第81話:七月のネズミに花束を 前
高校三年生の夏は言うまでもなく、物凄く重要である。
人生を左右すると言っても過言ではない。
待ちに待った夏休みだが、日付が進む度に憂鬱になっていくのが受験生というやつである。
夕飯時、そんな焦燥感を誤魔化すため、意を決して、
「予備校に行きたいんだけど」
と母親にお願いしてみた。
「そんなお金ないよ」
一蹴された。
膨らんだやる気がみるみる萎んでいく。
子供が真剣に勉強したいと言っているのに、なんて親だ、とふて腐れていたら呆れたように溜め息をつかれた。
「あんた、予備校にいけば勝手に頭が良くなるもんだと思ってない?」
「!?」
見透かされた。
「大体ね。常日頃から勉強する習慣がある子は今さら予備校なんて行かないのよ。あんたはまずその習慣をつけるところから始めなさい」
「いや、でも、勉強のしかたがわかんないんだって」
「問題解きまくればいいのよ。あんたの大好きなゲームだと思えば簡単でしょ」
はっはっは、おいおいおい。わかってないなぁ、ゲームは楽しい。勉強はつまらない。そこんところが、この人には伝わらないのだ。
テレビのクイズ番組でお笑い芸人がしょうもない回答をして笑いをとっていた。くそ、俺もバカさらけ出してお金稼げる仕事につきたいもんだ。と現実逃避していたら、インターホンが鳴った。
「ちょっと出てきて」
珍回答にゲラゲラ笑っている母親が俺に命令してきた。
暇そうな癖に、と思ったが、媚を売っておくのも大事か、と思い直す。受験というのは親の協力失くして達成できるものではないのだ。
「こんばんは」
「……」
玄関に行く前に勝手に上がってきた来客は、リビングの俺と母さんに向かって頭を下げた。
「あら、銀千代ちゃん、こんな夜更けにどうしたの?」
いや、まず、入室の許可してないのに勝手に家に上がってきたことに恐怖を感じてほしいのに、母さんは至って自然に現れた銀千代に声をかけた。ん、つうか、鍵閉まってたはずなんだよな。
「ちょっと会話が聞こえまして」
「会話?」
「あの、和子さん、ゆーくんを予備校に通わせてあげてほしいんです」
エネル並みの心網だ。
なんでプライベート空間でした親子の会話を赤の他人が把握してるんだよ。
思わず怒鳴り付けようとした俺より先に、母さんは大きく溜め息をついた。
「そうしてあげたいのはやまやまなんだけどねぇ、家計が火の車なのよ」
「安心してください」
銀千代はにっこり笑うとポケットから手帳のようなものを差し出して開いて見せた。
「ゆーくんの教育費用、貯めておいたんです」
通帳だった。
「とりあえず一千万円」
「……」
「足りなければ、いくらでもお出しします。銀千代、スイス銀行に口座持ってるんで」
喜色満面にもう一枚通帳を突き出す。
ちらりと見えた数字に膝が震えた。
「だから、ゆーくんを予備校に通わせてあげてください」
「え、とね」
母さんは浅く溜め息をついてから続けた。
「銀千代ちゃん、お金というのは簡単に貸し借りしちゃだめなのよ」
「貸し借りじゃありません。資金援助です! あ、もし黒いお金を心配してるなら安心してください。クリーンなお金です!」
「んーと、あなたはそういうつもりでも、受け取った側は、あなたに対して負い目を感じちゃうでしょ? 学生時代の人間関係くらいは対等じゃないとダメだと私は思うわけ。だからそのお金は受け取れないわ」
「でも……、銀千代はゆーくんに頑張ってほしくて……」
少しうつむいて、ズボンをギュッと握る銀千代。いじらしい仕草ではあるが、飛び交う金銭の額はえげつない。
「そう思うなら見守って上げて。銀千代ちゃんも受験生でしょ? この子にかまけて自分の人生を蔑ろにしちゃダメよ」
「……銀千代はゆーくんが幸せならそれでいいんです」
「それじゃあ、ダメなのよ、銀千代ちゃん」
母さんの呼び掛けに、銀千代は微かに顔をあげた。
「甘やかすだけじゃ成長しないの。付け上がるだけ。そもそも幸せを祈るなら、まず銀千代ちゃんが幸せにならないと」
「……和子さん」
「自分がしなきゃいけないことをちゃんとして、その上で余裕ができたら助けてあげて」
「……お義母さん!」
ちげぇだろ。
「なるほど……うん、わかりました! そうですね! はい!」
てきとーにあしらわれた銀千代が「失礼しました!」と頭を下げて帰っていった。なんだったんだ、あいつ。やってること、ほとんどカオナシと一緒だぞ。
銀千代がいなくなってリビングが静まり返る。バラエティー番組の大袈裟な笑い声が響いていた。
「まあ、たしかに」
うん、と一人で頷いてから、母さんは立ち上がり、タンスの引き出しから何かを取り出して戻ってきた。
「あんたが自分から勉強したいと言うのは珍しいし、感動したわ」
と至って無表情でテーブルの上に何かをおいた。
「参考書でも買いな」
図書カード五千円分だった。
「使い方は任せるけど、無駄使いしないようにね」
「ああ、ありがとう」
なんだろう。少しやる気でた。
のが、昨日の夜。
で、今。
学参売り場に行く前にコミックコーナーを見たのが不味かった。
「……」
気になってた漫画、まとめ買いしてしまった。第二部が始まって面白さが止まるところを知らないのが悪い。俺のバカ。バカバカバカ。
「……後悔はない……こんな世界とはいえ俺は自分の信じられる道を歩いていたい」
なんて一人ごちたところで、やってることは最低である。自己嫌悪に立ちくらみした。
申し訳程度に英文法の参考書を一冊購入して、本屋をあとにする。
熱気が町を包み込んでいた。空には絵になるような入道雲が浮かんでいる。
爽やかすぎる天気なのに、俺の気分は晴れなかった。
夏本番を迎え、滝のように汗が吹き出してくる。
涼むついでに図書館に行くことにした。家では集中できないし、せっかく買った参考書を進めることにしよう。
図書館については、席を確保し、ノートを広げる。よし、やるぞ。
やったるぞー、おー。
の前にしばらくケータイいじれなくなるし、メッセージの確認しておこう。通知四十二件、全部銀千代だ。無視無視。あとしばらくいじらないからソシャゲの周回回しとこう、よし。
と気づいたら三十分過ぎていた。なんだこれ。俺の相対性理論狂ってんのか?
しまった。
あわてて参考書とノートを開く。一問目からさっぱりだった。なんてこった。
答えを見ながら、あーふーんなるほどね、と問題を解いていく。全然勉強してる気しなかったが、なんとなくやってる感はでた。
「……!」
これじゃだめだ!
ちゃんと、やるんだ。
ちゃんと、
「……」
どうやって?
「うーん」
思わず唸っていたら、
「あれ」
正面の机にいた女の人が顔をあげた。
切り揃えられた前髪がさらりと揺れる。切れ長の瞳をもつ小柄の女性だった。
「あー、いつぞやの」
「ん?」
声をかけられた。
見覚えがあるが、名前が出てこない。誰だっけ、と首を捻っていたら、
「あ、思い出した、あっくんだ」
と指差された。誰だよ。
「違います」
「え、あれ。んー、あっ、わかった、やー、ゆー、よー、あっ、ゆーくん、はいはいはい、完全に思い出したわ」
「はぁ」
いや、それあだ名だけど。
どうやら顔見知りなのは間違いないらしい。誰だっけこの人。
「その後、どう? 銀千代さんは元気?」
「……ぼちぼちですかね」
まじで誰だ。もうわかんねぇから、
「お名前なんでしたっけ?」
直接聞いてやろ。
「ルナ」
「ルナ……」
「え、呼び捨て?」
「さん」
「えー、忘れてるの? 寂しいわ。私は思い出したのに、なんかムカついてきた」
「すみません……。えーとどちら様でしたっけ?」
「んふふー、ちょうどいい。ワタクシ、こういうものでございます」
少し気取った口調でそう言うと、シャツの胸ポケットから名刺を取り出して、俺に差し出してきた。
反射的に受けとる。黒い名刺に三日月がデザインされた名刺に『占い師、月見里月 タロット、手相、四柱推命』と書かれていた。実にうさんくさい。
「駅前の占いの館でデビューしたの。まだ駆け出しだけど、よろしくね」
「……あー」
思い出したぞ。この人、いつかの文化祭の時に俺と銀千代の相性占いした占い研究部の部長だ。とっくに卒業して、いまはたしか女子大生していると思っていたが、怪しい活動はやめていなかったらしい。
「まあ、めちゃくちゃ暇なときにでも行きます」
嘘である。絶対行かない。
「んふふ、少しは割り引きしてあげる。と言いたいところだけど、君には色々と迷惑かけたし、一回くらいは無料でみてあげるよ」
「迷惑?」
「いくらお金を積まれたとはいえ死の宣告とかしちゃったしね」
ああ、あったな、そんなこと。占い師としてのプライドないのかって思ったもんだ。
「手を出して」
「……」
まあ、反省してるみたいだし、ただで見て貰えるなら儲けもんだ。
左手を差し出すとギュッと手のひらをマッサージするように広げられた。冷たくて柔らかい現役女子大生と手を繋ぐ。
「……」
いかん、ちょっとドキドキしてきた。
「えっ!」
ルナさんは目を見開いて声をあげた。
「な、なんかありました」
「嘘でしょ。頭脳線短っ!」
「……」
「こんな短い頭脳線の人初めて見た!」
「またまたまた」
「う、嘘じゃないわよ、ほら、ここの線、これが頭脳線、なんだけど、……わー、すご、ちょっと写真いい?」
許可する前にポケットからスマホを取り出して、
パシャァア
「めっちゃ短い、ウケる」
一枚撮ってめちゃくちゃ笑われた。
「放してください」
不愉快である。
「ごめん、ごめん、でもまあ頭脳戦はそのままストレートに知能を表す指標というわけではないし、手相は変わるものだから。がんばろ!」
「受験生に対してひどい言いがかりですよ」
「受験生? ああ、そうなんだ」
ルナさんはへらへら笑いながら手を離すと、鞄から一枚のチラシを取り出して机の上に拡げた。
「よかったらこれあげる」
「なんですか、これ」
「かけもちバイトしてる塾の無料の夏期講習のお知らせ」
「バイトしてるんですか」
「受付だけどね。占い師は歩合制だからそんなに稼げないのよ」
にこりと微笑むとルナさんは立ち上がった。
「それじゃあ、四限があるからバイバイ。また、縁があったら会いましょう。さようなら」
「ああ、はい、また」
残された俺はチラシと英文法の参考書を見比べてみてみる。
なるほど。
一週間程度の体験教室らしい。個別指導でマンツーマンで学業指導を行ってくれる、とのこと。
「……フゥン」
まあ、無料なら親も納得してくれるか。
と思い、その日の夕方母親に許可を貰い、早速受付に電話をしたら翌日から参加できるようになった。




