第78話:六月の鳴かぬ蛍が身を焦がす 前
雨が降っていた。
最近天気が悪い。俺の知らない間に梅雨入りしたのだろうか。
まったく憂鬱になってくる。
放課後、エントランスで傘を開いて、そのまま帰ろうとしたら、
「おまたせ!」
と銀千代が無理やりビニール傘に頭を突っ込んできた。
「待ってねぇよ。つうか、自分のさせ」
先生に呼び出しを食らっているスキをついて、先に帰宅したのだが、追い付かれてしまった。
「なにを?」
「傘だよ」
何回このやりとりをやれば理解してくれるのだろうか。
「持ってないもん」
「置き傘くらい用意しとけって」
「ゆーくんが一緒に帰ってくれるから、銀千代には必要ありません」
「勘弁してくれ」
だから梅雨は嫌いなのである。
「俺がいなかったらどうするつもりなんだよ」
「……!」
銀千代はぴくりと体を震わせて、「ゆーくんがいない世界なんて……存在する意味ないよ」と呟いた。大魔王にでもなるつもりか?
「そーゆーこと言ってるんじゃないんだよ。俺がいなかったら雨に濡れて帰るつもりかって聞いてんだよ」
「ゆーくんが居なかったら、雨より涙に濡れちゃう……そんな悲しいこと言わないで……」
「傘くらい用意しておけっての。常に一緒にいるわけじゃないんだからな」
「離れてたって以心伝心」
胸をトンを右手でたたき、
「心は繋がってる!」
「気のせいだな。てか何回も言うけど俺だって一人になりたい時くらいあんだよ。例えば帰り道とかな」
「確かにそうだね……」銀千代は物憂げなため息を一つつき、
「生きるためには働かなくちゃいけないし、働いてる時間はどうしても距離的には離ればなれになっちゃうよね」
悔しそうに下唇を噛んだ。
「ゆーくんを養うためには高給の仕事をやらざるをえないのに……」
「……ヒモにはなりたくないんで、将来的には就職するつもりです」
何よりもまず、お前と付き合うとは一言も言っていない。
「一緒のところで働けたら最高なのになぁ」
最悪の間違いである。
仕事もプライベートもこいつに干渉されるなんて考えただけで総毛立つ。
「でも、ゆーくんがモデルになって有象無象にちやほやされるのもいやだし」
ぶつぶつ呟いてるところ悪いけど、まず、なれねぇよ。
「あ、そうだ! ゆーくんが銀千代のマネージャーさんになればいいんだ。えへへ、銀千代のマネジャーさんはこの世で最も気高い仕事なのだよ!」
「勝手に話を進めんな。絶対にやらん。つか、もういるだろ。稲田さんが」
「……」
銀千代はきょとんとした表情を浮かべ、
「ああ……いたね。そういえば。うん、そうだね」
にっこりと微笑みながら、頷かれた。
突っ込みたくないので、そのまま無視して歩みを進めていたら校門についた。
学校前の横断歩道で信号待ちしていたら、一台の車がハザードをたいて幅寄せしてきた。
「こちらです」
運転席の窓が開いて、声がかけられる。噂したら、なんとやらだ。銀千代のマネージャーの稲田さんがハンドルを握っていた。気高い仕事をしているとは思えないくらい疲れきった顔をしていた。
「ありがとう。稲田さん」
銀千代は慣れた動作で後部座席のドアを開けて、乗車した。
「ああ、これから仕事か。頑張れよ」
軽く手を振ると、銀千代はぼんやりとした表情で、
「何してるの? 乗って」
と言ってきた。
「送ってあげるから」
「……」
雨が降り続けている。
風も強くなってきた。
このまま歩いていたら、帰る頃には靴下がびしょびしょになってしまいそうだ。
「あー、じゃ、お願いします」
銀千代の隣に腰を落ち着ける。
正直ありがたい申し出だ。
学校から家まで二十分はかかる。でも車なら五分だ。雨降りに歩くのはだるいし、送ってもらえるのは助かる。
「ありがとうございます。助かりました」
シートベルトを装着し運転席の稲田さんにお礼を言う。
「い、いえ、気にしないでください。はい」
車がゆっくりと動き出す。
信号に引っ掛かることなく大通りをぐんぐん飛ばしていく。
フロントガラスを叩きつける雨粒は思ったよりも小さく、少ししたら止みそうだった。ワイパーがのんびりと雨粒を弾き落としていく。
交差点に差し掛かった。信号は青。
「あ、ここ右です」
俺んちまでの進路がわからないだろう、と思い声をかけるが、
「……」
車は右折レーンに入ることなく、そのまま直進していった。
通りすぎていった道を振り返りながら、
「稲田さん?」
と訊ねるが、
「……」
返事が帰ってくることはなかった。耳遠いのかな?
「ゆーくんが話しかけてるから返事していいよ」
「は、はい!」
またこれかよ。
銀千代の許可をもらったばかりの稲田さんに、
「えっと、次の交差点、右に曲がってください」
さっきは指示が遅くてレーンに入るのが遅れただけだな、と楽観的に考えながら、声をかける。
「す、すみません、はい、すみません」
「そこを右です」
「右、ですね。はい、すみません、ごめんなさい」
「右……」
「すみません、申し訳ございません」
曲がってくれなかった。
耳くそつまってんのか?
「えっと、その……」
「すみません、すみません」
「俺の家からどんどん離れていってるんですけど……」
「そ、そうですね」
そうですね、じゃねぇーよ。
「引き返してください」
「こ、こ、ここ、Uターン禁止で……」
「じゃあ、次の信号を右に曲がって……」
「すみません、すみません」
「いや、だから右……」
「すみません、ごめんなさい、ごめんなさい」
「ミギィィィィィィィィィ」
曲がってくれなかった。車は尚も直進だ。
エンジン音がむなしく車内に響く。
「……」
「……」
こいつ、……ら、やりやがったな。
「……すみません、でした」
はいはい、いつものパターンね。
「銀千代!」
「ゆーくん、ドライブデートだね」
頬を赤らめて笑っていた。
「仕事はどうしたんだよ!」
「? 今日はオフの日だよ」
ちらりと運転席の稲田さんを見る。死んだ目をしていた。オフの日にマネジャー呼んでんじゃねぇよ。
「送ってくれるんじゃなかったのかよ」
「? うん。一緒にいこうね」
「どこにだよ! さっさと家に帰してくれ!」
「…… なんで? 放課後なのにまっすぐ帰るなんてもったいないよ」
「ゲームしたいんだよ! 最短ルートでは帰宅させてくれ! 」
「銀千代と思い出作りしてからでもいいんじゃないかな?」
「早く帰りたいんだよ!」
「ゆーくんと銀千代がラブラブしてから帰る。それがこの車の最高速度だから」
「……」
「四時間後、くらいかな」
くらくらしてきた。ケスチアかな?
「拉致だぞ、これ」
「安心して、和子さんには銀千代から連絡いれておくから」
スマホを取り出した銀千代は閃光の指圧師でメッセージを作成すると俺の母親に帰宅が遅れる旨を一報入れた。
なるほどなるほど保護者の許可があれば拉致にはあたらない、
「ってばか!」
俺の脳内ノリ突っ込みを無視して銀千代は機嫌良さそうに運転席を向いた。
「稲田さん」
「はい」
「銀千代の意図、なにも言わずに伝わってくれて嬉しかったよ」
「恐れいります」
照れ照れと頬を赤らめる稲田さん。そんなのは成長とは断じて言わない。
まあ、帰ってもやることないし、腹を決めて、通りすぎる看板を眺めていたが、どうにも様子が変だ。
てっきり俺はドライブデートとか行っていたのでレインボーブリッジでも観に行くもんだと思っていたが、千葉県内から出る気配がない。
「あの……」
「……」
ハンドルを握る稲田さんは一瞥くべることもなく正面を見据えたままである。
「どこ、向かってるんですか?」
「……」
稲田さんにシカトされた俺はちらりと横に座る銀千代を見た。
「清和ほたるの里だよ」
「どこそこ」
「君津市の自然公園なんだ。地元の有志が環境を整えてるんだって。うふふ、ゆーくんと一緒にいきたかったの。何をするかはまだ内緒!」
ホタル狩りだろ?
「まだホタルいないだろ。夏だろ、あれ出んの」
見たことないけど。
「ホタルは六月からだよ。あっ、いや、なんで急にゆーくんがホタルについて質問してきたのかわからないけど、えっと、……安心してね……」
「……ホタル見たいのか? なんでまた急に……」
「ゆーくん、ホタルはね、雄のお尻が光るの。雌と交尾したいって」
「……」
「昆虫界は特にそうなんだけど、大抵雄が雌に求愛するんだ。ホタルってストレートに思いを伝えるなって思って。……あ、えっーと、なんとなーく、そう思ったの!」
「いやだからホタル狩りに行きたいんだろ?」
「……うん」
「ならそう言えよ」
「……お願いしたら、ゆーくん、一緒に行ってくれた……?」
「ふっ」
可笑しくなって思わず笑ってしまった。
「バカだな、銀千代」
「ゆーくん……」
「もう俺に拒否権ないだろ……?」
走る棺桶みたいな青いセダンは清和ホタルの里に向かっていた。




