第74話:五月雨の、恋風そっと、身に染みて
今年は例年より雨が多い気がする。
憂鬱な気分で傘を開いて昇降口を出ると、背後から「先輩」と声をかけられ、袖口をちょんと触られた。
俺のことを先輩と呼ぶのは一人しかいない。
振り向くと、晴れやかな笑顔を浮かべた一年下の後輩が立っていた。
「今帰りですか?」
沼袋七味だった。
可愛らしい水玉模様の傘を広げて、微笑んでいる。
「ああ。沼袋も?」
「はい。今日は銀千代さんはいらっしゃらないんですか?」
「一日ドラマの撮影だってよ」
「そうなんですね……。さすが銀千代さんです」
沼袋は小さく息をついてからゆっくりと吐き出した。
「先輩、一緒に帰りませんか?」
「……」
少し考える。
以前、沼袋と一緒に帰ったとき、銀千代が色々とめんどくさかったことを思い出した。けど、まあ、別に付き合ってもないし、俺がなにしようと正直勝手だ。後輩の女子と帰り道を一緒に歩くぐらいべつに構わないような気がする。
というか単純に断ったら気まずい。
「ああ。駅までな」
「有難うございます。先輩とこうして歩くのと久しぶりですね」
沼袋は少しだけ寂しそうに呟くと俺の隣に立って、歩き始めた。
濡れたアスファルトは黒く染まり、水溜まりが至るところにできていた。
「銀千代さんはすごいですね。仕事がたくさんです」
仄かに憂いを感じさせる呟きだった。
「沼袋だってテレビ出てんじゃん」
「大したことないですよ。せいぜい芋洗坂関連の番組くらいです。私、個人にはなんの魅力もないんです」
「十分すごいとと思うけどな。俺みたいな普通の高校生にとってみたら」
「私だって……普通の高校生なんですよ?」
ぽつりと呟いた。
ビニール傘から雨の滴が塊となってぼたりと落ちた。
「芸能人だろ」
「……中途半端なんです。私は」
浅くため息をついて、沼袋は続けた。
「銀千代さんほどカリスマがあるわけでもない、素人に毛が生えただけ。そこら辺のインフルエンサーよりも知名度は劣ります。それを考えたら、自分は何をしてるんだろうと思ってしまうんです」
「……」
なんだろう。
ちょっと、悩み相談する相手を間違えているような気がする。何を言っても彼女を納得させられる答えを吐き出せる気がしない。
無言になった俺に沼袋は取り繕うように笑顔を浮かべた。
「すみません、なんか。最近ちょっと悩んでて……元々そんなに承認欲求が強い方じゃないんです。どちらかと言えば目立つことは嫌いで……」
「そうなんだ」
「はい。この世界に入ったのだって銀千代さんに憧れただけなんです。ミーハーなんです。信念なんて、はなから存在しないんです」
「それでもここまでやってこれたのは沼袋の実力だろ」
「運が良かっただけだと思います。芸能界において私より才能がある人はたくさんいます。そのなかでスポットライトが当たるのは、ほんとうにタイミングと運が味方した人だけなんですよ」
「そういうもんなのか」
ちらりと横を見ると「はい」と小さく首肯して沼袋は続けた。
「だけどたまにスポットライトをむりやり自分に当てるすごい才覚を持った人がいるんです。銀千代さんみたいな」
「あー」ちょっとわかる気がする。
「タレント性の違いを隣で見てると、正直、へこみます」
力無く笑って、彼女は続けた。
「それでも、中途半端に仕事はあるから、そっちを優先して、学業を疎かにしていたら、授業についていけなくなっちゃいました」
「……」
今日は土曜日。中間の追試験の日程になっている。俺は単位を落としたわけではないが、受験を意識して、補修には積極的に参加するようにしている。
「あ! 赤点をとったわけじゃないですよ。出席日数が足りないだけです!」
「まあ、どっちでもいいけど、沼袋は努力してるのは間違いないだろ」
朝早かったのであくびが出そうになった。沼袋は暫し無言になって、
「先輩は……」
口を開いたが、
「ん?」
「……」続きの言葉を吐くでもなしに、「ちょっと雨強くなってきたんで、雨宿りしませんか?」と雑に提案してきた。
妙なことを言うやつだ。
ここから沼袋が利用している駅まで数分もかからない。雨宿りするよりもずっと早く帰れるだろう。なんて返事をしようかと迷っていたら、
「こっちの橋の近くに東屋があるんですよ? 知ってました?」
といたずらっ子のように微笑まれた。
指差した道は通学路としてあまり利用しない方角だった。街路樹として植えられた葉桜が青々とした枝葉を広げている。溝に花びらが茶色くなって吹きだまっていた。
「ふぅん。知らんかったな。駅の方あんまり来ないから」
「ちょっとコンビニ寄ってきましょう。ポッキー食べたい気分です」
沼袋は無邪気な笑顔を浮かべて、俺の返事を聞くよりも早く通りがかったコンビニに入っていった。いつか肉まんを二人で買い食いしたコンビニだった。雨宿りならコンビニですればよくないか? と提案しかけたが、なんとなく雰囲気じゃないので止めておいだ。
飲み物とポッキーを買って、土手の近くの寂れた東屋に行く。
屋根があって、椅子があって、簡単な机があるだけの、簡素な建物だ。壁がないので、景色は良好だが、見られるのは橋と町ぐらいなので、なにも楽しくはない。まあ、公園にある休憩所のようなところである。
「よかった、誰もいない」
沼袋は傘を閉じながら、ぽつりと呟いた。
まぁ、誰かいると気まずいもんな、と思いながら、俺も傘を畳んで滴を飛ばす。
パチパチと雨音が拍手のように響いていた。
川の水は茶色く濁り、まだ若い夏草も濡れてしんなりしている。曇天の空模様は都会のビル郡を擬態させているようで眺めはよくなかった。
まあ、人生そんなもんだよな、とふと隣を見ると沼袋七味がいる。それだけでドラマのワンシーンのようだった。
プシュッと小気味よい音をたててペットボトルの蓋をあける。俺はコーラで沼袋は紅茶だった。ポッキーの包装を破り、机に置く。
「……」
屋外で飲食するのも悪くない。宴だ。
密かにテンションが上がる俺に沼袋は神妙な顔つきのまま、口を開いた。
「先輩と同じ学校に通えるのもあと一年ですね」
「そうだなぁ。あっという間に三年だ」
「早いものです……ほんとうに」
まったくもってその通りである。月日が流れるのは早い。なにか成し遂げたわけでも、なにか後悔するでもなく、ただ一日一日がぼんやり去っていた。
「……」
沈黙が訪れる。
なんだ、これ。
気まずいぞ。
なにを話せばいいのか、まったく思い浮かばない。
「先輩は……」
沼袋はなにかをいいかけて、「いえ」と言葉を区切った。
なんだろう、と首を捻ると、意を決したように彼女は続けた。
「そういえば、ここは恋人の聖地って言われてるの知ってますか?」
「そうなん?」
「はい。ここで告白したら幸せになれるんだそうです」
「ここでぇ?」
言われて天井を見る。ボロボロの木造建築だ。ペンキが剥がれ、もとが何色だったかすらもわからない。
「告白してオーケー貰ったならそりゃ幸せだろ」
「……本当にそうですかね」
沼袋は小さくため息をついた。
「幸せになれない両思いというのもあると思いますよ」
「そうなの?」
「なんとなく、そう思う、だけですけど」
沼袋は一度ペットボトルの紅茶に口をつけてから続けた。
「でも、誰かに思いをぶつけるのに格好の場所だと思います」
「なんで?」
「ここは開けてますから、他人に話が聞かれることがないというのと、うまくいかなかったとき、川の流れを見てたら、切り替えられそうじゃないですか」
「そういうもんか」
「ええ、そういうもんなんです」
沼袋言葉を区切って、じっと俺を見つめた。
「好きです」
「ん?」
「……」
「……」
聞き間違いかな?
キムチでもいい、的な、発言?
「返事はいりません」
いや、おい、まて、沼袋。
聞こえてた、聞こえてたから、
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
混乱する。
え、いつもの肩透かしはどうした?
逆パターンが斬新すぎてワケわからんのだが。
「え、好き、って俺のコト?」
「……先輩以外にいないじゃないですか」
「本当に?」
「この話はおしまいです」
耳を真っ赤にして、沼袋はそっぽをむいた。
いや、勝手におしまいにすんな。
「え、冗談とかじゃなくて?」
「冗談でこんなことは、言いません」
沼袋は俺と目を会わせないようあらぬ方向を向きながら、照れ隠しからか、机の上のペットボトルに手を伸ばし、「あ」指がかかって倒れそうになった。咄嗟に俺も手を伸ばす。ペットボトルが倒れることはなかったがはからずとも沼袋と手を繋ぐカタチになってしまった。
「……」
お互い無言になる。
どれくらいそうしていたのか、わからないが、俺は混乱する脳のまま、「ごめん」と言って、手をどかした。
「わかっています」
沼袋が笑みを含んだ声で呟いた。
風が吹き抜けた。
「すみません。わがままを言ってしまって。自分でもよくわからないんです。この感情が。……でも、後悔したくないなって思って。ただのエゴです」
「お前のことは嫌いじゃないんだけど……」
「全部……言わないでいいですよ」
もし、告白にオーケーでもしたら、沼袋は銀千代に殺され……いや、違う。
「好きな人が好きな人は……やっぱり好きなんだな、って、思いました」
沼袋は振り向いた。笑いながら泣いていた。
「先輩、受験、頑張ってくださいね」
沼袋は椅子から立ち上がると、「んー」と小さく伸びをした。
俺もつられるように立ち上がる。
雨はいつのまにか上がっていた。
遠くの景色をぼんやりと眺めながら、沼袋は目尻をぬぐった。
雲の隙間に晴れ間がのぞいている。
「夏が来そうですね」
晴れやかに笑って沼袋は鞄を持った。




