第76話:六月の朝霧消ゆる旅行へと 後
一概に言えることではないのかもしれないが、修学旅行の夜といえば、恋ばなである。
鈴木くんたちはベッドに腹這いになって、枕をクッション代わりに、顔を付き合わせ、好きな人の発表会をしている時、俺は夢の世界に旅立っていた。
もちろん、そういうのが青春イベントだってことくらい、十二分に理解できている。
それでもビックウェーブのような睡魔には逆らえない。昨日、遅くまでゲームしたせいで、ものすごく眠いのだ。
当初の計画では、行きのバスのなかで惰眠を貪る予定だったのに、隣のシートを確保した銀千代がちょっかい出してくるせいで、仮眠をとることができなかった。だから、これは、仕方ない。
夢うつつで、鈴木くんの好きな人が花ケ崎さんというのをぼんやり聞きながら、俺は意識を霧散させた。
朝九時にエントランスに荷物持って集合、の予定である。
七時半に行動を開始して、朝風呂に行こうか、なんて考えている。
目覚ましもセットした。
修学旅行は一人くらい、早めに寝るやつがいて、そいつが夜更かしした寝坊助たちを起こすのがて定番だ。今回は俺がその役をかってやろうと思っていたのだけど、
「おはよう、ゆーくん」
目覚ましが鳴るより早く、銀千代に体が揺さぶられた。
「んあ?」
「おはよう。ゆーくん。今日もかっこいいよ」
「あー?」
回らない頭と視界で辛うじて銀千代の輪郭をとらえる。
「うふふ……後ろ髪に寝癖がついてるよ。ほら」
銀千代の手が俺の後頭部を優しくなでる。ぼんやりとした思考が現状をようやく受け止めはじめる。
「今ぁ、何時だ?」
「午前3時47分だよ」
「……なんでぇ?」
「ん?」
「なんでお前ここにいるの?」
「ゆーくんのことが大好きだからだよ」
答えになってない、と思った瞬間、思考がようやく巡り始めた。
「こんな朝早くになにしに来やがった……」
「みんな寝てる時間だから」
「……はぁ?」
俺も寝てたんだけど。
「旅行中、銀千代とゆーくんが二人きりになれる時間はここしかなかったの」
「……なに言ってんだ?」
「変な人たちに邪魔されたくないから」
クラスメートを変な人扱いした銀千代は、晴れやかに笑って、
「世界中に二人きりみたいだね!」
と両手を広げた。
ふごっ、と隣のベッドで寝る鈴木くんがイビキをかいた。
「だからね。お散歩したいなって、思ってさ」
「散歩ぉ……?」
「ダメ?」
ホテルのカーテンは遮光性が高く、はっきりとはわからないが、
「まだ夜だぞ」
「もう朝だよ」
銀千代がにっこり笑って、
「ねぇ、ゆーくん、行こうよ。朝のお散歩、きっと気持ちいいよ」
とただこねるように猫なで声をあげた。毎度毎度こいつは朝早くに活動するのが得意な人種らしい。芸能人だからか?
「つぅ」
俺は苦手だ。
低血圧なのである。
「はぁー」
それでも、まあ、久しぶりの修学旅行に浮かれ気分になるのは、わからないでもない。
変に目が覚めてしまったし、ちょうどトイレに行きたくなってきた。用を足したら、別に流されるわけではないが、散歩ぐらいは付き合ってやろうと、銀千代の手を借りてベッドを出る。
と、乾坤一擲の気合いを込めて、部屋から、廊下にこっそりと出る。静寂が耳に痛いくらいだった。
皆が寝静まった時に行動するのは自分が怪盗になったような気持ちになってドキドキした。
ロビーについて、一安心したところで、猛烈な睡魔に襲われた。
眠い。
ともかく眠い。
ぼんやりとした意識のまま、ホテルから外に出て、後悔した。
寒い。
ともかく寒い。
浴衣の上からコートを羽織っているが、防寒具としての機能は心許ない。
眠くて寒い。寒い。眠い。
加えて言うならまだ夜明け前なので暗い。遠くの空はほのかに赤らみ始めているけど、全然まだまだ暗い。夜だ、やっぱりまだ夜だ。
カラスが鳴いている。
うるさい、鳥がめっちゃ鳴いてる、スゲーうるさい。
東の空が白んできた。
朝日がさし始める。
残っていた星が静かに青に染まろうとしていた。
「きれいな景色だね」
眠い寒い眠い寒い暗い。
「えへへ、ゆーくん、すごくロマンチックだね」
ホテルの裏手の高台のベンチに腰掛け、夜明けの景色を二人座って見るともなしに眺める。
青春の一ページのような光景ではあったが、まったく心が弾むことはなかった。六月とはいえ、夜はまだ冷える。夜明け前は寒さのピークだ。
日の出が山々を照らし出す。
朝靄が日の光を浴びてキラキラと輝いていた。
「幻想的な景色だね」
「そぉだな」
「ゆーくん?」
きょとんと銀千代は首をかしげた。
「なんだか元気ないけど大丈夫? 体調悪いの?」
「この状況で元気あったらヤバイだろ……」
「銀千代は元気だよ。ヤバくはないけど……」
ヤバイだろ。
「ああそう」
「ゆーくんが元気ないと銀千代は寂しいな……なにか落ち込むことあったの?」
「眠いんだよ。寒いし」
ぶるりと体を震わす。銀千代は合点がいったように大きく頷いた。
「なるほど、そういうことね。うん、解決法は簡単だよ。くっついて。ぬくもりわけあう」
銀千代はピトッと俺の肩にもたれかかってきた。
「いや、ホテルに戻ろう」
「もうすぐご来光だよ」
「朝日なんていつでも見れるじゃん」
「今日という日は二度と来ないんだよ。ゆーくんといっしょに修学旅行先で見る日の出は今日だけなの」
「ああ、そう……」
こいつ日の出好きだな。
寒すぎてもうなにも考えられない。
凍結した思考回路がぼんやりと目の前の光景を処理し始める。
たしかに、朝霧が棚引く山々の日の出は美しいものがあった。
「銀千代は幸せって今日再認識したよ」
隣で可愛らしく声を潜めて、呟かれた。
少女のぬくもりが右肩から伝わってくる。
野鳥の声に耳を傾けるように、俺は静かに目を閉じた。
「ゆーくんが隣にいてくれるだけで、これ以上のことはないの。
どんな残酷なことがあっても生きていける。だって、ゆーくんは世界で一番素敵な男の子だから。これから先なにがあろうと、銀千代とゆーくんの二人なら乗り越えて行けるって確信してるんだ。
今日は朝早くから銀千代に付き合ってくれてありがとうね。いつも大切なことを言おうとすると誰かの邪魔が入るから……この世界に銀千代とゆーくんだけだったらほんとうに完璧なのにね。他にはもうなにもいらないのに。
ゆーくんも、同じ気持ちでいてくれるとうれしいな。違うところがたくさんある方が付き合っていて面白いと思うけど、同じところがあるのもまた嬉しいことだよね。
……ゆーくん、銀千代のこと愛してくれて、ありがとう。いつも感謝してる。ゆーくんの愛に銀千代が答えられてるか時々不安になっちゃうけど、これ以上愛せないってぐらいゆーくんのことが大好きなのはいつまでも変わらない感情なんだ。
だけど、たまにはゆーくんの方からも言葉に出していってほしいな。……これって我が儘かな。ゆーくん……大好きだよ。……ゆーくん?」
「……」
「ゆーくん?」
「……」
「ゆーくん、ゆーくん、ゆーくん、ゆーくん、ゆーくん、ゆーくん、ゆーくん、ゆーくん、ゆーくん、ゆーくん、ゆーくん、ゆーくん」
「んあっ」
「ゆーくん」
「……悪い。寝てた」
「……」
目を開けると朝日を瞳に宿した銀千代が心配そうに俺を見つめていた。オレンジ色に染まった彼女は少しだけ、ふて腐れたように唇を突き出した。
何事かをお経のようにブツブツ呟いていたので、気がついたら寝てしまってつらしい。
目を擦っていたら、銀千代は呆れたように小さく息をついて、
「みんなが起きる前に、ホテルに戻ろうか」
と朝焼けのなかで微笑んだ。




