第92話:Wish You Were Here 2
「起きて」
体を揺さぶられ、俺は目を覚ました。白い天井に涼しげな風に揺れるカーテン。固いシーツに身をよじらせると、擦れてサラリと音がした。
ぼやけた視界がこちらを心配そうに覗き込む少女の輪郭を捉える。
「あ、やっと起きた。体調は大丈夫そう?」
少女は俺が目を開けたことを確認して、笑顔になって微笑んだ。
「花ケ崎、さん? あれ、ここは?」
「保健室だよ。トワさんまじで大丈夫?」
心配そうに眉間にシワを寄せて尋ねられた。なんで、花ケ崎さん?
あれ?
さっきまで県境のトンネルにいたはずなのに、何で学校に戻ってきてるんだ?
こめかみに手を当てて最後の景色を思い出す。
薄く延びる鰯雲に、空を飛ぶ赤トンボ。
少なくとも屋外にいたのは確かだ。
「なにがあったの?」と訊ねたら、呆れたように、
「体育の時間にバスケボールを顔面で受け止めたんでしょ?」と鼻で笑われた。
「まじ?」
そんな記憶はなかったが、確かに右の鼻の穴にティッシュが詰められている。
「保健室で休むって言ってたけど、もう、とぉーくぅに下校時刻だよ。いくらなんでも寝すぎじゃない?」
左手で隠しながら右手で鼻栓を引っ張ると、デロンと赤く染まったティッシュが出てきた。幸いなことに血は止まっているようだ。
「はい」と花ケ崎さんが掲げてくれたゴミ箱にそれを捨てる。
「ありがとう」とお礼を言うと、
「もー、いいから、早く帰ろうよー。日が暮れちゃうよん」
と急かすようにその場で足踏みされた。
壁にかけられた時計を見ると、下校時刻をとうに過ぎていた。
「ああ、うん、そうだね」
なんだか腑に落ちないが、ひとまず帰ろうとベッドから立ち上がる。
鼻から大きく息を吸い込むと、消毒液と血が混じった臭いがした。
「おっせわになりましたー」
明るく元気に花ケ崎さんが保険の先生に手を振って、二人連れだって廊下に出る、と同時に、「ん」と花ケ崎さんが俺の鞄を差し出してくれた。受け取り、顎を引くように軽く頭をさげる。
「ありがと……あのさ、待っててくれたの?」
「待っててくれたのはトワさんの方でしょ?」
ニヤニヤ笑いながら返される。
「アタシの面接の練習が終わるのさ。だけど時間潰しに保健室使うのは良くないと思うなぁー」
「……」
「でも、ありがとね」
そうなの?
自分自身に問いかけても返事はない。
「花ケ崎さんと帰る約束してたっけ?」
疑問に首を捻っていたら花ケ崎さんは照れたように頬を綻ばせて、
「あったりまえじゃーん」
当たり前なのか?
「アタシら、付き合ってるんだし」
空気は澄みわたっていて、ツンと俺の肌をいたずらに刺激する。
「……」
そうなの!?
訳がわからなすぎて頭が痛くなってきた。
唇を不機嫌そうに尖らせると花ケ崎さんは真っ直ぐに俺を見つめた。
「あのさ、それよりさっきから花ケ崎さん花ケ崎さんってなんなの?」
「な、なにってなにが?」
「いつもみたいに名前で読んでよ。夏音って」
「か、か、かのん?」
「んっ、よし」
と言って、花ケ崎さんは機嫌良さそうに廊下を歩き始めた。慌てて俺もそれに続く。
「あ、あのさ。冗談だよね?」
慌てて追い付いて華奢な肩に手をかける。
「冗談? なにが?」
こてんと首をかしげられる。かわいいな、おい。
「いや、付き合ってるって……」
「? まじで大丈夫? なんか今日変くない?」
「いや、変……」
なのは貴方のほうではないだろうか?
とは言えなかった。
余りにも自然な表情をしていたのだ。
俺の反応に面白そうに鼻を鳴らすと、花ケ崎さんは歯を見せて笑った。
「それよりさ、今日は繋がないの? 手ぇー」
右手を顔の前に出して指をわしわしされる。失いかけた理性をなんとか繋ぎ止める。
「いや、やめた方がいいって。殺されるよ」
俺はまだ死体を見たくない。
「殺すって……誰に?」
「誰って……銀千代に決まってるじゃん」
「ぎんちよ?」
花ケ崎さんはゆっくりと唇を震わせ、顔の横ではしゃぐように動かしていた手を力なくだらんと下げた。
「銀千代……」
そういえば、あいつはどこにいるのだろう。周囲を見渡すが、気配はない。
「銀千代って誰?」
真顔で質問された。冷や汗がでた。
冗談を言っている風には見えなかったのだ。
「か、金守銀千代だよ。俺の幼馴染みの。同じクラスでしょ。あんまり冗談が過ぎると命のやり取りになっちゃうよ」
花ケ崎さんはまだ本気の銀千代を知らないのだ。
「……トワさんさっきから様子変だよ? 大丈夫? やっぱり頭ぶつけたのがまずかったのかな」
こちらの台詞である。
「いや、痛みはないけど……」
「それなら、いいんだけど……。ねぇ、銀千代さんって誰なの? 女子? かわいいの?」
「え、あ、まあ、わりとかわいい方だと思うけど」
「その人がどうかした?」
矢継ぎ早に質問を重ねながら、振り返ることなく花ケ崎さんはてくてくと歩き始めた。
「どうかしたって……」
どうかしているのは花ケ崎さんのほうだ。銀千代とは仲良い友達だと思っていたのに、たとえどっきりでも知らないフリはしてほしくなかった。
「あんな強烈なやつを忘れるなんて嘘だよね」
「いや、ほんとわかんないんだけど。どんな人なの、銀千代さんって」
こちらを見るともなしに、声をわずかに荒立たせて花ケ崎さんが聞いてきた。
「どんなって……妄信的というか……ストーカーだよ、俺の」
カキンとボールを弾かれる音がした。わーわーと歓声が聞こえてくる。
夕暮れが徐々に迫ってきていた。雲は紫色に染まり、校庭は投光器に照らされている。
「そんなの……、初めて聞いたんだけど」
「え、嘘だよね。花ケ崎さん……」
「……」
「はな……」
「ムカつく」
ポツリと花ケ崎さんが呟いた。
「ストーカーってなに? なんで今まで黙ってたの?」
「いや、黙ってるもなにも、見ればわかるじゃん」
「わかんないよ、そんなの。知らんし。誰だよ銀千代って。自分は愛されてます、とでも言いたいの? 親しい女の子たくさんいるんだよ、ってアピール? 言っとくけどクソダサいからね、それ」
花ケ崎さんは立ち止まり、振り返った。
影が長く延びている。廊下には俺たち以外誰もいない。
「いや、別にそんなつもりはなくて」
「まじで意味わかんないんだけどさ。心配してほしいの? 言いたいことがあるならはっきり言ったらどー?」
「え?」
舌打ちされ、睨まれる。
「はっきり言ってよ。なんなの? さっきからさぁ? けっこう腹立つんだけど」
「腹立つってなにが?」
「焼きもち焼いてほしいの? 苛立ちしかないんだけど」
「お、落ち着いてよ、別に花ケ崎さんを怒らせたいわけじゃなくて、銀千代を……」
「つぅ」
頬が熱を帯びた。
「え?」
ビンタされたらしい。パシンという小気味よい音が廊下に響く。
「な」
「ばっかみたい」
冷たく言い放たれる。
さっぱりだ。ポツンと立ち尽くす俺をおいてけぼりに花ケ崎さんは弾けるように走り出した。追いかけようと思ったが、足が動かなかった。突然のことに、脳が現状を飲み込めていない。
一人きりになった廊下で、俺はしばらく窓の外の夕日を眺めていた。
「……どっきりぃ?」
一人ごちてもなにも変わらない。
よくわからないが花ケ崎さんを怒らせたのは確かだ。原因がわからない時も女の子を怒らせたら謝るのが一番と何かで読んだことがある。
俺はポケットのスマホを取り出し謝罪のメッセージを送ることにした。
「あれ」
ロック画面が花ケ崎さんとのツーショットになっていた。東京ドイツ村(千葉県袖ヶ浦にある)のイルミネーションを背景に二人寄り添ってピースをしている。実に幸せそうな笑顔である。こんな写真とった覚えはないが、パターン認証のロックは解くことが出来た。機種も同じだ。俺のスマホに間違いはない。
ラインのトーク画面を開いて花ケ崎さんを選択し、メッセージを送る。
「ごめん。なんか頭打ったせいか混乱してて。怒らせるつもりはなかったんだ。本当に申し訳ない」
既読はすぐについたが、返事は来なかった。
「……」
しばらく待っても返事はなかった。
うん、きっと、寝てるか風呂入ってるかのどっちかだろう。
なんだかモヤモヤする。
現状がうまく飲み込めない。
花ケ崎さんは銀千代を知らないと言った。
そんなことあり得ない。銀千代の唯一の女友達といっても過言が無いほど、二人は仲良かったはずだ。
銀千代が怒らせたのだろうか?
謝らせようと、銀千代にメッセージを送るため連絡先を探したが、
「む?」
登録がなかった。
「どういう、ことだ?」
銀千代がいない?
肌が粟立つ。
これ、俺のスマホ?
お察しかも知れませんが、このエピソードで今度こそ一旦締めたいと思います。




