第101話:一月の暗示は嘘つきの始まり
季節は移ろい凍える季節がやって来た。
「先輩」
三年の三学期はほとんど自由登校で、図書館で勉強していたら後輩の沼袋が来て、なし崩し的に一緒に机を並べて勉強することになった。
芸能活動をしている彼女には、特別課題が与えられていて、色々と面倒なことになっているらしい。
銀千代も同じ状況のはずなのに、課題で困っているところは見たことない、と口を滑らせたら「あの人は天才なんです」と口をすぼめて沼袋は言った。
「ナポレオンの睡眠時間は三時間程度だったらしいです。銀千代さんもそれぐらいだと聞いたことがあります」
そんなこんなで勉強を終えて、帰り道。駅まで送っていってあげていたら、沼袋がポケットからスマホを取り出して俺に突きつけた。
「これこれ、面白いもの見つけたんですよ」
可愛らしく「ふふん」と鼻をならして、沼袋は続けた。
「催眠アプリです」
「……」
正直言おう。
全て銀千代の仕込みだと思っている。
まずシチュエーションがおかしい。芸能活動しているはずの沼袋が図書館にいるはずがない。おまけに銀千代からの連絡も都合よく途絶えている。
でもあえて突っ込むのはやめておこう。
「絶対ろくでもないよ、それ」
鼻息すらも白く染まる気温。はやく家に帰って休みたかった。
「このアプリで自分はできるって自己催眠かけると勉強効率が上がるんだそうです」
心の一方かな?
「ちょっと試してみていいですか。この渦になって、うにょうにょな画面を見せると催眠にかかるそうです」
人の返事を聞く前に沼袋は画面を俺に突きつけた。街灯が少なく真っ暗な帰り道。スマホの灯りで目が眩みそうになる。
渦巻きがひたすら回転しているだけのムービーだった。なんの変化も訪れない。
「どうですか?」
緊張したように沼袋が聞いてきた。
「効果ないな」
意識はフル覚醒だ。
「あー、やっぱりジョークアプリですか。ちょっとだけ期待したんですけどね。あ、そうだ先輩、私にもかけてくださいよ。催眠のかかりやすさって個人差あるらしいですよ」
雑な同人誌の導入みたいだか、あえて「いいだろう」と言って乗ってやる。
スマホを沼袋から受け取り画面を彼女に見せる。
「ッ!」
びくりと体を震わせ、沼袋はぴたりと動かなくなった。
「沼袋?」
「……」
「おい、沼袋」
「……」
はやく帰りたいんだけど。
虚ろな表情でぴくりとも動かなくなる沼袋七味、十七歳。道の真ん中でマネキンみたいになった少女を見て俺は密かにため息をついた。
「右手をあげろ」
ぼーとした感じで、沼袋は命令にしたがい右手を挙げた。なるほど、催眠状態に入った、ということらしい。
「……沼袋、俺の問いかけに素直に答えろ。嘘は言うなよ」
「……はい」
「目的を言え」
「……」
「銀千代からの命令か?」
「……ふ」
沼袋は耐えかねたように吹き出したが、すぐに人差し指を唇に当て、
「違います」
と答えつつ、にやりと笑っとまま、たてた指で俺の襟を指差した。
なんだと思ってコートの襟をめくって見ると四角い黒い箱のようなものが両面テープでつけられていた。
会話は銀千代に聞かれてるってわけな。なるほどな。
盗聴機とは、久々の正攻法というわけか。
「そうか。よし、催眠から覚めろ」
「はっ!」
沼袋はわざとらしく体を揺らし、
「いまのはいったいなにが!」
しれっと呟いた。
なんだかんだでノリノリである。
「いや、なんでもないよ。早く帰ろう」
と、その場を納めて歩き出す。しょうもない雑談を交わしながら、俺は機内モードにしてからスマホのメモ帳を開き、改めて「どういうことだ?」と文字を入力し沼袋に突きつけた。
ラインなどは共有されている恐れがあるのでオフラインで筆談するにはこういう機能をつかうのが一番だ。
「なんか銀千代さん、催眠アプリにかかったふりして、先輩といい感じになるつもりらしいです。アプリの信憑性を高めるために私に頭を下げてこられたので、協力した次第ですが、やはり無理がありましたね」
スマホに文字を入力してから、にこりと笑って肩をすくめる沼袋。
下らないことに後輩を巻き込むな。
そのまま駅で沼袋と別れ、
家についたら銀千代がいた。
まずなんでいるんだと思ったが、銀千代はにこにこしながら、
「今日はなにか変わったことなかったー?」と聞いてきた。伏線回収の速度がマッハだ。
「お前が家にいることだよ」
「ん?」
「ここ俺の部屋だから。さっさと自分の家に帰れ」
「??」
「ゴーホーム!」
窓から隣の家を指差した。ようやく通じた銀千代が「ああ」と頷きながら、「そういうことじゃなくて」と置いといてというアクションをしながら続けた。
「さっき沼袋七味から連絡があって、ゆーくんに催眠アプリ教えたって」
「ほう」
「いまティクトックとかで流行ってるんだって。ナウなヤングの間でバカウケらしいよ」
死語を連発しながら銀千代はニコニコしながら、手を叩いた。世も末だな。
「でもゆーくんはそのアプリをいかがわしいことに使わなかったから感動したって言ってたよ」
「ほう」
「そうだ。ゆーくん、銀千代にも催眠かけてみてよ」
はい、予定調和。
「……」
舌打ちしながら睨み付けるが、通じなかったみたいだ。
「銀千代にはそんなもの通じないと思うけど、サ!」
しょうもないマッチポンプだ。
もう少し設定を練ってから来い。
俺はスマホを取り出して、先ほど沼袋から教えてもらいダウンロードしたアプリを開いて画面を銀千代に突きつけた。
「ッッ!」
わざとらしくビクリと体を震わせ銀千代は催眠状態に入った。無駄に演技は上手いが鼻で笑ってしまいそうになる。
「銀千代、俺の声が聞こえるか」
「……はい」
「今からお前は俺の言うことに逆らえなく。いいな」
「はい」
声が少しだけ上擦って聞こえた。頬が微かに綻び、なんとなく嬉しそうなのは無視して俺は自分の素直な気持ちを伝えることにした。
「迷惑だから家に帰れ」
「……」
「帰れ。とっとと」
「……」
「自分の家に帰れって! 隣だよ隣」
「……」
「シカトしてんじゃねぇ」
耳が悪いのか?
まったく動こうとしない。
俺は大きく息を吐いた。
「……右手を挙げろ」
「はい」
言われた通りに右手を挙げる。
「左手を挙げろ」
「はい」
左手を挙げる。
「両手を下げろ」
「はい」
両手を下げる。
「この部屋から出ていけ」
「……」
微動だにしない。「ふぅ」息をつく。
「立ち上がれ」
「はい」
ぼんやりとした表情のまま、銀千代は命令通り素直に立ち上がった。
「右足を前にだせ」
「はい」
「左足を前にだせ」
「はい」
「右足を前にだせ」
「はい」
「左足を前にだせ」
「はい」
繰り返すつどに五度。
部屋のドアの前にたどり着いた銀千代は、なおもうろんな表情だ。
「ドアノブをひねって廊下に出ろ」
「……」
「廊下に出」
銀千代はムーンウォークで俺の目の前に戻ってきた。そんな命令はしていない。
「おい」
「……」
「出てけよぉ」
「……」
足に根がはったみたいに微動だにしない。
「……帰れ……」
「いいえ」
いいえじゃないが。
それから銀千代を家に帰すのに一時間ほどかかった。世界で一番無駄な時間の使い方だった。共通テストまでもう一週間切ってるんですけどぉ。




