。
動けなくなっている母さんに代わってタオルで床のコーヒーを拭いているとチャイムが鳴った。
母さんがふらつきながら、モニターで来訪者を確認する。ネタバラシか、と期待を抱きながら横から覗きこむと、カメラを持った男たちが立っていた。
「すみません、テレビ流山の記者なんですけどぉー、お隣さんのことお聞きしたくてー」
聞きたいのはこちらの方だが、俺たちの混乱を無視して記者は返事を聞く前に質問をしてきた。
「テロ組織に誘拐された女優のぉー、金守銀千代さんなんスけどぉー、お隣ですよねぇ。今、留守にしてるみたいなんですけどぉ、普段どんな人でしたぁー?」
「……」
母さんは唇を震わせてなにも言えずに口を塞いだ。
横から手を伸ばして切断のボタンを押す。
「きっとまたしょうもないどっきりだよ。そうだ、きっとエイプリル……」
カレンダーを確認するが、四月一日はまだ遠い。
「そ、そうよね。銀千代ちゃん、芸能人だもの。そういうバラエティよね。まったく心臓に悪いったらありゃしない。ドッキリするときは早めに言っておくように伝えてちょうだい」
母さんが自分に言い聞かせるように呟いて、キッチンに向かっていった。
「コーヒーでも飲む? パン、焼こっか?」
「いや、俺はいいや……。なんか食欲ないし」
状況が飲めない。
卒業式が終わって、数日、銀千代は確かに海外で映画の撮影をしていた。すぐ戻って来ると言っていたのだ。戻らんでよろしい、と冗談めかして返事をしたことを覚えている。それが、テロ?
なんだよそれ。唐突すぎるだろ。そんな脈絡も伏線も予感も説得力も無しに、納得なんて、できるはずがない。
しょうもない冗談に周りを巻き込んで、迷惑きわまりないやつだ。戻ってきたら、ビシッと言ってやらなくては……。稲田さんも、また不幸な人である。銀千代に付き合わされて。つうか、悪質すぎて、事務所に迷惑かかるんじゃないか?
「事務所……」
そうだ。稲田さんまで誘拐されたことにしたのは、きっと嘘の経緯を突っ込まれてばれるのを恐れているからだ。銀千代がどこまで手を回しているのかわからないけど、とりあえずあいつと同じ芸能事務所の後輩になんのテレビ番組か確認しておこう。
俺は自分の部屋に戻りながらスマホで沼袋の連絡先を呼び出して電話をかけた。
数回コール音がして、「先輩……」と沼袋が出てくれた。
沈んだ声だった。
「銀千代さんのこと、ニュースで見ましたか?」
「あ、あぁ。その事でお前に確認したくて電話かけたんだ。いま時間大丈夫か?」
「わ、私もいまさっき知って……ロケから事務所に戻ってきたばかりなんです。そしたら、すごいことになってて」
スピーカーの向こうは、怒号に近い声が飛び交っていた。そのほとんどか「どうするんだ」とか「連絡はとれないのか」とかパニックに等しいものだった。
自室への階段を登りながら、俺は沼袋にすがるように問いかける。
「なぁ、ヤらせだよな? ユーチューブかなんかの企画か? さっきのニュースもどうせ日本の関東地方にしか流していないフェイクニュースとかだよな?」
「先輩……私にもなにがなんだかわからないんです。わからないんですけど、銀千代さんと稲田さんが現地で行方不明になっていて、連絡が取れないのは、本当なんです」
「お前まで、嘘をつくなよ。なぁ、頼む、本当のことを言ってくれ」
「わかりません。なにも、わからないんです。ご、ごめんなさい……」
沼袋の声を聞いて少し落ち着いた。俺は何をしてるんだ?
冷静に考えて、銀千代のくだらない活動に後輩が絡んでくるはずがないだろう。
「……いや、悪い。俺も、へんな時に電話しちゃって。その、なにかわかったら教え」
言い切るより先に「七味! なに電話してるの!?」と電話を奪う音がした。「警察から外部に情報を漏らしたらダメって言われてるでしょ!」金切り声と同時に通話が切れる。
ツーツーという機械音がむなしく鼓膜を震わせた。
なにも理解できない。
ふらついた。血が凍ったように首筋が冷えている。
「うっ」
階段の手すりに捕まり、なんとか自分の体を支える。
気分が悪い。めまいがする。
ダメだ。くらくらする。
最悪な気分だ。胃酸が逆流して口内が酸っぱくなる。戻しそうになる。はやく、はやく、部屋に戻ろう。
ふらつく足でなんとか自分の部屋にたどり着き、ベッドに倒れこんだ。こんなときでも脳は打算的に働き、自分が倒れるベストな位置を導きだしてくれる。全部夢ならこんなに分かりやすいことはない。かすれゆく意識が現状を忘れさせてくれる気がした。
視界が暗転し、世界が喪失する。
最悪な気分のときには、幸福だったときのことを思い出す。
一週間前、三月上旬の冬の冷たさが残る青空の下、俺は通っていた高校を卒業した。
いやぁ、まあ、お察しの通りとてつもなくキリがいい感じなんで今度こそゴールします!




