第84話:八月の空が燃え上がる 前
「ゆーくん、あのね」
「……」
「銀千代、急にお出掛けすることになっちゃって、しばらく留守にするけど、心配しないでね」
「……」
「ちょっと、ごたついてて、連絡も取りにくくなると思うけど、銀千代は常にゆーくんのことを思っているし、それはゆーくんもおんなじだと思うから安心してね」
「……」
「……他の女と遊んだりしたらダメだよ」
「……」
「他の女と遊んだりしたらダメだよ」
「……」
「他の女と遊んだりしたらダメだよ」
「……」
「他の女と遊んだりしたらダメだよ」
「……」
「他の女と」
「んー……」
「ありがとう。ゆーくんが浮気するはず無いってわかってても向こうはどうかわかんないもんね。油断せずに行こう!」
眠い。
今何時だ?
意識がゆっくりと覚醒していく。
「それにしても、ゆーくん、今日もかっこいいね。すきすきすきすきすっきすっき、愛してるぅ」
戯れ言がグダグダと鼓膜を無遠慮に揺らす。
「るせぇな……」
重い右腕をなんとか動かして枕元のスマホを光らせて見てみれば深夜二時だ。舌打ちをしてから寝返りをつく。
いい感じに微睡んでいたら銀千代の呪詛のような呟き声で起こされた。
暗闇に小さな輪郭をぼんやりと捉える。こいつまた勝手に部屋に上がってきてやがる。くそが。
いますぐ起き上がってビンタしてやりたいところだが、もう、それをする元気もない。銀千代の立っている方と逆方向に首を向ける。頼むから、寝させてくれ。
「すこし騒ぎすぎちゃった、かな。ゆーくんとしばらく触れあえなくなると思うと、辛くて、苦しくて、寂しくて、悲しくて、悔しくて、泣きたくて挫けそうになっちゃう弱い銀千代をヨシヨシしてほしくてたまらなくなって、声が聞きたいなって、ハグしたいなって、ハグしたい……ハグする?」
「し……な……い」
「んじゃあ、ナデナデシテー」
眠すぎて銀千代のどうでもいい声がお経みたいに聞こえ始めた。子守唄みたいなものである。お陰さまでいい感じで入眠できそうだ。
「ファー……ブルスコ……ファー……ブルスコ……ファー」
銀千代はベッドから投げ出された俺の右手に甘えん坊の子犬のように頬擦りをし始めたが、眠すぎて最早どうでもいい。
「すりすりすりすり」
吉良吉影かな。
「ゆーくん、好きぃ……嫌いな場所がなぁいぃ。全部好きぃ。ゆーくんの髪も爪も皮も声も全部好きぃ。大好きぃ。えへへ」
まだなにかぶつぶつ言ってる銀千代が遠く意識の彼方へ消え行く。そのままストンと落ちるように、俺は夢の世界に旅立った。
翌朝。
「……眠ぃ」
目覚ましに起こされた。霞む視界でスマホのアラームを止める。閉ざされたカーテンの向こうでは、今日も元気にアブラゼミが鳴いている。
爽やかな目覚めとはほど遠い。勉強するためにいつもより早起きしたのだ。全然疲れが取れていない。まだまだ眠いがここが気合いのいれどころ。
えいや、とベッドから起き上がり、机に向かおうとして、
「ん?」
床に黒い縄が落ちているのに気がついた。
「なんだ、こ」
屈みこんで、それがなんなのか判別すると同時に、戦慄した。
意外!
それは髪の毛ッ!
髪の毛の束だった。
「ひえぇ……」
三十センチほどの長さの一房が、紙がしかれたフローリングに転がっている。
紙にはボールペンで文字が書かれていた。
「ゆーくんへ。留守にしている間、この髪を銀千代だと思って大事にしてください」
紙に包んで捨てた。見なかったことにしよう。
なんか怨念こもってそうで怖かったが、冷静に考えてみれば、ただ散髪した髪を嫌がらせに使われただけである。そう思い込む。
お陰さまで目が覚めた。そこだけは感謝である。
俺は切り替えるようにため息をついて、机に向かった。
外は今日も炎天下だが、部屋からでない俺には関係ない。クーラーを快適な気温に設定したので勉強が捗って仕方ない。捗って……。はは、
「……」
年号なんて覚えて将来なんの役にたつんだよ。
歴史の一問一答をこなしていたら、脈絡もなく電話が鳴った。
見知らぬ番号だった。無視しようかと一瞬考えたが、モヤモヤした気分のまま勉強に集中することはできないと思い直す。
すこし怖いが、出るだけならタダと、通話ボタンをタップする。
「もしもし」
恐る恐る尋ねたら、若い女の可愛らしい声が返ってきた。
「あ、先輩。お休みのところ申し訳ありません」
先輩、と俺の事を呼ぶのは一人しかいない。
「……沼袋か?」
「そうです、けど……番号登録してくれてないんですか?」
ちょっと寂しそうに呟かれた。なんかこっちまで悲しくなるが、俺のせいではない。おそらく銀千代が登録を削除したのだろう。
「あー、ごめん、登録忘れてた。いつもラインで連絡とるからさ」
「あ、そうですよね。えっと、すみません、いきなり電話してしまって。ちょっと困ったことがありまして」
沼袋は一度言葉を区切るとため息混じりに聞いてきた。
「銀千代さん、そちらにいらっしゃいませんか?」
「銀千代? いや、いないけど、たぶん」
たぶんね。
「そう、ですか……」
通話先はなにやら怒号が飛びあっている。小さく稲田さんとおぼしき女性の謝罪の声が聞こえてきた。
「仕事に来てないの?」
「……はい。まあスタジオ収録だから、なんとかなるっちゃあ、なるんですけど……。無断欠勤みたいなんです。マネージャーさんも困ってて……なにか聞いてません?」
「……なにか……」
深夜の出来事を思い出す。
「あ、出かけるって言ってたな」
「本当ですか!? どちらに?」
「さぁ。なんかゴダゴダしてるとかなんとか言ってたけど」
「なにがあったのか、ご存知ないんですか? みなさん心配なされてて……」
なにも知らない。
特別なことと言えば部屋の床に髪の毛が落ちてたくらいである。
それを説明すると沼袋は「心配ですね」と呟いて、「収録が終わったらそちらに行きます」と俺の返事を聞く前に通話が切られた。
いや、来んな。
正直昨日ことは眠すぎて、夢だったんじゃないかと思い始めている。隣に住む幼馴染みがいきなり無許可で部屋に入ってきて手に頬擦りするとか普通に考えたら悪夢だ。
夢に決まってる、受験勉強に疲れた俺の脳が見せたまやかしだ。そう思おう。そういうことにしておいてくれ。
切り替えて勉強していたら、三時間後にチャイムが鳴らされた。
「……」
「こんにちは」
沼袋が立っていた。まじで来やがった。ちきしょう。有言実行かよ。折角一問一答が縄文から弥生に移ったところなのに。
「銀千代さんは?」
「いや、いないけど」
そもそもにして、あいつが何処にいるかなんて俺が知っているはずがない。
「隣のご自宅のチャイムを押したんですけど、不在でした」
「ああ。あいつんち、共働きだから……」
「銀千代さんは何処にいるんですか?」
「知らない」
「連絡は無いんですか?」
「無い。珍しいな」
再度スマホを確認するが、着信はゼロだった。
昼に沼袋に言われて「お前何処にいるんだ?」とメッセージを送ったが、返信は未だに無かった。
「心配……ですね」
「そうだな」
「……」
「……」
沼袋は俺をねめつけた。非難するような、じっとりとまとわりつく視線である。
「……なんだよ。俺はあいつの保護者じゃねぇぞ」
彼女は一度小さくと鼻を鳴らし、ポケットからスマホを取り出した。
「Twitterで銀千代さんの目撃情報とおぼしきものをいくつか特定しました。ツイートは三十分前、芋洗の銀ちゃんがカフェで本を読んでる、ってやつです。投稿者の生活圏内から特定するに、ここからそう遠くない場所。駅前のカフェと思われます。急ぎましょう」
「え、なんで?」
「……なんでェ?」
沼袋はおうむ返しのように俺の言葉をそのまま呟くと眉間にシワよせた。
「なんでって、何言ってるんですか?」
「俺も行かないとダメなの?」
わざわざ家まで迎えに来てくれた手前、言うのは憚られるが、
「本人が心配すんなって出掛けてるんだから、外野があせる必要はないだろ。そりゃあ、仕事の無断欠勤はだめだけど、考えてみればあいつもまだ十代なんだし、たまには羽伸ばしたくなるときぐらいあるだろ」
「……本気でいってるんですか? それ」
沼袋は吐き捨てるように言うと、
「女の子の心配しないでは心配してくれって意味なんですよ、先輩」
唇を尖らせて沼袋は俺を睨んだ。なんだそのリンゴを一緒に買いに行きたかった理論は。
「銀千代さんは髪を切ってまで先輩に追いかけてほしい願ってるんです」
髪の毛の束を捨てたゴミ箱をちらりと見る。なんか色々と反論したかった。
先日、ショートカットの女優さんがCMやってるを眺めていたら「短い方がゆーくんの好み?」と聞いてきたので、「長いと戦闘のとき捕まれたりして邪魔になるからな」とテキトーにあしらったのを引きずっての断髪と思うのだが、それを説明したところで、とやかく言われそうだったので、
「まあ、そうかもな」
とテキトーに頷いたら、
「よかった。それじゃあ、すぐに向かいましょう」
と押しきられてしまった。流されてしまうのが俺の悪い癖かもしれない。




