第79話:六月に伝播する狂気
帰宅してから夕飯までの時間、腹這いになってソシャゲの周回を回していたら、
「にゃぁーん」
と、か細い声がして背後のクローゼットがバタンと開かれた。
「ちっ」舌打ちが漏れる。
「勝手に部屋にはい」
苛立ちながら不法侵入を注意しようと振り返ったら、
「にゃあん……」
「え……」
猫耳つけた沼袋が立っていた。
「……」
制服で……猫耳と尻尾を着けた沼袋七味がそこにいた。
一つ下の後輩で、銀千代が所属する芋洗坂39というグループの三期生のリーダーを勤めるアイドルだ。
暫し無言で見つめ合う。
所在なげに佇む彼女は間違いなく沼袋七味その人である。
「……沼袋?」
「にゃん……」
「……なにしてるの?」
キャラじゃなくない?
「……っぅ」
徐々に完熟トマトのように赤くなっていく沼袋。
「あ、あの、……えっと……」
辿々しく言葉を紡ごうとしていた沼袋だったが、ハッ、と目を見開くと。決意を込めたような大声で、
「にゃ、にゃんにゃん、しちにゃんを飼ってほしいにゃん!」
と、猫のポーズと共に世迷い言呟いた。
「……」
やばいもんでも食べたのだろうか。
媚びるような動作に並の男子高校生ならノックアウト寸前だろうが、
「すぅ~~~……」
俺は違う。
「……ば~~~~っかじゃねぇの!?」
「……」
「お前何しに来たんだよ。銀千代の真似か? ダメな影響受けてんじゃねぇぞ」
「にゃ、にゃ……」
日本語を忘れたらしい沼袋はアタフタと戸惑っているが、俺には通用しない。なぜなら不法侵入だからだ。
「クスリやってんのか? 保健の授業で良くないって習っただろ」
「……っく」
俺の真摯な説得に沼袋は膝から崩れ落ちた。
「ぅー……」
その場に呻きながら踞る。
いや帰れよ。
「す、すみません、でした……」
土下座か、これ?
「私には、やはり無理……」
日本語をようやく思い出してくれたことは喜ばしいが、人語を理解する合成獣のようになった少女はただ一言「死にたい」と続けて呟いた。
「なにが」
謝罪はいいからはやく出てってほしい。何度も言うが、不法侵入だ。
「恥ずかしくて、とても、できません、すみません、銀千代さん」
「銀千代?」
いや、あいつはここにいな
「うん」
いた。
ベッドの下からモゾモゾと這い出てきた銀千代は立ち上がって腕を組んだ。なんだなんだ、半天狗みたいな登場しやがって。俺の部屋でかくれんぼでもしてんのか?
「まだ沼袋さんには早かったか。この領域の話は」
「すみません、色々とお膳立てしてくださったのに……、どうしても恥ずかしくて、……わ、私には出来そうもないです。銀千代さんは演技をするとき一体何を感じ何を考えているんですか?」
「別に何も」
「流石です。照れずにコレをできるなんて、やはり銀千代さんの胆力は、すごい……」
「ううん。大丈夫。わかってたことだから。ゆーくんには銀千代から言っておくから、そのまま帰っていいよ」
「はい……私、その、精一杯、頑張りますから……また、よろしくお願いします」
沼袋はしょんぼりした様子で立ち上がると、ドアのところで大きくお辞儀をして、
「失礼します!」
と業界人っぽい挨拶をして去っていった。猫耳外し忘れてるぞ。
「……」
なんだったんだ。いまのやり取り。
出落ちなのは間違いなさそうだけど。
ちらりと銀千代を見ると、目を細めて俺を見ていた。
「どうだった?」
「いや、意味わからんのだが」
「銀千代と比べてどうだった?」
「なにが」
「猫ちゃん」
まじで何言ってんだ?
どっきりだったらもう蛇足だ。
それより沼袋の精神状態が大分心配である。
窓によって、家の玄関を見下ろすと、ちょうど沼袋が出て行くところだった。小さく気合いをいれるようにグッと拳を握って力強い足取りで去っていく。猫耳はずし忘れていた。
「だいぶキてるみたいだな……」
ストレスか?
銀千代の方を向きなおすと、机の上に置かれていたハサミを手にもって、刃をジッと見つめていた。
「なにしてんだ」
「……」
「とりあえずそれしまえ」
「……ハッ」正気に戻ったらしい、取り繕うように銀千代はハサミをペン立てに戻すと、「それで、沼袋さんの猫ちゃんはどうだったの?」と質問を重ねてきた。
「なにがなんだかわかんなくて、イラついた」
現在進行形で。
「……そっかぁ」
ニヤニヤと銀千代は笑った。
「やっぱりぃー、ゆーくんの一番は銀千代ってことだね」
「そうは言ってないだろ」
大きくため息をつく。
「一から全部説明しろよ。なんだったんだよ、あれ」
「うん」
銀千代は小さく頷いてから、機嫌良さそうにベッドに腰かけた。座んな、おい。
「実はね、この間、撮影前の控え室で沼袋さんから、相談されてね」
「……」
恋愛相談か? その話題はちょっと気まずい。
「今度単発のドラマが決まったらしくて、演技指導してほしいってお願いされたの」
俺は自惚れていた。
「本当はヤだったんだけど、どうしてもっていうから、仕方なく、ね」
一度唇をなめる。
「まあ、格の違いを解らせてあげるいい機会と思うことにして、銀千代流の演技レッスンしてあげたんだよ。
プロとして━━━━」
間違いなくアドバイスを求める人物を間違えているのはさておき、なんで急に語尾伸ばしてんだ、こいつ?
つうか、
「あれのどこが演技レッスンなんだよ」
「演技をするに当たって一番大事なのはね、なりきることなの」
至極当たり前のことをしたり顔で言われても、「そりゃまぁそうだろ」としか答えようがない。
「だから、大前提として、いまの自分を捨て去らないといけない。だって、他の人になるのに、別の性格があったら邪魔でしょ?」
なるほど、と妙に納得しかけたが、
「いやいやまてまて、そうだとしても、猫になるのはどう考えてもおかしいだろ。いや、猫っていうか……あれは……」
ただのオプション……?
「羞恥心を捨て去るために必要なのは、自我だから、猫になってもらうことにしたの。それから、人前じゃないと演技の真価は発揮されないから、ひとまずゆーくんに見てもらおうと思って」
「なんで俺が……」
なによりまず不法侵入だよね?
知ってる? 不法侵入って犯罪だよ?
「他者と比較することで、銀千代が世界で一番可愛いって改めて認……」と言いかけたが、「けほん」と咳払いをしてから、「それは沼袋さんもゆーくん好きだからね、やっぱりゆーくん好きの先輩として花を持たせてあげようと思ったんだよ」と言い直した。
おそらく咳払いの前が本心だろう。最悪な人間性しているが、これ以上この話を続けるのも面倒だし、不毛だ。
「ああ、そう」
とため息を飲み込んで、スマホを握り直してソシャゲの画面を開く。
「理解できないということを理解したよ。もう二度としょうもないことに俺を巻き込むなよ」
「うん。安心してね。沼袋さんとゆーくんが二度と会わないよう気を付けるね」
「……そこまでは言ってない。ともかく沼袋を変なこと吹き込むなよ。お前みたいなやつは、お前だけで十分なんだから」
「ゆーくんのオンリーワンにしてナンバーワンは銀千代だけだもんね。もちろん、わかってるよ」
「……もう帰れ。こう見えて俺もわりと忙しいんだ」
新イベントが始まって、やること目白押しなのだ。
「あっ、待って、ゆーくん」
「あー?」
ベッドから立ち上がった銀千代はポケットから猫耳のカチューシャを取り出すと頭にはめた。
「はぁー?」
「にゃんにゃん!」
「人の話聞いてたぁー?」
役に立たない四つの耳を引きちぎってやろうかぁー?
「本当の演技をゆーくんに見せてあげるね! ご照覧あれぃ!」
「いや、けっこうですから、早くお引き取りくださ、って、お前なんでボタン外し初めてんだよ、いや、おい、止まれ。なんで脱ぎ始めた、おい、話を聞け、なにしてんだ、おい、おい!!」
おいっ!!!!
「バカだろ、お前!!」
獣は服を着ないでしょ?
と言う銀千代の本気の演技を止めるのに、無駄に時間がかかってしまった。なんなんだ、ほんと。




