サマー・スクール・セッション 1
昨日のことすらまともに覚えていない俺でも、生きてきた十八年間で忘れられない出来事がいくつかある。
鉛筆が走る音。校庭から響くたくさんの児童の笑い声。窓から吹き込む初夏の風。揺れるカーテンの隙間には、薄く飛行機雲が浮かんでいた。
「……ぁ」
教室にいた。
居眠りからの覚醒にしては信じられないほど記憶が混濁していた。いつも通りと判断するには、些か奇妙な状況である。
何もかもが、小さいのだ。
机も、椅子も、自分の手のひらさえも。
「それじゃあ、十年後の自分に手紙を書きましょう」
教卓に手をついた女性が全体を見渡して、ゆっくりとよく通る声でそう言った。黒板には「タイムカプセル」と書かれている。
奇妙な状況だ。制服を着ている生徒は誰一人としていない。
「……」
目を擦り、視界をクリアにしてから教壇に立つ女性を見る。
あの人、藤沢だ。小六のときに産休に入って、そのまま卒業まで学校に来ることはなかった。
小学校?
左右を見渡す。
見覚えはあるが、名前は思い浮かばない、そんな顔がいくつも並んでいる。
どういうことだろうか。誰一人としてマスクをしていない。
あれ?
ぼんやりとした思考が徐々にクリアになっていく。
なんで子供ばかりの教室に俺はいるんだ?
全員が十に届くか届かないか、そんな年齢。
「なにキョロキョロしてるの?」
斜め後ろの女生徒がつっけんどんに言ってきた。
「気が散るんだけど」
振り返り、視線がかち合った。幼いながらも端正な顔立ち。
「お前、銀千代……か?」
名前を呼ぶと露骨に嫌そうな表情を浮かべ、少女は小さく舌打ちをした。
「気安く呼ばないで」
現状が理解できないが、この光景は見覚えがある。
デジャブではないと断言できるのは、彼女の幼い容姿と余りにもぶっきらぼうな対応からである。そしてなにより、
「手紙……俺なんて書いたっけ……」
小四の時に、タイムカプセルを校庭の隅に植えたのをはっきりと覚えているからだ。十年後、つまり、みんなが二十歳になる歳に掘り起こそう、と学活の時間に誰かが言って、当時の担任がそれを認めたのだ。
一体全体どうなってるんだ?
握った鉛筆で二の腕を軽くつついてみたら痛かった。夢では無さそうだ。自身の小さな手のひらをみて、ため息をつく。
昨日まで、俺はたしかに高校三年生で、一ヶ月後の夏休みにわくわくしつつも、迫り来る受験の恐怖にいまいちテンションが上がりきれていない、宙ぶらりんな受験生だったはずだ。
「……」
これはなんだ?
高校生だったときが、夢だったとでもいうのか?
まさか、受験が嫌すぎて、過去に戻りたいという俺の深層心理を、神様が聞き届けてくれたとでもいうのだろうか?
「……んなバカな」
未来の自分に向けた白紙の手紙に、
「1492年新大陸発見コロンブス」
「ミッキーマウスの誕生日は11月18日」
と綴り、
「絶対正しい!」
と自分の脳の正常さを確かめる。
チャイムを合図に担任が「みんなぁー、書き終わったー?」と確認をし、手紙は裏返しで前方に回されていった。
翌日のロングホームルームにタイムカプセルにして埋めることになっているらしい。
三十数枚を一まとめにした担任は、そのまま連絡事項を端的に伝え、クラス一同の「さようなら」を聞き届けると、職員室に帰っていった。
「……なんだ、これ」
頭がおかしくなりそうだった。
信じられないことが起こっている。
八年前だ。小学校四年生。
掠れかけた記憶をたどり、逆算して年号を数える。
俺の認識している年から、過去に俺は存在している。
ランドセルを持って、教室から出ていこうとするクラスメートを唖然としながら見送っていたら、
「帰ろーぜ」
と隣の席の男子が声をかけてきた。
誰だっけ、と思ったが、そうだった、この頃はまだ銀千代が付きまとっていなかったから、普通に友達がいて、放課後とか一緒に帰っていたんだった、と思い出した。
「ああ、ごめん、ちょっと野暮用があるから先帰ってて」
「やぼ? ……ほ、ほーん、じゃあ、な。また明日」
「また明日」
努めて幼い声を出して、その男子と別れる。たしか、名前は、矢部だ。来年には別のクラスになって、会話することもなくなる男子。
教室の人数が減っていく。それをぼんやり眺めながら、鞄に教科書を詰め終えた少女に「銀千代」と声をかける。
「なに? 気軽に呼ばないでってさっき言わなかったっけ?」
不機嫌そうに返事された俺は、
「一緒に帰ろう」
と要件だけを伝えた。きょとんとする少女。
呆気にとられた彼女の後ろで、たまたま俺たちの会話を聞いていたらしい別の男子が手拍子しながら割ってはいって来た。
「おおー、宇田川さん、女子と仲がいいですねぇ、告白ですかぁー! ひゅーひゅー」
「なんだこいつ……」
いたなぁ、お調子者のうぜぇやつ。たしか町田って名前だ。
「うるせぇな」
精神年齢がちょっと上だからか、珍しく苛立ちが口をついた。
「ガキか。お前は。こいつとは帰る方向おんなじなんだよ」
「……あ、あっそ」
ぴしゃりと言ったら、目を丸くして、去っていった。
おとなしい生徒のはずの「俺」が反論したことが信じられなかったのだろ。緊急事態だから許してほしい。
なにがなんだかわからないが、俺が大抵理不尽な状況に陥るとき、銀千代が何かしらを起こした可能性が高いので、いわばこれは事情聴取だ、と振り返ると銀千代がいなかった。
「む」
教室を出ていくところだった。赤いランドセルが遠くなっていく。
「待てよ、こら!」
廊下で追い付いて、ランドセルを掴む。舌打ちと共に振り向いて彼女は俺を睨み付けてきた。
「別に一緒に帰るなんて約束なんてしてないんだけど」
「話したいことあるんだよ」
「私にはない……ついてこないでくれる? もしかしてストーカーなの?」
「お前にだけは言われたくねぇよ。つか、家の方向同じだろうが」
「めんどくさ」
銀千代はこれ見よがしにため息をついて、
「勝手に話してれば?」
と吐き捨てるように言って歩き始めた。
エントランスから外に出ると、ムアッとした熱気が俺たちを包み込んだ。セミが鳴き始めていた。夏が近い。
「暑ぃな」
小学生の帰宅時間は高校生のそれより一時間以上も早い。太陽もまだ元気な時間帯だ。まだ七月も初旬だというのに、アスファルトには陽炎が揺蕩っていた。
直射日光にげんなりしながら、俺は銀千代の背中を追いかけた。これではいつもと逆である。
黒板に書かれていた日付は同じだった。違うのは西暦だけだ。八年前も同じ季節を過ごしていたことを、当たり前だけど俺は思い出していた。
まだ小規模な蝉時雨を浴びながら、夏の匂いを鼻から感じる。
不思議と落ち着いている自分に一番驚いていた。
「本気で言ってるの?」
通学路を歩きながら、俺の話を無言で聞いていた銀千代は、一区切りがついたところで、大袈裟にため息をついた。
「ああ。自分でも信じられないけど」
「駅前にメンタルクリニックができたそうだから予約してみたら?」
「ああ、いつも薦めてるやつか。グーグルレビュー星3だけど、先生は物静かで受け付けも優しく話を聞いてくれるそうだぞ」
「つまんない冗談ね。本当に自分がタイムスリップしたって言いたいの?」
「まあ、そうなるな」
ディオのスタンドをほんのちょっぴり体験したポルナレフよりは、現状をありのまま伝えられた方だと思うが、
「ノータリンだと思ってたけど、ここまで来ると逆に尊敬するわ」
銀千代なら無条件に俺の言うことを信じてくれると言う幻想があっただけに、鼻をならす彼女の態度は少なからずショックであった。
実際問題、俺自身、妙に落ち着いている自分に驚いているところである。現実感が無さすぎて、他人の人生を覗き見しているような気分だ。
「それじゃあ、あなたの中身はいま高校三年生だっていうの?」
「そういうことになるな」
「ふぅん。話し方は変わらないのね。浅慮は生まれつきってことかしら」
のび太のおばあちゃんなら信じてくれる状況なのに、銀千代は意地悪そうな表情を浮かべて、続けた。
「それじゃあ、八年後の私はなにしてるの?」
「言っていいのか?」
「構わないわよ。ノーベル賞は何個くらいとれてるのかしら」
「アイドルしてる。芋洗坂39ってグループに所属して、テレビとかに出てるな」
「なに言って……」
予想外の返答だったのだろうか、銀千代は乾いた笑いで吐き捨てると、
「私が頭空っぽにして、そこらへんの有象無象に媚を売って、へーこらするはずないじゃない。薄気味悪い冗談言うのやめてくれない? まあ、確かに私は可愛いしテレビに出たらモテモテだろうけど」
口では文句言いつつも、仄かに頬を紅潮させている。そういう未来も悪くないかなぁって感じの考えが透けて見える表情だった。結局人間は数年程度じゃ本質は変わらないらしい。
「とはいえ事実だからな。ここで嘘言ってもしょうがないし」
「ねぇ、本当に未来人だというなら、これからなにが起こるか知ってるんでしょ? 予言して見せてよ」
挑戦的な笑みを浮かべて銀千代は俺を見つめた。
「予言っていってもなぁ。新しい元号は令和だけど」
「……え、元号変わるの? いつ?」
「いつだっけ。今から数えると、三年、いや、四年あとか?」
「ふぅん、れいわ、うん、令和、ね。なるほど、慣れたら耳障りは良さそうね。ほかには何があるの?」
「数年後、コロナウィルスでパンデミックが起こる。最近はサル痘がやばいって言われてる」
「感染爆発? ぷっ」
銀千代は吹き出した。
「バカじゃないの? いまの衛生観念と医療体制でそんなの起こるはずないじゃない。もっと勉強したら?」
「みんなそう思ってたんだよなぁ」
銀千代はけらけら笑いながら、歩みを止めると、顎で公園の入り口を示した。
「面白いからあなたの嘘を暴いてあげる」




