第92話:Wish You Were Here 5
金音からの返事はなかなか返ってこなかった。翌日になってもその後の連絡がない。
追いメッセを送ろうかと思ったが、なんかガッついてる人みたいになるから我慢した。いやべつに出会い目的とかじゃないけど。
朝の空気はすっかり冷えて、真冬の寒さを肌が思い出し始めているのがわかった。空気は花の香りを纏い、薄く黄金色を引きずる朝焼けは美しかったが、憂鬱が秋空のように晴れることは無かった。
学校に行き、いつも通りに授業を受ける。
休憩時間の度に何度もスマホを見るが、通知が来ることはなかった。
眩しいくらいの青空を白い雲がのんびりと流れていく。
ため息を毎時間ついていたらあっという間に放課後になっていた。
そのまま帰ろうとしたら「ねぇ、ちょっと」と声をかけられた。顔をあげると、腰に手をあてた花ケ崎さん立っていた。
「一緒に帰ろうよ」
拒む理由もないので連れだって歩きだす。校門を出るまで会話は無かった。
気まずさに、今日の天気について話題をふろうかと悩んでいたら、花ケ崎さんのほうが先に口開いた。
「昨日、合コンしたんだって?」
「……」
お耳が早い。
「良さそうな出会いはあった?」
ちら、と横を見る。無表情だ。どこを見ているのかはっきりとわからない瞳で遠くを見ていた。
人間の一番恐ろしい表情は無表情だとなにかで読んだことがある。
「いや、えと、雑司ヶ谷くんに無理やり」
「べっつにぃ、アタシに気兼ねしなくていいよぉ。ただ、なんだろ。節操ないよね。昨日今日でさ。そこは少し幻滅かも」
「いや、なんていうか、その」
しどろもどろになる俺に花ケ崎さんは「ぷっ」と吹き出して、
「だから言い訳しなくて良いって。はっきりしただけじゃん。トワさんは別にアタシじゃなくてもよかったって」
「待ってくれ。えと、その誤解がある」
「誤解? なにがどう誤解だっていうの?」
通学路を行くうちに、いつの間にか、イチョウ並木についていた。
紅葉する葉っぱが、トンネルのように俺たちを包み込んでいる。はらりはらりと舞い落ちた落ち葉が絨毯を敷くようにアスファルトを黄色に染め上げていた。
「トワさん?」
無言になった俺を心配するように花ケ崎さんが訊いてきた。
信じてもらえるだろうか?
いや、信じてほしいのだ。
「あのさ……」
話が思ったよりも長くなってしまった。銀千代の異常性をマイルドにするのはなかなか骨が折れたが、どうにか要点を絞って花ケ崎さんに事情を伝えることができた。
かいつまんで説明することができなかったせいで、俺と花ケ崎さんは無駄に歩き、いつのまにか河川敷の方まで来ていた。
「……ちょっと休もうか」
全部を聞き届けた花ケ崎さんは土手の近くの東屋を指差した。
腰かけて、川を見る。
変わらず流れは穏やかで、せせらぎが静かに響いていた。
「ねぇ、ここ、覚えてる?」
「ここ?」
土手の上にある東屋だ。見下ろせば河川敷が広がり、遠くの方にグラウンドが見える。すすきが群生していて、秋風が通る度に、サワサワと頭を下げている。
「覚えてないか」
花ケ崎さんはおかしそうに微笑んだ。
赤とんぼが飛んでいた。
「ここはね。キミが、……アタシに告白した場所」
「告白……」
あっ。
そうだここ。
五月くらいに沼袋に恋人の聖地と教えてもらった場所だ。
「本当はさ、……そんなアニメみたいな話でアタシを誤魔化そうなんて百年早い、バカにしないで!……って、ビンタしてやろうと、思ってたんだけど……、キミが、なんだろう、ずっと、死にそうな顔してるからさ、えへへ、なんだか毒気抜かれちゃったよ」
「嘘じゃ、ないんだ」
「わかってるよ。トワさんはアタシに嘘ついたことないもんね。初めて会ったときから、ずっと」
逆の立場なら何て言うだろう。
いや、考えるまでもない。百パーセント俺は信じないだろう。
こんな夢物語みたいなこと、言うやつは、信用できるはずがない。
「ねぇ。キミは……、宇田川太一くんで間違いないんだよね」
「あ、ああ。それは間違いない」
「でも、アタシの知っているトワさんじゃない……」
「……」
花ケ崎さんは俺をじっと見つめ、それから力強く拳を握って俺の胸に突きつけた。
「それじゃあ、帰らなきゃだ」
「え?」
「グズグズしてちゃだめだよ。銀千代さんが寂しがってる」
「……」
「それにね、アタシも寂しいんだ」
花ケ崎さんはポツリと呟いてから俺の手を取って立ち上がった。
「協力するよ、キミが元の世界に戻れたら、またトワさんと会えるような気がするし。アタシが出来ることは何でも」
午後の日差しは柔らかく、川面をキラキラと輝かせていた。水鳥が優雅に泳いでいる。
なにも変わらない日常なのに、俺の隣の女の子は寂しそうに微笑んだ。
スマホの時計を見ると時刻はまだ16時過ぎ。ここから旧犬山トンネルまで三十分程度。急げば17時前に間に合いそうだ。
「もう一度同じ事をやれば戻れるんじゃないかな?」
その提案は至極真っ当で、模範解答のようにも思えた。
スマホで噂を収集しながら、俺たちは再び県境のトンネルまでやって来た。
以前来たときと景色に変化はない。
ほんのりと紅葉し始めた木々に、排気ガスで煤けた壁。ひび割れた道路。変哲もないトンネルだ。
「もうすぐ十七時になる……」
花ケ崎さんはスマホの時計を見ながら、俺の背中をそっと押した。
「17時ちょうどにトンネルを抜けると神隠しに合う。キミがそれでこの世界に来たのなら、同じ事をすればもとの世界に戻れるはず」
話はそんなに単純なのか?
そんな簡単な条件だったら、意図せず被害に合う俺みたいな人がたくさん出て、行方不明者が毎年出ているんじゃないのか?
それに一番の懸念はこれで俺がもとの世界に帰れる保証は何一つとしてないところだ。また別の世界に行ってしまう可能性すらある。
そんな不安をよそに花ケ崎さんは俺を勇気つけるように、
「キミの世界のアタシとも仲良くしてね」と親指を立てた。
「うん」と、返事をして歩き出す。
夕焼けが遮られ、視界はコンクリートのみになる。等間隔に設置された照明がトンネル内部に明暗を作り出していた。
なにか他に条件があるんじゃないか?
あのときなにがあった?
過去になりかけた先日の記憶をなんとか辿り繋ぎ合わせる。
薄暗いトンネル内部に、外の夕焼け小焼けが流れ始めた。
車通りは少ないが、けしてゼロではない。ガードレールの一部がひしゃげていた。あまり思考に埋没しすぎるのも危ない。
横切るトラックの振動で地面が揺れた。残響が空気を震わす。
まもなく。
スマホの時計が17時を告げる。
「……」
ピッたしの時間で俺は外に出た。
外に出たが、とくに変化は感じなかった。チャイムが余韻を残して消えていく。
トンネルの向こう側は入り口と同じような道路が続いているだけで、変わり映えしない風景が広がるのみである。
穏やかな秋風が夜を纏い俺を包み込んでいた。
陽射しは傾き、オレンジ色の光が遠くの雲を染めていた。
戻ったのか?
あの銀千代のいる世界に?
スマホの連絡先の画面を見てみる。
「……」
名前はない。
どうやら失敗したらしい。
落胆しながら、元来た道を引き返す。
なにがダメだった?
あのときとなにが違う?
それとも、伸びきったゴムが元に戻ることはないように、取り返しのつかない現状だとでもいうのだろうか?
答えはわからない。
トンネルの入り口に心配そうに佇む花ケ崎さんがいた。
「……っ」
軽く手を上げて、「だめだった」と報告すると、少しだけほっとしたような表情を浮かべて、「しかたないよ」と手を繋いでくれた。
温もりが静かに暖めてくれた。
日が沈み、薄暗闇の中を一緒に歩く。
通りすぎる自動車のヘッドライトが切れかけた蛍光灯の明滅のように俺たちの影を切り取っている。
「ねぇ、キミはさ、もとの世界に帰りたいの?」
「わからない、けど、俺がここにいるのは違うことのように思うんだ」
「無理しなくていいよ。ゆっくりさ、馴染めば、いいじゃん。もしかしたら、ボールにぶつかったときの衝撃で記憶が混濁しているだけかもしれないし」
そうなのだろうか?
いやに現実感に溢れる夢から覚めたとき、違和感を感じる時のような、そんな夢見心地にいる気分だ。少なくとも夢の世界よりはずっと居心地良さそうだけど。
だからこそ、退屈なのだ。
花ケ崎さんと別れて自宅に向かう。
「あのさっ」
別れ際、少しだけ言いづらそうに彼女は言った。
「ゆっくりでもいいよ。焦らないで。キミはどこにいようと、宇田川太一くんだから」
不安な気持ちが払拭されるような気がした、お礼を行って、一人道を行く。
星がきれいな夜だった。
「ただいま」
自宅に戻り、靴を脱いでいるとき、見知らぬローファーがあることに気がついた。
誰の靴だろう。
疑問に思いながら、制服をハンガーにかけるため、自分の部屋に行こうと階段に足をかけたら、リビングでお酒を飲んでいた母親が「おかえり」と声をかけてきた。
「遊びに来てるわよ」
当然のことのように母さんは、
「女の子を待たせちゃダメじゃない」とグラスをあおった。
「約束してたんでしょ?」
話が飲み込めない。
「……だれが来てるの?」
「銀千代ちゃん。あんたの部屋で待たせてるから」
「はぁー?」
蹴躓きそうになりながら、階段を駆け上がり、部屋のドアを開ける。
「……」
ベッドの上に少女がいた。体をくの字にして、横になっている。
見知らぬ制服に身を包んだ銀千代が、眉間に皺寄せて寝ていたのだ。髪が短く、肩口ほどしかないが、嫌というほど見てきた顔だ。見間違えるはずがない。
「銀千代……」
小さく声をかけると、薄く目を開けた。焦点が定まらない視線で俺を捉えると、小さく、
「帰ってくるの、遅いってぇ……」
寝起きの、かすれた声で文句を言われた。




