サマー・スクール・セッション 4
これから昨日と同じようにどうすればいいのか会議するもんだと思っていただけに、なんだか拍子抜けである。
視界から消えた銀千代の最後の発言に頭を悩ませても答えは出てこないが、彼女の言葉はわりと真理をついていたように思える。
「未練か」
俺にはなんの未練がある。
小学四年生の頃に、過去に戻ってまでやり直したい、出来事、
「なにか」あったはずだ。
もう少しで思い出しそうなのに、
喉に刺さった魚の骨のような違和感がずっと抜けない。
一回り小さくなった自身の手のひらをじっと見つめて考える。
なにか……。
公園の前の歩道をサッカーボールがてんてんと転がっていった。それを追いかけて、隣の席の児童の矢部くんが駆けていく。
「あ」
忘れていた。
いや、気のせいだと判断し、覚えておく必要もないと、蓋をしていた記憶が再演されようとしている。
半袖のワイシャツを着た男性がゆっくりと公園に入ってきた。
向かいのベンチに座っていた女子高生が、腰をあげた。待ち合わせをしていたのだろう。昨日の男性とは別の恰幅のいい中年の男だった。
二人は公園の中央で落ち合うと二三言葉を交わし、そのまま出口目指して歩き始めた。
思い出した。
ベンチから腰を浮かせて、駆け出す。
今持てる全速力で、恥も外聞も、かなぐり捨てたダッシュだ。吐き出す二酸化炭素は熱気を持って、汗が一気に吹き出した。
これだ。
奇妙な予感があった。
走るうちに、予感はやがて確信となり、俺は決意を固めた。
向こう見ずを演じて、わざと蹴躓いて、女子高生にタックルした。
「きゃあ!」
二人とも倒れる。
彼女の手に持っていたスマホが地面に転がり、ジャリジャリと音をたて、カーリングのストーンのように滑っていった。
「痛ぁー、なにぃ、っ」
手をついて起き上がり、俺を睨み付けてくる。
けして美人とは言えない、派手な化粧をした女だった。
「痛いんじゃんか、なんなの、このくそがき」
どうしようか、なにも思い浮かばなかった。とりあえず、体が動いてしまった。
「謝れよ。人にぶつかったらさぁ!」
ヒステリックに女が叫ぶ、全くもってごもっともだが、謝罪する気は微塵もわいてこなかった。
無言で、戸惑いを演技に、なにも言わずに俺はじっと女を見た。
「大丈夫かい?」
近くに立っていた男性が落ちていたスマホを拾って女に差し出した。
柔和な笑みに、厄介事は勘弁してくれ、と貼り付いているようだった。
「坊主からぶつかっていたように見えたが……、悪いことしたらちゃんと謝んないとだめだぞ」
ああ、ほんとうにその通りだ。だからこそ、俺は苛立っているんだ。
「あれ……」
男性が俺を見て目を見開いた。
「キミは……」
「おじさん」
「……」
銀千代のお父さんだった。
少し小太りで、だけど、頼れる町のお医者さん。
八年前の事をはっきりと思い出していた。
矢部くんといっしょにサッカーをした帰り道、俺は銀千代の親父さんと制服を着た女子学生が並んで歩いているのを見た。
その数ヵ月後に、未成年淫行で親父さんは捕まり、町中の噂になったのだ。
なにが後悔なんてわからないし、ついさっきまで忘れていたけど、これがきっと俺の潜在意識にあった未練なのだろう。
もし俺が、あの時、それに気づいて、なにか行動を起こしてさえいれば、娘の人生もきっと違ったものになっていたはずだ、と。
「……気を付けろよ」
おじさんは言葉少なに言うと、ぶつぶつと何かしらの文句を言っている女子高生に手を差しのべて起き上がらせた。
「おじさん」
俺の声は当然のように無視され、二人は小学生男子に一瞥もくべず、歩き始めた。
「おじさん!」
どうすればいいのかわからなかった。 だけど、このまま行かせるのは、絶対に間違いだと感じていた。
夕日の射し込む教室で、ぽつりと呟いた銀千代の一言が忘れられない。
「わたしに居場所なんかないもの」
なにもしなければ数ヶ月後、俺はまたその独り言を聞くことになる。
あいつのあんな顔を、もう一度なんて絶対に見たくない。
「たすけて!」
思うままに行動することにした。ランドセルの防犯ブザーのヒモをひいて、みっともなく銀千代のお父さんの足にしがみついた。子供のふりして、怒られて、唯一の知り合いに、すがり付く真似をした。
こんな非合理的な演技、子供の時分じゃないと絶対にできない。
「お、おい、はなせ!」
「うわあああん!」
自身の大根役者ぷりにおかしくなってきた。泣いているのか笑っているのか、自分でもわからなくなった時、誰かが呼んだ警察が来て、俺と銀千代の親父さんは交番に連れていかれた。
人混みの隙間から、騒ぎはごめんと言わんばかりに駆け足で、女子高生が公園から足早に出ていくのが見えた。
無責任な小さな背中に俺は小さく舌を出した。
交番で軽く事情聴取を受けて、俺と親父さんは数時間後に解放された。
人とぶつかってパニックになった子供が知り合いを見つけて助けを求めた、というだけの話だ。
被害者はいないし、数分で解放された。
交番から外に出ると、夜の気配が町を包み込んでいた。
「やれやれ、とんだ休みになったよ」
おじさんが疲れきった顔で言う。
俺の下手くそな演技を真にうけているのか、わからないが、少なくともこの人が思っている以上に、子供は子供じゃないはずだ。
「キミのせいで予定がおじゃんだ。まったく……今度からちゃんと前見て走るんだぞ」
気のいい町のお医者さんに戻った親父さんが俺の頭をぽんと撫でて、歩き始める。ポケットから引き上げた右手にはスマホが握られていた。
「あの……」
なんて言えばいい?
なにも言わないほうがいいんじゃないか?
隣人に対して、俺はいつも頭を悩ませてばかりだ。
シャツが汗で貼り付いているのがわかった。耳鳴りのような蝉時雨が降り注いでいた。
「銀千代が悲しみます」
「……ん?」
親父さんが振り返り首を捻った。街灯に照らされた表情はシワを濃くしている。
言わないほうがいいか?
でも、言わなかったら、また同じことの繰り返しだ。
「あんなこと、もう二度としないでください」
「あんなこと? ……おいおい、なに言ってるんだ、ぶつかったたのは、キミじゃ……」
目が合う。
銀千代とよく似た大きな目。
それが一度大きく開かれ、すぐに恐怖の色に染まる。
「……お前……っ」
およそ子供に向ける声ではないだろう。低く沈んだ声で、親父さんが俺を睨み付ける。
「……お前は、なんなんだッ?」
「……」
「……っ」
銀千代の親父さんは答えを聞く前に、走り出していた。
なんて答えたらいいのかわからなかったので、ちょうどよかったのかもしれない。
「……未練か」
一人きり、日が沈んだ茜空を眺めて、俺は深く目を瞑った。
生きてきた十七年間で「もしも」があるとするならば、
「これでよかったのかな」
どんな未来が待っているのだろうか。
秋が来る前に、金守家は遠くの町に引っ越していった。当然のように娘の銀千代との交流は一切無くなった。
親父さんが世間を騒がすことはなかったが、結局三年後に離婚したと風の噂できいた。原因は浮気ではないとうちの母親は言っていたが、実際はどうなのだろう。
数年後、
最近数学の難問を解いた日本人の天才高校生が美人過ぎるとネットで話題になっていたが、なるほど、写真をみたら銀千代だった。俺と彼女の繋がりはその程度のものになり、今日に至るまで、彼女と再会することはなかった。
銀千代が遠くに引っ越す日、いつかの公園でアイスを食べながら、ぼつりと呟いた一言が忘れられない。
「もっと自分の気持ちに素直になれたら、後悔することもなかったかもしれないのにね」
なにも言えなかったが、どちらに転んでも、きっと、ああすればよかったと、悔やむんだろうなと、思った。




